いつか書きたい三国志

『戦国策』斉策 王建を読む

新釈漢文大系(明治書院)を参考にしています。学問的な手続ではなく、『戦国策』の概略を知るための「ななめ読み」です。

『戦国策』斉策 王建

王建 王建は、斉の襄王の子。田斉(国名)は、王建に至って滅んだ。ただ王建と称して、諡号がない。王建の元年は、周のたん王の五十一年(前264年)から。秦兵が斉を攻撃すると、王建は「相后勝の計」を聞いて、戦わずに秦王政に降服した。

167秦攻趙長平

秦攻趙長平,齊、楚救之。秦計曰:「齊、楚救趙,親,則將退兵;不親,則且遂攻之。」趙無以食,請粟於齊,而齊不聽。蘇秦謂齊王曰:「不如聽之以卻秦兵,不聽則秦兵不卻,是秦之計中,而齊、燕之計過矣。且趙之於燕、齊,隱蔽也,齒之有脣也,脣亡則齒寒。今日亡趙,則明日及齊、楚矣。且夫救趙之務,宜若奉漏壅,沃焦釜。夫救趙,高義也;卻秦兵,顯名也。義救亡趙,威卻強秦兵,不務為此,而務愛粟,則為國計者過矣。」

秦が、趙の長平を攻撃した。斉・燕は、趙を救援した。秦は、それを妨げる計画を立てた。「もしも斉と燕が、趙と本当に親密ならば、秦軍は撤退しよう」と。趙では食糧がなくなったが、斉は援助を断った。
蘇子が、斉王建に言った。「趙の要望を聞いて、秦軍を撤退させるのがよい。もし趙を援助しなければ、秦軍は趙の攻略をねばります。しかも趙は、斉・燕にとって自国の防波堤として利用できます。秦が趙を破れば、斉・燕が危うくなります」と。

168或謂齊王

或謂齊王曰:「周、韓西有強秦,東有趙、魏。秦伐周、韓之西,趙、魏不伐,周、韓為割,韓卻周害也。及韓卻周割之,趙、魏亦不免與秦為患矣。①今齊、秦伐趙、魏,則亦不果②於趙、魏之應秦而伐周、韓。令齊入於秦而伐趙、魏,趙、魏亡之後,秦東面而伐齊,齊安得救天下乎!」

ある男が斉王建にいう。「周・韓は弱国で、東北に趙・魏がおり、西方に秦がいます。いま秦が周・韓を攻撃すれば、趙・魏が手を下さなくても負けます。周・韓が負ければ、趙・魏が秦から脅かされます。
①斉が秦に協力し、趙・魏を攻撃することは、②趙・魏が秦に呼応して、周・韓を攻撃することと構造が同じです。斉が秦に味方し、趙・魏を滅ぼせば、つぎは秦が斉を攻撃するでしょう」と。

秦)周・韓)趙・魏)斉
という順序になっている。挟み撃ちをしているつもりが、けっきょくは強大化した秦に自分も攻撃されるのだから、秦に協力してはいけない。


169國子曰秦破馬服君之師

國子曰:「秦破馬服君之師,圍邯鄲。齊、魏亦佐秦伐邯鄲,齊取淄鼠,魏取伊是。公子無忌為天下循便計,殺晉鄙,率魏兵以救邯鄲之圍,使秦弗有而失天下。是齊入於魏而救邯鄲之功也。

(斉の大夫)国子が、斉王建に説いた。秦(の白起将軍)は、馬服君(趙括)の軍を破り、邯鄲(趙の首都)を包囲しました。斉・魏も、秦に嘉靖して邯鄲を攻撃しました。斉は淄鼠(趙の邑)を奪い、魏は伊氏(趙の邑)を奪いました。
魏の公子無忌(信陵君、昭王の子)は、天下の諸侯のために、(魏将)晋鄙を殺し、魏郡を率いて邯鄲の囲みを解きました。秦が邯鄲を占有することを防ぐためです。それというのも、斉が魏に寝返って、邯鄲の急を救ったおかげです。

安邑者,魏之柱國也;晉陽者,趙之柱國也;鄢郢者,楚之柱國也。故三國欲與秦壤界,秦伐魏取安邑,伐趙取晉陽,伐楚取鄢郢矣。福三國之君,兼二周之地,舉韓氏取其地,且天下之半。今又劫趙、魏,疏中國,封衛之東野,兼魏之河南,絕趙之東陽,則趙、魏亦危矣。趙、魏危,則非齊之利也。

安邑は、魏の都です。晋陽は、趙の都です。鄢・郢は、楚の都です。この三国は、秦と国境を接しています。そのせいで、秦が魏から安邑を取り、秦が趙から晋陽を取り、秦が楚から鄢・郢を奪ったのです。
さらに秦は、東西の両周の地をうばいとり、秦の領土が天下のなかばです。
くわえて、趙・魏をおどしつけて、中原の諸侯の関係を疎遠にし、衛の(首都の濮陽の東郊)東野を奪い取り、魏の黄河以南を併合し、趙の(聊城の北方の)東陽を断ち切ることになりますと、趙・魏も危うくなります。趙・魏が危うければ、斉にとって不利益です。

秦が領土拡大をしているさまを確認している。秦の一強を許すことは、斉にとって危険であると。


韓、魏、趙、楚之志,恐秦兼天下而臣其君,故專兵一志以逆秦。三國之與秦壤界而患急,齊不與秦壤界而患緩。是以天下之勢,不得不事齊也。故秦得齊,則權重於中國;趙、魏、楚得齊,則足以敵秦。故秦、趙、魏得齊者重,失齊者輕。齊有此勢,不能以重於天下者何也?其用者過也。」

韓・魏・趙・楚の関心事は、秦が天下を併合し、諸侯を臣従させないかということです。だから意思を統一し、秦を防いでいます。趙・魏・楚の三国は、秦と境界を接して危機感を持っていますが、斉は違います。ですから、天下の形勢は、斉を味方にしようとしています。秦は、斉が味方につけば、中原で強くなります。趙・魏・楚は、斉が味方につけば、秦に対して強く出られます。それなのに諸国が斉を頼りにしないのは、斉の政治が悪いからです。

斉王建は、秦の遠交近攻の術中におちいり、秦の天下統一を妨げるための動き(魏・趙と結ぶ)をしなかった。だから滅んだ。


170齊王使使者問趙威后

齊王使使者問趙威后。書未發,威后問使者曰:「歲亦無恙耶?民亦無恙耶?王亦無恙耶?」使者不說,曰:「臣奉使使威后,今不問王,而先問歲與民,豈先賤而後尊貴者乎?」威后曰:「不然。苟無歲,何以有民?苟無民,何以有君?故有問舍本而問末者耶?」

斉王建が、使者を遣わして、趙の威后(恵文王の后、孝威太后)の安否を窺わせた。斉の使者が国書を出す前に、威后はいう。「斉の天候、人民、王建はどんな様子ですか」と。斉の使者が、「なぜ最初に王建のことを聞かないのですか」と聞き咎めた。威后は、「天候が不順なら、人民は立ち行かない。人民が立ち抜かねば、王建は立ち抜かない。どうして根本をさしおいて、末端(王建)のことを質問するものですか」と言った。

王建は亡国の君主であり、「戦国時代を終わらせてしまった」側のラスト・キングなので、歴史家からの評価、風当たりが強い。


乃進而問之曰:「齊有處士曰鍾離子,無恙耶?是其為人也,有糧者亦食,無糧者亦食;有衣者亦衣,無衣者亦衣。是助王養其民也,何以至今不業也?葉陽子無恙乎?是其為人,哀鰥寡,卹孤獨,振困窮,補不足。是助王息其民者也,何以至今不業也?北宮之女嬰兒子無恙耶?徹其環瑱,至老不嫁,以養父母。是皆率民而出於孝情者也,胡為至今不朝也?

威后はさらに言う。斉には、鍾離子という処士がいる。鍾離子は人民を救済しているのに、なぜ斉で登用しないのか。斉には、葉陽子という処士がおり、北宮(地名)のむすめの嬰児子がいるが、かれらを入朝させて苦労に報いないのか。

此二士弗業,一女不朝,何以王齊國,子萬民乎?於陵子仲尚存乎?是其為人也,上不臣於王,下不治其家,中不索交諸侯。此率民而出於無用者,何為至今不殺乎?」

斉には、於陵(斉の邑)の子仲がいるが、かれは殺すべきである。斉王建は、取り立てるべき人物を放置し、取り除くべき人物を用いている。

171齊閔王之遇殺

齊閔王之遇殺,其子法章變姓名,為莒太史家庸夫。太史敫女,奇法章之狀貌,以為非常人,憐而常竊衣食之,與私焉。莒中及齊亡臣相聚,求閔王子,欲立之。法章乃自言於莒。共立法章為襄王。襄王立,以太史氏女為王后,生子建。太史敫曰:「女無謀而嫁者,非吾種也,汙吾世矣。」終身不睹。君王后賢,不以不睹之故,失人子之禮也。襄王卒,子建立為齊王。君王后事秦謹,與諸侯信,以故建立四十有餘年不受兵。

斉の閔王が、(楚の将軍のトウ歯)に殺されると、その子の法章は、禍いが及ぶことを恐れて、莒の太史の家に雇われた。太史敫の娘は、法章がただものではないと見抜いて、情交を通じあっていた。
閔王の子を探して、斉王に立てようという動きが生まれた。法章は、莒でみずから(閔王の子であると)名乗り出たので、斉の臣は、法章を襄王に立てた。太史敫の娘が妃となり、彼女が産んだのが、斉王建である。
太史敫の娘(斉王建の母、君王后)は賢く、外交をうまく行ったので、斉王建の四十年間は、外国から進攻を受けなかった。

秦始皇嘗使使者遺君王后玉連環,曰:「齊多知,而解此環不?」君王后以示群臣,群臣不知解。君王后引椎椎破之,謝秦使曰:「謹以解矣。」及君王后病且卒,誡建曰:「群臣之可用者某」。建曰:「請書之。」君王后曰:「善。」取筆牘受言。君王后曰:「老婦已亡矣!」君王后死,後后勝相齊,多受秦間金玉,使賓客入秦,皆為變辭,勸王朝秦,不脩攻戰之備。

秦の昭王がかつて使者を送り、君王后に知恵の輪を贈った。「斉には知恵者が多いと聞くが、これを外せるかね」と。君王后は、つちで輪を叩き壊して、秦の昭王をやり込めた。
君王后は死に際に、遺言を書き留めようとしたが、「忘れた」と言って何も書かなかった。
君王后が死ぬと、后勝が斉の宰相となった。后勝は、秦の間諜から金玉をもらい受け、賓客を秦に送り込んだ。賓客は秦に丸め込まれ、斉王建に秦に入朝せよと勧めた。斉国は、戦いの準備を怠った。

斉王建の前半の治世は、母の君王后のおかげで持ち堪えた。君王后が死ぬと、斉王建のせいで滅亡が準備されたというだけの話。『列女伝』みたい。


172齊王建入朝於秦

齊王建入朝於秦,雍門司馬前曰:「所為立王者,為社稷耶?為王立王耶?」王曰:「為社稷。」司馬曰:「為社稷主王,王何以去社稷而入秦?」齊王還車而反。即墨大夫與雍門司馬諫而聽之,則以為可可為謀,即入見齊王曰:「齊地方數千里,帶甲數百萬。夫三晉大夫,皆不便秦,而在阿、鄄之間者百數,王收而與之百萬之眾,使收三晉之故地,即臨晉之關可以入矣;

斉王建が、秦に入朝しようとした。雍門(都の臨菑の西門)の司馬(城門の守備隊長)が、斉王建を諫めた。「王が立つのは、国のためか王のためか」と。斉王建の答え。「国のためだ」と。司馬「ならばなぜ、王は国を捨てるのですか」と。斉王は説得されて、引き返した。
即墨(斉の邑)の大夫(邑長)は、自分の意見も聞いてもらえると思い、斉王に謁見した。「すでに滅びた三晋(韓・魏・趙)の旧臣で、斉の東阿・鄄邑に散在しています。かれらを糾合すれば、(秦の)臨晋の関をすぐに奪えるでしょう。

鄢、郢大夫,不欲為秦,而在城南下者百數,王收而與之百萬之師,使收楚故地,即武關可以入矣。如此,則齊威可立,秦國可亡。夫舍南面之稱制,乃西面而事秦,為大王不取也。」齊王不聽。

(亡き楚の)鄢・郢の大夫は、城南(臨菑の南)にたくさんいます。かれらに楚を奪還させれば、すぐに(秦の)武関の関を奪えるでしょう。
斉が秦を逆転する可能性は残っています」と。
斉王は聞き入れなかった。

秦使陳馳誘齊王內之,約與五百里之地。齊王不聽即墨大夫而聽陳馳,遂入秦。處之共松柏之間,餓而死。先是齊為之歌曰:「松邪!柏邪!住建共者,客耶!」

秦は(斉から秦に入った賓客の)陳馳をやって、斉王を秦へと誘った。秦に入ったら、五百里の地を差し上げましょうと約束した。斉王建は、雍門の司馬、即墨の大夫の言うことを聞かずに、とうとう秦に入った。
秦は、斉王建を(もと魏の邑であった)松柏のあたりに住まわせた。斉王建は、食糧を絶たれて死んだ。斉のひとは、「松であるか、柏であろうか、王建をともに住まわせたのは、賓客(陳馳)であろうか」と歌って哀しんだ。220305

『戦国策』は、斉王建(戦国の田斉の最後の王で、統一秦に対抗した最後の王でもある)に対して、ものすごく厳しい。歴史家は亡国の君主につねに冷たい。賢母の生前、田斉は外交が巧みで、他国の進攻を許さなかった。賢母が死んだ途端、愚かな宰相を用い、秦の六国分断の策にまんまと引っ掛かり、国の賢者も人民も捨てて保身のため降服→餓死。
『キングダム』の斉王建は、李牧が計画した六国連合軍から唯一離脱し、秦を助けた(ように見える)。利己的ではあるが、作中の救世主。咸陽に単身で乗り込み、早い段階で秦王政の夢?に理解を示す。趙・魏を背後から権勢し、天下統一を援護する大人物(に見える)。 史家の書き方で正反対になる好例。
『キングダム』の斉王建は、秦王政の「協力者」ポジション。マンガのなかで斉王建は、蛇を食べて侮れない人物で、金銭に強欲という描かれ方がするが、野心は小さい。かれの金銭欲は、「危険思想」に見えるが、天下を動かすことはない『戦国策』で斉王建は、「国よりも自分(の利益)を優先し、秦に投降した腰抜け。文字どおりの売国奴」と蔑まれる。王のくせに、国益よりも個人の欲望を優先したヤツ、という批判を受ける。『キングダム』は斉王建を決して小人物には描かないが、強欲さを強調するという点で、『戦国策』と『キングダム』は平仄は合ってる。