いつか書きたい三国志

『晋書』王戎伝を翻訳する作業動画

作業動画4篇

その1


その2


その3


その4

翻訳の動画を上げた理由

上に載せたのは、『晋書』王戎伝の翻訳の作業動画でした。漢文を和刻本を参考にして訓読をして書き下し、現代語訳をしています。

4本目は、自分でつくった翻訳を、90年代の学術雑誌に載っている翻訳と照合し、ぼくがあからまさまな誤読をしていないか、確認していく動画でした。
先行する翻訳がつねに正しいとは限らない。誤植もあります。
翻訳にギャップがあったとき、先行者がどのような考えのもとで、このように読んだかを推測し、必要であれば、ぼくの翻訳を修正する(丸写ししても仕方がないです)。検討を加えていくと、意外と直すところは少なかったです。そこそこ読めているのでは…と思いました。

過去にプロ(研究者)が書いたものを、批判的に検討しながら、よりよいものを導こうとするプロセス。これは、大学院の授業では日常的に行われていることです。反対に、大学院のそとでは、絶対にお目に掛かることができない光景です。
最新の成果、現代の研究者が発表している翻訳も、こういった試行錯誤を経ています。過程に、暗黙知のようなものがある。この暗黙知は、発表された完成品からは伺い知れません。
プロの仕事のほんとうの勘所は、ネットにない。だれかが意思をもってアップロードしないとネットに載らない。昨日書きました(このページの下部に掲載)。

大学院の授業を、そのままネットで流せれば、先生たちの「よそ行きでない」思考のプロセスに触れることができます。しかし無断転載をすることは、さすがにコンプラ的にダメです。
大学院の授業は、学生側がさまざまな代償を支払って、すなわち、試験・授業料・入学手続などを経て、ようやく鑑賞し参加することが許されるものです。先生側も、授業をする(コマを任される)ために、ものすごく長い時間や労力を注ぎ込んでいます。先生も学生も、人生をなげうち、破滅的なポトラッチを経て、ようやく到達できる空間が、大学院のゼミです。だからこそ、ネットにこぼれてきません。
タダでネットに流すのは、先生・学生ともに、利益相反な行動です。

上に貼った動画は、ぼくがゼミの雰囲気をマネて、自分ひとりで再現している動画です。先生として教える資格はもちろんないし、学生としてもヒヨッコです。「プロの気分だけ真似るな」と叱られたら、まさにその通り。申し訳ありません、としか言えません。
しかし、かりに内容がデタラメであっても(デタラメではないと思っていますが)雰囲気の片鱗だけでも伝えられたら、楽しく見てくださるひとがいるかも知れない。ネットに、そんな動画が1つや2つ、落ちていても、いいじゃないか。ひょんな「交通事故」で、だれかが趣味を充実させるヒントになるかも知れません。

もしもぼくが大学の先生なら、「うちのゼミを受験する学生を増やしたい。生徒数を増やしたい」という動機を語るのでしょう。営業努力というやつです。しかし、ぼくは大学の先生ではありません。「学問の裾野を広げるために、役に立ちたい」なんて言う資格はないし、そんな気持ちも、さらさらない(と言わざるを得ない)です。ある学者からは、「勝手なことすんな。お前が学問を劣化させているぞ」というお叱りを受けるでしょう。

「学問一般が……」とか、大きな主語を使うと足もとをすくわれるし、学問一般のことなんか、ぼくが責任を負えません。ただ、自分の信念に基づいてやっている、と言わせて頂くしかないです。「ぼく」が主語ならば、足もとをすくわれない。主張内容がダメなら、ぼくという人間がダメでした、すみません、で終了です。それで構わんです。

うっかり、「学問の裾野が……」なんて言えば、その一言を足場にされ、「バカなことをするな、余計なことをするな」とクレームが付きます。

ぼくは、生え抜きの大学院生ではない。大学の教員のポストを希望するものではない。いち社会人として、大学院に出席し、その学びの雰囲気が面白いと思ったから、個人の責任のもとで、かってに「関連動画」をつくっているだけなんです。

youtuberが、映画レビューを、登場人物のものまねしてやっている動画と、位置づけとしては同じです。雰囲気をマネてるが、俳優よりも不細工だし、衣装もつくりが甘いし、だいいち映画と直接関係ない。そのレビュー動画が見られたことにより、映画の興行収入が増えても自分とは関係ない。ただマネて発信したいから発信しているだけ。
レビュー動画に触発されだれかが映画を見に行って、つまらなくても、2000円しか失いませんし、15分で席を立てばいい。

映画に比べると、大学院にいくのは、経済的に不合理(取り返しのつかない損失をこうむる)で、失うものが甚大ですから、ぼくは入学をお薦めする立場にもありません。 大学の先生ならば、組織の力学で、「進学しておいで」と言うでしょう。個人の良心?に基づいて、「修士課程においで。でも博士課程への進学は慎重に」と言うかも知れません。しかし、いち会社員、いち経理マンとして言うなら、修士課程にすら、行かないほうが経済的に合理的と断言できます。

ものすごく難しいんですけど、学問は学者によって作られ、発展していますが、特定の学者が、あらゆる学問に関連する発言を統制する権利もないはずです。同業者の発言に目を光らせて苦言を垂れるなら、まだ分からなくないですが(それでも分からないですが)、いち学生、テンプラリーな受講者が、自宅で関連する動画をつくることまで、辞めさせる権利はないのでは??というのが、ぼくの考えです。

こういう動画を、「かってにやってら」と無視していただくのが、ぼくの想定する学者の態度でした。
「殊勝なことだ」と思っていただけたら嬉しいです。反対に、「プロの雰囲気だけをマネるな。気持ちが悪いから、公開を中止しろ」と言われても、いまいち納得ができないです。
どうやら学者も一枚岩ではないし、いろいろな方がいらっしゃる。ネットへの距離感、シロウトの発言への距離感もさまざま。学者に対する「解像度」が上がってきたのが、大学院に出席した成果かな、とも思います。いろいろなことがありましたが、自分の志に基づいて、発信してます。211120

ライターの歴史記事が「読めない」理由

ぼくは、ある特定の価値観やノウハウ、学問(学派・学統)が成長するときには、場所や人脈がとても重要だと思います。

何を今さら、と思われるかも知れませんが、「良質な情報は、ネットでタダで入手可能になった」と言われるからこそ、あらためて、物理的な場所を共有し、同じ空気を吸うことの影響を言っておきたい。
「共通の場所にいたから」「共通の知人がいるから」という理由で、参加していた人の思想を関連づけることを、「軽率だぞ!安易だぞ!」と戒めるむきもあるでしょうが、ぼくは環境や人脈を重視します。

ある環境に身を置くと、「言わずもがな、当然だ」とされることと、「言わずもがな、それじゃああかんやろ。やったらあかんよ」ということが、身についていきます。

これは、日本特有の「空気の支配」かも知れないですが、世界共通だと思います。ふた昔まえ、シリコンバレーがもてはやされました。シリコンバレーをもてはやしたのは、日本だけだったのかも知れませんが……、当時のアメリカの現地メディアを見ていたわけではないので、真相は不明。

すでに情報として切り出された成果は、ネットでタダで手に入るんですけど、情報として切り出される以前のノウハウ(手触りや重み付け)って、内部に身を置かないとムリなんです。

大学ないしは大学院で、歴史を学んだことがないひとの書いた記事や書籍(いわゆる「ライター」さんが書いたもの)は、既存の学者が書いたものを切り貼りしているから、情報としては、それほど劣悪なものではありません。
でも、ところどころ、学者にとっては当たり前すぎて、わざわざ書こうとも思わなかったことを理解しておらず、根本的なところで抜けていたり、絶対に接続し得ないことを、見せかけで繋いだりする。

たとえば、現地に行ったことがないひとが、等高線なき地図をみて、「なんだ、近いじゃん」と、A地点とB地点を結ぶルートを設定したとする。しかし、そのあいだには、深い谷があるよね、みたいな。
いやいや、ネットで綿密な事前調査を重視しますよ、というライターさんが、等高線ありの地図を見たとして、2つの地点のルートを繋いだとしても、来る者を拒む泥濘が横たわっていましたよ、とか。

「企業の空気を吸ったことがないひとが、既存の情報を組み替えるだけで、企業に関する記事を書いてはいけない」とまでは言えませんし、「大学(大学院)の空気を吸ったことがないひとが、学問の記事を書いてはいけないと」とまでは言えませんが、
(本当は、書くべきでないと思っていますが)
情報として出されていないもの、内部にいるからこそ身につき、かつ、内部のひとにとっては自明すぎるから、わざわざ「情報」化して外部に発信されないところに、勘所があると思います。

以上のことは、なんの複雑なロジックもなくて、ネットに載っている情報は、それを発信するひとがいるから、ネットに載っているわけです。AIが自動採取とか、しませんからね。
発信するには、動機づけが必要です。
お金が儲かる、というのはもっとも明解な動機ですが(お金に偏重するあまり、愚にも付かない情報も濫造されますが)、そうでなくとも、これを伝えたい、知らせたい、という個人的な志向(志のようなもの)があるひとがいないと、載らないんですよねネットに。

youtube動画で、寿司の握り方は勉強できるでしょう。10年修行した叩き上げの寿司職人と、同じ品質のものを提供できると思うんですよ。ぼくは寿司の良し悪しは分かりませんが、おそらくそう。
しかしそれは、だれかが寿司の握り方をyoutubeに載せる動機があったから、たまたまyoutubeで見られるだけ。すでにyoutubeにあるものをサンプルにして、「なんでもyoutubeで学べる」というのは、詭弁です。 そして、youtubeの寿司動画を撮ったひとが、当たり前すぎて言い落としていることが、学習者に伝わっていないリスクがあります。


ぼくは、外部(会社員)でありながら、大学院に出席しています。大学院の内部では自明すぎて、だれも口に出さないこと。出してもだれも研究者が得をしないことを、あえて外部に発信する、ネットに移植する、ってことを、やってみたいと思っている節があります。
大学院の内部で暗黙に行われていることと、一般の歴史ファンを隔てている暗黙知?の格差??のようなもの、「あわい」の部分を埋められたら楽しかろうなと。211119

余談。ブックオフにいくと、「古いCDに収録された曲は、まだ配信では聴けない曲がたくさん!中古CDを買いましょう」って店内放送が流れていました。前時代の覇者の抵抗、あがきです。なぜ配信されない(ネットに載らない)か。それをして喜ぶ=儲かるひとがいないから。それを逆手にとった、過渡期にしか通用しない宣伝文句、自己正当化。おもろいっす。

大学の先生のツイートより

ぼくが出席している大学の先生が、以下のようなツイートをなさっていました。



これを受けて。
ぼくは大学教員ではないので、業界の裾野を広げることに無関係ですし、別の大学の人から発信をやめろと言われたこともあります。社会人が気まぐれで入学して授業料を納れたり、お子さんの進学や専攻で中国学に近づくことに影響を与えるかも知れませんが埒外。一番「楽しみ上手」な大人でいたいです。211121