いつか書きたい三国志

『史記』秦本紀・始皇本紀を読む

『史記』巻五 秦本紀

昭襄王の末期

五十年十月,武安君白起有罪,為士伍,遷陰密。張唐攻鄭,拔之。十二月,益發卒軍汾城旁。武安君白起有罪,死。齕攻邯鄲,不拔,去,還奔汾軍。二月餘攻晉軍,斬首六千,晉楚流死河二萬人。攻汾城,即從唐拔寧新中,寧新中更名安陽。初作河橋。

五十年十月、武安君の白起が罪を犯したとして、士伍に降格され、陰密に徙された。張唐が鄭を攻め(趙の酇の誤りか)を攻めて、これを抜いた。十二月、ますます兵を発して汾城付近に駐軍した。武安君白起が死罪とされた。王齕が邯鄲を攻めたが、抜けなかったので、引き返して、汾城の駐屯軍に合流した。二ヶ月あまりで晋(魏)軍を攻め、首を斬ること六千、晋(魏)と楚の軍は敗走し、黄河に二万の死体が流れた。汾城を攻めた。そして王齕は張唐に従って(魏の邑)寧新中を攻めて抜いた。寧新中を安陽と改名した。初めて河橋(黄河の橋)をつくった。

五十一年,將軍摎攻韓,取陽城、負黍,斬首四萬。攻趙,取二十餘縣,首虜九萬。西周君背秦,與諸侯約從,將天下銳兵出伊闕攻秦,令秦毋得通陽城。於是秦使將軍摎攻西周。西周君走來自歸,頓首受罪,盡獻其邑三十六城,口三萬。秦王受獻,歸其君於周。五十二年,周民東亡,其器九鼎入秦。周初亡。

五十一年、将軍の摎が韓を攻めて、陽城の負黍亭を取り、四万の首を斬った。趙を攻めて、二十県(城)あまりを取り、首を斬ったり捕虜となったものは九万であった。西周君(武公)が秦に背き、諸侯と合従を約し、天下の鋭兵をひきいて伊闕を出て秦を攻め、秦が再び(韓の)陽城に通じることができないようにした。そこで秦は将軍の摎に命じて、西周を攻めさせた。西周君(武公)は走ってきて秦に帰服し、頓首して背いた罪を受け、その統治下の邑の三十六城と、三万の民をすべて献上した。秦王は献上を受け入れ、西周君(武公)を周の故地に帰した。
五十二年、周の民は(秦に従うことを恥じて)東に逃れ、(西周が伝えてきた)宝器と九鼎は秦の所有となり、ここに周は滅亡した。

五十三年,天下來賓。魏後,秦使摎伐魏,取吳城。韓王入朝,魏委國聽令。五十四年,王郊見上帝於雍。五十六年秋,昭襄王卒,子孝文王立。尊唐八子為唐太后,而合其葬於先王。韓王衰絰入弔祠,諸侯皆使其將相來弔祠,視喪事。

五十三年、天下の諸侯がきて秦に服従した。魏だけが遅れ、秦は将軍の摎に命じて魏を討伐させ、呉城を取った。韓王が入朝した。魏は国をあげて秦にゆだね、その命令に服した。
五十四年、秦王は上帝(天帝)を雍で祭った(天下の王であることを報告した)。五十六年秋、昭襄王が死んで、その子の孝文王が即位した。孝文王の母を追尊して唐太后とし、昭襄王と合葬した。韓王は衰絰(の喪服)を着て秦に入り、弔辞を述べた。諸侯もみな将相をつかわして弔辞をのべて、喪事に参加させた。

孝文王

孝文王元年,赦罪人,修先王功臣,襃厚親戚,弛苑囿。孝文王除喪,十月己亥即位,三日辛丑卒,子莊襄王立。

孝文王元年、罪人を赦免し、先王(昭襄王)の功臣に恩賞を与え、親戚を厚く褒賞し、苑囿の禁を緩め(民を愛撫し)た。孝文王は服喪を終えて、十月己亥に即位した。三日後の辛丑に卒した。子の荘襄王が即位した。

荘襄王

莊襄王元年,大赦罪人,修先王功臣,施德厚骨肉而布惠於民。東周君與諸侯謀秦,秦使相國呂不韋誅之,盡入其國。秦不絕其祀,以陽人地賜周君,奉其祭祀。使蒙驁伐韓,韓獻成皋、鞏。秦界至大梁,初置三川郡。二年,使蒙驁攻趙,定太原。三年,蒙驁攻魏高都、汲,拔之。攻趙榆次、新城、狼孟,取三十七城。四月日食。(四年)王齕攻上黨。初置太原郡。魏將無忌率五國兵擊秦,秦卻於河外。蒙驁敗,解而去。五月丙午,莊襄王卒,子政立,是為秦始皇帝。

荘襄王元年、罪人に大赦をし、先君(孝文王)の功臣に温床を与えた。徳を厚くし、骨肉の親族と民に恩恵をほどこした。東周君が諸侯とともに秦に対する謀略をかけた。秦は相国の呂不韋に命じて誅伐を加えさせ、すべて(東周の)国土を没収した。秦は周の祭祀を絶やさないようにし、陽人の地を周君に賜り、祭祀を継続させた。蒙驁に命じて韓を討伐させた。韓は(河南の)成皋と鞏を献じて、和睦を求めた。秦の国境は大梁まで達した。はじめて三川郡を置いた
荘襄王二年、蒙驁が趙を攻め、太原を平定した。
荘襄王三年、蒙驁が魏の高都・汲を攻め、これを抜いた。趙の榆次・新城・狼孟を攻め、三十七城を奪った。四月に日食があった。
荘襄王四年、王齕が上党を攻めた。はじめて太原郡を置いた。魏の将の無忌が五国(燕・趙・韓・魏・楚)の連合軍をひきいて秦を攻撃し、秦は迎撃したが敗れ、秦は(河内から)河外に退却した。蒙驁は敗れ、その郡を解いて去った。五月丙午、荘襄王が亡くなり、その子の政が即位した。これが始皇帝である。

秦王政立二十六年,初并天下為三十六郡,號為始皇帝。始皇帝五十一年而崩,子胡亥立,是為二世皇帝。三年,諸侯並起叛秦,趙高殺二世,立子嬰。子嬰立月餘,諸侯誅之,遂滅秦。其語在始皇本紀中。
太史公曰:秦之先為嬴姓。其後分封,以國為姓,有徐氏、郯氏、莒氏、終黎氏、運奄氏、菟裘氏、將梁氏、黃氏、江氏、脩魚氏、白冥氏、蜚廉氏、秦氏。然秦以其先造父封趙城,為趙氏。

はぶく。220307

為政

秦王政の登場

秦始皇帝者,秦莊襄王子也。莊襄王為秦質子於趙,見呂不韋姬,悅而取之,生始皇。以秦昭王四十八年正月生於邯鄲。及生,名為政,姓趙氏。年十三歲,莊襄王死,政代立為秦王。
當是之時,秦地已并巴、蜀、漢中,越宛有郢,置南郡矣;北收上郡以東,有河東、太原、上黨郡;東至滎陽,滅二周,置三川郡。呂不韋為相,封十萬戶,號曰文信侯。招致賓客游士,欲以并天下。李斯為舍人。蒙驁、王齮、麃公等為將軍。王年少,初即位,委國事大臣。

秦の始皇帝は、秦の荘襄王の子。荘襄王が秦のために趙の人質となり(邯鄲にいた)。呂不韋の家で姫(婦人の美称)を見かけ、悦んで娶り、始皇を生んだ。秦の昭王の四十八年正月に、邯鄲で生まれた。生まれると、政と名づけ、姓は趙氏である。十三歳のとき、荘襄王が死んで、政が代わって秦王に立った。
このとき秦の領地は、すでに巴・蜀・漢中をあわせ、(南は)宛を越えて(楚の都)郢を領有して、南郡を設置していた。北は上郡より以東を収め、河東・太原・上党郡を併せていた。東は滎陽まで至り、(東西の)二周を滅ぼし、三川郡を置いていた。呂不韋が宰相となり、十万戸で、文信侯に封建されていた。賓客と遊説の士を招致し、天下を併呑しようとした。李斯は舎人の官であった。蒙驁・王齮・麃公らが将軍であった。王は年少であり、即位したばかりのとき、国政は大臣に委ねた。

元年~蒙驁・王騎・麃公の戦い

晉陽反,元年,將軍蒙驁擊定之。
二年,麃公將卒攻卷,斬首三萬。三年,蒙驁攻韓,取十三城。王齮死。十月,將軍蒙驁攻魏氏畼、有詭。歲大饑。四年,拔畼、有詭。三月,軍罷。秦質子歸自趙,趙太子出歸國。十月庚寅,蝗蟲從東方來,蔽天。天下疫。百姓內粟千石,拜爵一級。

晋陽で反乱が起きた。元年、将軍の蒙驁が(晋陽を)撃って平定した。
二年、麃公が卒を率いて巻(「権」に作るべきか)を攻め、斬首すること三万。三年、蒙驁が韓を攻め、十三城を取った。王齮が死んだ。

『キングダム』アニメ第一部が終わってしまった。

十月、将軍の蒙驁が魏氏の畼・有詭を攻めた。この年に大いに飢饉であった。四年、畼・有詭を抜いた。三月に、兵を退け収めた。秦の人質が趙から帰り、趙の太子が秦から帰国した。十月庚寅、蝗蟲が東から飛来して、天を覆った。天下で疫病がはやった。百姓で粟(穀物)千石を献納したものは、爵一級を賜った(最下位の公士を賜った)。

五年~魏を攻撃し東郡を設置

五年,將軍驁攻魏,定酸棗、燕、虛、長平、雍丘、山陽城,皆拔之,取二十城。初置東郡。冬雷。六年,韓、魏、趙、衞、楚共擊秦,取壽陵。秦出兵,五國兵罷。拔衞,迫東郡,其君角率其支屬徙居野王,阻其山以保魏之河內。
七年,彗星先出東方,見北方,五月見西方。將軍驁死。以攻龍、孤、慶都,還兵攻汲。彗星復見西方十六日。夏太后死。

五年、将軍の蒙驁が魏を攻め、酸棗・燕・虚・長平・雍丘・山陽城などをすべて抜き、二十城を取った。はじめて東郡を置いた。冬に雷が鳴った。
六年、韓・魏・趙・衛・楚がともに秦を攻撃し、(もと趙の地の)寿陵を取った。秦が兵を出すと、五国は兵を退いた。(秦兵は勢いに乗って)衛を抜き、東郡に迫った。衛君(衛王の元)は、一族を率いて野王に移住し、山を隔てて魏の河内の地を頼みにし(僅かにその居に安んじ)た。
七年、彗星が東方に現れ、ついで北にも現れた。五月に西方に現れた。将軍の蒙驁が死んだ。龍・孤・慶都を攻めて、引き返した軍で(河南の)を攻めた。彗星がまた西方に現れること十六日に及んだ。この年、夏太后(荘襄王の生母)が死んだ。

八年~王弟の成蟜、嫪毐の反乱

八年,王弟長安君成蟜將軍擊趙,反,死屯留,軍吏皆斬死,遷其民於臨洮。將軍壁死,卒屯留、蒲鶮反,戮其屍。河魚大上,輕車重馬東就食。
嫪毐封為長信侯。予之山陽地,令毐居之。宮室車馬衣服苑囿馳獵恣毐。事無小大皆決於毐。又以河西太原郡更為毐國。

八年、秦王の弟の長安君成蟜が郡を率いて趙を撃ち、(まだ帰らないうちに)屯留の民を従えて謀叛した。(成蟜に従った)軍吏はみな斬って死に、屯留の民を臨洮に移した。将軍の壁が死んだ。(成蟜に従っていた)士卒の、屯留の人である蒲鶮がまた反乱を起こし、その死体に誅戮を加えた。黄河が洪水となり、たくさんの魚が地上にあがり、(民は住居を失い)軽車や肥馬に乗って東方にのがれて食物を求めた。
嫪毐が長信侯に封ぜられた。彼に山陽の地を与え、嫪毐をそこに居らせた。宮室・車馬・衣服・苑囿・首領は、すべて嫪毐の希望どおりとした。政治は大小となくすべて嫪毐が決裁した。また河西の太原郡を更めて毐國とした。

九年,彗星見,或竟天。攻魏垣、蒲陽。四月,上宿雍。己酉,王冠,帶劍。長信侯毐作亂而覺,矯王御璽及太后璽以發縣卒及衞卒、官騎、戎翟君公、舍人,將欲攻蘄年宮為亂。王知之,令相國昌平君、昌文君發卒攻毐。戰咸陽,斬首數百,皆拜爵,及宦者皆在戰中,亦拜爵一級。毐等敗走。即令國中:有生得毐,賜錢百萬;殺之,五十萬。盡得毐等。衞尉竭、內史肆、佐弋竭、中大夫令齊等二十人皆梟首。車裂以徇,滅其宗。及其舍人,輕者為鬼薪。及奪爵遷蜀四千餘家,家房陵。(四)〔是〕月寒凍,有死者。楊端和攻衍氏。彗星見西方,又見北方,從斗以南八十日。

九年、彗星が現れて、あるいは天一面に広がった。魏の垣・蒲陽を攻めた。四月、秦王はに宿泊した。己酉、王は冠礼をおこない、帯剣した。長信侯の嫪毐が乱をおこして発覚し、王の御璽と太后の璽を偽造して、県卒および衛卒・官騎(近衛騎兵)や戎翟の君公・舎人を徴発して、(雍の)蘄年宮を攻めて乱を起こそうとした。秦王はこれを知り、相国の昌平君・昌文君に兵卒を発して嫪毐を攻撃させた。咸陽で戦って、斬首すること数百。みな爵位を拝した。宦官で戦いに加わったものも、みな爵一級を拝した。嫪毐らは敗走した。国中に命令し、「嫪毐に生け捕りにしたら、銭百万を賜う。殺した者は五十万を賜う」とした。嫪毐とその仲間をすべて捕らえた。衛尉の竭・内史の肆、佐弋の竭、中大夫令の斉ら二十人をさらし首とし、車裂きにして見せしめとし、一族を殺した。その舎人で、罪の軽いものは三年の鬼薪(三年の徙刑とし、宗廟に薪を支給させる)とした。さらに官爵を奪って蜀に移したものが四千家あまりで、房陵に居住させた。この四月は寒さが厳しく、凍死する者が出た。
楊端和が衍氏を攻めた。彗星が西方に現れ、北方にも現れた。北斗星より南のものは、八十日も見えた。

十年~呂不韋の罷免、尉繚の人物眼

十年,相國呂不韋坐嫪毐免。桓齮為將軍。齊、趙來置酒。齊人茅焦說秦王曰:「秦方以天下為事,而大王有遷母太后之名,恐諸侯聞之,由此倍秦也。」秦王乃迎太后於雍而入咸陽,復居甘泉宮。

十年、相国の呂不韋は嫪毐の乱に関係があったとして罷免された。桓齮を将軍とした。斉・趙から来朝したので、酒宴を開いて饗応した。斉人の茅焦が秦王に説いた。「秦はいま天下統一を目標としています。しかし大王が母太后を(雍)に移したという悪評があります。諸侯がこれを聞いたら、秦に背くでしょう」と言った。秦王は太后を雍から迎えて咸陽に入れ、ふたたび甘泉宮に居らせた。

大索,逐客,李斯上書說,乃止逐客令。李斯因說秦王,請先取韓以恐他國,於是使斯下韓。韓王患之。與韓非謀弱秦。大梁人尉繚來,說秦王曰:「以秦之彊,諸侯譬如郡縣之君,臣但恐諸侯合從,翕而出不意,此乃智伯、夫差、湣王之所以亡也。願大王毋愛財物,賂其豪臣,以亂其謀,不過亡三十萬金,則諸侯可盡。」秦王從其計,見尉繚亢禮,衣服食飲與繚同。繚曰:「秦王為人,蜂準,長目,摯鳥膺,豺聲,少恩而虎狼心,居約易出人下,得志亦輕食人。我布衣,然見我常身自下我。誠使秦王得志於天下,天下皆為虜矣。不可與久游。」乃亡去。秦王覺,固止,以為秦國尉,卒用其計策。而李斯用事。

おおいに捜索し、(外国から遊説にきた)説客を追放した。李斯が上書して(非を)説いたので、逐客令を中止した。李斯が秦王に、「まず韓を取って、他国を脅迫しましょう」と言った。ここにおいて李斯を派遣し、韓を降そうとした。韓王は大いに恐れ、韓非に相談して秦の弱体化を計画した。
大梁の人の尉繚(兵学者)が来て、秦王に説いた。「秦の強大さから見れば、諸侯は郡県の長のよう(に弱小)で、私は諸侯が合従して、一斉に不意討ちすることが心配です。これこそ、(晋の)智伯や(呉王の)夫差、(斉の)湣王が滅びた理由です。大王は財物を惜しまず、諸侯の重臣にまかないを贈り、(合従の)謀略を乱しなさい。三十万銭も失わないで、諸侯すべてを支配下に置けます」と言った。秦王はその計略に従い、尉繚と会うときは亢礼(対等の礼)をとり、衣服や飲食まで尉繚とともにした。尉繚は、「秦王の人となりは、蜂のように準(鼻が高く)、切れ長の目で、猛鳥のように突き出た胸、やまいぬの声です。恩愛の情が少なく、虎狼の心を持っている。困窮しているときは人の下に居りやすいが、志を得れば他人を軽んじて残虐に扱うだろう。私は布衣(無位無冠)だ、それなのに私に会うときはいつも自分を下に置く。

『キングダム』で美化された秦王政は、準主人公の補正ではなく、尉繚の指摘している部分。呂不韋、生母の対抗、李牧らライバルがいれば、人に遜ることができる。無位無冠(信)とも親しく付き合える。しかし志を得たら……。

まことに秦王が志を天下に得るように鳴ったら、天下は奴隷のように扱われるだろう。久しく交際できない人物である」と。逃げ去ろうとした。秦王はこれを悟って、つよく引き止めた。尉繚を秦国の尉(武官)とし、尉繚の計画を用い、李斯がこれを実行に移した。

十一年~鄴の攻略、呂不韋の死

十一年,王翦、桓齮、楊端和攻鄴,取九城。王翦攻閼與、橑楊,皆并為一軍。翦將十八日,軍歸斗食以下,什推二人從軍取鄴安陽,桓齮將。
十二年,文信侯不韋死,竊葬。其舍人臨者,晉人也逐出之;秦人六百石以上奪爵,遷;五百石以下不臨,遷,勿奪爵。自今以來,操國事不道如嫪毐、不韋者籍其門,視此。秋,復嫪毐舍人遷蜀者。當是之時,天下大旱,六月至八月乃雨。

十一年、王翦・桓齮・楊端和は鄴を攻め、九城を取った。王翦は閼与・橑楊を攻めた。それからまた一軍にまとまった。、王翦が将軍になって十八日で、軍中の斗食より以下(の功労のないものは帰らせ)、十人のうち二人だけを選んで従軍させた。鄴・安陽(橑楊か)を取った。桓齮が将軍となった。

梁玉縄によると、ここは記述が混乱している。王翦が主将であり、桓齮が次将であり、楊端和が末将である。軍を合わせて趙を伐ち、鄴を攻めてまだ得られないので、さきに九城を取った。王翦はこれとは別に閼与・橑楊を攻め、桓齮を留めて鄴を攻めさせた。王翦は桓齮に橑楊を攻めさせ、王翦自身は閼与を攻めて、すべて手に入れたと。ゆえに、鄴と橑楊を得たのは桓齮だ、と読む。
『キングダム』の鄴攻めで、鄴に人口を押し込んで兵糧攻めにする話。

十二年、文信侯呂不韋が死んで、ひそかに葬られた。呂不韋の舎人で葬儀に列して哭泣したもので、三晋の出身者は国外に追放し、秦人で六百石以上のものは爵位を剥奪した(蜀の房陵に徙した)。五百石以下で葬儀に臨まなくても(房陵に)徙したが、爵位を奪わなかった。「いまから以後、国事を操って不道を行い、嫪毐・呂不韋のようなものは、その一門の籍を没収する(奴隷する」と布告した。秋、嫪毐の舎人で蜀に移されていたものを復帰させた。このとき、天下は大旱が続き、六月から八月まで照り続いたが、八月になって雨が降った。

十三年~韓非の死、韓の滅亡

十三年,桓齮攻趙平陽,殺趙將扈輒,斬首十萬。王之河南。正月,彗星見東方。十月,桓齮攻趙。十四年,攻趙軍於平陽,取宜安,破之,殺其將軍。桓齮定平陽、武城。韓非使秦,秦用李斯謀,留非,非死雲陽。韓王請為臣。

十三年、桓齮が趙の平陽を攻め、趙将の扈輒を殺し、首十万を斬った。秦王が河南に行った。正月、彗星が東方にあらわれた。十月、桓齮が趙を攻めた。
十四年、趙軍を平陽で攻め、宜安を取って、趙軍を破り、その将軍を殺した。桓齮が平陽・武城を平定した。韓非(韓の公子)が使者として秦にきた。秦は李斯の策謀で、韓非を抑留し(投獄し)、韓非は雲陽で(毒を飲まされて)死んだ。韓王は秦への臣従を申し出た。

十五年,大興兵,一軍至鄴,一軍至太原,取狼孟。地動。十六年九月,發卒受地韓南陽假守騰。初令男子書年。魏獻地於秦。秦置麗邑。十七年,內史騰攻韓,得韓王安,盡納其地,以其地為郡,命曰潁川。地動。華陽太后卒。民大饑。

十五年、大いに兵を興し、一軍は鄴に至り、一軍は太原に至り、(太原の)狼孟を取った。この年に地震があった。
十六年九月、兵卒を徴発して韓の南陽の地を取り、(内史の)騰をそこの仮の長官とした。

ファルファル……。姓が分からないんですね。

この年、はじめて男子の年齢を戸籍に記録させた(徴兵のため)。魏が土地を秦に献じ、秦はその地を麗邑とした。
十七年、内史の騰が韓を攻め、韓王安を生け捕りにし、韓の土地をすべて秦のものとし、郡を置いて、潁川と名づけた。この年、また地震があった。華陽太后が卒した。民が大いに飢えた。

十八年~趙の滅亡、代の自立

十八年,大興兵攻趙,王翦將上地,下井陘,端和將河內,羌瘣伐趙,端和圍邯鄲城。十九年,王翦、羌瘣盡定取趙地東陽,得趙王。引兵欲攻燕,屯中山。秦王之邯鄲,諸嘗與王生趙時母家有仇怨,皆阬之。秦王還,從太原、上郡歸。始皇帝母太后崩。趙公子嘉率其宗數百人之代,自立為代王,東與燕合兵,軍上谷。大饑。

十八年、大いに兵を興して、趙を攻めた。王翦が上郡地方の将として、(河北省)井陘を下し、端和が河内の将となり、羌瘣が趙を伐ち、端和は邯鄲城を囲んだ。
十九年、王翦・羌瘣はことごとく趙の領土を平定し、東陽で趙王を捕らえた。さらに兵を率いて燕を攻めようとして、中山に駐屯した。秦王は邯鄲にゆき、かつて王が趙で生まれたときに、母と旧怨があったものを、すべて穴埋めにした。秦王がかえり、太原と上郡を通過して帰った。始皇帝の母の太后が崩じた。趙の公子嘉が同族の数百人をひきいて代にゆき、自立して王となった。東のかた燕と兵を合わせて、上谷に陣をはった。この年、おおいに飢饉があった。

二十年~刺客の荊軻と燕の滅亡

二十年,燕太子丹患秦兵至國,恐,使荊軻刺秦王。秦王覺之,體解軻以徇,而使王翦、辛勝攻燕。燕、代發兵擊秦軍,秦軍破燕易水之西。二十一年,王賁攻(薊)〔荊〕。乃益發卒詣王翦軍,遂破燕太子軍,取燕薊城,得太子丹之首。燕王東收遼東而王之。王翦謝病老歸。新鄭反。昌平君徙於郢。大雨雪,深二尺五寸。

二十年、燕の太子丹が秦軍の到来を恐れて、荊軻を(咸陽に行かせ)秦王への刺客とした。秦王は悟り、体をばらばらにする刑罰にして見せしめとした。王翦と辛勝に燕を攻撃させた。燕・代は兵を発して、秦を迎え撃った。秦軍は燕軍をの易水の西で破った。
二十一年、王賁が薊を攻めた。秦はますます兵を発して王翦の軍に追加し、燕の太子の軍を破って、燕の薊城を奪い、太子丹の首を取った。燕王は東にゆき遼東を手に入れてそこで王となった。王翦は老病を理由に将軍を辞退して帰った。新鄭で反乱が起きた。昌平君はこれに連坐して(楚の)郢に移された。大雪がふり、深さ二尺五寸であった。

二十二年~魏・楚の滅亡

二十二年,王賁攻魏,引河溝灌大梁,大梁城壞,其王請降,盡取其地。
二十三年,秦王復召王翦,彊起之,使將擊荊。取陳以南至平輿,虜荊王。秦王游至郢陳。荊將項燕立昌平君為荊王,反秦於淮南。二十四年,王翦、蒙武攻荊,破荊軍,昌平君死,項燕遂自殺。

二十二年、王賁が魏を攻めた。黄河から掘り割りで水をひき、大梁を河水で浸した。大梁城は崩壊し、魏王仮が降服を請い、魏の領土をすべて手に入れた。
二十三年、秦王はまた王翦を召して、むりに起用し、荊(楚)を攻撃させた。王翦は(河南の)陳から南の平輿に至るまでを占領し、荊王の負芻を捕らえた。秦王は遊行して郢・陳まで出かけた。楚の将軍の項燕昌平君を盛り立てて楚王とし、秦に淮南で背いた。二十四年、王翦・蒙武が楚を攻め、楚軍を破り、昌平君が死に、項燕は自殺した。

二十五年,大興兵,使王賁將,攻燕遼東,得燕王喜。還攻代,虜代王嘉。王翦遂定荊江南地;降越君,置會稽郡。五月,天下大酺。

二十五年、大いに兵を興し、王賁を将軍とし、燕の遼東を攻めさせ、燕王喜を捕らえた。還って代を攻め、代王嘉を捕らえた。王翦はついに楚の江南の地を平定した。東にゆき越君を降し、会稽郡を置いた。五月、天下でおおいに飲酒歓楽した。

始皇二十六年_天下統一

二十六年,齊王建與其相后勝發兵守其西界,不通秦。秦使將軍王賁從燕南攻齊,得齊王建。
秦初并天下,令丞相、御史曰:「異日韓王納地效璽,請為藩臣,已而倍約,與趙、魏合從畔秦,故興兵誅之,虜其王。寡人以為善,庶幾息兵革。
趙王使其相李牧來約盟,故歸其質子。已而倍盟,反我太原,故興兵誅之,得其王。趙公子嘉乃自立為代王,故舉兵擊滅之。

二十六年、斉王建が(斉国の)宰相の后勝とともに兵を発して、西方の国境を守って、秦との交通を絶った。秦は将軍の王賁が燕から南下して斉を攻め、斉王建を捕らえた。
秦がはじめて天下を併合すると、丞相と(文書と糾察を掌る)御史に命じた。「かつて韓王はわが国に領地・印璽を差し出し、藩臣になりたいと言った。しかし約束を破って、趙・魏と合従して秦に背いた。ゆえに兵を興して誅伐し、韓王を捕らえた。私はこの措置をよいことと考え、戦争をもうやめたいと願った。
だから趙王が宰相の李牧をよこして盟約をさせたとき、人質を帰国させた。しかし(趙国は)約束を破って、太原で秦に背いた。ゆえに兵を興して誅伐し、趙王を捕らえた。趙の公子の嘉が自立して代王となったので、ゆえに兵をあげて滅ぼした。

魏王始約服入秦,已而與韓、趙謀襲秦,秦兵吏誅,遂破之。
荊王獻青陽以西,已而畔約,擊我南郡,故發兵誅,得其王,遂定其荊地。
燕王昏亂,其太子丹乃陰令荊軻為賊,兵吏誅,滅其國。
齊王用后勝計,絕秦使,欲為亂,兵吏誅,虜其王,平齊地。寡人以眇眇之身,興兵誅暴亂,賴宗廟之靈,六王咸伏其辜,天下大定。今名號不更,無以稱成功,傳後世。其議帝號。」

魏王は盟約を結んで秦に帰服したが、韓・趙と共謀して秦を襲った。秦の兵吏がこれを誅伐し、撃ち破った。
荊王(楚王)は青陽以西を献じて盟約したが、すぐに反逆し、わが国の南郡(南部)を攻撃したので、楚王を捕らえ、荊(楚)の地を平定した。
燕王は暗愚で惑乱し、太子丹がひそかに荊軻を刺客としたので、兵吏はこれを誅伐し、その国を滅ぼした。
斉王が后勝の計略を用い、秦との交流を絶ち、乱を起こそうとしたので、兵吏がこれを誅滅し、斉王建を捕らえて、斉の地を平定した。私は微々たる身で兵を起こし、六国を平定した。これを後世に伝えるための帝号を議論せよ」と。220307