いつか書きたい三国志

氣賀澤保規『絢爛たる世界帝国 隋唐時代』より

『文苑英華』に載せる張九齢の答案を読み解くための準備です。張九齢の玄宗期における登場に関わりがありそうなところだけ抜粋しています。220112

貞観の治

貞観の治の本質

唐の府兵制は、隋初にみえた驃騎府とよばれる軍府の制度として出発。貞観律令の発布される前年、折衝府を軍府とするかたちで定着。折衝府制は、煬帝が確立した鷹揚府制の再現であった。
煬帝を否定しながら、新たな国家体制を実現しようとすると、煬帝と同じ路線となる。とはいえ太宗李世民の政策に、煬帝と根本的に異なるところがあった。関中本位政策への対応である。
太宗は、征服戦争の過程で東方(山東)とつながり、洛陽がその拠点となった。そこを基盤に、全土に君臨する思いもあった。しかし跡目争いに勝利したあと、関隴系の人材を重視して、山東系貴族と一線をひいた。軍府による軍事力も関中に集中させ、関中本位政策を堅持した。関中を離れた煬帝の末路を分析した結果でもあろう。

則天武后と武周革命

武后奪権への道

本来は謚号で「則天皇帝」。それを認めないと「則天皇后」。存在を浮き立たせるのが「則天武后」あるいは「武后」。陳寅恪が広めた「武則天」は歴史性を曖昧にする無機質な呼称。
690年に帝位に就くが、皇后を35年間務めたのち。拠点は洛陽で、神都と改称。

貞観時代、関隴系グループの優位性を確認するため、家柄序列リストを作った。「貞観氏族志」という。できると、山東貴族の博陵の崔氏を1位とし、唐室の隴西李氏は3位とした。怒った太宗は李氏を1位に変更させた。山東系貴族の隠然たる力。
たいする武后は、父が木材商人の寒門(非門閥)。同じ寒門系の許敬宗・李義府が集まり、武則天が先導して「姓氏録」をつくった。現実の官位・勲位にもとづき、家柄をほこる①山東と②関隴の貴族とは違う第三の③新興非門閥が登場した契機は、武則天「姓氏録」が用意した。

張九齢も、③新興非門閥です。

武后は門閥にとらわれない人材を確保。基盤強化のため、隋に始まる科挙を重視。儒教理解を問う明経科、文学の能力を問う進士科が人気があった。従来にない国家意識にめざめたひとが増えた。
武后は、門地でなく才能あるブレーン「北門学士」を集めた。

女帝の王朝 武周政権の成立

武后に反対したのは、長孫無忌ら太宗以来の旧臣。684年、李セキの孫、李敬業の反乱。唐室系の挙兵や追い落としがあったが、散発的。
684年末、高宗が死ぬ。武后は皇太后となり、息子を即位させた。銅キ(銅製の投書箱)をつくり、密告を奨励。酷吏(無頼不逞の輩)をつかい、反対派をつぶす恐怖政治。
天のおつげの宝図(天授聖図)を洛水から出現させたり、明堂(周王朝の政事堂)を伏𠑊させる。20文字の則天文字をつくり厳密に使わせる。「大雲経」という仏典を、全土の大雲(経)寺に配備し、仏国土を期待させる。

690年9月、武周革命。武后は67歳か68歳。
皇后・女帝の後半期は、政治は内向きに傾く。権力固めにエネルギーを費やす。陰山山脈に押さえ込まれた突厥が、682年、クトルグを推し立てて第二可汗国をつくる(イルテリッシュ可汗)。696年、営州附近にいた契丹族が反乱。営州に移されていた高麗・靺鞨系の遺民が逃げ出し、渤海国の下地を築く(329p)。

府兵制や均田制、租庸調制が動揺。体制の末端で、土地から離れる民衆がふえる。女帝登場に目を奪われているうちに、律令支配体制が腐食していた。

武韋の禍の時代

705年正月、張柬子が、皇太子を推してクーデター。張易之を除くという名目で、武后は幽閉されて、武周は終わり。
張柬子は、科挙系官僚。武后は、政権強化のために育てた科挙系官僚により、皮肉なことに命脈を絶たれた。

唐の中宗が即位。中宗は頼りない。
中宗の妻である韋后は、義母の武后と同じく権力欲。中宗と韋后の娘である安楽公主は、皇太女として女帝になる野心。中宗の妹の太平公主も権力を持っていた。韋后の母娘は、売官により官位をばらまく。「墨勅斜封官」という。710年6月、母娘が中宗を毒殺。

中宗のおいの李隆基(のちの玄宗)が決起し、韋后らを殺す。李隆基は、自分の父(中宗の弟)を皇帝に立て(睿宗)、李隆基は皇太子。
残る太平公主が、兄の睿宗を取り込む。危機感をつのらせた李隆基は、713年7月、軍を出動させて太平公主を自殺させた。女たちが政治を動かす時代(武韋の禍)の終わり。
同じころ、日本では持統天皇690-697、新羅では善徳女王や真徳女王がいた。

玄宗の治世

開元の新政

玄宗がおばの太平公主を倒した半年後の同年(713)12月、年号が開元と改まる。玄宗は在位期間44年で最長。開元は713-744までに29年間。
李隆基(玄宗)は、睿宗の三男。武后が実権をにぎった685年に洛陽に生まれた。韋后を倒したとき26歳。兄を越えて皇太子となった。開元開元のとき29歳。嫡子相続でなく、父を排除した。曾祖父の太宗李世民と似ている。
臨菑王として地方勤務を経験。騎馬で郊外に出て庶民と接した。

武韋の禍で進行した体制の緩み、新興地主層の台頭がもたらす社会矛盾の解決が期待された。宰相としたのは、姚崇(元崇、あざな元之)。やや遅れて宋璟。姚崇と宋璟が、開元の治を代表する宰相。
太宗時代の房玄齢と杜恕晦(房杜)にたいして、玄宗時代の姚崇と宋璟(姚宋)とよばれる。
姚崇は臨機応変テキパキ、宋璟は法を適正運用し確実にこなす。
姚崇は、恩蔭系(父祖の官位や家柄・影響力で官界に入る系統)であるが、政務の有能さが武后に買われて宰相となった。宋璟は科挙出身の官僚。

つづいて宰相になるのが、張説や張九齢や源乾曜らであるが、いずれも科挙系官人。張九齢は、これまで人材の出ていない嶺南・韶州の地方官の子弟。源乾曜は、北族の流れで関隴系にも近い。
武后以来、門閥にとらわれない人材育成が、開元年間に裾野を広げて開花した。

科挙系官僚は一般に、足元で進行する財政等の諸問題を根本から解決する、明確な見通しも意欲も持ち合わせていなかった。宋璟にしても、長く朝政を担当するが、財政問題に明確な方針を示していない。多くは文学を重視する進士科の出身で、財政面は明るくない。罪地の新興地主階層とつながり、国家と利害がぶつかる位置にあった。
支配体制を締めなおすには、異なる系列に人材を求めることが必要。それが宇文融、李林甫であった。

宇文融と張説

宇文融は、北周王室。唐では代々高官を占めた関隴系の主流、恩蔭系。721年に富平県から中央へ。天下にひろまる逃戸(流民)の増大と、それに伴う税役減収にどのように対処するか、という鋭い問題提起をもって登場。
逃戸は、則天武后のころから指摘されていたが、どう動くかは提案がなかった。宇文融は、実態を徹底的に洗い出すと主張し、玄宗に認めさせた。
洗い出し作業を、戸口の「検括」あるいは「括戸」という。正規に戸籍に載る良民を「主戸」といい、逃げ出して他の主戸に身を寄せるものを「客戸」という。宇文融は、勧農使につき、部下の勧農判官を全土に派遣し、戸籍に漏れている客戸の把捉をした。
724年末までに、検括できた客戸が80万戸。新附の客戸から数百万銭を徴収できた。全戸数の1割を超える膨大な数。726年の集計では全戸数が707万戸弱なので。
宇文融は、さきに本籍に帰して本戸にもどす方針、のちに奇遇先で客戸として登録させた。国家の管理下に組み入れる政策。逃亡した農民を客戸として受け入れたのは、新興の在地地主層。括戸政策は、地主層とつながる科挙系官僚の激しい反対をまねく。

反対の急先鋒は、張説。張説は、姚崇・宋璟のあと、玄宗からもっとも信頼された。現実主義的な能吏。張説の現実主義とは、現状を追認し、それに適合する策を提起するもの。課第の原点にもどって組み立てる発想はない。
都を警備するため、機能不全に陥った府兵兵士にかわる募兵的な彍騎(かくき)という新兵制が実施されたのも、張説の発想。
張説は、現状に変革を迫る宇文融の括戸に、嫌悪の情をむき出しにし、ことごとに反対。

宇文融と張説の対立は、726年ごろ政争に発展し729年におよぶ。宇文融は、山東貴族で恩蔭系の崔隠甫と協力し、張説を一時失脚させる。のちに宇文融は、崔隠甫と徒党を組んだとして左遷される。宇文融も張説もほぼ同時に亡くなった。

開元中期の政争で、宋璟は一歩はずれ、源乾曜は宇文融に近く、張九齢は張説を支持。玄宗は二股をかけた。課題の財政不足は改まらない。玄宗は宇文融を失脚させたものに、「国用の不足をどうするのか」と怒りをぶつけた。
玄宗は、科挙系官僚の現状肯定の路線にあき足らず、科挙系官僚から離れる。玄宗の方針転換に食い込んだのが、李林甫。

府兵制とその展開

府兵制とは何か

隋唐時代は、前半期では府兵制による兵力、後半期では神策軍を中心とする北衙中央軍と藩鎮地方軍となる。
府兵制は、6世紀なかばの北朝後期の西魏に始まり、隋唐に完成した。均田制によって農地を支給された農民(均田農民)から、その見返りとして徴兵する制度。農民は国家の直接支配下に置かれ、移動が認められず、租庸調(それに雑徭)を国に納めるか、代わりに府兵制による兵役を負担しなければならない。
均田制・租庸調制・府兵制の三本柱は密接に関連し、1つがくずれれば全部がくずれる運命。

この理解が成り立つには、ハードルがある。府兵は租庸調に代わる負担の一種であれば、府兵からなる正規軍=国軍はどのような性格か。兵士としての専門性や積極性、継続性や有効性はどのように保証されるのか。
法令によると、20歳ごろ府兵の身分についたら、60歳の老の区分に入るまで府兵身分を外れない仕組み。20代、30代の青壮年期には府兵として勤務し、体力が衰えたら農民に戻るのは合理的だが、実際には府兵と農民のあいだに、自由な行き来は認められていなかった

全土に府=軍府という単位(軍団)が置かれ、それを中心に兵士が結集された。三国魏の都督府に始まる。北族の軍団が融合し、隋唐の府兵制を生み出した。兵士(府兵)は一般農民とはちがう。農民が直接かかわる租庸調制や均田制とは異なる成立背景。

隋唐府兵制の成立とその展開

中心に府(軍府)を置いて兵士(府兵)を所属させ、戦闘や治安に動員する。6世紀なかば西魏から、8世紀なかばまで、2世紀の歴史として理解される。
590年に隋で、前期府兵制から後期府兵制へと踏み出す。前期は、兵士(府兵)の家と農民の戸籍が別の兵民分離であった。後期の590年から、兵籍をやめて民籍に一本化した。
590年以後では、煬帝が府兵制の拡充につとめた。関中を中心に配された軍府を全国に増設。軍府の名を鷹揚府とし、命令系統を、「鷹揚郎将-鷹揚副郎将(鷹撃郎将)-校尉……府兵」とした。郎将は、将校のこと。皇帝からの命令を一方的に下に伝えた。将軍が軍府の責任者であった段階は終わり、上意下達の新たな指揮系統ができた。
煬帝は、612年に高句麗平定をしたが、大敗。府兵の兵力が有効に機能せず。上から強制的に徴発された府兵の戦意は、はじめから低い。国を守る気概のある高句麗兵より弱かった。
煬帝の府兵兵力はくずれた。あらたに驍果という部隊をつのり、兵力の中核とした。驍果になったのは、体制の網の目から漏れていた、在地の有力層、都市のアウトロー。かれらは驍果となって上昇のチャンスを得るとともに、一家に租税免除と戦功への恩賞がもたらされた。

唐の太宗李世民は、府兵制を再建した。
軍府の所在は、長安一帯に四割以上を集め、残る大半を洛陽・太原の周辺に配した。煬帝の兵力拡散政策に対する反省にたつ。隋文帝の関中本位政策への復帰。 軍府は折衝府と改称された。煬帝が整備した鷹揚府制を、驍果制の利点を取り込みながら継承したもの。貞観十(636)年、唐の軍事面での体制が確立。

軍府と府兵

唐の府兵制の柱となる軍府(折衝府)は、定員に応じ上中下府の3ランクに分かれた。定員は、当初は1000人、800人、600人。途中から200人ずつ増員。軍府の数は総計で600ヵ所以上ある。唐の常備軍は、はじめ48万人、増員して60万人ていどと推定される。

軍府の組織は、折衝都尉(隋の鷹揚郎将に相当)を責任者とした。折衝都尉-果毅都尉(別将・長史)-校尉(団)-旅帥-隊正・副隊正(隊)-火長(火)-衛士(府兵)というかたち。折衝都尉(上府で正四品上)から、隊正・副隊正までは官品をもち、中央の任命をたてまえとする。
軍府の役割は、周辺の住民(農民)から、府兵になるものを選抜する。名簿に登録し、戦技訓練をほどこす。そのうえで都の警備、辺境の防衛にあたらせる。戦時における出陣、地方の治安維持をした。
兵士として登録されると、60歳までその立場に縛られる。登録した名簿は、兵籍としての一面ももつ。590年からは兵民の戸籍を一体としたため、その戸籍体制のなかでの「兵籍」。

府兵は通称で、正式には「衛士」ないしは「侍官」と呼ばれた。中央に16の衛(禁衛)があり、そのうち12衛が直属の軍府を持っていた。これを軍府の側からいうと、各軍府は中央12衛のいずれかに属し、都との距離に応じ、たとえば500里までであれば兵員を5番(5班)に分け、各番1ヵ月ごとに交代して都の勤務につく仕組み。これを番上(上番)という。
衛士は、中央の衛に所属する武士のこと。侍官は、天子を侍衛する武官に由来する。衛士も侍官も、皇帝・中央に直結した栄えある称号。明らかに農民と異なる。

軍府は中央の衛に直属するから、どんな遠方からでも番上するのが建前。規定では、2000里(1100キロ)を越える遠方でも、12番で各番1ヵ月の勤務(『新唐書』兵志)とか、9番で各2ヶ月勤務(『唐六典』)とかになっていた。だがこれでは、往復だけでも膨大な日次を要して負担が過重となる。国境付近の軍府であれば、都に出るより境界を守るほうが大切である。実際に西州(吐魯番)の4つの軍府では、兵士は衛士と名乗りながら、域内の鎮戍(出先の軍事基地)、烽堠(物見台、のろし台)の防衛に専念し、都への番上は果たしていない。
実際の運用面では、地方の要衝に置かれた都督府や、国境付近の軍事拠点に、近接の軍府から番上する方法もとられていたと推定される。都から遠方でも、実際の番上の範囲はそう遠方にならず、平均すれば500里(280キロ)以内で、1番1ヵ月勤務の5番(5班)制が基準となろう。
しかし彼らを衛士(侍官)と呼ぶことには変わらない。栄誉ある中央の正規兵を名乗ることで、地方社会における優位さを保障し、中央への帰属意識を高める狙いがあった。分散的に流れそうな軍府が、じつは求心的に作用するには、政策的配慮があるため。
隋唐衛府表より
唐十六衛は、左右衛(驍騎)、左右武衛(熊渠)、左右金吾衛(シヒ)、左右千牛衛、左右監門衛、左右威衛(羽林)、左右領軍衛(射声)、左右驍衛(豹騎)。

府兵兵士=衛士の生態

はぶく

府兵制の変質から崩壊へ

府兵制は太宗李世民による整備から半世紀で、ほころびが目立つ。
七世紀の則天武后の治世、内政に関心が移ると、辺境の抑えが弱まる。陰山山脈付近に移されていた、突厥(東突厥)が、682年に決起し、北の故地にもどり唐と対立し始める。
突厥に刺激され、東北の営州が騒がしく、696年に契丹が反乱。高句麗系の大祚栄が脱出して、渤海国の建国に乗り出す。西では吐蕃が唐の境域を犯す。

唐ではかれらの領域に都護府を設置して軍事的ににらみをきかす。官内の部族長に唐の官職名をあたえ、部族の自治を許した。羈縻政策という。680年以降、都護府・羈縻政策では追いつかず、中央・地方・辺境の三方面から次々と現れる。
辺境は、境界線を後退させ、鎮戍制に代わり、軍・城・守捉・鎮という防衛拠点を設置し、数千から万の兵員と軍馬を配置。軍や城の数は増え、開元の末に、40余軍、4城、10守捉、4鎮となった。これを統轄するため設立されたのが節度使711年、甘粛の涼州都督を改めて河西節度使としたのが最初。およそ10年間で辺境地帯に10節度使が設けられ、総兵力は50万、軍馬が7万頭近く。
ここに張りつく兵員は、防人や募兵として派遣され、そのまま現地に居着いたもの。健児とよばれ、のち長征健児と称された。見返りに土地を与えられて家族と住み、税を免除され、食料や衣服の提供を受けた。

696年に反乱した契丹は、中国側の防衛線をやぶる。突厥が便乗して河北に侵攻。華北東部に衝撃。当時は武周政権。この方面は軍府が少なく、既存の軍府では欠員が生じたので、農民を募り、一定の報酬をあたえ地域防衛軍とした。武騎団や団結兵とよび、危機を乗り越えた。

辺境の長征健児、華北東部の武騎団は、本質的に府兵制と異なる新兵種。その後にくる傭兵制(募兵制)の始まりと、従来見られてきた。府兵制から傭兵制への転換とされる。たしかに両者とも配置された土地に足場を置き、府兵のように都に上番しない。所属先の軍将への依存度を増した。
ただし武騎団は、府兵制の現状を補完するもの。健児も、つねに戦陣に明け暮れたのでなく、分番で任務につき、非番のとき農耕もした。丸抱えの雇われ兵でなく、土地との関係が切れていない兵士、府兵制とのつながりを残した兵士。唐後期にみられる節度使(藩鎮)配下の兵士も、類似して(土地とつながり、府兵制との共通点を残して)いる。