いつか書きたい三国志

『論語』八佾・里仁篇を読む

中央研究院の漢籍電子文献から『論語』のテキストをコピーし、渡邉義浩(主編)『全譯論語集解』を参考にして読み解きます。当サイトで翻訳を目指していないので、原文(漢文)と訓読の句読点を整合させていません。『全譯論語集解』に見える諸家の注は、サイト製作者(佐藤)の興味を引いたところのみ引用しましたが、適宜言葉を変更しています。厳密な校勘をせず、作業中に検索することを優先し、複数の表記がある場合、カッコ()のなかに並記しました。

八佾

0301孔子謂季氏。八佾舞於庭。是可忍也。孰不可忍也。 孔子 季氏に謂ふ、「八佾の舞 庭に於てす。是れをも忍ぶ可くんば、孰(たれ)をか忍ぶ可からざらん」と。

馬融によると、孰=誰。佾=列。天子は八佾(八列)、諸侯は六佾、卿・大夫は四佾、士は二有。八人が列をなし、8人*列8=64人。魯は、祖先の周公の功績により、王者(周王=天子)と同じあく、八佾の舞が許されていた。
季氏は、魯の大夫の季孫氏。魯の桓公の後裔で、季武子・季平子・季桓子という傲慢な当主が続いており、魯公でもない陪臣にも拘わらず、八佾の舞をしていた。0302も参照。
季孫氏の専横が許されるなら、だれが許されないことがあるか。つまり季孫氏はぜったいに許されない。


0302三家者。以雍徹。子曰。相維辟公。天子穆穆。奚取三家之堂(奚取於三家之堂)。 三家は雍を以て徹す。子曰く、「『相(たす)くるは維れ辟公、天子 穆穆たり』と。奚(なん)ぞ三家の堂に取らんや」と。

馬融によると、三家は、仲孫・叔孫・季孫のこと。
三家は、雍(を歌わせて)、徹(祭器・供物を撤収)していた。孔子が引いているのは、『詩経』周頌 臣工之什の第七篇、雝(よう)(雍)の詩で、「……相維辟公、天子穆穆」とある。『毛詩正義』によれば、太祖の禘(てい)のときの歌。禘は、八佾0310に見える。
穆穆は、敬のこと(『論語義疏』)。
包咸に沿って『詩経』を理解すれば、天子の祭りを助け(て雍を歌う)るのは、諸侯と二王の後とされており、それを三家の堂の祭りに用いるのは、もってのほか。
三家が、八佾を用いること・雍を歌うことを孔子が否定した。


0303子曰。人而不仁。如禮何。人而不仁。如樂何。 子曰く、「人而にして仁ならずんば、禮を如何せん。人にして仁ならずんば、樂を如何せん」と。

包咸によると、仁でない人は、礼楽をできない。


0304林放問禮之本。子曰。大哉問。禮與其奢也。寧儉。喪與其易也。寧戚。 林放 禮の本を問ふ。子曰く、「大なるかな問ひや。禮は其の奢(おご)らん與(よ)りは、寧ろ儉せよ。喪は其の易(やす)き與(よ)りは、寧ろ戚(いた)めよ」と。

林放は、鄭玄は魯の人というが未詳。 包咸によると、易は、簡易なこと。礼は奢侈より倹約がよい、喪礼の本意は、簡易に済ませるよりは過剰に悲しんむ(戚(いた)む)ほうがよい。


0305子曰。夷狄之有君。不如諸夏之亡也。 子曰く、「夷狄なるの君有るは、諸夏の亡(な)きが如(ごと)くならざるなり」と。

包咸によると、亡=無。
夷狄に君主がいることと、中国で君主のいないこととは異なる。


0306季氏旅於泰山。子謂冉有曰。汝弗能救與(女弗能救與)。對曰。不能。子曰。嗚呼。曾謂泰山不如林放乎。 季氏 泰山に旅す。子 冉有に謂ひて曰く、「汝 救(と)むる能はざるか」と。對へて曰く、「能はず」と。子曰く、「嗚呼、曾(すなは)ち泰山は林放に如かずと謂(おも)へるか」と。

馬融によると、旅は、祭りの名。『礼記』大宗伯に、「国有大故、則旅上帝及四望」とある。陪臣が泰山を祭るのは、非礼である。馬融によると、救=止。
包咸によると、神は非礼(季氏による祭り)を受け取らない。林放ですら非礼のことを分かっていた、泰山の神が非礼のことを知らないとは「謂(おも)」えない。
冉有は、冉求、字を子有。孔子より29歳年少。このとき季氏に仕えていた。季氏の宰となったが、悪行を止められなかった。『春秋左氏伝』哀公 伝十一年で、魯の国難にあり冉求が季康子の参戦をあおり、戦果をあげた。


0307子曰。君子無所爭。必也射乎。揖讓而升。下而飲。其爭也君子。 子曰く、「君子は爭ふ所無し。必ずやか。揖讓して升り下り、而して飲ましむ。其の爭ひや君子なり」と。

君子は原則として争わない。孔安国によると、争う場合があるとしたら、それは射くらいか。王粛によると、堂上で射をするとき、(堂に)上り下りするとき拱手して譲りあい、たがいに飲ませる。その争い方が君子なのだ。
『儀礼』大射儀篇に、「升堂揖……」とある。


0308子夏問曰。巧笑倩兮。美目盼兮。素以為絢兮。何謂也。子曰。繪事後素。曰。禮後乎。子曰。起予者商也。始可與言詩已矣。 子夏 問ひて曰く、「『巧笑倩(せん)たり、美目盼(はん)たり。素 以て絢を為す』とは、何の謂(い)ひぞや」と。子曰く、「繪(かい)の事は素を後にす」と。曰く、「禮は後か」と。子曰く、「予(われ)を起こす者は商なり。始めて與に詩を言ふ可きのみ」と。

「巧笑倩(せん)たり、美目盼(はん)たり」は、『詩経』衛風 碩人に、「……巧笑倩兮、美目盼兮……」とあり、『毛詩』序によれば、荘姜という女性が衛侯に受け入れられなかったことを、衛の人々が哀れんだ歌。馬融によると、つぎの「素以為絢兮」は出典未詳。
鄭玄によると、繪=絵は、もようを描くこと。多彩な色を塗ってから、最後に素(しろ)を塗って仕上げる。白色の仕上げを、女の美しさが、礼(の所作)によって仕上げられることに譬えた。
馬融によると、倩は笑ったさま、盼は、目を動かすさま、絢は、華やかなさま。現代語訳すると、『麗しい笑顔がにっこりと、美しい瞳はちらりと流し目、おしろいによって華やかに』となる。
絵の仕上げは白色により、美女の仕上げは礼による。この比喩を理解した弟子に、孔子は、「私を啓発してくれるのは子夏(商)だな、ようやくともに詩を語れるな」と感心した。


0309子曰。夏禮吾能言之。杞不足徵也。殷禮。吾能言之。宋不足徵也。文獻不足故也。足則吾能徵之矣。 子曰く、「夏の禮は吾 能く之を言ふも、杞 徵(な)すに足らざるなり。殷の禮は吾 能く之を言ふも、宋 徵(な)すに足らざるなり。文獻 足らざるの故なり。足らば、則ち吾 能く之を徵(な)さん」と。

包咸によると、徵=成。杞は、夏の後裔の国で、宋は、殷の後裔の国。
鄭玄によると、献≒賢。杞と宋の二国は、文献(文章・賢才)が足りないから、祖先の国の礼を成すことができない。
この鄭玄注は、『礼記』礼運篇に、「孔子曰我欲観夏道、是故之杞。而不足徴也……」とあり、それとリンクする。孔子は、杞で「夏時」、宋で「坤乾」という書物を得ているが、二国に賢君がおらず、祖先の国の礼を再現するには至らなかった。


0310子曰。禘自既灌而往者。吾不欲觀之矣。 子曰く、「禘(てい) 既に灌(かん)してより往(のち)は、吾 之を觀るを欲せず」と。

禘は、祭りの名。禘は、祫とともに、太祖の廟に先祖のすべての木主(位牌)を集め、即位の順序通り並べる祭り。規模と行う年が異なる。
禘の祭りで、灌の儀礼が済んでから後は、(昭穆=位牌、の配置が乱れているので)わたしは見たいとは思わない。
孔安国注によると、魯では庶兄の僖公を、年少であるが嫡子の閔公の上として、配列を乱した。そのため孔子は、逆転した配列を見たくないと言った。


0311或問禘之說。子曰。不知也。知其說者。之於天下也。其如示諸斯乎。指其掌。 或ひと禘の說を問ふ。子曰く、「知らざるなり。其の說を知る者の天下に於けるや、其れ斯(ここ)に示すが如きか」と。其の掌を指す。

『論語注疏』によると、「諸斯」は「於此」のこと。孔子の手のひら。
孔安国によると、孔子は魯君のために知らないふりをした。
包咸によると、もしも禘を知るものがいるなら、天下のことを掌を指すように分かってしまう(だから禘を知る人はいない)ということ。


0312祭如在。祭神如神在。子曰。吾不與祭。如不祭。 祭るには在(いま)すが如くし、神を祭るには神の在(いま)すが如くす。子曰く、「吾 祭に與(あづか)らざれば、祭らざるが如し」と。

包咸によると孔子は、外出したり病気であったりで代理のものに祭らせれば、敬意を込められないから、祭らないも同然だと言った。


0313王孫賈問曰。與其媚於奧。寧媚於竈。何謂也。子曰。不然。獲罪於天。無所禱也。 王孫賈 問ひて曰く、「『其の奧に媚びん與(よ)りは、寧ろ竈に媚びよ』とは、何の謂ひぞや」と。子曰く、「然らず。罪を天に獲(う)れば、禱(いの)る所無きなり」と。

王孫賈は、衛の大夫。衛の霊公とともに晋との会盟に参加し、晋の無礼を目にした(『春秋左氏伝』定公 伝八年)。
孔安国によると、奥=内≒近臣。竈≒執政。王孫賈は執政者(竈)であり、孔子に近づいてきてほしいため、世俗の物言いを孔子に投げかけた。孔子は、執政者よりも天(君主)を優先すると突っぱねた。


0314子曰。周監於二代。郁郁乎文哉。吾從周。 子曰く、周 二代を監(み)て、郁郁乎として文なるかな。吾 周に從はん」と。

孔安国によると、監=視。孔子は、二代(夏と殷)と見比べて、周の文章(礼楽や制度、文物や法度、儀礼方式などの国家の文化的な決まりごと)に従うべきだと言った。


0315子入太廟。每事問。或曰。孰謂鄹人之子知禮乎。入太廟。每事問。子聞之曰。是禮也。子曰。射不主皮。為力不同。科古之道也。 子 太廟に入りて、事(こと)每(ごと)に問ふ。或ひと曰く、「孰(たれ)か 鄹(すう)人の子 禮を知ると謂ふか。太廟に入りて、事(こと)每(ごと)に問へり」と。子 之を聞きて曰く、「是れ禮なり」と。

包咸によると、太廟は、周公の廟。魯で周公を祭り、孔子は助祭(君主の祭りを助ける)した(『春秋公羊伝』文公十三年に、「周公称太廟」とあることに基づく)。
鄹=陬=鄒で、魯の下邑のこと。孔子の父である叔(しゅく)梁(りょう)紇(こつ)が治めていた邑。「鄹」の子は孔子のこと。孔子の父の叔梁紇は、『春秋左氏伝』襄公 伝十年に「郰人紇」として見え、晋軍に立ち向かった。
孔子は、魯公が周公を祭るのを助けたとき、ことあるごとに質問をした。「鄹の子」孔子は、礼に詳しいというのに質問をするなんておかしいね、と指摘された。知っていることでも敢えて確認するのが礼なんだ、と孔子が言った。おもろ。


0316子曰。射不主皮。為力不同。科古之道也。 子曰く、「射は皮を主とせず。力を為(をさ)むるに科を同じくせず。古の道なり」と。

「皮」とは、布で張った的の中央。射術は、ただ的当てをしてもダメだ、礼と楽に合致するほうが大事だという(馬融の注)。『儀礼』郷射礼篇に、「礼射不主皮……」とあることに基づく。
「力を為(をさ)む」は、労役の仕事をすること。労役には等級がある(科が同じではない)のは、古の道である。


0317子貢欲去告朔之餼羊。子曰。賜也。汝愛其羊(爾愛其羊)。我愛其禮。 子貢 告朔の餼(き)羊を去らんと欲す。子曰く、「賜や、汝は其の羊を愛(を)しむ。我 其の禮を愛しむ」と。

告朔は、初校が月初めに宗廟で、月の朔(ついたち)がきたことを告げること。供物に羊を用いた。鄭玄によると、供物の家畜のうち生きているものを餼(き)という。


0318子曰。事君盡禮。人以為諂也。 子曰く、「君に事ふるに禮を盡くせば、人 以て諂(へつら)ひと為す」と。

孔安国によると、このとき君主(定公)に仕えるものは、礼に適った振る舞いがなかった。だから、礼に沿っているやつは、君主に迎合しているのだ、とあらぬ讒言があった。


0319定公問君使臣。臣事君。如之何。孔子對曰。君使臣以禮。臣事君以忠。 定公 問ふ、「君 臣を使ひ、臣 君に事ふるは、之を如何せん」と。孔子 對へて曰く、「君 臣を使ふに禮を以てし、臣 君に事ふるに忠を以てす」と。

定公は、魯の定公。襄公の子で、昭公の庶弟。子は哀公。三桓と陽虎が政権をにぎっており、定公は傀儡であった。『春秋左氏伝』定公の条を参照。
孔安国によると、臣下が礼を失し、定公はそのことを悩んでいた。だから孔子に、君臣の関係性についてアドバイスを求めた。


0320子曰。關雎樂而不淫。哀而不傷。 子曰く、「關雎は、樂しみて淫せず、哀しみて傷(そこな)はず」と。

関雎は、『詩経』国風周南の最初の詩の篇名。貞淑で徳のある淑女を、君主に娶せることを楽しむ詩と解釈している。楽しんでも耽らず、悲しんでも度が過ぎることはない。


0321哀公問社於宰我。宰我對曰。夏后氏以松。殷人以柏。周人以栗。曰使民戰栗。子聞之曰。成事不說。遂事不諫。既往不咎。 哀公 社を宰我に問ふ。宰我 對へて曰く、「夏后氏は松を以てし、殷人は柏を以てし、周人は栗(りつ)を以てす。曰(おも)へらく民をして戰栗(せんりつ)せしむるなり」と。子 之を聞きて曰く、「成事は說かず、遂事は諫めず、既往は咎めず」と。

哀公は、魯の君主。定公の子。子は悼公。三桓を討伐しようとして失敗し、越へと逃れた。
宰我は、宰予、字は子我。弁舌に優れたが、孔子に叱責される役回り。『史記』『孔子家語』ともに、宰我は斉の臨菑の大夫となり、田常と反乱して一族を皆殺しにされたとする。
社は、土地の紙を祭る社。『周礼』大司徒に、「設其社稷之壝……」とある。やしろの周囲に塀を植え、神のよりしろとなる樹木を設けることの話題。
夏后氏は、夏王朝のこと(表記の説明は、『論語義疏』に引く『白虎通』参照)。
本文中の宰我の説では、周王朝が栗(りつ)を用いるのは、民を戦慄させるため。孔子はこれを聞いて、「宰我がやってしまった、でたらめな説明には取り返しが付かない」と言った。


0322子曰。管仲之器小哉。或曰。管仲儉乎。曰。管氏有三歸。官事不攝。焉得儉乎。曰、然則管仲知禮乎。曰。邦君樹塞門。管氏亦樹塞門。邦君為兩君之好。有反坫。管氏亦有反坫。管氏而知禮。孰不知禮。 子曰く、「管仲の器は小なるかな」と。或ひと曰く、「管仲は儉なるか」と。曰く、「管氏 三歸有り。官の事は攝(か)ねず。焉んぞ儉なるを得ん」と。曰く、「然らばい則ち管仲は禮を知るか」と。曰く、「邦君は樹(た)てて門を塞ぐ。管氏も亦た樹(た)てて門を塞ぐ。邦君は兩君の好を為すに、反坫(はんてん)有り。管氏も亦た反坫有り。管氏にして禮を知らば、孰か禮を知らざらん」と。

包咸によると、ある人は、孔子が管仲の器量が小さいといった意味を、いろいろに模索したのである。
包咸によると、三歸は、三人の姓の異なる女をめとること。嫁ぐことを歸といい、攝=兼(かぬ)である。管仲は陪臣であるにも拘わらず、諸侯なみに三つの姓から女をめとり、官務ごとに役人をおいて、兼務させなかった。倹約であるわけがない。
樹(たつ)は、塀を建てて門を目隠しすることで、国君なみ。反坫(はんてん)は、酒杯を反す台であり、兩君の好(ふたりの国主)が交際するときに用いる道具であるにも拘わらず、管仲はこれを用いた。
国君なみの屋敷や道具を設けた管仲がもし礼を知るというなら、誰が礼を知らないことになろうか、という『論語』に頻出する全否定論法。


0323子語魯大師樂。曰。樂其可知也。始作。翕如也。從之。純如也。皦如也。繹如也。以成。 子 魯の大師に樂を語りて、曰く、「樂は其れ知る可きのみなり。始め作(お)こすに翕(きゅう)如たり。之を從(はな)ちて純如たり、皦(きょう)如たり、繹(えき)如たり、以て成る」と。

何晏によれば、従=縦(はなつ)。
大師は、『周礼』大師にみえ、祭祀や軍事で音楽を指揮する官。
出だしは翕(きゅう)如(盛んで)、五音が放たれれば純如(調和し)たり、皦(きょう)如(曲調がはっきりし)、繹(えき)如(音が途切れない)、こうして完成しますよと。


0324儀封人請見曰。君子之至於斯也。吾未嘗不得見也。從者見之。出曰。二三子何患於喪乎。天下之無道也久矣。天將以夫子為木鐸。 儀の封(ほう)人 見(まみ)えんことを請ひて曰く、「君子の斯(ここ)に至るや、吾 未だ嘗て見ゆるを得ずんばあらざるなり」と。從者 之を見えしむ。出でて曰く、「二三子、何ぞ喪ふことを患へんや。天下の道無きこと久し。天 將に夫子を以て木鐸と為さんとす」と。

儀は、『春秋左氏伝』襄公 経二十五年に、「衛侯入於夷儀」とあることから、鄭玄は、衛の邑の名とする。封人は官名であり、『周礼』封人に、社の祭壇を整備し、王畿の境界に盛り土する官職であるとする。『論語注疏』は、国の辺境の官とする。
木鐸は、銅と鉄でできた鈴で、号令するとき、まず鈴を鳴らす。
儀の封人が孔子に面会を求め、弟子が孔子に謁見させた。封人は面会を終えて退出してから、夫子こそ天の道(法制)を伝える木鐸だ、夫子が失われる心配はない、と認めた。


0325子謂韶。盡美矣。又盡善也。謂武。盡美矣。未盡善也。 子 韶を謂ふ、「美を盡くせり、又 善を盡くせり」と。武を謂ふ、「美を盡くせり、未だ善を盡くさず」と。

韶は、舜の楽。『尚書』益稷篇を参照。武は、周の武王の楽。舜が禅譲を受けたのに対し、周の武王は武力征伐をしたから、「善を尽くしていない」とケチをつけられた。


0326子曰。居上不寬。為禮不敬。臨喪不哀。吾何以觀之哉。 子曰く、「上に居て寬ならず、禮を為して敬せず、喪に臨みて哀しまずんば、吾 何を以て之を觀んや」と。

上にいて寛容でない……ならば、何によってその人を見ようか。見所なし。

里仁

0401子曰。里仁為善(里仁為美)。擇不處仁。焉得智(焉得知)。 子曰く、「里に仁あるものを善と為す。擇(えら)びて仁あるに處らずんば、焉(いづく)んぞ智あるを得ん」と。

鄭玄注に沿って読み、「里に仁者がいるのは良いことだ。良い住処を探しているにも拘わらず、仁者のいるところを選ばなければ、智恵がないことになる」となる。


0402子曰。不仁者。不可以久處約。不可以長處樂。仁者安仁。智者利仁(知者利仁)。 子曰く、「不仁者は以て久しく約に處る可からず、以て長く樂に處る可からず。仁者は仁に安んじ、智者は仁を利す」と。

『論語義疏』によると、約は、貧困にいることで、ここでは「楽」の反対語。不仁なものは長い困窮には耐えられず、長い富貴にも耐えられない。
『礼記』表記篇に、「仁者安仁、知者利仁、畏罪者強仁」と同句が見える。仁者はおのずと仁を体得している。王粛によると、智者は仁を理解することを良いこととし、だからうまく仁を用いることができる。


0403子曰。唯仁者。能好人。能惡人。 子曰く、「唯だ仁者のみ、能く人を好み、能く人を惡(にく)む」と。

孔安国によると、仁者だけが、人の好悪を詳らかに(正しく判定)できる。


0404子曰。苟志於仁矣。無惡也。 子曰く、「苟に仁に志ざせば、惡しきこと無し」と。

孔安国によると、苟=誠。仁を志しているならば、それ以外の部分でも悪いことなどない。


0405子曰。富與貴是人之所欲也。不以其道得之。不處也。貧與賤。是人之所惡也。不以其道得之。不去也。君子去仁。惡乎成名。君子無終食之間違仁。造次必於是。顛沛必於是。 子曰く、「富と貴(たか)きとは、是れ人の欲する所なり。其の道を以てせざれば、之を得るも處らざるなり。貧と賤(いや)しきとは、是れ人の惡む所なり。其の道を以てせざれば、之を得るも去らざるなり。君子 仁を去りて、惡(いづ)くにか名を成さん。君子は終食の間も仁より違(さ)ること無し。造次にも必ず是に於てし、顛沛にも必ず是に於てす。

ここでは「道」=仁とされることも多いが、何晏注では、人為で改変できない、その人自身の本来的なあり方を決定づけたもの。
富んで高位でも、「道」に依らねば落ち着けない。貧しく低位でも、「道」に依らねば脱出できない。君子は、食事を取るわずかな時間も仁から離れず、造次(慌ただしいとき)も顛沛(倒れたとき)も必ず仁を行う(語釈は馬融注)。


0406子曰。我未見好仁者。惡不仁者。好仁者。無以尚之。惡不仁者。其為仁矣。不使不仁者。加乎其身。有能一日用其力於仁矣乎。我未見力不足者。蓋有之矣。我未之見也。 子曰く、「我 未だ仁を好む者も、不仁を惡む者も見ず。仁を好む者は、以て之を尚(くは)ふる無し。不仁を惡む者は、其れ仁を為し、不仁者をして其の身に加へしめず。能く一日 其の力を仁に用ふること有らんか。我 未だ力の足らざる者を見ず。蓋し之れ有らんも、我 未だ之を見ざるなり」と。

孔安国は、「無以尚之」を「復た加ふること難きなり」とするので、「尚」を「くはふ」と読む。仁を好む者に、付け加えることはない。
以下、孔安国に沿って解釈する。
不仁を憎むものは、やはり仁をなし、不仁者からの被害(非義を加えられること)を避けようとするばかりだ(自衛策しか取らないので、積極的に仁を好むものより劣る)。
一日でも力を仁のために用いるものがいない、(仁を行う)力が足りない者などいないのに。みんな仁の実行のために、力が無いのでなく意思がないだけだ。


0407子曰。民之過也(人之過也)。各於其黨。觀過。斯知仁矣。 子曰く、「民の過(あやま)つや、各々其の黨に於てす。過ちを觀て、斯に仁たるを知る」と。

孔安国によると、黨は、党類・同類のこと。民の過ちは同類のなかで起こり、民は同類の過ちを参考にして、仁になることを理解する。
孔安国によると、民は身内で細かな過失をするのが当然であり、民は悪くないので責めてはならない。(君主が)賢者と愚者を適切に配置すれば、参照しあって自浄する。


0408子曰。朝聞道。夕死可矣。 子曰く、「朝(あした)に道を聞かば、夕(ゆふべ)に死すとも可なり」と。

何晏の解釈。死を迎えようとしているが、世の中に道があることを聞いていない。逆説的に、道を体得している人がいないと言っている。


0409子曰。士志於道。而恥惡衣惡食者。未足與議也。 子曰く、「士は道に志す。而るに惡衣惡食を恥づる者は、未だ與に議(い)ふに足らざるなり」と。

0410子曰。君子之於天下也。無適也。無莫也。義之與比。 子曰く、「君子の天下に於けるや、適(てき)も無く、莫(ばく)も無し。義と比(した)しむ」と。

『論語義疏』『論語注疏』によると、適=厚、莫=薄、比=親(親しむ)である。君子が過度に慕って、厚い薄いが生じることがない。ただ、義のありかにだけ親しむのだ。


0411子曰。君子懷德。小人懷土。君子懷刑。小人懷惠。 子曰く、君子は德に懷(やす)んじ、小人は土に懷んず。君子は刑に懷んじ、小人は惠に懷んず。

孔安国によると、懐=安。小人は土地に落ち着くが、移動するのを憚るのである。


0412子曰。放於利而行。多怨。 子曰く、「利に放(よ)りて行へば、怨み多し」と。

孔安国によると、放=依。ことごとに利に依って(基づいて)行うこと。すると怨みを取る(怨まれる)のである。


0413子曰。能以禮讓為國乎。何有。不能以禮讓為國。如禮何。 子曰く、「能く禮讓を以て國を為(をさ)めんか。何か有らん。禮讓を以て國を為むる能はずんば、禮を如何せん」と。

何晏によると、「何か有らん」とは、難しくないこと。包咸によると、最後は、礼を用いることができないの意。


0414子曰。不患無位。患所以立。不患莫己知。求為可知也。 子曰く、「位無きことを患(うれ)へず、立つ所以を患ふ。己を知ること莫きを患へず、知らる可きことを為すを求む」と。

低位に甘んじているなら、自分に立身の理由がきちんとあるかを心配し、認めてもらえることを努力する。包咸は、善道を求めて学び行えば、自分は他人に知ってもらえるとする。


0415子曰。參乎。吾道一以貫之。曾子曰。唯。子出。門人問曰。何謂也。曾子曰。夫子之道。忠恕而已矣。 子曰く、「參や、吾が道は一 以て之を貫く」と。曾子曰く、「唯(ゐ)」と。子 出づ。門人 問ひて曰く、「何の謂ひぞや」と。曾子曰く、「夫子の道は、忠恕のみ」と。

孔安国によると、曾子(參)は聞き返すまでもなく一瞬で理解した。
『論語注疏』によると、「忠」は真心を尽くすこと、「恕」は自分や他者を推し量ること。衛霊公1524で孔子は、「其恕乎」と言っているので、「恕」に重点があるか。


0416子曰。君子喻於義(君子喩於義)。小人喻於利(小人喩於利)。 子曰く、「君子は義を喻(さと)り、小人は利を喻る」と。

孔安国が、喩≒暁とし、さとる・明るいの意味。


0417子曰。見賢思齊焉。見不賢而內自省也。 子曰く、「賢を見ては齊(ひと)しからんことを思ひ、不賢を見ては內に自ら省みる」と。

包咸が「賢者と等しからんことを思ふ」とし、これに従って読む。賢者と同じようになろうと思う。


0418子曰。事父母幾諫。見志不從。又敬不違。勞而不怨。 子曰く、「父母に事ふるには幾(ひそ)かに諫め、志を見て從はざれば、又 敬して違はず、勞して怨みず」と。

包咸によると、幾=微(ひそか)。ひそかに諫めて、善言を父母に聞き入れてもらう。父母が聞き入れそうになければ、敬って逆らわず、苦労しても怨まない。


0419子曰。父母在。子不遠遊。遊必有方。 子曰く、「父母 在(いま)せば、子 遠く遊ばず。遊ぶには必ず方有り」と。

鄭玄によると、方≒常。子が出かけるときは、方≒常(いつも同じ場所)にせよ。
『礼記』曲礼篇上に、「夫為人子者、出必告、反必面。所游必有常、所習必有業」とあるのに基づく。


0420子曰。三年無改。於父之道。可謂孝矣。 子曰く、「三年 父の道を改むること無きは、孝と謂ふ可し」と。

鄭玄によると、孝子が喪に服していると、死を哀惜し、父の生前のやり方を改めないのは、心が耐えられないから。


0421子曰。父母之年。不可不知也。一則以喜。一則以懼。 子曰く、「父母の年は、知らざる可からず。一は則ち以て喜び、一は則ち以て懼る」と。

孔安国によると、父母の年を数えれば、長命さを喜ぶと同時に、老衰を心配する。


0422子曰。古者、言之不出也。恥躬之不逮也。 子曰く、「古者、言を之れ出ださざるは、躬の逮(およ)ばざるを恥づればなり」と。

古の人が軽々しく発言しないのは、自分の行動が伴っていないことを恥じるから。


0423子曰。以約失之者。鮮矣。 子曰く、「約を以て之を失する者は、鮮(すく)なし」と。

約は、倹約のこと。つつましくて失敗することはない。


0424子曰。君子欲訥於言。而敏於行。 子曰く、「君子は言には訥(とつ)にして、行には敏ならんと欲す」と。

包咸によると、訥は、遅鈍。言葉は重々しく、行動は敏捷でありたい。


0425子曰。德不孤。必有鄰。 子曰く、「德は孤ならず。必ず鄰有り」と。

「德は孤ならず」は、『周易』坤卦 文言伝に、「敬義立而徳不孤」とあり、これが出典。何晏注は、『周易』繋辞上伝、乾卦 文言伝を用いて書かれている。
徳のあるものは孤立せず、必ず隣(仲間)ができる。


0426子游曰。事君數。斯辱矣。朋友數。斯疏矣。 子游曰く、「君に事ふるに數々すれば、斯(ここ)に辱めらる。朋友に數々すれば、斯(ここ)に疏んぜらる」と。

君主に仕えて、高頻度で口うるさくすると、辱められる。朋友と付き合って、高頻度で口うるさくすると、疎遠になる。211118