いつか書きたい三国志

『出身地でわかる三国志の法則』より

100707に抜粋したもの: http://3guozhi.net/c/sc1.html
amazonへのリンク: 出身地でわかる三国志の法則 (光栄カルト倶楽部)

呂布伝注引『英雄記』に、呂布が張楊に、「わしと君とは同郷だ。わしを殺せば君の弱みになる」という[要出典]

司隷:煮ても焼いても食えない

西は乱暴者、東はズル賢い

おなじ司隷でも、長安と洛陽は、文武の両極。長安は西方につながり、咸陽にちかい。文化的に殷に劣った、西周の素朴な文化を継承する。長安は、人口が多くない。前漢は国家権力をつかい、強制的に山東の人を移住させた。
対する洛陽は、殷を東周が継承し、商業と洗練した文化が発展した。後漢は、軍事よりも経済に重点をおいて、洛陽に都した。董卓は、軍事を再評価し、長安に戻した。

故郷を捨てた人は、劉備の仲間

関羽・馬超・法正・孟達・孟光・郤正は、戦乱で故郷を去った。故郷への土着性がうすい。故郷を離れると、地縁と血縁をうしなう。圧倒的に、仕官に不利である。
挽回するため、どうするか。自分とおなじく故郷を離れた主人に仕え、地縁のなさを克服する。主人と擬似的な血縁関係をむすび、血縁のなさを克服する。彼らは、劉備に仕えた。

既得権益を守って故郷に残った人々

司馬氏・賈氏・揚氏は、故郷にのこった。後漢から、荘園経済で既得権をたくわえた豪族。中央に進出し、地縁と血縁が保障されるなら、皇帝の姓はなんでもいい。ギマン的な禅譲劇が成功した理由だ。
自分だけ利益を得るのが、都会人。司馬氏は、魏の屯田の収入をネコババし、晋の建国とともに屯田を廃止した。
屯田を提唱した韓浩も、司隷出身。商才がたくましい。

儒教精神と商人根性

学者がおおい。馬融・杜預・孟光・郤正ら。
筋を通した義士がおおい。楊彪・金瑋は、後漢に殉じた。毋丘倹は、魏に殉じた。徐晃は、同郷の関羽を攻める苦しさから「国家のことだ」と言い訳した。
ぎゃくに学問や義理を捨て、利得に走った人もいる。司馬氏は、同郷の毋丘倹を殺した。賈充は、司馬氏に味方した。

豫州:天下国家を論じる

最新トレンドの発信者

夏王朝は潁川郡から起きた。だが豫州は、まとまりに欠ける。春秋戦国より、分裂してきた。宋・楚、陳・蔡、魏が入り乱れた。今日も4つの省に分かれている。
黄河周辺で都市部の司隷と、淮南一帯で穀倉地帯の徐州のあいだにあり、セールスポイントがなく軍の通過する地となる。
曹操が196年に献帝を迎えてから、豫州は急速に安定。淮南の三叛まで、武力衝突の舞台にならない。

天下取りに欠かせない、有能な人材

後漢のとき、豫州は政治家を生まない。許慎だけ。
反転して後漢末、汝南の陳蕃、潁川の李膺・杜密・陳寔がでた。南陽の何顒が潜伏し、曹操・袁紹・荀彧を評した。荀彧は、郷論で人材を推薦。袁術は、陳国の何夔や袁渙を招いた。
官渡のとき、袁紹が劉備をつかい、豫州をおびやかした。袁氏ゆかりが、豫州におおい。曹操は、何夔や陳羣を県令として、鎮撫した。

袁紹は、郭図らを用いた。郭図らは、豫州に帰りたがり、派閥抗争をつくった。袁紹の敗因は、故郷からはなれた冀州を本拠にしたことだ。

冀州:自己の信念を曲げない

黄巾賊と袁紹の本拠地

『漢書』地理志では、田畑の質が中の中だが、税金は上の上だった。豊かだった。戸数は少ないが、一家の人数が多かった。袁紹が根拠地に欲しがった理由だ。
黄巾の主戦場は、信都、鉅鹿、甘陵。いずれも冀州。下曲、広宗、東光も、冀州にちかい。
太行山脈は、張燕の地。張燕は、黄巾も袁紹も寄せ付けなかった。袁紹が張燕に対抗できたのは、呂布を手に入れたときだけ。

沮授と田豊の直言癖

沮授と田豊は、曹操を過小評価せず、袁紹に直言した。どちらも融通がきかない。
崔林は、幽州刺史となり、現地の権力者・北中郎将の呉質と衝突した。左遷された。従兄の崔琰は、二袁のどちらにも味方せず、投獄された。曹操の怒りを買って、死を賜った。
「徳行高く、清廉潔白」という集団が、冀州にいる。張泰は、大鴻臚になった。ケイ顒、張センも、袁紹や曹操にしたがわず。

趙雲も冀州気質の持ち主

趙雲は、夷陵にいく劉備を諌めた。張郃は、曹操をあなどるなと袁紹に云った。おもねりやウソがない人材だ。
武術派は冀州の北にかたまる。ほぼ袁紹に従った。だが趙雲だけは「消去法により、公孫瓚さんにお仕えします」と云った。趙雲も冀州人だ。お世辞を言わない人だ。
耿武は韓馥に、冀州の国力をアピールし、降伏を止めた。沮授と田豊は、袁紹に南征をいさめた。袁紹は、冀州を兵站とだけ見なし、人の特性を見誤ったから、負けた。
徐州を攻めた孫権、荊州を攻めた劉備、涼州を攻めた姜維のように、故郷に帰るための戦役は、すべて失敗した。冀州を離れず、外征に慎重だった冀州人は、手堅かった。

兗州:覇道を突き進んでダーク

曹操と結びつく法家の精神

『三国志』に列伝のある80%が、曹操に仕えた。衛茲、鮑信、陳宮、程昱、毛玠、高柔、董昭は、二流の曹操を、英雄と見なした。豫州出身の曹操に、兗州の人が結びついたのは、なぜか。
190年に董卓を攻めた山東諸侯は、半数が兗州の関係者だ。だが、5年のうちに全滅した。東郡太守の橋瑁、兗州刺史の劉岱、泰山出身の鮑信、山陽太守の袁遺、陳留郡の孔伷、東平国の張邈と張超ら。
山陽郡の劉表だけは生き延びたが、兗州人では、伊籍ぐらいしか劉表に従わず。
戦乱で荒廃した兗州は、法家の気質になった。強情で社交性に欠けた。満寵、于禁、陳宮、臧覇の父、高柔、王観、鮑勛、毛カイは、いずれも厳格に法を執行しようとした。

影の薄い于禁と典韋

『三国志』巻十七は、魏の五虎将軍のような列伝。兗州の楽進と于禁は、ほか3人(張遼、徐晃、張郃)に比べると華がない。兗州の典韋も、ひとりだけ爵位やおくり名がない。
兗州の人は、扱いがわるい。列伝の掲載順では、毛玠がトップだが、影が薄い。兗州の程昱は、荀彧の指揮にもとづき、東阿を守っただけ。官渡のとき、程昱は見捨てられた。カゲがうすい理由は、豫州人脈の台頭による

陳宮と董昭の陰謀

兗州人は、他州の人間と仲良くしない。李典と楽進は、張遼と仲がわるい。満寵は、荀彧と孔融をきらった。兗州人の巻き返しが、陳宮の叛乱と、董昭の陰謀だ。
陳宮は、曹操のために兗州を平定したのに、豫州の荀彧の風下に置かれた。嫉妬したから、曹操に背いた。
曹操を魏公にしたのは董昭。荀彧を、寿春につれ出し、殺すことに加わったか。曹操を魏公に任命したチ慮も、怪しい。許都(豫州)の献帝から、権力を奪うことに、兗州人が暗躍したか。

徐州:三国に分散し頭脳明晰

諸葛亮をそだてた斉の文化

徐州は、4つに分けられる。①琅邪と東莞、②東海と下邳、③彭城、④臨淮と広陵。
人材で重要なのは、諸葛氏が出た①琅邪。琅邪は、斉の文化圏。呉の徐盛も琅邪。琅邪は、徐福の伝説がある。于吉も出た。諸葛亮が、神仙みたいな活躍をするのは、琅邪出身だから。東晋の丞相・王導も、琅邪出身である。3世紀から6世紀の漢人社会は、琅邪郡の人が握っていた。

陳登の故郷は、魯=徐州の中心地

②東海と下邳は、魯の文化圏。ケチで人を陥れる。『漢書』地理志によれば、前漢には、東海の宰相が多い。 麋竺は蓄財し、劉備を助けた。劉虞や王朗は、三公。前漢以来、宰相を生む気風。
下邳の陳珪&陳登の父子、従兄の陳瑀は、徐州南部の実力者。孫策と呂布と、勢力を三分した。東海と下邳は、呉に人材を輩出していない。後漢の治所は、東海の郯県だった。劉備と呂布は、下邳に根拠を置いた。徐州の中心は、東海と下邳にあったことが分かる。

彭城の偏狭な人、張昭

③彭城は、項羽が首都にした。宋の文化圏に属す。のちに楚に併合された。『漢書』地理志で、彭城の人は、偏狭で身勝手とされる。張昭が典型例である。

孫呉を支えた、魯粛と張郃

④臨淮と広陵は、淮水の南だ。広陵は、呉楚七国の乱で、呉王劉濞が、首都にした。淮陰は、韓信の出身地。
魯粛の出身地・東城は、項羽が虞氏と別れて、奮戦したところ。魯粛は、子守唄代わりに、項羽の最期を聞いたか。臨淮から魯粛と歩隲がでた。広陵から、張紘と呂岱や、秦松と陳表がでた。いずれも曹操の虐殺を逃れた。

孫策を蹴って、広陵に帰った変わり者もいる。陳矯と徐宣。広陵太守の陳登に仕え、孫策を防いだ。曹操の下で出世したが、2人の仲は悪かった。

孫呉政権における徐州閥

上記4区分を越えて、諸葛瑾、厳畯、歩隲、魯粛は友人。これら親交の中心に、諸葛瑾がいる。諸葛亮以上に、徳があったのかも知れない。
魯粛の後任は、厳畯。歩隲の後任は、おなじ広陵の呂岱。徐州閥が、官位をたらい回しにした。中国は、言語・風俗・習慣・食物・文化が、地域で異なる。同一地方出身者で固まるのは、無理がない。
呂蒙は、豫州出身だ。徐州閥に圧迫され、孫権が徐州を攻めようとすると、呂蒙は反対した。

のちに南朝では、淮水を国境としたが、徐州あたりだけ北に、国土が突出した。南朝のように水運を使えば、孫呉が徐州を兼ねることは、可能だったか。
徐州では、曹操への叛乱が記録されない。記録から省かれただけか。徐州には人が残っていなかったか。謎のまま。

青州:戦乱を傍観、道徳的

鄭玄をはじめ、学問好き

東=青龍で、青州という。海路で幽州につながる。かつて山東半島の一部は、幽州だった。邴原、管寧、王烈は、海路で遼東に逃げた。
斉の文化圏。「稷下の学」をはぐくんだ。鄭玄、孫乾、邴原、国淵、豫州刺史の王基、華歆、王脩、太史慈。『三国志』巻十一は、8人中4人が、青州出身。

英雄的人材は、太史慈のみ

劉岱と劉繇は小粒。世渡り上手は華歆。孫呉に仕えた青州人は、太史慈、是儀、滕胤がいる。劉繇を頼って揚州にきて、孫権に合流した。
太史慈が、孔融や劉備でなく劉繇に仕えたのは、同郷人だから。

荊州:数で勝負する小粒な人々

三国志中盤以降の舞台

関羽の死後も、江陵(南郡)や西陵(南郡)で、魏呉の戦闘があった。水運で呉蜀につらなる地だから。なお南陽郡だけは、ずっと魏に帰属した。
長江以北は帝王の資本、以南な旧楚の野蛮な地。南陽郡、南郡、江夏郡からは、智謀の人が。武陵、長沙、桂陽、零陵からは武人が多くでている。

魏延と楊儀の激情

楚人は、剽悍で激しやすい。長沙の劉封は警戒された。義陽の鄧芝は驕慢だった。義陽の魏延と、襄陽の楊儀は、激情で対立した。『演義』黄忠は、老骨をからかわれて怒るが、いかにも楚人らしい。
荊州人士のうち、呉に仕えた人は少ない。黄蓋と、武陵の潘濬のみ。潘濬は蜀からの投降者だ。呉が世襲制をとり、外から人を受け入れる余地がなかったから。

揚州:私益を守り、したたか

長江の南北でおおちがい

長江の北は、九江と廬江。早くから拓けた。
九江の寿春は、戦国の楚が都とし、前漢の淮南国も首都とした。『淮南子』が作られた。九江の合肥を、呉が攻略できず。
廬江は、周瑜の故郷。廬江の濡須口は、魏が攻略できず。廬江は、魏呉で分割された。魏は六安、呉は皖県に治所をおいた。六安は、鯨布が首都をおいたところ。
長江の南は、銅山と海塩がとれる。呉郡と会稽はライバル。丹楊と豫章はフロンティア。

周瑜ら、長江の北の人たち

長江の北は、魏に劉曄、蒋済、蒋幹、胡質を輩出。呉に周瑜、蒋欽、周泰を輩出。陳武と丁奉も、廬江出身。末期の王蕃も廬江。
周瑜の子孫は、冷遇された。長江の北の人は、孫呉では派閥を築けなかった。

顧雍・陸遜ら、呉を支えた江南人

『世説新語』はいう。張は文、朱は武、陸は忠、顧は篤厚。
同じ『世説新語』は、会稽出身で呉郡太守の賀邵のセリフを載せる。会稽の鶏(賀邵)が啼けば、呉児(呉の豪族)を殺しかねないよと。東晋になっても、呉の四姓の子孫は健在。

益州:蜀を支えきれず、三流

剣閣にまもられた天賦の地

地理的に小康。だから後漢末、三輔(長安周辺)や南陽(荊州北部)から、数万戸が流入した。江夏の李厳、王連、費観や、南郡の董和が流入した。
曹操が漢中を占拠したとき、黄権は言った。「漢中を失えば、巴郡の力が弱まる。蜀の手足をもぎ取るに等しい」と。

もともと劉焉と劉璋政権は、東州兵の武力で支えられた。荊州の人士をつかった。梓潼の李権を殺すなど、益州の豪族を圧迫した。益州に根づいていなかった。

出世のできない三流

目ぼしいのは、巴郡の甘寧、蜀郡の張松だけ。内向きの土地で、有能な人が出ない。劉備政権で、益州人の地位が低いのは、諸葛亮の党派性によるものではない。

涼州:中華思想に文句をつける

フィクサー韓遂、八百長の董卓

185年、辺章と韓遂が叛乱。銅臭がする司徒の崔烈は、涼州の放棄を主張。討伐軍は、董卓をのぞき、全滅させられた。
董卓は幼帝の代わりに政治をした。董卓が権力を持てたのは、涼州の叛乱を鎮めたから。韓遂と董卓は、とも羌族につながるから、交友が重なっていた。八百長したのではないか。

涼州人は、他州と折り合いがわるい。董卓、姜維、賈詡は政権内で孤立した。西域に違和感をもつ、中原の人の偏見=中華思想のせいではなかったか。

并州:中原をみだす田舎者

優秀なスカウトマン丁原

呂布と張遼は、騎馬戦の鉄人。
丁原がスカウトしたのが、呂布と張遼と張楊。スカウトした人はもっと多かったはず。丁原は人材を中央におくり、官位につける親心があった。

排他的な并州軍団

呂布は、涼州の人がおおい董卓政権で、居心地が悪かった。華雄が負けたのも、呂布のサボタージュが原因。王允と呂布は、クーデターを起こした。
并州の悪だくみは、魏で見える。王允の甥・王淩と、五原の令孤愚は、司馬氏に反旗した。并州人は、信頼できる同郷人を誘い、作戦を練るのが好きである。

丁原は、執金吾でありながら、并州兵を率いた。丁原の死後、呂布が并州兵を継承。并州人で、名前が分かっているのは、 張遼と五原の李粛、秦宜禄だけだが、他にもいただろう。魏続は呂布と縁続きだから、同郷か。

河内兵が、呂布軍にいた。丁原は騎都尉のとき、河内に駐屯した。張楊も河内太守。張楊は呂布に、河内兵を補充しただろう。郝萌と曹性が河内兵を率いた。呂布軍に叛いた。并州兵との不和が原因か。郝萌が叛いたとき、首謀者は陳宮。陳宮が異郷人だから、呂布軍で居心地が悪かったか。

幽州:義兄弟の誓いで結ばれる

呂布が辺境よばわり

北京が首都になったのは、元朝。隋の煬帝が運河をつくり、江南から物資を運べるようになった。それまでは、輸送困難な貧しい土地
烏丸を移住させたから、漢人の役人との衝突が絶えない。半分は外国みたいな土地。冀州や青州から、税収を援助された。
ただし幽州西部は、河北で戦略上の要地。光武帝は、上谷と漁陽を得たから、天下をとれた。名馬の産地で、匈奴と貿易でき、塩鉄をだす。公孫瓚がおさえた。易京は、洛陽に進出するため、冀州にくいこんだ拠点だったが。

快男子の張飛を生む、義侠の風

「趙燕悲歌の士」とよばれる任侠を輩出。戦国の刺客・荊軻は、燕の太子・丹に命じられ、始皇帝を狙う。燕人で、荊軻の友人・田光も、始皇帝を狙う。
義兄弟は、劉備と張飛だけでない。公孫瓚は、占い師や商人と契った。韓当の子・韓綜は、呉に叛くときに血をすすった。
幽州の性質は、張飛の武と酒に投影された。徐栄は、呂布より剽悍。魏の孫礼は、文官のくせに、曹叡の車に近づく虎を斬ろうとした。簡雍は劉備に、禁酒令を諫めた。徐邈は、曹操の禁令を破って、酒を飲んだ。盧植は1斗酒を飲んだ。

幽州人らしからぬ劉備

劉備は、幽州の同郷意識に拘らない。
陳登は劉備を、陳紀、華歆、孔融と同列に扱った。黄権は、劉備に家族を殺されたと聞いても、デマと看破した。
劉備の祖先は、中山王。中山は、殷の子孫がのこり、商人らしい性格をもつ。辺境出身者は、攻勢に強く、守勢に弱い。董卓、呂布、公孫瓚は、本拠に籠もって自滅。だが劉備だけは、臨機応変。商人の性格ゆえか。

交州:世界の果てを支配

隠居に最適、ウルトラ辺境

交州は、『演義』の舞台にならない。
辺境だから、中央の争乱から逃れられる。劉焉は交州牧を望んだ。許靖、劉巴、薛綜は、交州に疎開した。劉備は魯粛に、蒼梧太守を頼るつもりだと話した。
のちに孫呉の流刑地に。虞翻が流された。

現在の中国領とベトナム領に分かれる。南海、蒼梧、鬱林、合浦は中国領。交趾、九真、日南はベトナム。ベトナムのほうが、叛乱がおおい。40-43年、徴側・徴弐姉妹が叛乱した。馬援が平定。192年、日南でチャンパが独立。162年、ローマの使者が到着。中心地は、交趾の竜編(ハノイ)。

士燮一族の繁栄

士燮は、王莽のときに疎開した漢人の子孫。226年に90歳で死ぬまで、40年間も交趾太守をした。孫権とむすび、益州の雍闓を寝返らせた。220109