いつか書きたい三国志

『史記』趙世家の末尾を読む

『史記』趙世家の末尾を読む

『史記』趙世家 悼襄王

悼襄王元年,大備魏。欲通平邑、中牟之道,不成。
二年,李牧將,攻燕,拔武遂、方城。秦召春平君,因而留之。泄鈞為之謂文信侯曰:「春平君者,趙王甚愛之而郎中妬之,故相與謀曰『春平君入秦,秦必留之』,故相與謀而內之秦也。今君留之,是絕趙而郎中之計中也。君不如遣春平君而留平都。春平君者言行信於王,王必厚割趙而贖平都。」文信侯曰:「善。」因遣之。城韓皋。

悼襄王元年、おおいに魏に防備をそなえた。趙は、河北の平邑から、河南の中牟まで道を通じようとしたが、成功しなかった。
悼襄王二年、李牧が將となって、燕を攻め、(河北の)武遂・方城を抜いた。秦が趙の春平君を召し、そのまま留め置いた。

春平侯は未詳。一説には太子か。親臣か。本当に分からないのですね。つぎの泄鈞の言葉は、『戦国策』趙策に見える。

泄鈞はそのことで、秦の文信侯(呂不韋)に言った。「春平君は、趙王からとても寵愛されており、郎中から妬まれました。ゆえに郎中が謀略をたて、『春平君が秦に入れば、秦は必ず彼を抑留するはずだ』と言いました。ゆえにわざと秦に入国させたのです。あなた呂不韋が彼を抑留すれば、秦と趙の国交が断絶し、しかも趙の郎中の計略にはまったことにあります。あなたは春平君を解放して、平都侯を留置された方がいいと思います。春平君は言行を趙王に信用されているので、趙王は手厚く趙の地を切り取って、平都侯を買い戻すでしょう」と言った。文信侯呂布は「善し」と言った。春平侯を解放した。
趙は(西南境の)韓皋に城を築いた。

三年,龐煖將,攻燕,禽其將劇辛。四年,龐煖將趙、楚、魏、燕之銳師,攻秦蕞,不拔;移攻齊,取饒安。五年,傅抵將,居平邑;慶舍將東陽河外師,守河梁。六年,封長安君以饒。魏與趙鄴。
九年,趙攻燕,取貍陽城。兵未罷,秦攻鄴,拔之。悼襄王卒,子幽繆王遷立。

悼襄王三年、龐煖を将軍として、燕を攻め、将軍の劇辛を捕らえた。悼襄王の四年、龐煖が趙・楚・魏・燕の精鋭を率いて、秦の(陜西の)蕞を攻めたが、抜けなかった。

『キングダム』で、小城に秦王政が籠もって戦うやつです。アニメ第三期の後半はこれでした。『史記』のこの文も、作品のなかで紹介されていました。

兵を移して斉を攻め、(河北の)饒安を取った。
悼襄王五年、傅抵が将軍となり、平邑に駐屯した。慶舎が将軍として(黄河北岸の)東陽に陣をおき、(黄河南岸の)軍が河梁(橋梁)を守っていた。悼襄王六年、(恵文王の末子の)長安君を(河北の)饒安に封建した。魏が趙に(河南の)鄴を与えた。

『キングダム』で、天下統一までの年数を圧縮するために、兵糧攻めにされる大きな城です。

悼襄王九年、趙が燕を攻め、貍と陽城とを取った。戦いがまだ終わらぬうちに、秦が鄴を攻めてこれを占領した。悼襄王が没した。子の幽繆王遷が王位に立った。

『史記』趙世家 幽繆王

幽繆王遷元年,城柏人。二年,秦攻武城,扈輒率師救之,軍敗,死焉。
三年,秦攻赤麗、宜安,李牧率師與戰肥下,卻之。封牧為武安君。四年,秦攻番吾,李牧與之戰,卻之。

幽繆王遷元年、(河北の)柏人に城を築いた。幽繆王二年、秦が(山西の)武城を攻めた。趙将の扈輒が軍を率いてこれを救援したが、軍が敗れて戦死した。
幽繆王三年、秦が(河北の)赤麗と(その近くの)宜安を攻めた。李牧が軍を率いて秦軍と肥下で戦い、これを退けた。李牧を武安君に封建した。幽繆王四年、秦が番吾を攻めた。李牧は戦って、これを退けた。

五年,代地大動,自樂徐以西,北至平陰,臺屋牆垣太半壞,地坼東西百三十步。六年,大饑,民譌言曰:「趙為號,秦為笑。以為不信,視地之生毛。」
七年,秦人攻趙,趙大將李牧、將軍司馬尚將,擊之。李牧誅,司馬尚免,趙怱及齊將顏聚代之。趙怱軍破,顏聚亡去。以王遷降。八年十月,邯鄲為秦。

幽繆王五年、代で大きな地震があった。(河北の)楽徐より以西、北は(山西の)平陰に至るまで、楼屋・家屋。牆垣の大半が倒壊し、地面が東西に割けること東西で百三十歩であった。幽繆王六年、大いに飢饉がああり、民は訛言を流した、「趙は号泣し、秦が笑う。信じられないなら、地面の草を見よ」と。
幽繆王七年、秦軍が趙を攻め、趙の大将の李牧と将軍の司馬尚が、これを迎撃した。李牧が誅せられ、司馬尚が免ぜられた。趙怱及び斉の将軍の顔聚がこれに代わった。

『戦国策』趙策に見えたことです。

趙怱の軍は敗れ、顔聚は逃げ去った。趙は国王遷を奉じて降服した。幽繆王八年(前二二八)、邯鄲は秦のものとなった。

太史公曰。吾聞馮王孫曰:「趙王遷,其母倡也,嬖於悼襄王。悼襄王廢適子嘉而立遷。遷素無行,信讒,故誅其良將李牧,用郭開。」豈不繆哉!秦既虜遷,趙之亡大夫共立嘉為王,王代六歲,秦進兵破嘉,遂滅趙以為郡。

太史公曰はいう。馮王孫(馮遂)から聞いた。「趙王遷は、その母が遊女である。悼襄王から寵愛された。悼襄王は適子の嘉を廃位して遷を立てた。遷はもともと善行がなかったし、讒言を信じた。ゆえに良将の李牧を誅殺し、郭開を用いた」と。なんと道に外れたことか。秦が趙王遷を捕虜にすると、趙の亡命した大夫たちは、ともに嘉を立てて王とした。嘉は代の地で王たること六年。秦は兵を進めて嘉を破り、ついに趙を滅ぼして秦の郡とした。220307

馮王孫は、『漢書』馮唐伝をみよ。郭開が李牧を讒言したことは、『史記』廉頗・藺相如伝をみよ。