新釈漢文大系(明治書院)を参考にしています。学問的な手続ではなく、『戦国策』の概略を知るための「ななめ読み」です。
秦の始祖の非子は、舜の臣の大費(伯翳)の子孫。周の孝王につかえて地を与えられ、付庸(諸侯より格の低い小国)となった。周の幽王が犬戎に殺され、平王が東遷(前七七〇年)すると、秦の襄公は王室を守護し、岐山以西に封建された。
春秋時代の初期に、穆公(前六六〇~六二一)が表れ、西戎の覇者となり、東方の晋と覇を競い、春秋の五覇となった。
『キングダム』で楊端和と出会う前の休憩所をつくった人。
戦国時代のはじめ、孝公(前三六二~三三八)が商鞅を登用し、法治主義を採用。
恵文王(前三三八~三一一)のとき、都を雍から咸陽に遷す。
雍は、秦王政が加冠の儀をし、嫪毐の反乱を知った場所。
昭襄王(前三〇七~二五一)が范雎を登用し、前二六〇年に長平で白起が趙兵四十万を穴埋めにして、天下統一への地歩が固まる。
『キングダム』で趙の亡霊を連れた、万極が生還した戦い。
始皇帝のとき、前二五五年に周王朝と西周を滅ぼし、前二四八年に東周を滅ぼす。前二三〇年から二二一年までに六国を滅ぼした。
孝公は、商鞅をもちいて法制を改変し、都を咸陽に遷した。
衛鞅亡魏入秦,孝公以為相,封之於商,號曰商君。商君治秦,法令至行,公平無私,罰不諱強大,賞不私親近,法及太子,黥劓其傅。期年之後,道不拾遺,民不妄取,兵革大強,諸侯畏懼。然刻深寡恩,特以強服之耳。孝公行之八年,疾且不起,欲傳商君,辭不受。
衛鞅が魏から秦に亡命すると、商に封建し商君(商鞅)とした。法令は太子(つぎの恵文王)にも適用され、人民を屈服させた。孝公は十八年間、商鞅を用いた。孝公が病気になると、商鞅に位を譲ろうとしたが、辞退した。
孝公已死,惠王代後,蒞政有頃,商君告歸。人說惠王曰:「大臣太重者國危,左右太親者深危。今秦婦人嬰兒皆言商君之法,莫言大王之法。是商君反為主,大王更為臣也。且夫商君,固大王仇讎也,願大王圖之。」商君歸還,惠王車裂之,而秦人不憐。
孝公のつぎに恵文王が即位すると、商鞅は恵文王からの(太子時代の)報復を恐れて商に帰った。あるひとが恵文王に、「みな商鞅の法を口にするが、大王の法を口にしません」と商鞅の脅威を説いた。恵文王は、商鞅を車裂の刑にしたが、だれも商鞅に同情しなかった。
商鞅が国境に到達したとき、自分が作った、「験(旅券)なきものは通過させない」という法令に触れて捕らわれた。
恵文君は、商鞅を車裂にした。楚・韓・趙・蜀が来朝し、周君も来駕した。連衡を唱えた張儀を宰相とし、司馬鉗に蜀を滅ぼさせた。魏から上郡15県を差し出し、楚・漢中の六百里を取り、はじめて王と称した。
蘇秦始將連橫,說秦惠王曰:「大王之國,西有巴、蜀、漢中之利,北有胡貉、代馬之用,南有巫山、黔中之限,東有餚、函之固。田肥美,民殷富,戰車萬乘,奮擊百萬,沃野千里,蓄積饒多,地勢形便,此所以天府之,天下之雄國也。以大王之賢,士民之眾,車騎之用,兵法之教,可以並諸侯,吞天下,稱帝而治,願大王少留意,臣請奏其效。」
秦王曰:「寡人聞之,買羽不豐滿者不可以高飛,文章不成者不可以誅罰,道德不厚者不可以使民,政教不順者不可以煩大臣。今先生儼然不遠千里而庭教之,願以異日。」
蘇秦が東西南北の地勢を説いて、連衡の策を進言した。西の防衛線は、巴・蜀・漢中があるとし、南の防衛線は、巫山・黔中をあげている。
恵文王の答え。まだ成長段階であり、資格が不十分である。
蘇秦曰:「臣固疑大王不能用也。昔者神農伐補遂,黃帝伐涿鹿而禽蚩尤,堯伐驩兜,舜伐三苗,禹伐共工,湯伐有夏,文王伐崇,武王伐紂,齊桓任戰而伯天下。由此觀之,惡有不戰者乎?
古者使車轂擊馳,言語相結,天下為一;約中連橫,兵革不藏;文士並餝,諸侯亂惑;萬端俱起,不可勝理;科條既備,民多偽態;書策稠注,百姓不足,上下相愁,民無所聊;明言章理,兵甲愈起;辯言偉服,戰攻不息;繁稱文辭,天下不治;舌弊耳聾,不見成功;行義約信,天下不親。於是,乃廢文任武,厚養死士,綴甲厲兵,效勝於戰場。
夫徒處而致利,安坐而廣地,雖古五帝、三王、五伯,明主賢君,常欲佐而致之,其勢不能,故以戰續之。寬則兩軍相攻,迫則杖戟相橦,然後可建大功。是故兵勝於外,義強於內;武立於上,民服於下。今欲並天下,凌萬乘,詘敵國,制海內,子元元,臣諸侯,非兵不可!今之嗣主,忽於至道,皆惛於教,亂於治,迷於言,惑於語,沈於辯,溺於辭。以此論之,王國不能行也。」
蘇秦の反論。神農は補遂を、黄帝は涿鹿と蚩尤を、尭は驩兜を、舜は三苗を、禹は共工を、湯王は夏王朝を、文王は崇国を、武王は紂王を討伐し、斉の桓公も戦いに専念した。戦わずに、成功した王などおりません。
いにしえより、外交や法整備をしても、諸侯は混乱するばかり。ゆえに武力による解決以外、選択肢がなくなりました。
戦争なしに利益を得るのは、いにしえの五帝・三王・五伯ですら実現できなかった。戦争以外に方法がないが、戦争を回避するならば、恵文王が天下を制覇するのは不可能。
素朴な開戦論です。ここは蘇秦が「恵文王の心を開かせることに失敗する」逸話なので、説得力がなくて当然。
說秦王書十上而說不行。黑貂之裘弊,黃金百斤盡,資用乏絕,去秦而歸。羸滕履蹻,負書擔橐,形容枯槁,面目犁黑,狀有歸色。歸至家,妻不下紉,嫂不為炊,父母不與言。蘇秦喟歎曰:「妻不以為為夫,嫂不以我為叔,父母不以我為子,是皆秦之罪也。」
乃夜發書,陳篋書事,得《太公陰符》之謀,伏而誦之,簡練以為揣摩。讀書欲睡,引錐自刺其股,血流至足。曰:「安有說人主不能出其金市錦繡,取卿相之尊者乎?」期年揣摩成,曰:「此真可以說當世之君矣!」
蘇秦は恵文王に十回の提案をしたが、採用されず、財産を使い果たして洛陽に帰郷した。家族からも顧みられなかった。「秦の罪」は「わたしの罪」。
発憤して、太公望呂尚の『陰符』を研究した。眠くなると、ふとももにキリを突き刺した。君主の心の研究を終えた。
使用乃摩燕烏集闕,見說趙王於華屋之下,抵掌而談。趙王大悅,封為武安君。受相印,革車百乘,綿繡千純,白壁百雙,黃金萬溢,以隨其後,約從散橫,以抑強秦。故蘇秦相於趙而關不通。
當此之時,天下之大,萬民之眾,王侯之威,謀臣之權,皆欲決蘇秦之策。不費斗糧,未煩一兵,未張一士,未絕一弦,未折一矢,諸侯相親,賢於兄弟。夫賢人在而天下服,一人用而天下從。故曰:式於政,不式於勇;式於廊廟,不式於四境之外。
當秦之隆,黃金萬溢為用,轉轂連騎,炫熿於道,山東之國,從風而服,使趙大重。且夫蘇秦特窮巷掘門、桑戶棬樞之士耳,伏軾撙銜,橫歷天下,廷說諸侯之王,杜左右之口,天下莫之能伉。
蘇秦は、燕の烏集闕(宮殿の名)に摩(せま)り(燕王を説得し)、趙の華屋山のもとで趙王(粛侯)に遊説した。趙王は、蘇秦を武安君に封建し、宰相の印を授けた。蘇秦は、合従を約束し、連衡を解散させ、強秦を抑えつけた。蘇秦が趙の宰相となってから、函谷関が通行不能となった。
秦の恵文王に連衡を説いたが却下され、家族にも疎んじられた蘇秦が、一転して趙王を味方に引き入れ、秦に合従で「復讐」する話。
諸侯は一兵も損なわず、兄弟以上に親しみあった。
蘇秦の全盛時代は、蘇秦が(秦を除く)山東の諸国の王に遊説し、諸国の臣ですら口が封じられた。
將說楚王路過洛陽,父母聞之,清宮除道,張樂設飲,郊迎三十里。妻側目而視,傾耳而聽;嫂蛇行匍伏,四拜自跪謝。蘇秦曰:「嫂,何前倨而後卑也?」嫂曰:「以季子之位尊而多金。」蘇秦曰:「嗟乎!貧窮則父母不子,富貴則親戚畏懼。人生世上,勢位富貴,盍可忽乎哉!」
蘇秦は、楚に遊説するため、故郷の洛陽を通過した。家族から丁重に扱われ、蘇秦はかれらの態度の変わりようを嘆いた。「家族ですら、態度が変わる。権勢と富貴は、ものすごく大事なのだなあ」と。
歴史の大局にまつわるオチは付かない。蘇秦が、家族からの風当たりについてコメントして終了。『戦国策』秦策に入っているが、蘇秦列伝のようなもの。
秦惠王謂寒泉子曰:「蘇秦欺寡人,欲以一人之智,反覆東山之君,從以欺秦。趙固負其眾,故先使蘇秦以幣帛約乎諸侯。諸侯不可一,猶連雞之不能俱止於棲之明矣。寡人忿然,含怒日久,吾欲使武安子起往喻意焉。」寒泉子曰:「不可。夫攻城墮邑,請使武安子。善我國家使諸侯,請使客卿張儀。」秦惠王曰:「受命。」
秦の恵王(恵文王)は、秦の処士の寒泉子に言った。「蘇秦は私をだまして、趙国を中心とした同盟を作ってしまった。武安君の白起を諸国に行かせよう」と。
寒泉子の答え。諸国を攻撃するなら、武安君の白起を行かせなさい。秦の立場を修復するならば、客卿の張儀を行かせなさい。恵文王は合意した。
蘇秦が六国と「従約」を結び、秦は孤立した。『史記』張儀列伝によると、張儀が秦に入ったのは、秦兵の進入を防ぐためであったとする。張儀の言葉として、「蘇君(蘇秦)の時、儀 何ぞ敢て言はん」とある。寒泉子の言うとおり、恵文王が張儀を用いたのは、蘇秦による「従約」が完成したよりも、やや後であったと分かる。
楚魏戰於陘山。魏需秦以上洛,以絕秦於楚。魏戰勝,楚敗於南陽。秦責賂於魏,魏不與。營淺謂秦王曰:「王何不謂楚王曰,魏許寡人以地,今戰勝,魏王倍寡人也。王何不與寡人遇。魏畏秦、楚之合,必與秦地矣。是魏勝楚而亡地於秦也;是王以魏地德寡人,秦之楚者多資矣。魏弱,若不出地,則王攻其南,寡人絕其西,魏必危。」秦王曰:「善。」以是告楚。楚王揚言與秦遇,魏王聞之恐,效上洛於秦。
楚と魏が、楚の陘山で戦った。魏は秦に、「上洛の地を贈るから、楚を援助しないでくれ」と交渉した。(秦の干渉がないおかげ?で)魏が楚軍を(楚の)南陽で破ると、秦は、上洛を差し出すように督促した。魏は約束を破った。
管浅が恵文王に、「楚の懐王に以下のように言いなさい。楚の懐王は、ぜひ私と会見して下さい。さすれば魏は、秦・楚の同盟をおそれて、約束を履行する(魏の上洛を秦に差し出す)でしょう。魏は、せっかく楚に勝ったが、土地を秦に取られることになる。あなたがた楚国は、秦国に恩を売ったことになります。すると、わが秦国は、楚国への贈り物を増やすでしょう。魏は弱国です。あくまで魏国が(秦国との)約束を破るならば、わが秦軍は魏の西を、あなたがた楚軍は魏の南を攻めなさいと」
楚の懐王は、「秦王と会見する」と言い触らした。魏の恵王は、恐れて(約束どおり)上洛の地を秦に提供した。
おもしろかったですね。
楚使者景鯉在秦,從秦王與魏王遇於境。楚怒秦合,周最為楚王曰:「魏請無與楚遇而合於秦,是以鯉與之遇也。弊邑之於與遇善之,故齊不合也。」楚王因不罪景鯉而德周、秦。
楚の使者の景鯉が秦に滞在していたとき、秦の昭襄王に従い、魏の昭王と、秦の国境で会見した。楚国は、景鯉の(楚の人間でありながら、魏と会ってしまった)軽率さを叱った。
このとき楚は、斉と親密であった。今回、楚の使者である景鯉が、秦・魏の会見に出席した。斉が、「秦と楚に密約があるのでは」と疑うリスクがあった。楚は、斉との関係悪化を恐れて、景鯉が秦・魏の会見に出たことを怒った。
そこで秦は、(秦に来ていた)周の公子の周最を仲介役として、楚の頃襄王のもとに釈明させた。「魏は、楚と会見するつもりはなく、ただ秦とだけ話をしました。だから景鯉は(別に考えがあって?)魏との会見に出席したのです。秦では、出席してもらって良かったと思っています。なぜなら、斉が(秦と楚の密約があるのではないかと疑い)、魏と手を結ばなかったのです」と景鯉を弁護した。楚の頃襄王は景鯉を処罰せず、(仲介役となった)周最と、(仲介役を派遣した)秦の昭襄王に恩義を感じた。
楚王使景鯉如秦。客謂秦王曰:「景鯉,楚王使景所甚愛,王不如留之以市地。楚王聽,則不用兵而得地;楚王不聽,則殺景鯉,更不與不如景鯉留,是便計也。」秦王乃留景鯉。景鯉使人說秦王曰:「臣見王之權輕天下,而地不可得也。臣之來使也,聞齊、魏皆且割地以事秦。所以然者,以秦與楚為昆弟國。今大王留臣,是示天下無楚也,齊、魏有何重於孤國也。楚知秦之孤,不與地,而外結交諸侯以圖,則社稷必危,不如出臣。」秦王乃出之。
楚の頃襄王が、臣の景鯉を秦に行かせた。秦の昭襄王に吹き込んだ人がいて、「景鯉を抑留し、土地と交換だと言いなさい。楚王が受け入れたら、城をタダで得られます。楚王が断ったら、景鯉を殺し、別の人で取引すればよい」と。秦の昭襄王は、景鯉を抑留した。
景鯉の言葉。「姑息な手を使えば、秦国はかえって土地を失います。私は途中で、斉や魏が、秦国に土地を与えようと言うのを聞きました。斉や魏が、『楚と昆弟の(強固な同盟のある)秦』を脅威に思っているからです。もし私を抑留すれば、秦と楚が敵対関係にあることが知れ渡り、斉や魏から土地を受け取ることができません」と。
楚攻魏。張儀謂秦王曰:「不如與魏以勁之,魏戰勝,復聽於秦,必入西河之外;不勝,魏不能守,王必取之。」王用儀言,取皮氏卒萬人,車百乘,以與魏。犀首戰勝威王,魏兵罷弊,恐畏秦,果獻西河之外。
楚が魏を攻めたとき、張儀が秦王(恵文君)に説いた。「魏に助力なさい。魏が楚に勝てば、秦に西河の外を差し出します。魏が楚に負ければ、魏に西河の外を守る力がないので、秦が力づくで奪えます。
魏軍は、楚の威王に勝ったが、秦の来襲を恐れて、西河の外を差し出した。
田莘之為陳軫說秦惠王曰:「臣恐王之若郭君。夫晉獻公欲伐郭,而憚舟之僑存。荀息曰:『《周書》有言,美女破舌。』乃遺之女樂,以亂其政。舟之僑諫而不聽,遂去。因而伐郭,遂破之。又欲伐虞,而憚宮之奇存,荀息曰:『《周書》有言,美男破老。』乃遺之美男,教之惡宮之奇。宮之奇以諫而不聽,遂亡。因而伐虞,遂取之。今秦自以為王,能害王者之國者,楚也。楚智橫君之善用兵,用兵與陳軫之智,故驕張儀以五國。來,必惡是二人。願王勿聽也。」張儀果來辭,因言軫也,王怒而不聽。
説客の田莘之(でんしんし)が、同じく説客の陳軫を擁護するため、秦の恵王(恵文君)に説いた。
田莘之・陳軫とも、斉の王族につらなる。
田莘之の言葉。「恵文君は、春秋時代の郭君(虢君)の二の舞にならないといいですね。(春秋時代に)晋の献公が、郭国(虢国)を滅ぼすために、郭君(虢君)に美女を送り、賢者の舟之僑が失脚するように仕向けました。晋の献公は、虞国を滅ぼすために、虞君に美少年を送り、賢者の宮之奇が失脚するように仕向けました。
晋が虢を滅ぼしたことは、『左氏伝』閔公二年に見える。晋が虞を滅ぼしたことは、『左氏伝』僖公五年に見える。
いま秦国の賢者は、陳軫です。秦のライバルは楚です。楚が五ヵ国に呼び掛け、張儀に影響力を付加しています。これから張儀が秦に来れば、(美女や美少年の役割を果たし)秦王と陳軫のあいだを裂こうとします」と。
張儀が秦にきて陳軫の悪口を言ったが、秦王は突っぱねた。
張儀又惡陳軫於秦王,曰:「軫馳楚、秦之間,今楚不加善秦而善軫,然則是軫自為而不為國也。小軫欲去秦而之楚,王何不聽乎?」王謂陳軫曰:「吾聞子欲去秦而之楚,信乎?」陳軫曰:「然。」王曰:「儀之言果信也。」
曰:「非獨儀知之也,行道之人皆知之。曰:『孝己愛其親,天下欲以為子;子胥忠乎其君,天下欲以為臣。賣僕妾售乎閭巷者,良僕妾也;出婦嫁鄉曲者,良婦也。』吾不忠於君,楚亦何以軫為忠乎?忠且見棄,吾不之楚,何適乎?」秦王曰:「善。」乃必之也。
張儀は、秦王(恵文君)に対し、陳軫の悪口を言った。「陳軫は、秦と楚を取り持とうとしているが、楚は秦と親しくせず、陳軫ひとりと親しくしている。陳軫は、秦のためでなく、自分だけのために外交の場を利用している。陳軫は、秦を去って楚に行く(移籍する)つもりだ」と。
秦王が陳軫に行き先を聞いた。陳軫は「楚に行きます」と言った。
陳軫は、「張儀の発言は、べつに秘密を暴露した(価値のある)ものではなく、私が楚に行こうとしているのは、道行く人が知っています。しかし、他国から引き抜かれるのは、忠義の人材です。私が秦国に忠義だから、楚国は私を引き抜こうとしているのです(楚からの評価が高いことは、秦への不忠の証拠となりません)」と。
陳軫は『戦国策』に10回見えるが、秦で張儀と争って敗れ(恵文君から認められず)、楚の懐王に仕えた。楚でも長続きせず、魏に移ったが失敗した。張儀から攻撃を受けるということは、陳軫は張儀にとって「目の上のこぶ」であった。
陳軫去楚之秦。張儀謂秦王曰:「陳軫為王臣,常以國情輸楚。儀不能與從事,願王逐之。即復之楚,願王殺之。」王曰:「軫安敢之楚也。」王召陳軫告之曰:「吾能聽子言,子欲何之?請為子車約。」對曰:「臣願之楚。」王曰:「儀以子為之楚,吾又自知子之楚。子非楚,且安之也!」軫曰:「臣出,必故之楚,以順王與儀之策,而明臣之楚與不也。
陳軫が楚を去って、秦に戻ってきた。張儀が(陳軫をねたんで)秦王(恵文君)に、「陳軫は、秦の秘密を楚に漏らしています。秦から追放すべきです。陳軫が、また楚に行くと言い出したら、殺してしまいなさい」と言った。
秦王から、つぎの行き先を聞かれた陳軫は、「秦を出たら、楚に行きます。秦王と陳軫の見立て(秦を裏切って楚に情報を横流ししている)が正しいか、はっきり示しましょう(私は秦を裏切るつもりはありません)」と答えた。
楚人有兩妻者,人挑其者,詈之;挑其少者,少者許之。居無幾何,有兩妻者死。客謂挑者曰:『汝取長者乎?少者乎?』『取長者。』客曰:『長者詈汝,少者和汝,汝何為取長者?』曰:『居彼人之所,則欲其許我也。今為我妻,則欲其為我詈人也。』今楚王明主也,而昭陽賢相也。軫為人臣,而常以國輸楚王,王必不留臣,昭陽將不與臣從事矣。以此明臣之楚與不。」
疑り深い秦王に対し、陳軫が例え話をする。「楚に、二人の妻を持つものがいました。ある者が、年上の妻に言い寄ると拒絶し、年下に言い寄ると(浮気を)受け入れました。しかし言い寄った者は、「もし自分の妻にするなら、年上のほうだ」と言いました。
楚の懐王は明君であり、宰相の昭陽は賢明です。私が秦の秘密を横流ししているなら、楚の君臣は私などと付き合うでしょうか」と。
陳軫は、自分自身を「年上の妻」とし、楚の君臣を「言い寄った者」に準えている。
軫出長官儀入,問王曰:「陳軫果安之?」王曰:「夫軫天下之辯士也,孰視寡人曰:『軫必之楚。』寡人遂無奈何也。寡人因問曰:『子必之楚也,則儀之言果信矣!』軫曰:『非獨儀之言也,行道之人皆知之。昔者子胥忠其君,天下皆欲以為臣;孝己愛其親,天下皆欲以為子。故賣僕妾不出里巷而取者,良僕妾也;出婦嫁於鄉里者,善婦也。臣不忠於王,楚何以軫為?忠尚見棄,軫不之楚,而何之乎?』王以為然,遂善待之。」
陳軫が退出すると、張儀が「やはり陳軫は楚に行く。裏切り者でしたね」と言った。陳軫は、同じ理屈をくり返し、張儀を論破した。
義渠君之魏,公孫衍謂義渠君曰:「道遠,臣不得復過矣,請謁事情。」義渠君曰:「願聞之。」對曰:「中國無事於秦,則秦且燒爇獲君之國;中國為有事於秦,則秦且輕使重幣,使事君之國也。」義渠君曰:「謹聞令。」居無幾何,惡果伐秦。陳軫謂秦王曰:「義渠君者,蠻夷之賢君,王不如賂之以撫其心。」秦王曰:「善。」因以文繡千匹,好女百人,遺義渠君。義渠君致群臣而謀曰:「此乃公孫衍之所謂也。」因起兵襲秦,大敗秦人於李帛之下。
西戎の義渠(儀渠)の君が、魏に出かけた。魏の策士である公孫衍(犀首)が教えた。「中国の諸侯が秦を攻撃しなければ、秦は西戎を滅ぼす。諸侯が秦を攻撃すれば、西戎は安泰です」と。
のちに、五国が秦を討伐した。秦の恵文君が陳軫を派遣して、西戎にしたてに出て、助けを求めた。西戎は、魏に吹き込まれたとおり、秦を攻撃した。
司馬錯與張儀爭論於秦惠王前。司馬錯欲伐蜀,張儀曰:「不如伐韓。」王曰:「請聞其說。」對曰:「親魏善楚,下兵三川,塞轘轅、緱氏之口,當屯留之道,魏絕南陽,楚臨南鄭,秦攻新城、宜陽,以臨二周之郊,誅周主之罪,侵楚、魏之地。周自知不救,九鼎寶器必出。據九鼎,安圖籍,挾天子以令天下,天下莫敢不聽,此王業也。今夫蜀,西辟之國,而戎狄之長也,弊兵勞眾不足以成名,得其地不足以為利。臣聞:『爭名者於朝,爭利者於市。』今三川、周室,天下之市朝也。而翁不爭焉,顧爭於戎狄,去王業遠矣。」
秦の謀臣の司馬錯が、(宰相)張儀と、恵王(恵文君)のまえで論争した。司馬錯は蜀、張儀は韓の討伐を提案した。
張儀が韓を優先すべきとする理由。「魏・楚と連携し、韓を封鎖します。かくて東周と西周の王に天子としての責任を問い詰めれば、九鼎・宝器を吐き出すでしょう。この権威の象徴を用いて、秦国が号令するのです。
蜀は西の辺境。諸国の争奪の対象ではないので、奪ったところで秦の影響力は増えません」と。
司馬錯曰:「不然,臣聞之,欲富國者,務廣其地;欲強兵者,務富其民;欲王者,務博其德。三資者備,而王隨之矣。今王之地小民貧,故臣願從事於易。夫蜀,西辟之國也,而戎狄之長,而有桀、紂之亂。以秦攻之,譬如使豺狼逐群羊也。取其地,足以廣國也;得其財,足以富民;繕兵不傷眾,而彼以服矣。故拔一國,而天下不以為暴;利盡西海,諸侯不以為貪。是我一舉而名實兩附,而又有禁暴正亂之名。
今攻韓劫天子,劫天子,惡名也,而未必利也,又有不義之名,而攻天下之所不欲,危!臣請謁其故:周,天下之宗室也;齊,韓、周之與國也。周自知失九鼎,韓自知亡三川,則必將二所並力合謀,以因於齊、趙,而求解乎楚、魏。以鼎與楚,以地與魏,王不能禁。此臣所謂危,不如伐蜀之完也。」惠王曰:「善!寡人聽子。」
司馬錯の反論。「秦には富国強兵が必要。蜀は統治が乱れ、奪い取るチャンス。蜀は諸国から無視されているため、秦が奪っても批判を浴びません。
いまわが秦が韓を攻め、周の天子を脅かせば、諸国から批判を受けます。周は諸侯の宗家ですし、斉は韓の同盟国です。周と韓、(韓と同盟国の)斉と(おまけに)趙も敵に回ります。韓や周は、(張儀が秦の同盟国に数えた)魏と楚に、秦をなだめて戦役を中止するように交渉するでしょう。その謝礼として、周は「楚」に九鼎を贈り、韓は三川の地を「魏」に贈るかも知れません。張儀の計画は外れます」と。
秦の恵王は、司馬錯に従った。
十ヵ月で蜀を取り、蜀主を侯とした。陳荘を相とした。これにより、秦の富国強兵は成った。
このとき秦の恵王は、蜀に出兵すれば韓に背後を突かれるし、韓を先に伐てば蜀に出兵する余力がなくなる、と迷っていた。この二案をめぐり、張儀と司馬錯が争った話。
すると、周王から九鼎を奪うというのは、張儀が「韓が優先」と主張するため、副産物として示したもの。周王朝を滅ぼすことが、作戦の目的ではない。
齊阻力楚攻秦,取曲沃。其後,秦欲伐齊,齊、楚之交善,惠王患之,謂張儀曰:「吾欲伐齊,齊楚方歡,子為寡人慮之,奈何?」張儀曰:「王其為臣約車並幣,臣請試之。」
斉が、楚を助けて秦を攻め、(魏の)曲沃を取った。秦が斉を討伐しようとしたが、斉・楚の同盟が強いので、楚の参戦が見込まれた。そこで恵文王は、張儀に相談した。張儀は外交を引き受けた。
張儀南見楚王曰:「弊邑之王所說甚者,無大大王;唯儀之所甚願為臣者,亦無大大王。弊邑之王所甚憎者,亦無先齊王。唯儀甚憎者,亦無大齊王。今齊王之罪,其於弊邑之王臣厚,弊邑欲伐之,而大國與之歡,是以弊邑之王不得事令,而儀不得為臣也。
大王苟能閉關絕齊,臣請使秦王獻商於之地,方六百里。若此,齊必弱,齊弱則必為王役矣。則是北弱齊,西德於秦,而私商於之地以為利也,則此一計而三利俱至。」
張儀は、楚の懐王にまみえた。「秦の恵文王は、楚の懐王を親しく思い、臣従してもよいほど。反対に秦は、斉の威王を憎らしく思っています。しかし、秦が斉を伐つにも、楚軍に妨害されたら成功せず、秦が楚に臣従もできなくなります。
楚の懐王が、秦による楚の攻撃に干渉しないなら、商・於の地六百里を、秦が楚に献上します。もし秦が斉を破ったなら、斉は「楚の同盟国」から「楚の配下」に弱体化します。楚は門を閉ざす(干渉しない)だけで、①秦に恩を売り、②秦から商・於の地を受け取り、③斉を従えることができます。
楚王大說,宣言之於朝廷,曰:「不谷得商於之田,方六百里。」群臣聞見者畢賀,陳軫後見,獨不賀。楚王曰:「不谷不煩一兵不傷一人,而得商於之地六百里,寡人自以為智矣!諸士大夫皆賀,子獨不賀,何也?」陳軫對曰:「臣見商於之地不可得,而患必至也,故不敢妄賀。」王曰:「何也?」
楚の懐王は、張儀の話に乗せられたが、陳軫だけが「そんなにうまい話はありません」と言った。
對曰:「夫秦所以重王者,以王有齊也。今地未可得而齊先絕,是楚孤也,秦又何重孤國?且先出地絕齊,秦計必弗為也。先絕齊後責地,且必受欺於張儀。受欺於張儀,王必惋之。是西生秦患,北絕齊交,則兩國兵必至矣。」楚王不聽,曰:「吾事善矣!子其弭口無言,以待吾事。」
陳軫の説明。「秦の恵文王が、楚の懐王を大切にするのは、「斉の同盟国」だから。秦は、さきに土地を差し出すことはせず、さきに楚に「斉と断交せよ」と求めるでしょう。断交した途端に、楚は、秦と斉に攻め込まれます」と。楚の懐王は、耳を塞いだ。
楚王使人絕齊,使者未來,又重絕之。張儀反,秦使人使齊,齊、秦之交陰合。楚因使一將軍受地於秦。張儀至,稱病不朝。楚王曰:「張子以寡人不絕齊乎?」乃使勇士往詈齊王。張儀知楚絕齊也,乃出見使者曰:「從某至某,廣從六里。」使者月:「臣聞六百里,不聞六里。」儀曰:「儀固以小人,安得六百里?」
楚の懐王は、斉に使者を送って断交した。張儀が(楚から秦に)帰国すると、斉と秦で同盟が結ばれた。それとは知らぬ楚の懐王は、秦に土地割譲を催促した。割譲されず。楚の懐王は、「斉と断交したことが、秦から信用されていないのか」と思い、斉王をさらに辱めた。張儀は、斉と楚の断交を確かめると、六里を楚に割譲した。
使者反報楚王,楚王大怒,欲興師伐秦。陳軫曰:「臣可以言乎?」王曰:「可矣。」軫曰:「伐秦非計也,王不如因而賂之一名都,與之伐齊,是我亡於秦而取償於齊也。楚國不尚全事。王今已絕齊,而責欺於秦,是吾合齊、秦之交也,固必大傷。」楚王不聽,遂舉兵伐秦。秦與齊合,韓氏從之。楚兵大敗於杜陵。故楚之土壤士民非削弱,僅以救亡者,計失於陳軫,過聽於張儀。
楚王は、「六百里から六里に値切るなど、(秦の)張儀に約束を破られた」と怒り、秦を討伐しようとした。陳軫が楚王に、「秦を攻めてはいけない。反対に、楚の土地を秦に与え、秦楚同盟をこしらえて、斉を攻めなさい。わずかな土地を秦に与えることになるが、斉から大きく切り取れます」と言った。楚王は従わず。
楚王が秦を攻撃すると、秦と斉が同盟し(韓まで秦斉連合軍に加わり)、楚軍は杜陵で敗北した。楚王が、張儀の話に乗せられ、陳軫を退けたせいである。
楚絕齊,齊舉兵伐楚。陳軫謂楚王曰:「王不如以地東解於齊,西講於秦。」楚王使陳軫之秦,秦王謂軫曰:「子秦人也,寡人與子故也,寡人不佞,不能親國事也,故子棄寡人事楚王。今齊、楚相伐,或謂救之便,或謂救之不便,子獨不可以忠為子主計,以其餘為寡人乎?」
楚が、斉と国交断絶した。斉の宣王が、楚を討伐した。陳軫は楚の懐王に、「土地を割いて、東の斉、西の秦と和解すべきです」と言った。楚王は、陳軫を秦への使者とした。秦の恵文王は、「きみ(陳軫)は、もと秦臣でもある。斉と楚のどちらに味方すべきか、秦の立場でも教えてほしい」と言った。
陳軫曰:「王獨不聞吳人之遊楚者乎?楚王甚愛之,病,故使人問之,曰:『誠病乎?意亦思乎?』左右曰:『臣不知其思與不思,誠思則將吳吟:『今軫將為王吳吟。
王不聞管與之說乎?有兩虎諍人而斗者,管莊子將刺之,管與止之曰:『虎者,猁蟲;人者甘餌也。今兩虎諍人而鬥,小者必死,大者必傷。子待傷虎而刺之,則是一舉而兼兩虎也。無刺一虎之勞,而有刺兩虎之名。』齊、楚今戰,戰必敗。敗,王起兵救之,有救齊之利,而無伐楚之害。
計聽知覆逆者,唯王可也。計者,事之本也;聽者,存亡之機。計失而聽過,能有國者寡也。故曰:『計有一二者難悖也,聽無失本末者難惑。』」
陳軫の自分の立場についての発言。「むかし呉から楚に移籍したものが居ました。そのものが病気になると楚王は、本当に病気か、呉に帰郷したいがための仮病かを疑いました。帰郷が希望なら、故郷の呉の歌を口ずさんでいるだろうと。私(陳軫)は、秦王のために(秦の)歌を口ずさみましょう。
管与の先例があります。管荘子という勇士が二匹の虎を殺そうとするのを見て、「虎に殺し合わせ、勝ったが傷ついた方だけ殺せば、二匹を殺すよりも労力が少ない」と言いました。いま斉と楚(二匹の虎)が戦っています。戦えば、斉が敗れるでしょう。秦王は、敗れた斉を救えば(戦いで消耗した楚を攻撃すれば)、斉に恩を売れますし、全力の楚軍と戦う手間が省けます。
きちんとした計略に耳を傾けるのが、王の務めです。
秦惠王死,公孫衍欲窮張儀。李讎謂公孫衍曰:「不如召甘茂於魏,召公孫顯於韓,起樗裡子於國。三人者,皆張儀之讎也,公用之,則諸侯必見張儀無秦矣!」
秦の恵文王が亡くなった。魏の公孫衍(犀首)は、政敵の張儀を困らせてやろうとした。秦臣の李讐が公孫衍に言った。「魏から甘茂、韓から公孫顕、秦国内から樗裡子を登用しなさい。三人は、張儀のライバルです。この三人が登用されたら、天下は張儀の失脚を知るでしょう」と。220223
秦の武王は、恵文王の子。丞相を置き、樗裡疾・甘茂を左右丞相とした。周室をねらい、甘茂に宜陽を伐たせた。かくして領土が三川に通じた。武王は力が強く、力士の孟説と鼎をもちあげ、ひざぼねが断裂して死んだ。
戦国時代の秦は、最初に孝公(前362~)が商鞅の変法で国力を蓄え、孝公の孫の昭襄王(前307~)が魏冉・范雎を宰相に用い、将軍白起を用い長平で戦う。昭襄王の存命中、ひまご秦王政(前247~)が誕生。昭襄王の時代は、『キングダム』では「現代史」に属する。戦国時代って意外にコンパクトですね。
この武王は、昭襄王の兄です。
張儀欲假秦兵以救魏。左成謂甘茂曰:「子不予之。魏不反秦兵,張子不反秦。魏若反秦兵,張子得志於魏,不敢反於秦矣。張子不去秦,張子必高子。」
張儀が、秦軍を借りて魏を救おうとした。(策士)左成が、(秦将)甘茂に(張儀を追い出すのに好都合だと)説いた。「張儀に軍を貸すのがよい。魏が敗れたら、張儀は借りた兵を損なったとして、秦に帰ってこない。魏が勝ったら、魏で活躍するので、秦に帰ってこない。張儀が去らなければ、甘茂が秦で出世できません」と。
張儀之殘樗裡疾也,重而使之楚。因令楚王為之請相於秦。張子謂秦王曰:「重樗裡疾而使之者,將以為國交也。今身在楚,楚王因為請相於秦。臣聞其言曰:『王欲窮儀於秦乎?臣請助王。』楚王以為然,故為請相也。今王誠聽之,彼必以國事楚王。」秦王大怒,樗裡疾出走。
張儀が(秦でのライバル)樗裡疾を失脚させようとした。樗裡疾を楚への使者とし、楚の懐王が、樗裡疾を秦の宰相に推薦するように仕向けた。張儀が秦の武王に、「樗裡疾は、秦の国家のためではなく、自分の利益のために楚王に取り入った。楚王は、樗裡疾を秦の宰相に推薦することで、秦の君臣を内部崩壊させようとしています」と言った。秦の武王が怒ったので、樗裡疾は秦から逃亡した。
張儀欲以漢中與楚,請秦王曰:「有漢中,蠹。種樹不處者,人必害之;家有不宜之財,則傷本。漢中南邊為楚利,此國累也。」甘茂謂王曰:「地大者,國多憂乎!天下有變,王割漢中以為和楚,楚必畔天下而與王。王今以漢中與楚,即天下有變,王何以市楚也?」
いつの秦王か未詳。秦が漢中の地を楚から奪った。
張儀「漢中は、木に虫が紛れるように、秦全体の害となります。不当な財産は、かえって家を滅ぼします。漢中を楚に返還なさい」
甘茂の反論。「土地が多いことが、害になるはずがない。天下に変事が起きてから、秦が漢中の地を譲り、楚と同盟なさいませ。楚は秦に味方してくれます。交渉材料を手元に残すほうがよろしい」
張儀が、漢中を楚に返還せよといった理由・背景が不明。
爲魏謂魏冉曰:「公聞東方之語乎?」曰:「弗聞也。」月:「辛、張陽、毋澤說魏王、薛公、公叔也,曰:『臣戰,載主契國以與王約,必無患矣。若有敗之者,臣要求挈領。然而臣有患也。夫楚王之以其臣請挈領然而臣有患也。夫楚王之以其國依冉也,而事臣之主,此臣之甚患也。』
今公東而因言楚,是令張儀之言為禹,而務敗公之事也。公不如反公國,德楚而觀薛公之為公也。觀三國之所求於秦而不能得者,請以號三國以自信也。觀張儀與澤之所不能得於薛公者也,而公請之以自重也。」
あるものが魏国に利益をもたらすため、(秦の丞相の穣公)魏冉に説いた。「魏の君臣は、秦への敵意を持っています。
魏では辛張・陽毋沢が、魏の昭王、魏の薛公の田文(魏の宰相)、公叔(韓の宰相)に向けて、「先王(魏の昭王の父、哀王)の位牌を戦車に乗せ、敵の討伐を誓います」と。固有名詞の大渋滞。
魏国の認識では、楚の頃襄王が楚をあげて、秦の魏冉を信用しているのは、魏と対抗するため。秦楚の結びつきは、魏国にとって障害になる(と魏の君臣は唱えています)。
魏の利益を図っているひとが、秦の魏冉に、「魏から敵愾心を持たれていることは、秦にとっても不利益ですよね」と吹き込んでいる。
あなた(秦の丞相の魏冉)が楚に行けば、魏に秦楚同盟を印象づけ、魏の敵愾心を燃え上がらせます。秦楚同盟は、すでに辛張・陽毋沢に警戒されているのですよ(秦にとっても不利益ですよね)。ですからあなたは、(秦の朝廷を去って)封地の陶に帰り、魏の薛公がどのように動くか注視し、(斉・魏・韓)三国が秦に何を求めているか観察し、三国のために便宜をはかれば、あなたの影響力が増します。魏の辛張・陽毋沢が何を求めているかを観察し、便宜をはかれば、あなたの影響力が増します。
魏の便宜をはかるものが、(秦の丞相)魏冉が楚にいかないように、理屈をつけて妨害している。秦楚連合が魏を攻撃しても、どうせ魏に予知され、警戒されている。どうせ失敗する秦楚連合で出兵するよりは、魏冉自身の影響力を蓄えなさいとの言葉。
かなりムリクリだし、秦の宰相が「魏冉」という名なので紛らわしい。
醫扁妾見秦武王,武王示之病,扁鵲請除。左右曰:「君之病,在耳之前,目之下,除之未必已也,將使耳不聽,目不明。」君以告扁鵲。扁鵲怒而投其石:「君與知之者謀之,而與不知者敗之。使此知秦國之政也,則君一舉而亡國矣。」
名医の扁鵲が、秦の武王に会った。扁鵲が切除を提案した。側近が、手術のリスクを説いたので、武王は中止した。扁鵲は、「素人の意見を聞く王なら、国政にも弊害があるぞ」と言った。うまい!
秦武王謂甘茂曰:「寡人欲車通三川,以窺周室,而寡人死不朽乎?」甘茂對曰:「請之魏,約伐韓。」王令向壽輔行。甘茂至魏,謂向壽:「子歸告王曰:『魏聽臣矣,然願王勿攻也。』事成,盡以為子功。」向壽歸以告王,王迎甘茂於息壤。
秦の武王が、(左丞相)甘茂に言った。「わが戦車が三川(韓)を往来し、周王朝を窺えば、名が不朽になる」と。甘茂の答え。「魏と盟約し、ともに韓を討伐しましょう」と。
秦の武王は、副使として(宣太后の一族の)向寿を同行させた。魏国につくと甘茂は向寿に、「魏との盟約は成ったが、秦王に韓の討伐を中止してもらえ。もし成功したら、向寿の功績だ」と言った。向寿は帰国し、秦王に告げた。秦王は(待ちきれず)甘茂を息壤に迎えに行った。
甘茂至,王問其故。對曰:「宜陽,大縣也,上黨、南陽積之久矣,名為縣,其實郡也。今王倍數限,行千里而攻之,難矣。臣聞張儀西並巴蜀之地,北取西河之外,南取上庸,天下不以為多張儀而賢先王。魏文侯令樂羊將,攻中山,三年而拔之,樂羊反而語功,文侯示之謗書一篋,樂羊再拜稽首曰:『此非臣之功,主君之力也。』今臣羈旅之臣也,樗裡疾、公孫衍二人者,挾韓而議,王必聽之,是王欺魏,而臣受公仲侈之願也。
甘茂が息壤に到着すると、秦王は「なぜ韓の討伐を中止と言うのか」と質問した。甘茂は、「宜陽は大きな城で、攻略は困難です。むかし張儀は(秦の恵文王を助け)領土を拡大しましたが、張儀は天下から評価されませんでした。魏の文侯が部下の楽羊に明示、中山を攻略したとき、楽羊が功績を吹聴すると、魏の文侯がとがめました(臣下が大功を立てても、報われない場合があります)。
この甘茂は他国出身です。(韓の攻略の)戦役中に、(秦の国内で)樗裡疾や公孫衍がもしも韓を擁護したら、私の遠征は無意味になり、魏国との約束を破ることになります。(私は攻撃をしかけた相手)(韓の相の)公仲侈からの怨みも残ります。
甘茂が、秦の武王の同意で始めたはずの、「魏と結んで韓を伐つ」は、秦の国内で樗裡疾・公孫衍に反対されたら、秦の武王から梯子を外される。甘茂が外交した相手の魏国、甘茂が攻撃をしかけた相手の韓国も、甘茂にとって敵となる。
中途半端な決意で、私に韓の討伐を命じてくれるなと。
昔者曾子處費,費人有與曾子同名族者而殺人,人告曾子母曰:「曾參殺人。』曾子之母曰:『吾者不殺人。』置自若。有頃焉,人又曰:『曾參殺人。』其母尚置自若也。頃之,一人又告之曰:『曾參殺人。』其母懼,投杼逾牆牆而走。夫以曾參之賢,與母之信也,而三人疑之,則慈母不能信也。今臣賢不及曾子,而王之信臣又未若曾子之母也,疑臣者不適三人,臣恐王為臣之投杼也。」王曰:「寡人不聽也,請與子盟。」
於是與之盟於息壤。果攻宜陽,五月而不能拔也。樗裡疾、公孫衍二人在,爭之王,王將聽之,召甘茂而告之。甘茂對曰:「息壤在彼。」王曰:「有之。」因悉起兵,復使甘茂攻之,遂拔宜陽。
むかし(孔子の高弟)曾子(曾参)が人を殺したという情報がきた。曾子の母は、三たび噂を聞くと、息子を疑ってしまった。秦の武王が(樗裡疾・公孫衍にそそのかされ)、私を疑うことが心配です」と。
秦の武王は、「甘茂を信頼する」と、息壤で約束した。宜陽の攻略に五ヵ月かかると、樗裡疾・公孫衍が秦王に、攻撃中止を進言した。甘茂は秦の武王に、「息壤(での約束)をお忘れか」と言った。武王は思い返し、とうとう宜陽の攻略に成功した。
宜陽之役,馮章謂秦王曰:「不拔宜陽,韓、楚乘吾弊,國必危矣!不如許楚漢中以歡之。楚歡而不進,韓必赴,無奈秦何矣!」王曰:「善。」果使馮章許楚漢中,而拔宜陽。楚王以其言責漢中於馮章,馮章謂秦王曰:「王遂亡臣,固謂楚王曰:『寡人固無地而許楚王。』」
甘茂は(韓の)宜陽の攻略に苦戦した。馮章が秦の武王に、「宜陽が抜けず、楚が韓に味方したら、秦軍は危うい。秦から楚に、漢中返還を申し出て、手出し無用の約束を取りつけましょう」と言った。馮章は、楚の懐王に申し入れた。
(楚が介入しなかったおかげで)宜陽が陥落すると、馮章は秦王に、「楚王との約束を破ってよい。私が勝手にやったことにすればよい」と言った。
甘茂攻宜陽,三鼓之而卒不上。秦之右將有尉對曰:「公不論兵,必大困。」甘茂曰:「我羈旅而得相錢者,我以宜陽餌王。今攻宜陽而不拔,公孫衍、樗裡疾挫我於內,而公中以韓窮我遇外,是無伐之日已!請明日鼓之而不可下,因以宜陽之郭為墓。」於是出私金以益公賞。明日鼓之,宜陽拔。
秦の甘茂が、韓の宜陽を攻撃した。軍鼓を鳴らしても、兵士が城壁を登らなかった。秦の右軍の部下に、尉官の某というものがおり、甘茂に、「宜陽は堅い城だが、見境なく攻撃を命じても、兵士は従いません」と言った。
甘茂は、「もし宜陽を抜けなければ、(秦の国内で)公孫衍・樗裡疾が私を陥れ、(交戦中の)韓の宰相の公仲(公中)は国外から私を追い詰めるだろう」と言い、私有財産をはたいて褒賞にした。翌日、軍鼓を打つと、宜陽が抜けた。
宜陽未得,秦死傷者眾,甘茂欲息兵。左陳謂甘茂曰:「公內攻於樗裡疾、公孫衍,而外與韓侈為怨,今公用兵無功,公必窮矣。公不如進兵攻宜陽,宜陽拔,則公之功多矣。是樗裡疾、公孫衍無事也,秦眾盡怨之深矣。」
(韓の)宜陽が陥落しないので、秦将の甘茂は攻撃中止をしようとした。(説客の)左成は、「あなた甘茂は、(秦の国内では)樗裡疾・公孫衍がライバルで、(攻撃中の韓の相)韓侈に怨まれている。勝つしかない」と言った。
宜陽之役,楚畔秦而合於韓。秦王懼。甘茂曰:「楚雖合韓,不為韓氏先戰;韓亦恐戰而楚有變其後。韓、楚必相御也。楚言與韓,而不餘怨於秦,臣是以知其御也。」
秦が宜陽を攻めたとき、楚は(秦に味方し、韓を孤立させておきながら)秦に背いて韓に連合しようとした。秦の武王は危惧した。秦将の甘茂は、「楚が韓を救援するため、率先して戦うことはない。韓も、参戦した楚にやはり攻撃されるのではないかと疑う。楚と韓は牽制しあう(打倒秦の楚韓連合軍が発生することはない)」と言った。
宜陽の役で、(秦の策士)楊達が、(甘茂と敵対する秦の公族)公孫顕に説いた。「西周を攻めて下さい。西周を占領できれば、(宜陽を攻めている自国の将)甘茂の勢力を抑えることができます。西周を占領できずとも、(秦に周王の天子の位を簒奪させまいと)諸侯が宜陽を守って(韓を救い)、甘茂の宜陽攻略は失敗するでしょう」と。
原文のテキストありませんでした。
秦国内の甘茂と公孫顕の争いを優先して、秦軍そのものを宜陽で敗退させようという計略。本末転倒なので、やめてほしいです。
秦王謂甘茂曰:「楚客來使者多健,與寡人爭辭,寡人數窮焉,為之奈何?」甘茂對曰:「王勿患也!其健者來使者,則王勿聽其事;其需弱者來使,則王比聽之。然則需弱者用,而見其者不用矣!王因而制之。」
はぶく。
甘茂相秦。秦王愛公孫衍,與之間有所立,因自謂之曰:「寡人且相子。」甘茂之吏,道而聞之,以告甘茂。甘茂因入見王曰:「王得賢相,敢再拜賀。」王曰:「寡人托國於子,焉更得賢相?」對曰:「王且相犀首。」王曰:「子焉聞之?」對曰:「犀首告臣。」王怒於犀首之洩也,乃逐之。
はぶく。
甘茂約秦、魏而攻楚。楚之相秦者屈盍,為楚和於秦,秦啟關而聽楚使。甘茂謂秦王曰:「怵於楚而不使魏制和,楚必曰:『秦鬻魏』。不悅而合於楚,楚、魏為一,國恐傷矣。王不如使魏制和,魏制和必悅。王不惡於魏,則寄地必多矣。」
はぶく。
謂秦王曰:「臣竊惑王之輕齊易楚,而卑畜韓也。臣聞,王兵勝而不驕,伯主約而不忿。勝而不驕,故能服世;約而不忿,故能從鄰。今王廣德魏、趙,而輕失齊,驕也;戰勝宜陽,不恤楚交,忿也。驕忿非伯主之業也,臣竊為大王慮之而不取也。」
《詩》云:「靡不有初,鮮克有終。」故先王之所重者,唯始與終。何以知其然?昔智伯瑤殘范、中行,圍逼晉陽,卒為三家笑。吳王夫差棲越於會稽,勝齊於艾陵,為黃池之遇,無禮於宋,遂與勾踐禽,死於干遂。梁君伐楚勝齊,制趙、韓之兵,驅十二諸侯以朝天子於孟津,後子死,身布冠而拘於秦。三者非無功也,能始而不能終也。
ある男が秦王(武王)に言った。「王者は驕らなず、覇主は窮地に立っても怒らないと言います。秦王は、斉を軽んじ、楚を侮り、韓を卑しみながら、手懐けているのは良くありません。魏と趙に恩恵を与えながら、斉と絶交することを何とも思っていないのは、驕り高ぶっているから。韓の宜陽で勝ったが、楚との外交を心掛けないのは、腹を立てているから。いずれも賛成しかねます」と。
今王破宜陽,殘三川,而使天下之士不敢言,雍天下之國,徙兩周之疆,而世主不敢交陽侯之塞,取黃棘,而韓、楚之兵不敢進。王若能為此尾,則三王不足四,五伯不足六。王若不能為此尾,而有後患,則臣恐諸侯之君,河、濟之士,以王為吳、智之事也。
秦王が宜陽(韓の城)を破り、三川を破壊しておきながら、天下の士人の口を塞いでいます。東西の周を移し替えたが、他国の君主たちは、陽侯(未詳)のとりでを窺おうとしません(意味不明)。秦が黄棘(楚の城)を取ったが、韓・楚は(奪還の)軍を進めていません。秦王の事業は、ここまでは順調。ここでみごとに終止符を打たなければ、呉王夫差・智伯瑤のように失敗するでしょう。
《詩》云:「行百里者半於九十。」此言末路之難。今大王皆有驕色,以臣之心觀之,天下之事,依世主之心,非楚受兵,必秦也。何以知其然也?秦人援魏以拒楚,楚人援韓以拒秦,四國之兵敵,而未能復戰也。齊、宋在繩墨之外以為權,故曰先得齊、宋者伐秦。秦先得齊、宋,則韓氏鑠,韓氏鑠,則楚孤而受兵也。楚先得齊,則魏氏鑠,魏氏鑠,則秦孤而受兵矣。若隨此計而行之,則兩國者必為天下笑矣。
秦王は、驕っています。秦・楚が二大国です。楚が攻撃を受けるのでなければ、秦が攻撃を受けるでしょう。なぜなら、秦は魏を助けて楚の攻撃を防ぎ、楚は韓を援助して秦の攻撃を防いでいます。秦と魏、楚と韓は兵力が均衡し、疲弊しているので再戦に至っていません。
ところが、斉・宋は局外にあって、どちらに味方するか選べます。「さきに斉・宋を味方につけたほうが、秦を攻撃することにある」と申し上げておきます。秦がさきに斉・宋を味方につければ、韓は消滅し、韓が消滅すれば楚は孤立し、秦から攻撃を受けるでしょう。楚がさきに斉・宋を味方につければ、魏は消滅し、魏が消滅すれば秦は孤立し、楚の攻撃を受けるでしょう。
秦・楚の二大国は、斉・宋の手玉にとられ、天下の物笑いとなります。
秦王與中期爭論,不勝。秦王大怒,中期徐行而去。或為中期說秦王曰:「悍人也,中期!適遇明君故也。向者遇桀、紂,必殺之矣。」秦王因不罪。
はぶく。220301