いつか書きたい三国志

敦煌石室『晋史』に関する調査

李建華「敦煌石室『晋史』写本乃孫盛『晋陽秋』考」

李建華「敦煌石室『晋史』写本乃孫盛『晋陽秋』考」(『古籍整理研究学刊』、二〇二一年九月、第五期)

摘要

敦煌石室『晋史』写本の本紀は、東晋の太興二年二月から六月までの間のことを記し、編年体に属する。この文献の帰属は、これまで定論がなかった。先唐の衆家の編年体の晋史は、「多いに『左氏』を用いて旧文に易える」ものであり、この一点はとくに孫盛『晋陽秋』に専有されるもので、敦煌石室『晋史』の写本の表現は驚くほど一致していた。先唐の編年体の晋史の記録は、東晋元帝期に仕えた曹嘉之『晋紀』、鄧璨『晋紀』、孫盛『晋陽秋』、劉謙之『晋紀』の四家がある。敦煌石室『晋史』の写本と、孫盛『晋陽秋』とは叙述の整合性があり、年月の範囲も完全に一致する。それと同時に、敦煌石室『晋史』の写本に見られる王敦の評価と、『晋陽秋』における王敦の評価が一致し、鄧璨『晋紀』(の王敦評価)と不一致であることから、写本の帰属が明らかになる。以上から、敦煌石室『晋史』は、孫盛『晋陽秋』から抄録されたことが確定される。 敦煌石室『晋史』写本の残巻は、いまから百年あまり前に発見されたが、この写本の帰属は定論がなかった。羅振玉はこの写本を鄧璨『晋紀』としていた。

羅振玉「敦煌本晋纪残巻跋」(『羅振玉学術論著集』第九集、『面城精舍雑文甲乙編(又永豊郷人四稿)雪堂校刊群書叙録』上海古籍出版社、二〇一三年、第284-286頁。

王重民『敦煌古籍叙録』は、羅振玉に疑問を呈した。

王重民『敦煌古籍叙録』中華書局、一九七九年、第84-85頁。

周一良は、諸書に引かれる『晋紀』の文がおおよそ簡潔であり、引かれる孫盛『晋陽秋』がとても詳細にわたるため、敦煌残巻は孫盛『晋陽秋』であり、

周一良「乞活考——西晋東晋間流民史之一頁」(『燕京学報』第37 期、1949 年,第62頁)。

饶宗颐は、周一良の論を支持した。

饶宗颐《敦煌与吐鲁番写本孙盛晋春秋及其“传之外国”考》,《汉学研究》1986 年第2 期,第1-8 页。

岩本篤志はこれを「晋史残片」と呼ぶ。

敦煌石室の晋史残巻は全部で151行あり、1行あたり16~18字で、東晋元帝の太興二年二月から六月の間のことを記し、編年体の晋史に属する。「忠」「堅」「虎」「炳」「淵」「世民」がすべて避諱されず、羅振玉は北朝時代のものと断定した。

前掲、羅振玉「敦煌本晋纪残巻跋」

この説は学会で受け入れられ、唐代の避諱「秉」「弘」二字も避けられていない。

『隋書』経籍志は編年体の晋史を全部で十一家のせ、東晋元帝期に及ぶものは、曹嘉之『晋紀』十巻、

曹嘉之『晋紀』の採録範囲を、諸書は載せて居らず、いま曹嘉之『晋紀』の佚文は、清代の輯本があり、あるいは愍帝までの可能性がある。曹嘉之の『晋紀』は散佚しているので、元帝期が含まれない可能性は否定できない。

鄧粲(あるいは鄧璨)『晋紀』十一巻、孫盛『晋陽秋』三十二巻と、劉謙之『晋紀』二十三巻である。

左史を用いて旧文に易える、敦煌石室『晋史』写本と『晋陽秋』の文体の相似性

孫盛は直書し、董狐の遺風があり、当時及び構成において高い名声がある。『晋陽秋』は孫氏に巨大な声望をもたらしたと同時に、批判を被っており、それは裴松之によるものがある。
『三国志』巻一武帝紀で、曹操が劉備を評したところを「多用左氏以易旧聞」と批判する。
劉知幾も裴松之を支持し、『史通』言語篇で、裴松之が曹操のセリフを『左氏伝』に基づいて書き換えた点を指摘する。

晋宋革命の後に撰修された晋史で、裴松之の『晋紀』を除いて、みな紀伝体であった。編年体の晋史の先述は、東晋の滅亡後には停滞した。裴松之はこの(編年体の)史書が作られる最末期にあたる。裴松之が、孫盛の『左氏伝』による書き換えを批判するなら、裴松之は同じ過ちを犯すはずがなく、過ちがあれば劉知幾らが指摘しているはずである。つまり、先唐において編年体の晋史を著すのは、もっぱら孫盛の特色なのである。 敦煌石室『晋史』の写本は、崔悦・盧諶が合同で撰した、『理劉司空表』があり、全文が『晋書』劉琨伝に見える。二書には違いが多く、敦煌石室のほうに『左氏伝』を用いた痕跡が見える。
『晋書』は平明で詳細、敦煌鈔本は簡潔で犀利である。『晋書』に見えないが、敦煌鈔本に見える表現として、「脩繕甲兵」は『左氏伝』の隠公元年の「繕甲兵、具卒乗」、成公十六年の「補卒乗、繕甲兵」がある。「心腹」は、『左氏伝』哀公十一年に、伍子胥が呉応夫差を諫めて、越を防ぐことが優先で斉国を征伐しないように述べたところで、「越在我、心腹之疾也」とある。『左氏伝』と敦煌石室写本『晋史』は、表現が共通している。

佐藤:「脩繕甲兵」「心腹」がほかの史書で頻出することを指摘し、必ずしも孫盛による『左氏伝』を用いた書き換えでないことを論証。裴松之に批判された孫盛は、セリフの改竄であり、うまいことを言おうとして出典からニュアンスがズレることが批判の対象となった。『左氏伝』から表現を借りる=紀伝体の史書、というのも乱暴ではないか。

敦煌写本と、『晋書』劉琨伝は文が異なる以外に、相互に増減があり、敦煌本のほうの増補は二箇所あり、の一つに『左氏伝』の影響が顕著に見える。 「無復」は『左氏伝』が出典であり、宣公十七念に「不得斉事、無復命矣」とあり、定公四年に、鄭子大叔が趙簡子に送った箴言にも、「無復怒」とある。「将来」は『逸周書』太子晋解にはじめに現れ、『左氏伝』で頻繁に用いられる。文公四年、襄公三年、昭公三年、昭公十三年に出現する。

これ以外にも、敦煌写本と伝世文献を比較すると、敦煌写本に『左氏伝』の風習が多く見られる。 例1は、⑧について。「射而殺之」は、『左氏伝』僖公二十八年、宣公十年、成公十七年に見える。「済河」は『左氏伝』に八箇所あらわれ、濮陽の戦い、鄢陵の戦い、平陽の戦いに見える。
例2は、⑫について。「日尋干戈」は、『左氏伝』昭公元年が出典。「敗績」は『左氏伝』で40回現れ、「鯨鲵」は『左氏伝』宣公十二年に見える。杜預注によると、大魚の名で、不義の人が小国を併呑すること。

めずらしめの言葉について、引用の不適切さまで言えたら、孫盛の文と言えるのではないか。

裴松之の『三国志』注は、四二九年に完成し、その後に「十八家晋書」は多くがつくられた。裴松之は、魏晋の史籍はただ孫盛だけが喜んで『左氏伝』を引用したとする。『左氏伝』の影響が見られる敦煌本は、孫盛『晋陽秋』である証拠となる。

敦煌石室『晋史』写本の記事の整合性と採録期間が『晋陽秋』と一致することについて

現存の孫盛『晋陽秋』輯本は、衛瓘が賈后に怨まれ、胡質父子が清廉であり、周処が戦没したことを記す。『晋陽秋』と事成、鄧粲『晋紀』も佚文が多いが、叙述の整合性を追求していない。曹嘉之と劉謙之の『晋紀』は佚文が少なく、叙述の特徴を探るのが困難である。敦煌本と『晋陽秋』の叙述内容には整合性がある。
敦煌本は一巻に足りないが、石勒が趙王を称したことから始まり、王敦の「上書言王道」でおわる。

敦煌本と唐修『晋書』の時期表記は、基本的に配列が一致しているが、三つだけ一致しない。石勒が王を称して群臣を褒賞したことと、崔悦・盧諶が上書して劉琨を弁明したことと、劉琨が冤罪を晴らしたことである。 劉琨が冤罪を晴らしたことについて。劉琨は、太興元年五月癸丑、段匹磾に殺害されたことが、『晋書』元帝紀に見える。劉琨と鮮卑の段匹磾は、どちらも晋朝の重臣であり、北方を堅守して朝廷の援となっていた。劉琨が段匹磾に殺害され、朝廷は段氏に籠絡されて本当の経緯を追及せずにいた。敦煌写本では段匹磾が劉琨を殺したことを先とし、あとに石勒に敗れ、厭次に逃げて危機に陥ったことを載せる。温嶠・盧諶の上書の末尾で、「太興四年」までに、劉琨の名誉を回復したとある。劉琨の名誉回復は、太興元年から四年にまたがることである。温嶠の上書をこの年に繋いだのは、資料が断片化することを防ぎ、読みやすくするためである。

なぜ太興二年十一月に石勒が王を称して群臣に褒賞したことを、なぜ太興二年二月に周撫の乱を平定した前に置いたのか。『晋書』石勒載記はひとつの解釈を提示する。『晋書』巻百五 石勒載記下に、「太興二年、石勒は趙王を偽称し……」とあり、任命された人名が見える。これと関わりのある『晋書』巻百四 石勒載記上の記録に、石勒は九回も勧進と辞退をくり返したことが見え、その最初の二回は太康元年に始まっている。
『晋書』巻六 元帝紀と『晋書』巻百三 劉曜載記によると、太康元年八月、匈奴の劉漢(前趙)の大臣の靳準が皇族を殺し、十二月にはじめて石勒が劉漢の首都の平陽を陥落させている。靳準の乱が平定され、その途中で、劉曜と石勒は深刻な対立が生じ、部下は石勒に劉曜とたもとを分かつことを進め、趙公を趙王に改称した。石勒と劉曜の対立は、匈奴の劉漢の都の平陽を陥落させ、部下が勧進したというのは叙述の順序として読みやすく、ゆえに敦煌本は趙王に改称したことを繰り上げた。これにより、太興二年十一月の事件(趙王即位)が、太興二年二月の事件よりも前に置かれた。

敦煌本の王敦の評価が孫盛『晋陽秋』と一致し鄧粲『晋紀』と一致しない

敦煌本は、王敦の評価を述べており、
いま『晋陽秋』と鄧粲『晋紀』の佚文には王敦の評価が見え、 孫盛『晋陽秋』は、『世説新語』豪爽篇に「(王)敦少称高率通朗、有鑑裁」とある。鄧粲『晋紀』は、『世説新語』豪爽篇に「(王)敦性簡脱、口不言財、其存尚如此」とある。

敦煌本にある「高師朗素」は、「高師」という熟語はないので、「高率」の誤りと考えられる。敦煌本には同音により誤りがあり、「殺」を「煞」に作り、「克」を「刻」に作り、「惑」を「或」に作り、「痍」を「夷」につくり、「姫」を「箕」につくることがある。
『世説新語』棲逸篇に、南陽の劉驎之を高率善史伝」とあり、また南朝梁にも用例がある。「高率」は使用頻度が低いが、『晋陽秋』にも見えるもので、敦煌本が『晋陽秋』であるという証拠になる。
鄧粲『晋紀』の王粲は「性簡脱」とあり、簡脱は落拓不羈のことであり、葛洪『抱朴子』外篇 譏惑に「簡脱之俗成」とある。鄧粲の「簡脱」と、敦煌本と孫盛『晋陽秋』の「高率通朗」は遠く離れているため、鄧粲『晋紀』が敦煌本でない有力な証拠となる。211213

岩本篤志「敦煌・吐魯番発見「晉史」写本残巻考―『晉陽秋』と唐修『晉書』との関係を中心に」

岩本篤志「敦煌・吐魯番発見「晉史」写本残巻考―『晉陽秋』と唐修『晉書』との関係を中心に」(『西北出土文献研究』二、二〇〇五年)より。

はじめに

パリの国立図書館に所蔵されるペリオ将来の敦煌文献p.2586は、羅振玉が『鳴沙石室佚書』で提要と影印を紹介し、呉士鑑・劉承幹『晋書斠注』で「敦煌石室本晋紀」として引用される(羅2004)。
「乞活」山西の漢人勢力であった劉琨の動向に関して、他にない記述をふくむように、民族の移動や徙民、流民を分析する史料である(周一良1963)。
元帝の太興二(三一九)年正月から六月を記すが、唐修『晋書』本紀の数十倍にあたる約二千字を費やす。羅振玉は元帝期について記した鄧粲『元明紀』(晋紀)十巻とし、書体や隋唐の避諱がないので「六朝精写本」と推測した。呉士鑑らはこれに基づく。
周一良は、孫盛(孫安国)の『晋陽秋(晋春秋)』の可能性を指摘し、書体は晩唐期のもので、避諱の有無だけでは時代を特定できないとした。

敦煌発見P.2586(敦煌本)の検討

敦煌本は、152行、1行あたり15~16字の写本断片。太興二(三一九)年一月から六月己卯までのことを年月順に記述する。『晋書』列伝に含まれるような内容にまで及ぶことから、編年体の史書の一部と推測される。
羯族出身といわれる石勒が、漢人勢力(塢壁集団、乞活、劉琨)を圧倒していく時期の記事。④乞活師の陳午が亡くなった後、陳午を継いだ陳川が祖逖と争うに至る経緯、⑫温嶠が劉琨の功績を称える上書は、正史にない。唐修『晋書』や『資治通鑑』に基づいて、敦煌本の内容を書くのはおよそ不可能。唐修『晋書』より古いとする先学の見解には合意。

周1963が『晋陽秋』とする4つの根拠。
(1)王敦に関する評価の差異。
『世説新語』豪爽篇注引 鄧粲『晋紀』に、王敦はさっぱりとして俗気が少なく、金のことを口にしないとある。『世説新語』尤悔篇注引 鄧粲『晋紀』に、王敦がゲームで形勢が不利になると、周伯仁が出世できないことに重ね合わせて涙した、自分の不幸な未来を想像した…という。
周一良によると、『世説新語』注引鄧粲『晋紀』は王敦を貶めていないが、敦煌本は王敦を貶めている(豺狼のような性格をひそめ、他人の目を欺いていた)ので、王敦の評価が正反対であることから、鄧粲『晋紀』=敦煌本ではない。

羅振玉の鄧粲『晋紀』説は、これで退けられたと見てよい。


(2)劉琨に関する評価の差異。
『世説新語』尤悔篇注引 鄧粲『晋紀』に、劉琨が并州牧になると、勢力を結集し、軍隊の統率が十分でなく、離脱者が増えて、大事を成せなかったとある。敦煌本では、⑫⑬で劉琨を評価する、温嶠・崔悦の上奏が取り上げられており、鄧粲『晋紀』の論調と反する。

もう鄧粲『晋紀』を退けることは十分だと思います。


(3)王敦に関する記述の類似性。
『世説新語』豪爽篇に、王朗を「高朗疎率」とあり、同注引『晋陽秋』に「高率通朗」とある。論調がおなじで、「師」と「率」は通用するので、敦煌本=『晋陽秋』。

王敦の性格描写のみが、ほぼ唯一の証拠。

(4)鄧粲『晋紀』は佚文が簡略であるが、敦煌本は簡略でない。

岩本氏による先行研究批判

(1)(2)(4)から『晋紀』でない別の本。編年体に近い晋史であるから、『晋陽秋』の可能性はある。と岩本氏はいう。
ただし岩本氏曰く、文字がほとんど一致しない一句の類似性だけをもって同一書と判断ができるとは思えない。晋代の史書は十八家晋史とよばれ、実際には三十数種の史書がある(楊1991)。

楊氏はもっとひろい範囲の言及なので、そのまま使えない。


史家による王敦に対する評価は、晋代を記した史書の性格であろうが、ここは王敦が自任した性格を述べた箇所で、史家の評価が反映され、史家の意図を読み取ることができる箇所とは言えない。しかもあまりに短い。

岩本氏による史料の検討

石勒が趙王になり建宮した記事①は、2月の前。おそらく1月として扱われているように見える。これは唐修『晋書』元帝紀、『資治通鑑』巻九一、『太平御覧』巻一百二十所引『十六国春秋』後趙録ともに11月としている。『晋書』石勒載記は年月を明記しないが、年の後半としているようで、すべて敦煌本と時期がずれる。
この10ヵ月のずれは、祖逖と争いを始めたあとに石勒が趙王を号したか(唐修『晋書』など)、趙王となったのち祖逖と争うに至ったか、という違いを意味する。趙王となった後、とするのは敦煌本のみ。

4月③の記事。胡毋崇の不正が発覚し、除名し処罰された。唐修『晋書』に外套する文はなく、現存するのは、『太平御覧』巻六百五十一 刑法部十七 何法盛『晋中興書』佚文のみ。『晋中興書』以外にない証明はできないが。

⑫⑬の温嶠と崔悦が劉琨の功績をうったえた上奏文は、『資治通鑑』では太興元年五月、劉琨が殺された直後に繋年される。敦煌本では太興二年六月⑪に(劉琨を殺した)段匹磾の部衆が解散する記事のあと。関連する記事を挿入しただけに見えるが、そうでもない。上奏の時期は、『晋書』『資治通鑑』では不明だが、敦煌本は⑭劉琨の弔祭が太興四年に行われたことを付記するなど、その経緯が意識されており、敦煌本の史料価値である。
『資治通鑑』は敦煌本を見ていないか、たいした問題でないとしたか。

たいした問題ではない、としていそう。勘です。

岩本氏曰く、撰者は、異民族が覇権を握るなか、華北にとどまった劉琨の死を東晋がどのように評価したか関心をもっていた。

⑧冒頭、祖逖の将軍号を、敦煌本は「平西将軍」、唐修『晋書』元帝紀 太興二年では「平北将軍」とする。羅2004は、『晋書』巻六十二 祖逖伝に「鎮西将軍」とあるため、「鎮西」は「平西」のことで、敦煌本を正しいとする。
岩本氏は羅2004を完全に退ける。『晋書』において祖逖は、平北将軍・平西将軍・鎮西将軍だけでなく、征北将軍ともされる。羅2004は敦煌本の価値を重んじて平西としたが、むしろ唐修『晋書』はもともと混乱が放置されている。

平西:巻六元帝紀の建武元317年六月、巻一百四 太興二319年
平北:巻六元帝紀の太興二319年五月と十月
征北:巻一百五載記の太興二319年
鎮西:巻六元帝紀の太興三320年七月、巻六十二 祖逖伝319-320年

唐修『晋書』内部の不整合は、①石勒が趙王となった時期のずれ10ヵ月にも通じる。『晋書』巻一百五石勒載記では月を示さず、祖逖と石勒の修好を「時に」でごまかす。整合的に解釈できない史料を、そのまま利用した結果。
敦煌本はこの不整合を解決する決め手とはならない。
『資治通鑑』は祖逖がいずれの将軍号であるか一切ふれない。

何法盛『晋中興書』とは?
『隋書』巻三十三 経籍志によると、劉宋期に作られた。『旧唐書』『新唐書』まで見えるため、北宋には佚書になったと思われる。『隋書』経籍志にあり、『史通』に引用されるため、唐修『晋書』で参照されたと思われ、劉知幾は「東晋の史書としては、何法盛の『晋中興書』がベスト」と行っている。ただし劉知幾は、『晋中興書』などの史書があまり使われず、『世説新語』が好んで使われたという。
『晋中興書』について、清代の姚振宗は、劉知幾に基づき、体例を「典・注・説・録の四体、紀・表・志・伝に易ふなり」とする。紀伝体の変形と見られる。琅邪王録のような家系で整理され、東晋~南朝の名族意識が反映されたもの。
『南史』『北史』に似ているようであるが、『晋中興書』の「録」は、本来の「伝」と異なっているように思われる。
『晋書斠注』序によると、「四十餘録」があったようで、呉士鑑らは一族を「録」として示した点に創見があると評価している。ただしこのような形にすると、取り上げられない人物が出てくるので、紀にあたる「典」がはたす役割が、紀伝体がやや異なることが推測される。佚文は十分に残っていない。

『晋書斠注』の引かれた『晋中興書』をしらべ、どのような「録」なのかを明らかにする、という角度も有効。

湯球の輯本1991は、これに従うが、旧貌をのこす原文がいずれかを特定できない。隔靴掻痒。

岩本氏まとめ

以上から敦煌本の特徴をまとめると、
(1)唐修『晋書』が敦煌本を参照した可能性はあり得るが、『資治通鑑』にこれを用いて積極的に記述を変更・修正したと見られる部分は見受けられない。北宋期にはすでに散佚していたのではないか。
(2)他の「晋史」と比べて、『晋陽秋』である可能性はさほど高くないが、編年体という点(のみ)で『晋陽秋』の可能性はある。
(3)佚文からみて、『晋中興書』の可能性もあり得る。
以上から「敦煌発見「晋史」残巻」とするのが妥当か。211213

『晋中興書』の佚文。石勒、劉琨にかんする史料を集める。
歴史を順序よくかけば編年体になる。本紀のみならず、列伝やテーマ(紀事本末のようなもの)でももちろん時系列になる。編年体の本紀と見なすのはムリでは。つまり『晋陽秋』ではない。