いつか書きたい三国志

世界史・ローマ史を学び始めました

世界史を学び始めました

世界史を学び始めました

古代と中世のヨーロッパやイスラムの歴史は、「新しいマップ」を使った、手の込んだ二次創作に見える。大航海時代以降の世界史は、日本史にたまに出てくる海外勢のスピンオフに見える。ぼくの捉え方がバグってるのは、百も承知ですけど、それなら世界史を、固有名詞に翻弄されずに勉強できるかも。

ヨーロッパ、地中海、トルコやアラブって、本のなかで地図が示されるたび、どっちが陸地でどっちが海か、毎回わからないんですよ。それぐらい見慣れてない。ものの見方が、悪い意味で新鮮すぎ!先入観ゼロ!「新発売のゲームの未知のマップ」みたいなものなので、徐々に慣れていきます。220209

固有名詞のない歴史叙述

大人向けの歴史の本は、固有名詞と年号をどれだけ省略するかが大切。
高校生は脳が若くて暗記が得意だが、ものの道理のテンプレートがないから、筋書き無視で、個別事象を叩き込むのみ。大人は暗記が苦手だが、実生活での接点、ものの道理を理解する力は高校生に勝るので、そちらに働きかけると吉。

大人が山川出版社の世界史の教科書を見ても、むかしの苦手意識が強化されるだけ。筋書き無用の乱数表を暗記するのは、高校時代よりさらに苦手になってる。
説明に不便や支障が出るほど、固有名詞を刈り込む必要はないが、大人向けに三国志を説明するときも、ほぼ筋書きオンリーでやれるのではないか。

三国志の人物名(数千人分)、州軍県の名、使われた官爵と年号、事件の起きた年。正史と演義の違い。特定の記事の正史のなかでの巻数、演義のなかでの回数。
三国志ファン内部ではこれらの個別知識を競いたくなるけど、それとは別方向の、筋書きだけで三国志を語る努力!をしてみてもよいではないか。

三国志ファンは現代中国の地図を見ない。曹操が安徽省の人と言われてもピンと来ないし、後漢の国土から一歩出るとブラックアウト。 そのくせ中国史以外に疎ければ、現代の国境で世界史を理解しようとする。インド史は今のインドの上で。イギリスとアイルランドは截然と別の国とか。両極端だわ。220210

歴史記述において、年号は「最強の接続詞」。
文のはじめに年号を置いてしまえば、直前の文との関係が、順接か逆接か並列なのか……、それら繋がりを示さなくても済む。「○○年!」と書いてしまえば、書き手は説明の工夫を免除されます。説明をサボるために、年号を表記するのは禁止でお願いします。220211

ローマ史を学び始めました

諸葛孔明とローマ軍が戦ったら、最初はローマが負ける。ローマは手練手管を使わないから。しかし2回目以降は、屈辱を晴らす執念を燃やし、ローマの勝率がぐっと高くなる(本村凌二『教養としてのローマ史の読み方』)
むしろ司馬懿と戦ってください。

以下、本村先生の本を読みながら、後漢・三国とローマ帝国を比べました。


後漢・三国とローマ帝国

ローマのハドリアヌス(~西暦138年)は、先帝までに領土が拡大し、国境線が広がって防衛費が圧迫されると、属州を放棄した。アルメニア、メソポタミア、アッシリア。おかげで「国内」の反乱は減り、財政は回復した。後漢が羌族と戦っていた時期とまったく同じ。
属州を放棄し、秩序安定・財政再建したハドリアヌスは、軍部・民衆から「ローマを没落させるもの」と批判された。東西同じですね。 このハドリアヌスの次の次の皇帝が、後漢の桓帝と使者をやりとりしたマルクス・アウレリウス。後漢のシンクロやばめ。

ローマ帝国では、西暦68年にネロが暗殺され、100年続いた「ユリウス・クラディウス朝」が終わり、統治体制が見直され、1年で3人の皇帝が交替する。ウェスパシアスが立て直す。
前漢→王莽→後漢と、50年ぐらいズレているけど、やっぱりローマと漢帝国は、シンクロ率たかめ。

後漢の霊帝とローマ帝国

西暦168年、後漢の霊帝が即位する。同じ年のローマでは気候変動(寒冷化)によってゲルマン人が南下し、ローマ皇帝の兄弟2人が遠征。1人が死に、翌年からマルクス・アウレリウスが1人で統治する。
霊帝期の開始=寒冷化による民族移動の時代の開幕。三国から五胡十六国と揃ってますね。

アントニヌスが『自省録』を書いたのは、後漢の霊帝の時代と重なる。パルティア遠征で疫病を持ち込み、寒冷化でゲルマン人が南下。洪水や飢饉が増えたとき、ローマで主流の、公職・公職を重んじるエピクロス派の哲学が揺らぎ、「個人の救済」を説く宗教が民衆の心を捉えた…そうです。
国家を支える儒教の後退と、黄巾の話…?220212

『論語』で孔子は、「禅譲すげえ!尭舜すげえ!」って連発する。周王朝・魯公の世襲が当然なのに、そのなかで「禅譲!禅譲!」って言い、これが漢魏革命のロジックとして初めて結実するのはすごい。
ところで同じ時代のローマでは、政治体制や法が違うけど、ほぼ世襲してないんですよね。不思議。

マルクス・アウレリウス(五賢帝の最後の人、桓帝と使者の交流あり)の子、暗愚のローマ皇帝コンモドゥス。在位は西暦180~192年。後宮に籠もり、個人的な仲良しに政治をさせた。元老院議員を殺害し、財産を没収。皇帝だが、剣闘士として競技場で戦った。
時期とイメージが重なるのは、後漢のれいt…

魏の曹氏とローマ帝国

西暦192年に皇帝が毒殺された。奴隷の子だが才能があるもの(在位3ヵ月)、帝位を金で買ったもの(在位は193年の66日間)が相次いで即位。つぎの皇帝セプティミウス・セウェルス(在位193年~211年)は、ローマの伝統に拘らず、家柄・出身地・身分に関係なく人材を出世させた。どこの董卓→曹操かな?
皇帝セプティミウス・セウェルス(在位193年~211年)は、元老院の権威を否定し、多数を処刑。軍事力を皇帝権力の基盤とし、個人的な結びつきが強い軍を活用。長年のローマの外圧=パルティアを平定。ブリタニア(イギリス)に遠征して、西暦211年に死亡。
曹操が涼州で客死したらこんな感じ?

皇帝セプティミウス・セウェルス(西暦211年死亡)は、二人の子(同母兄弟)に仲良くせよと遺言。しかし長男=カラカラ帝は、母の前で弟を殺害。カラカラ帝は、弟殺しを正当化するため、粛清!泣いた人も処刑!身内にひどく憎まれた。しかしアントニヌス勅法を定め、世界帝国に仕上げた。
どこの曹丕?

ローマ皇帝アレクサンデル・セウェルス(在位は西暦222年~235年)は、13歳で即位。属州シリアにペルシアが侵入し、ゲルマン人の侵攻が相次ぐ。231年に皇帝が出陣し、ペルシアを退却させたが、軍部の反乱で暗殺された。
曹叡さんと生年・没年が近く、蜀漢や鮮卑に似てるが、魏軍は統制が利いていた。

西暦235年にセウェルス(≒曹叡)が暗殺されると、285年にローマが滅ぶまで、軍事皇帝の時代になる。70人の皇帝が平均在位3年未満で入れ替わり、「三世紀の危機」という。
諸葛亮の死が234年、西晋の統一が280年だから、「それからの三国志」の時代が、そのまま軍人皇帝の時代。こいつは覚えやすい。

ローマは235年にアレクサンデル・セウェルスが暗殺されると、対外戦争の最前線で、経済的に栄えたのバルカン半島出身の皇帝が多く出て、暗殺がくり返される。「三世紀の危機」。まるで100年早く来た「五胡十六国時代」。
中国で後漢末→五胡十六国と行かず、三国が100年踏み止まったのは漢帝国の力か。

両晋・五胡十六国とローマ帝国

ローマの「三世紀の危機」、軍人皇帝の時代を終わらせ安定をもたらすのは、ディオクレティアヌス。先行する3人の皇帝の「不自然な死体」のそばにいた護衛隊長だが、暗殺疑惑をもみ消した。皇帝の在位は西暦284年~305年で、311年に没。 ディオクレティアヌスの活躍年代は、西晋帝国とほぼ一致する。

ディオクレティアヌス(≒西晋)は、東西正副4人の皇帝で治める「テトラルキア(四分治制)」を採用。西晋の封建制とは似てないけど。 四分治制を勝ち抜いたコンスタンティヌスは、324年、荒廃したローマから、要害ビザンティウムに遷都。西晋→東晋の建康に似てる。これにて古代帝国はひと区切り。220212