いつか書きたい三国志

21年10月、研究発表を終えて思うこと

21年10月27日のつぶやき

あと1年ちょいで会社員に戻ります。いまのうちに、経書の本文、伝や注、疏の成り立ちや読み方を習っておけば、院の授業に出られなくなっても、翻訳書などを参照しながら、『春秋左氏伝』をひとりで読めるかも。長いし独学に好適です。どれだけ経書や史料を読んだかだと思うので。研究の基礎体力って。
独学者の強い味方は、経書や史料の訳注。ちくま学芸文庫、新釈漢文大系、汲古書院の「全譯」シリーズを使えば、大学院に出席したことがなくても、文の内容を把握して詳しくなれます。※院に出席すれば訳注を作る授業があります。その経験をすれば、既存の訳注の使い方も深まりますが、それは別の話です。

独学が極めて厳しい(ほぼムリ)なのは、研究論文を書くこと。論文のルールを習得し、ロジカルに仮説を証明することは、他分野の訓練やビジネスを通じても、ある程度はできます。でも、「研究の文脈のなかに、自分の説を位置づける」のは、院の空気を吸い、日常的に研究の会話をしないと厳しいです。
昨日のゼミでのぼくの研究発表は、第三者の目線から見れば、「爆死したが、かろうじてお情けで肉片が残った」かも知れません。でも達成感と手応えはあります。先行する学者と自説との関わりについて、現代の研究者(ゼミの院生)に質問されて答える。これが出来ているだけで「環境に身を置いた」成果。
ぼくの研究報告って、見よう見まねの「研究ごっこ」なんです、まだ。先生や院生は、こんな感じで先行研究の流れを捉え、自説を位置づけようとしていますよね。だったらぼくもマネしてみよう!というトライです。うまく「流れに乗っていない」にせよ、自説を飛び込ませたことが進歩!という段階です。
「学ぶ=マネる」とか、陳腐なことは言いたくないですけど、ぼくの「大学院生ごっこ」が本格化?というのが昨日の研究報告でした。研究の素質や資格が自分にあるのか?と問うよりも先に、それっぽくやっているうちに、板に付いてくるのでは?という戦法です。ぼくは生え抜きの院生ではないので。

21年10月30日のつぶやき

独学による訳注・論文が難しい理由は、研究史の「土地勘」がないこと。
誤記がNGなのは当然としても。自分が作る文では、だれの説は言及が不可欠なのか。どれは言わずもがなで書く必要がなく、どれを書くと誤解を招き、分かりにくくなり、自分が不利にすらなる蛇足なのか。習うほかないと思います。
研究の「土地勘」がない学生に、過不足なく明解な訳注や論文(先行研究の整理)を作らせるには、①思いつく限り大量に書かせ、②先生の目利きで削ったり補ったり直したりという訓練になる。学生目線では、「もっと書け」「余計だ不要」と同時に言われ、表面的に矛盾したメッセージに混乱することも…。
正確で網羅的な知識を仕入れ、それを文章化できれば、ベストに決まっている。時間と労力を惜しまなければ、訳注も論文も無限に長く書ける。この部分は、わりと独学でも不可能ではない。でもそれでは、同業他者(研究者たち)伝わらないし、必要とされないわけです。「これは要らない」と削って頂くコメントのなかに、先生方のプロの目線を盗む最大のヒントがあるんだろうと思います。

学生はつらいですよ。訳注や論を作っては、全然足りないと厳しく指摘され、書けば書いたで分かりにくい、要らないと言われ。先生に「興味がない」「関係がない」と言われると、がんばりを否定された気分になりますが、そこで腐っている場合ではないのです…恐らく。このような無駄足(であったかのように思われる)予習はプロの知見に接近する通行証みたいなもの。
掃除機のルンバは、幾度も衝突(または障害物への接近)を経験し、稼働すべき範囲を開拓し確定させていく。落ち込まず、機械的に動く。論文の試作、バッサリ切られる訳注は、ルンバ的な試行錯誤。果たして自分の研究(大学院の予習)は、ルンバほど衝突と修正をくり返しているのか、という自問自答…。

とつぜん、研究や訳注というから難しいだけ。
「ものを作って売る」ならば、理解は容易。苦節十年、引き籠もって作った作品を突然出してもコケる。取り返しが付かない。ネットで反応を見たり、試作品を即売会に出したりして、細かく「市場」のフィードバックを受けて軌道修正するのが常道。それと同じことをすればいいんでしょう。身構えることないんですね。
研究の場合、「買い手」は他の研究者です。役に立つ、価値がある、自分の研究に引用したい、新しい発見があった、という評価をくだすのは、他の研究者です。他の研究者の前に、試作品を(相手の時間を頂くうえで、失礼のないレベルまで練ってから)持っていく。それを小刻みにくり返す。それだけですよね、やるべきことって。いいものを作るプロセスって。

マンガは、新人のときは完成させるまで編集者に見てもらえないそうです。でも、実力が認められると、ネーム(下書き)でも見てもらえるようになるという。大学院も同じで、「大枠が定まれば、細部を詰めて、ちゃんと文章化する力がある」という了解、信頼関係があれば、先生に、思いつきのレベルでチェックして頂くことは、不可能ではないと思うんです。
それは、マンガ界のルールとか、大学院の不文律??とか思うから難しいわけで。会社内で書類をつくるとき、上司の期待する方向とレベルを確認するため、ザッと説明することと同じです。