いつか書きたい三国志

何晏『論語集解』を読んで考えたこと

漢文を読めば読むほど、『論語』を踏まえている部分の多さに驚く。名門の子弟でも、最初に『論語』の暗記から文の学習が始まる。最初に目にしたものが親鳥だし、最初に暗記した『論語』が文の基礎になる。少し年長になってから学ぶ『尚書』よりも頻度が高い。→ぼくも『論語』を読み始めました。
好きで始めた大学院への出席ですが、予習・復習は、「働きアリの本務」となる。やって当然。やらないと死ぬる。これ以外だと、休息や現実逃避だけでなく、通常ルート外への探索(中国学以外の読書)や、巣や道路へのインフラ投資(論語や左氏伝を中長期的な目線で読む)もやる。やらないとジリ貧。211116

何晏注『論語』読んでます。朱熹→江戸時代→現代学校教育で、説教くさい個人修養の書のイメージがありますが、朱熹以前の『論語』は読み物として面白い。春秋時代の歴史叙述(ある思想家の言動記録)として読めますし、後漢・三国の人が最初にインストールした漢文として読めば、漢人と同化できます。
論語を何晏(あの魏の曹爽政権の一員!!)の注で読むなら、渡邉義浩(主編)『全譯論語集解』に全部答えがあります。時期的に、原稿づくりの授業に参加できませんでしたが、ゼミ風景を連想しながら追体験中!211118

「正史を漢文で読みたい。いい教科書は?」の最適解がなかったんです。『十八史略』は単純化しすぎて訓練にならないのでは…。このたび、選ばれたのは『論語』でした。残念ながら朱子学の延長で、今日の学校教育でつまらなくされ、印象最悪ですが、自分で原文→書き下しを作ってみると、勉強になる!!
漢文は基本的に情報不足です。行間というより背後にある思想やロジックを読み取ることが必須です。
学校でありがたく習う『論語』解釈はスペシャル過ぎる。学生は、漢文は自分では理解・構築不能だし、適否を判定できない先学の解釈の押し付けられ、偉けりゃ何でもありかよと拗ねる。ぼくの原体験。
何晏『論語集解』は、朱熹のごとき、学習者が意欲を削がれる「スペシャル解釈」の度合いが少なく感じられます。孔安国・包咸・鄭玄による訓詁(漢字の読み替え)を挟めば、わりと平易なことしか言ってないんです孔子先生は。後漢や三国の子供たちも、これなら暗誦ができるし作文の基礎になるなと思います。211119