いつか書きたい三国志

漢代の経書注釈を、映画レビューに譬える

漢代の注釈=映画レビュー

今日において学問は、先行研究を踏まえながらも、乗り越えることが目標とされる。つまり、先行するテキスト本文を「上書き」することが目指される。「定説を塗り替える」というのは、比喩としての最大の賛辞。
しかし、学問の何たるかは、時代背景や文化的了解によって異なる。
たとえば、漢代の学問は、経書に注釈を付けるというかたちで行われた。経書の本文は、帝王の言葉であったり(尚書)、孔子が筆削したもの(春秋)だったりする。本文を改変することや、改訂版を作って乗り越えることは、はじめから目指されていない。帝王や聖人の意図をよりよく読み解くためには、注釈を付ける、ということが一流の学者による成果となる。

今日における注釈=情報の補足

今日における注釈は、もっぱら本文を補足するもの、という役割をもつ。基本的に、本文の筆者自身が、本文に入りきらなかったこと、本文に挿入すると文章の流れが妨げられ、理解に支障が出かねないときに、章末・巻末に注釈を置く。筆者が本文を書き上げたが、情報が不足しているため第三者(筆者以外)が注釈を付ける必要があるとしたら、もとの本文の不備、ということになる。
今日の文で、筆者以外が注釈を付けるとしたら、外国語の論文を翻訳する場合ぐらいか。日本語で書かれた論文を、中国語に翻訳するとする。日本語の論文で、「百人一首」という言葉が出て来たとき、日本語の著者は、いちいち説明をつけずに本文に登場させる。しかし中国語に翻訳して紹介するとき、中国人にとって「百人一首」は常識ではないので、中国語に翻訳するひとが、「百人一首とは……」という注釈を付けることはあり得る。
翻訳の際、原文に訳出困難な箇所があるときは、翻訳という行為そのものの注として、訳者が注釈を付けることもあるでしょう。原文の表記はこれだが、××の理由で翻訳に馴染まないので、このようにした……など。

漢代の注釈は、聖人の意図を読み取るための研究です。現代の補足=注釈、という枠組みで捉えることはできません。もし、注釈=補足だと捉えるならば、「漢代のひとは、情報の補足ばかりしてたいたの?たいしたことないね!」という誤解を招いてしまう。
注、注解、注釈など、現代も使われている言葉と共通しているから、かえって混乱をまねくパターンですね。

映画レビューに譬える

漢代の議論をいきなり踏まえるのは、しんどいので(書き手のぼくも、この記事の読者である皆さまも)、現代の映画レビューになぞらえてみたいと思います。映画を見て、ネットに感想をあげたり、友人と語り合ったり、そのさまを動画にして、さらに第三者がレビューのレビューをしたり……という連鎖は、活発に行われています。
映画という作品の内容は、とりあえずは確固としたものであり、だれがどのようにレビューしようと、本編が小刻みに改変されることはありません。そういう意味では、漢代に原則として不変・不可触とされていた経書と似ています。

伏線やシーンの意味を解説する

映画レビューは、さまざまに行われますが、最初に思い付くのは、情報を補足することです。「あの台詞は、後半に向けた伏線になっていた」と、複数のシーンの関係性を指摘するもの。「画面に一瞬だけ映っていた小道具には、こういう来歴がある」といった画面内の情報の解説。映画は、大画面が動くので、とかく情報量が多い。解説=補足には、一定のニーズがあるし、それに気づいた視聴者は、自分が気づいたことをアピールし、べつの視聴者に伝えたくなるんですね。

作中のビルに掲げられた屋号や会社名に、出演俳優の名前が付けられていた。作中に出てきた商品が、そのシリーズの過去作に出てきたものだった、とか。

「うわあ、気づきませんでした」と驚くのも楽しいし、「ぼくもそう思いました、ぼくも気づいていましたよ」と確認するのも楽しいです。
解説は多様ですが、ここでは、製作側が意図したと丸わかりなことを、制作側の思惑を離れない範囲で理解することに努める、という段階の話をしています。

しかし、さっそく映画レビューを分類することの困難に直面します。もしも製作者が意図していない映り込みとか、「見ようと思えば、そのようにも見えるね」という(過剰な)意味を、製作者の意図をはみ出して読み込み、レビューで解説したとしたら、どうでしょう。

外で撮影したとき、たまたま出演俳優と同じ名前のついたビルがそこにあっただけ。過去作の小道具を、制作費節約のため、うっかり使い回しただけ。

映画監督と「答え合わせ」をするのは、ほぼ不可能です。映画監督は、レビューをいちいちチェックしないし、まして回答する義務、答え合わせをする責任はありません。映画監督と閲覧者のあいだに、深刻なディス・コミュニケ-ションが起きるんです。経書の聖人と、経書の読者とのあいだの断絶に等しい。

(単なる)情報の補足は、注釈・レビューとしてもっとも基本的なものであり、いちばん手堅く、製作者の意図を外れないかと思いきや、その時点で解釈が紛れこむし、解釈の程度(もとの本文・映画とどれほど乖離しているか)を測定するのは、容易ではありません。だって、測定が出来るということは、その測定者は、本文・映画の基準点を熟知している、ということになりますが、それってだれ?
聖人(孔子)にインタビューするんですかね。まさか。映画の場合でも、監督にインタビューすればいいやん、と思われがちですが、それほど単純ではありません。

監督にインタビューしても無意味

かりに映画の閲覧者代表として、映画ライターが、「あの台詞は、これの伏線ですよね」「小道具は、こういう遊び心が反映されていますね」と言ったところで、問題が解決することはありません。選択肢としては、
・監督の意図にあった&そうですと回答
・監督の意図になかったが&そうかも知れませんねと回答
・意図にあったが&ウソをつく・はぐらかす
・監督の意図になかったので&否定回答
という4パターンがあります。
監督自身、そのつもりはなかったが、実際に撮影現場で思い付いて即興で付け足した、現場の都合でそうなった、編集の過程で意味を付け直した、完成したらそのように見えたから追認した、など、いろいろなパターンがあるでしょう。流動的な製作過程があったとして、すべてをありのままに白状する理由はありません。
監督が意味をしゃべったら、唯一の正解になってしまい、閲覧者が興ざめするだろう、と考えるんじゃないでしょうか。

口先でぜんぶ意味を解説できて、こと足りてしまうんだったら、わざわざ映画なんか製作しないよ、と思っていそう。監督が言うとしたら、「映画みて下さいね」だけでしょう。

監督が、ぺらぺらとしゃべっているとしても、宣伝のため、ファンサービスのため、と考えるのが無難です。戦略的な情報統制がおこなわれ、含みを持たされている。それを真に受けてはいけない。
時間をおいた証言(公開から40年目の懐古的なインタビュー)で、思い出話として「公式見解」が出ることがありますが、記憶が模造・捏造されていることもあるでしょう。40年後にも関心を持たれているということは、たえず一定のファンがおり、続編が作られたりで、その受容史を監督じしんも40年間、見てきているから、悪意なきウソにより、周囲の期待に応えている可能性もある。

映画の話がしたいのではなくて(笑)、
経書を読解し、注というかたちで補足したい漢代の儒者が、聖人の直接インタビューでいたとしても、聖人がすべてを、なんの含みもなく白状するとは限らない。孔子先生は、質問をしてきた弟子によって、ちがう回答、前後で矛盾する回答をした。聖人に夢で会っても、余計に混乱する恐れがあります。だったら、テキストが共有されている、既存の経書そのものと向き合ったほうが、まだマシなんです。

映画監督にファン・イベントで質問をして、断片的なリップサービスをもらうようりも、映画そのものを、10回、見返すほうが、映画レビューに益するのと同じです。

いくつかの経書は、言行録です。言行の記録は、かなり不確かです。複数の手によって、偶発的に?成立したとも言われます。テキストが伝わる過程で、ちょっとした事故によって、統一的な解釈をこばんでいるところもある。
経書に情報を補足する注釈者たちも、こういった複雑さが頭に入っていたと思います。ですから、「一切の私見を交えず、聖人の文に、機械的に情報だけを付加する」という目論見は、必ずどこかで破綻します。そのようなピュアなスローガンでは、経書の研究は成り立たないわけで、つぎの段階に進むのです。

製作者の意図を読み取る

機械的に情報を増やす、補足するということが、意外と困難である。ここまで確認できました。注釈者・レビュワーは、おのずと、製作者の意図を自分なりに想定することになります。
客観的で、だれが見てもそうだ、という注釈・レビューには、あまり価値がない。初学者に向けて、基礎的な知識を補うだけでなく、「数多くの経書(映画)を見ているからこそ、指摘できること」に価値があるのですが、そのような横断的な、経験と勘に基づく説明というのは、いきおい、注釈者・レビュワーのオリジナルになりがち。というか、そのオリジナルこそが価値になるから、オリジナルでいいのか?
うーん……。
となると、注釈者・レビュワーは、「聖人(映画監督)の意図はこうだから」という、脳内聖人、脳内映画監督を想定して、それに依拠して自説を展開することになります。これはべつに、恣意的だとか独善的だとか、そういう悪いことではありません。
聖人・監督にインタビューする必要はないし、了解を取ることもない。夢のなかで出会うのは自由ですが、それは、一生懸命に経書を読んだ、映画を見た結果として、そのような「見え方」で、脳内聖人・脳内監督にアクセスするだけ。夢のなかで受ける教えは、注釈者・レビュワーのオリジナリティですね。

聖人・監督の意思にアクセスが可能になれば、さらに踏み込んで、「聖人・監督の本来の意思はこうであるが、現行の作品(経書・映画)では、それが忠実に再現できていない」という物言いも可能になります。つまり、実際に存在している経書・映画が絶対ではなくて、表現の不備、伝来過程の誤りがあるのだから、聖人・監督になり変わって、正しいものに修正してやろう、という注釈・レビューを書くことになります。

映画レビューで、「ここは分かりにくい。ここは見栄えがしない。このような脚本や映像にしていれば、もっと的確に伝わったし、楽しめたはずだ」というのがあります。
ぼくは、「だったら自分で映画を撮ってみろよ」と言いたいのではなく。現前の映画を絶対視することなく、脳内監督を代弁するかたちで意見を表明するのも、映画レビューの形態としてアリだし、そういうレビューが好きなひとも一定数いるということです。

自主製作映画を撮り直す

ある映画監督は、父子の葛藤を宇宙を題材に描いたが、うまく描き切れていない。聖人孔子さまの考えが正しいけれども、今日の『論語』はそれを適切に表現していない。このように考えたとき、既存の映画にケチをつけたり、『論語』の破綻ぶりを『論語』にぶら下がって行うだけじゃなくて、
映画を自主製作したり、『論語』を書き直したりする、という活動があり得ます。

前漢の楊雄は、『論語』を『法言』に書き換えようとしました。曹魏の王粛は、『論語』を『孔子家語』に書き換えようとしました。映画レビューだけでは飽き足らず、自主製作映画を同じテーマで撮り直し、上書きを試みた。
無謀でしょうか。おおむね無謀です。映画の見栄えは、わりと予算に比例するので、見栄えにおいて本家を超えることはむずかしい。『論語』だって、前漢なりに現在のかたちが確定したあと、子供が丸暗記して学習してきたので、その牙城をくずすことは、生半可ではない。もしかしたら、既存の(作りの粗い)ヒット映画とか、破綻だらけの『論語』よりも、より高尚な作品であったかも知れないが、超えるには至らない。

王粛は異端あつかいされ、「孔子の言葉を偽作した」という批判を受けます(王粛が嫌われた理由は、鄭玄に敵対したからとも)、本文を換骨奪胎して、ほぼ別の本に仕立てるのは、あまりうまい手ではなかったようです。

言いたいことがあるなら、本文に忠実であるという触れこみのもと、本文にぶら下がって、本文に寄生して、本文と一体化して、いつのまにか母屋を乗っ取る、というのが、うまい方法のようです。後述します。

ただし、王粛らの取り組みは無謀にせよ、
先行研究・先行作品を踏まえ、上位互換によって塗り替え、もとの作品の本来・当初の目的を、より高い次元で達成するんだ、というスタンスは、西欧近代の科学に近い、という解釈もできましょう。デタラメをやりおった、という前近代中国の王粛らへの酷評をそのまま真に受けるのも、今日のわれわれの態度としては、安易なのかなと思います。王粛そのものを研究すればいいんでしょうね。

また、映画を上書きするのは映画である必要はなく、演劇でもよいではないか。経書(の説)を上書きするには、自分で経書の偽物を作らなくても、経書から離れて、自分なりの説をイチから論じても宜しかろう、という考え方もあり得ます。王充『論衡』なんかがこれです。
経書から離れて、イチから論を立てることを「論文」と言います。経書について触れることは多いですが(大抵は批判的な文脈ですけど)、経書の構成にしばられず、自由に展開します。近代科学の「論文」とは別物ですけど(現代日本語では、同じ二次熟語になってしまうのが、ややこしいですね)、経書から積極的に距離を取っているという点、みずからの言葉で組み立てている点では、西欧近代の科学に近いですよね。

しかし、王充は決して主流派ではない。やはり、映画にぶらさがるレビュー、経書にぶらさがる注釈、というかたちで意見を表明することが、王道ですし成功しやすいパターンであったようです。

既存の映画に不満を持った大学生が作った自作映画、または、その大学生が同じテーマで作った舞台公演。これらが見たいか?と言われると、あまり見たくないです。しかし大学生が、もとの映画に準拠しながら、映画に沿って、いい・悪いをレビューしている文ならば、見ることができますよね。

製作者の上位概念へと行く

製作者が潜ませた情報はこれだ。製作者の意図はこれだ。製作者の意図がこれならば、もっとこういう表現があったはずだ。と、徐々にレビュワーのグレード?が上がっていきました。寄り道として、もとの作品(映画・経書)を上書きし、塗り替えようと企んだわけですが、これは成功しにくい。レビュー・注釈という領域で自説を展開するのが、当面は得策である、ということは確認できました。

自分で作品(映画・経書)を作り直さないにしても、レビュー・注釈が向かう先は、もとの作品(映画・経書)に描かれていないこと、記されていないことを書く。この路線は免れません。
もとの作品にないことを表現するとき、
・本来の作品の意味や、製作者の意図を回復する
・作品をダシにして自説を述べる
という方針が考えられますが、これって、区別するのがすごく難しいんですよね。この不可能性は、かなり慎重に取り扱わないといけないと思います。

あるレビュー者は、「作品本来を回復するのだ、読み解くのだ」と思っていたとする。べつの人からしたら、「あいつは作品をダシにし、自分の言いたいことを言っているだけ」と批判できます。
また、「私は作品に基づいて、独自の説を唱えたい」と思い、あえて作品をダシにしたとします。しかし、かれの書いたレビューは作品の世界観に収まっており、「もとの作品の重力圏に、搦め捕られているよね。せいぜい、もとの作品を読み解くためのヒントにしかならない(もしくは、ヒントにすらならないダメ解説だ)」という評価もあり得るわけです。

映画の比喩で、膨らませてみましょう。
リアリティ路線のストーリーで、自国が戦闘機を飛ばす映画があったとします。その映画のレビューで、現実の防衛予算の使い方とか、自国の軍の装備について論じたとき、「リアルな作品世界を読み解くための、よきヒントとなるレビュー」として読まれるかも知れない。または、「映画をダシにして、自分の政治的意見を表明しているだけ。レビュー欄を荒らした」と受け取られるかも知れない。
レビューの書き手と読み手のあいだにも、ディスコミュニケ-ションがあって、これは原理的に解決しないんです。せいぜい、批判の口実に使われるだけ……かと。
もしも、戦闘機映画をレビューした者が、心の底から、「この作品を通じて映画監督は、自国軍のあり方について意見を(間接的に)表現したのだ。それを私こそが読み解いて言語化してやろう!」と思っていたら??映画の真の意図について、上述のとおり、監督にインタビューしても仕方がありません。もし本当に監督が、映画を「通じて」軍事的意見をほのめかしているとしたら、インタビューで正直には言いませんしね。
レビュワーが感得した、「監督の隠された意図」というのは、ただの妄想かも知れません。妄想であるならば、善意のみで監督の意思を読み取ったつもりのレビュワーは、自分の政治的意見を、かってに映画に託し、監督の意図を邪推してしまっている……ことになります。


レビューや注釈をつける人の方針や態度と、そのレビューや注釈がどのように読まれるか、とは、深刻に擦れ違い続ける運命なんです。
純粋の作品の意図、あるべき姿、あり得べき姿を模索する、という方法と。かたや、作品をダシや足場にして、かってなことを言っているという方法と。
とくに後者は、作品をダシにするぐらいなら、自分でゼロから書いてくれ、王粛『孔子家語』や王充『論衡』にすればいいじゃん、という気もするわけですが、その企みの難易度が高い以上、もとの作品の「間借り」するかたちで、自説が展開されてゆきます。その結果、作品そのものを深掘りするという意図と、作品を踏み台にして自説を述べることとの境界線が、あいまいになっていきます。

この困難さの由来は、はっきりしています。映画は、素人が軽い気持ちで作れない。聖人の言葉は、漢代(とくに後漢以降)のひとが編纂できない。振れ幅のある、さままざまなレビュワー・思想家が、一様に「間借り」というかたちで、何らかの意見表明をしていくから、区別が難しい。
作品(映画本編、経書の文)と、レビューや注釈との距離感は、それじたいが研究対象になり得るほど、複雑を極めているのです。211114

この記事のもとになった動画

21年11月下旬公開予定。


21118追記。「真の××」「本当の××」みたいなタイトルや宣伝文句の本って多いですよね。『論語』『老子』に注を付けた漢代の成果も、これで理解できる気がしてて。著者には、原典本来の姿を取り戻すという復古志向と、原典を用いて当世ならではの解釈を導くという新規性が並存する。読者からの期待も然り。