いつか書きたい三国志

『資治通鑑』巻三 周紀三(前三二〇~前)を読む

『資治通鑑』を胡三省注を含めて読む。訓読と現代語訳は、区別せずに混在させる。司馬光の本文は原則として全訳し、胡三省注は、興味の範囲で訳出する。

慎靚王(前三二〇~前三一五)

愼靚王
諱は定。顯王の子。複諡である。『諡法』によると、敏にして以て敬なるを愼と曰ひ、德を柔にし衆を安んずるを靖と曰ふ。

愼靚王元年(前三二〇)辛丑

衞 更めて號を貶めて君と曰ふ。

顯王二十三年、衞 已に號を貶めて侯と曰ふ。秦・魏の間に介し、國 日ごとに以て削弱せられ、因りて更めて其の號を貶めて君と曰ふ。
衛王?→衛侯→衛君。秦と魏に挟まれているせい。


愼靚王二年(前三一九年)壬寅

秦 韓を伐ちて、鄢を取る。

『春秋』に、「晉 楚師を鄢陵に敗る」といひ,鄢陵とは鄢のことである。『班志』は「傿陵」に作り、潁川郡に属する。

魏惠王 薨じ、子の襄王 立つ。

『索隠』によると、襄王は、名を嗣という。『系本』とは『世本』のことで、司馬貞『索隠』では唐の李世民を避諱して、「系本」とした。
『考異』によると、『史記』魏世家は、惠王は三十六年に卒し、子の襄王が立ったとする。襄王は十六年に卒し、子の哀王が立った。哀王は二十三年に卒し、子の昭王が立った。『六国表』によると、魏の惠王は、辛亥から丙戌の年まで。襄王は丁亥から壬寅まで。哀王は癸卯から乙丑まで。杜預『春秋後序』によると、太康初、汲縣から発掘された『紀年篇』は特に晋国の記事があり、殤叔から、文侯・昭侯と続き、曲沃莊伯まで、すべて夏正を用いて、編年されている。晋国が滅ぶと、魏の記録だけを記し、下限は魏の哀王の二十年までである。魏国の歴史記録である。哀王は『史記』において、襄王の子で、惠王の孫とされる。出土した『古書紀年篇』によると、惠王の三十六年に改元し、一年より始まり、十六年に至って「惠成王 卒す」とあり、これは惠王のこと。『史記』は惠成の世を誤って分けて、後王の年にしたのではないか。哀王は二十三年で卒したので、ゆえに諡を稱せず、「今王」とされる。……以下、魏の年代のズレ問題を省く。


◆魏の襄王と孟子の対話
孟子 入りて(魏の襄王に)見えて出で、人に語りて曰く、「之を望むに人君に似ず、之に就くに畏るる所を見ず。卒然として問ひて曰く、『天下 惡にか定めんや』と。吾 對へて曰く、『一に定まらん』と。魏の襄王の質問、『孰れか能く之を一にするか』と。對へて曰く、『殺人を嗜まざる者 能く之を一にせん』と。魏の襄王の質問、『孰か能く之を與にするか』と。對へて曰く、『天下 與にせざるもの莫きなり。王 夫苗を知るか。七、八月の間 旱たれば、則ち苗槁なり。

周正(周の暦)に基づく発言。周正の七、八月は、夏正の五、六月である。槁は、乾枯である。

天 油然として雲を作し、沛然として雨を下せば、則ち苗 浡然と之を興すなり。其れ是の如くんば、孰か能く之を禦がんか」と。

慎靚王三年(前三一八)

楚・趙・魏・韓・燕 同に秦を伐ち、函谷關を攻む。

宋白曰く、函谷關 弘農に在り。『地理志註』云はく、道の形 函が如きを謂ひ、孫卿子 謂ふ所の「秦 松柏の塞有り」は是れなり。

秦人 兵を出して之に逆ひ、五國の師 皆 敗走す。

宋 初めて王を稱す。

慎靚王四年(前三一七)

秦 韓師を脩魚に敗り、斬首すること八萬級、其の將の䱸・申差を濁沢に虜ふ。諸侯 振恐す。

『索隱』曰く、脩魚は、地名なり。䱸・申差は、二將の名なり。「濁沢」は、『年表』は「観沢」に作る。


斉の大夫 蘇秦と與に寵を爭ひ、人に蘇秦を刺殺させた。

◆張儀が魏の襄王に戦略を説く
張儀 魏の襄王に說きて曰く、「梁の地 方は千里に至らず、卒は三十萬を過ぎず、地は四平にして、名山・大川の限無し。卒 楚・韓・斉・趙の境を戍り(武装して守り)、

梁の地(魏の領土)は南は楚に接し、西は韓に接し、東は斉に接し、北は趙に接す。

守・亭と障る者は十萬を過ぎず、梁の地勢 固より戰場なり。夫れ諸侯の從を約し、洹水の上に盟し、結びて兄弟と爲して以て相 堅きなり。

『說文』、亭、民所安定也、道路所舍也。障、堡障也、隔也、塞也、所以隔塞敵人也。
合従の盟約は、顕王二十六年に見える。

今 兄弟に親しみ父母を同にし、尚ほ錢財を爭ひて相 殺傷する有り、而れども反覆せし蘇秦の餘謀に恃まんと欲するは、其れ成して亦た明なる可からず。大王 秦に事へざれば、秦 兵を下して河外を攻め、據巻・衍・酸棗に據らば、

『続漢書』によると、巻縣は河南郡に屬し、酸棗縣は陳留郡に屬す。『水經註』に、河水 巻縣の北を逕し、又 東して酸棗・延津に至り、二邑 皆 河津の要なり。

衛を劫し、陽晋を取らば、則ち趙 南せず、趙 南せざれば則ち梁 北せず、梁 北せざれば則ち從の道(合従軍の進軍路)が絶たれ、進軍路が絶たれたら大王の国は存続ができなくなります。故に願はくは大王 審らかに計議を定め、且つ骸骨を賜へ(退職させて下さい)」と。魏王 乃ち從約にそむき、而して張儀の言うとおりに秦との友好を結んだ。張儀は帰り、また秦で宰相となった。

張儀は秦の宰相をやめて、魏の宰相となったことは、上巻の顕王四十七年に見える。
蘇秦がつくった合従の連合で、魏が利益を得ることが難しい。もし進軍が、合従の中心地を分断してしまえば(衛を劫し、陽晋を取らば)、魏は孤立する。だから魏は、秦に味方するのがよい。というのが、張儀の説得。魏の襄王は従った。


魯の景公 薨じ、子の平公旅 立つ。

慎靚王五年(前三一六)

巴・蜀 相 攻擊し、

巴、春秋巴子之國。蜀、蠶叢・魚鳧之後。『華陽國志』曰、昔蜀王封其弟於漢中、號曰苴侯、因命其邑曰葭萌。苴侯與巴王爲好。後巴與蜀爲讎、蜀王怒、伐苴侯、苴侯奔巴。巴求救於秦、秦伐蜀、蜀王敗死。秦滅蜀、因遂滅巴・苴、置巴・蜀二郡。『史記正義』曰、巴子城在合州石鏡縣南五里、故墊江縣也。宋白曰、巴子後理閬中。揚雄『蜀本紀』曰、蜀王本治廣都樊鄕、徙居成都。

俱に急を秦に告ぐ。秦の惠王 蜀を伐たんと欲し、以爲へらく道 險陿にして至り難く、而も韓 又 來侵すれば、猶豫して未だ決する能はず。司馬錯 蜀を伐たんことを請ふ。

『史記』に、重・黎之後、至周宣王時爲程伯休父、爲司馬氏。


◆張儀が秦の恵王に周王奉戴を説く
張儀曰く、「韓を伐つに如かず」と。秦の恵王曰く、「請ふ其の說を聞かんことを」と。張儀曰く、「魏に親しみ、楚と善くし、兵を三川に下し、新城・宜陽を攻む。

伊水・洛水・河水をば三川とする。秦 後に三川郡を置き、漢 改めて河南郡と爲す。『班志』に、新城縣 河南郡に屬すと。

以て二周(東西)の郊に臨み、九鼎に據り、

昔夏禹貢金九牧、鑄鼎象物、桀有昏德、鼎遷于商;商紂暴虐、鼎遷于周;成王定鼎于郟鄏、寶之、以爲三代共器。

圖籍を按じ、

圖籍、謂天下之圖籍、『周官』職方氏所掌是也。

天子を挾みて以て天下に令さば、天下 敢て聽かざる莫く、此れ王業なり。臣 聞くに名を朝に爭ひ、利を市に爭ふと。今 三川・周室、天下の朝市なり、

『周禮』大宗伯註に云はく、朝、猶朝也、欲其來之早也。人君昕旦親政貴早、聲轉爲朝。

而れども王 焉を爭はず、顧みて戎翟を爭はば、王業を去ること遠きなり」と。

張儀の説は、秦軍は、中央(韓)を攻撃し、周王朝の権威を手中に収めることを優先すべきだ。後背地の地方(巴蜀)を攻めることは、優先順位が低い。巴と蜀の争いに介入し、この地域を平定するのは、意味がないばかりか、道が険しくて成功が保証されていない。


◆司馬錯が巴蜀平定を説く
司馬錯曰く、「然らず。臣 聞くに國を富ませんと欲する者は其の地を廣くするに務め、兵を強くせんと欲する者は其の民を富ませんと務む。王たらんと欲する者は其の德を博むるに務む。三資とは備はりて王たりて之に隨はん。今 王の地は小さく民は貧しく、故に臣 願はくは先に事に易きに從はん。夫れ蜀は、西僻の國にして戎翟の長なり。桀・紂の亂有り。秦の之を攻むるを以て、譬ふるに豺狼をして羣羊を逐はしむるが如し。其の地を得れば以て國を廣むるに足り、其の財を取らば以て民を富ますに足り、兵を繕ひて衆を傷つけずして彼(蜀)は已に服せり。一國を抜くは天下 以て暴と爲さず、利は四海を盡くして天下 以て貪と爲さず。是れ我 一舉にして名實 附すなり。而れども又 暴を禁じ亂を止むるの名有り。

司馬錯の言い分は、いま中央(韓)に攻め込んで、周王朝に手を掛けようとしても、国の基礎体力が足りない。周王を手に入れても、安定しない。それよりも、遠回りに見えても、後背地の巴蜀のピンチに付け込んで、制圧してしまうのが吉。

今 韓を攻め、天子を劫すれば、悪名あるなり、而も未だ必しも利あらず。又 不義の名有りて、天下の欲せざる所を攻むるは、危ふきなり。臣 請ふ其の故を論ずるに、周は、天下の宗室なり。斉は、韓の與國(隣国で親睦している友好国)なり。周 自ら九鼎を失ふを知り、韓 自ら三川を亡するを知らば、將に二國 力を幷はせ謀を合せ、以て斉・趙に因りて楚・魏に解かんことを求む。鼎を以て楚に與へ、地を以て魏に與ふるも、王 止むる能はざるなり。

もしも秦が周から権威を奪い、韓から三川の地を奪えば、どうなるか。ドミノ倒し形式で、秦の敵が増える。韓は、斉と友好国である。趙も同調するだろう。楚・魏は、斉・趙と敵対しているが、旧怨を忘れて若いし、「反秦」で団結するだろう。
周王朝の宝器を楚にあたえ、韓から奪った三川の地を魏にあたえても、楚・魏が、秦の味方になることは見込めない。いちど韓・周に手を出した瞬間に、天下が敵に回る。

此れ臣の危と謂ふ所なり。蜀を伐ちて、十全の勝利を得るほうがよい」と。王は司馬錯の計略に従い、兵を起して蜀を伐つ。十月にして之を取る。

蘇秦・張儀は、中原の戦国七雄が均衡していることを前提とし、バランスがくずれないなか、微細な振動を与えるような計略を練ることが得意。もしも張儀の言うとおり、秦の恵王が韓を攻め、周の宝器を奪っていたら、諸国が秦を徹底的に叩いて、戦果を返還させただろう。ただし秦が滅ぶにも至らず、揺り戻しが起きただけ。
司馬錯の計略は、蜀を吸収合併し、戦国七雄のバランスを根本からくずすことを目指したものであった。

蜀王を貶めて、號を更めて侯と爲す。陳荘をして蜀に相たらしむ。蜀 すでに秦に屬し、秦 以て益々強く、富は厚く、諸侯を輕んず。

秦王が「諸侯を軽んじる」は、批判のニュアンスがある。しかし、中原で強きに傾いていた秦が、他国の追随を許さない軍資を得たのは、蜀の平定によってだろう。


◆燕国で子之が燕王噲をしのぐ
蘇秦 すでに(慎靚王三年に)死し、蘇秦の弟の蘇代と蘇厲もまた諸侯に遊説して有名であった。燕の宰相の子之は、蘇代と婚姻しており、燕国で権力を得ようとした。蘇代を斉から帰らせ、燕王噲は質問した。「斉王は霸者になれるか」と。「むりです」。燕王噲「なぜだ」。「臣下を信じないからです」と。ここにおいて燕王はもっぱら子之に政治をまかせた。鹿毛寿(潘寿)が燕王に……(中略)……子之は南面して王の職務を代行した。燕王噲は老いて、政治を執らなくなり、かえって臣下にようになった。国政はすべて子之が決裁した。のちに燕が乱れる張本である。

慎靚王六年(前三一五)

王 崩じ、子の赧王延 立つ。220314

赧王上(前三一五~)

赧王上

劉伯荘によると、赧は、慚の甚しきなり。輕微にして危弱、寄りて東・西に住まり、慚赧と爲するに足り、故に之を號して赧と曰ふ。『諡法』には、赧の字はない。


赧王元年(前三一四)

秦人 義渠(戎狄の国名)を侵し、二十五城を得たり。

上巻の顕王四十二年に、秦は義渠を県としたとある。君臣になったが、二十五城を獲得したというのは、なぜか。晋臣になったが、義渠の国はまだ滅びず、秦の領土を蚕食していたのである。二十五城を奪われ、義渠の国はほぼ領土がなくなった。けだし秦が諸侯を併合したとき、その土地をすべて奪ったわけではない。


魏人 秦に叛す。秦人 魏を伐ち、曲沃を取りて其の人を歸す。又 韓を岸門に敗る。

『續漢志』によると、潁川郡潁陰県に岸亭がある。注引 徐広の説によると、岸亭は、岸門のこと。

韓の太子倉 質を秦に入れて以て和す。

◆斉軍の燕の政変への介入
燕の子之 王たること三年、国内 大いに乱る。将軍の市被 太子平と與に子之を攻めんことを謀る。斉王 人をして太子に謂はしめて曰く、「寡人 聞く、太子 将に君臣の義を飭(ととの)へ(子之を排除し)、父子の位を明らかにせんとす(太子平が燕王噲を継ぐ)。唯だ太子 之を令する所以なり」と。太子 因りて黨を要し衆を聚め、市被をして子之を攻めしむるに、克たず。市被 反りて太子を攻む。搆難すること数月、死者は数萬人、百姓 恫(いた)み恐る。斉王 章子をして五都の兵を将ゐ、北地の衆(斉国の領土北部に配備された兵、漢代の千乗・清河・勃海あたり)に因りて以て燕を伐つ。燕の士卒 戦はず、城門 閉ぢず。斉人 子之を取り、之を醢にし、遂に燕王噲を殺す。

◆孟子が斉王に燕討伐の是非を説く
斉王 孟子に問ひて曰く、「或ひと寡人に謂はく、燕を取る勿かれ、或るひと寡人に謂はく、之を取れと。萬乘の国を以て萬乘の国を伐ち、五旬にして之を舉ぐれば、人力 此に至らず。取らざれば、必ず天の殃(とが)有り。之を取るは何如」と。孟子 対へて曰く、「之を取るに燕の民 悅ばば則ち之を取れ。古の人 之を行ふ者有るは、(周の)武王 是れなり。之を取るに燕の民 悅ばざれば則ち取る勿れ。古之の之を行ふ者有るは、文王 是れなり。萬乘の国を以て萬乘の国を伐ち、簞食壺漿もて以て王師を迎へ、豈に他有らんや。水火を避くるなり。水の如く益々深く、火の如く益々熱ければ、亦た運(てん)ずのみ」と。

周の武王は、大国の殷を武力討伐したが、それは殷の民から歓迎されたから。(武王の父の)周の文王は、大国の殷を武力討伐せずにおいたが、それは殷の民から歓迎されないから。もし歓迎されないが、強引に武力討伐して併合すれば、殷の民は他国に逃亡するだろう。それは、併合したとは言えない。
武力討伐が可となる場合がある、というのが孟子の説。 孟子は斉王に、後継問題で混乱している燕を討伐してよいか否かを説明している。それは燕の民が、斉軍(斉による併合)を歓迎するか否かによって分かれる、としている。


諸侯 将に謀りて燕を救はんとす。

斉が燕を併合すると、戦国のバランスがくずれてしまう。斉が、燕に内政干渉して、燕の征服が現実的になると、牽制が入る。斉王が諸侯からの牽制を受けて、孟子にどのように対処すべきか質問する。

斉王 孟子に謂ひて曰く、「諸侯 多く謀りて寡人を伐たんとする者は、何を以て之を待せんか」と。対へて曰く、「臣 聞くに七十里もて天下を爲政せしは、湯 是れなり。未だ千里を以て人を畏れしむる者を聞かず。『書』(仲虺之誥)に曰く、『我が后を徯(ま)ち、后 其の蘇に來る』と。今 燕 其の民を虐げ、王 往きて之を征たば、民 以て将に己を水火の中より拯(あ)ぐると爲し、簞食壺漿もて以て王師を迎へん。若し其の父兄を殺し、其の子弟を係累(捕縛)し、其の宗廟を毀し、其の重器を遷さば、之を如何に其れ可とせんや。天下 固より斉の強きを畏れ、今 又 地を(燕を併合し)倍にせんとす。而して仁政を行はずんば、是れ天下の兵を動かすなり。王 速やかに令を出し、其の旄倪(老人と幼児)を反し、其の重器を止め、燕衆に謀り、君を置きて後に之を去らしむれば、則ち猶ほ止むに及ぶ可きなり」と。斉王 聽かず。

孟子によると、斉の軍に望まれているのは、燕の民を、燕の悪政から救うこと。燕の国そのものを滅ぼすことではない。

已にして燕人 叛す。王曰く、「吾 甚だ孟子に慚づ」と。

このとき燕人はまだ太子平を立てていないが、燕では軍を率いて、斉から離叛した。斉王は、孟子の言ったとおりに、燕の人民を悪政から救うことに止めず、併合の野心を持ってしまった。だから恥じた。

陳賈曰く、「王 患ふこと無かれ」と。乃ち孟子に見えて、曰く、「周公 何なる人なるか」と。曰く、「古の聖人なり」と。陳賈曰く、「周公 管叔をして商(殷)を監せしめ、管叔 商を以て畔すなり。周公 其れ将に畔せんとするを知りて之かしむか」と。曰く、「知らざるなり」と。陳賈曰く、「然らば則ち聖人も亦た過有るか」と。曰く、「周公は、弟なり。管叔は、兄なり。周公の過 亦た宜しからずや。且つ古の君子、過あれば則ち之を改む。今の君子、過あらば則ち之に順ふ。古の君子、其の過あるや日月の食が如し、民 皆 之を見る。其の更むるに及ぶや、民 皆 之を仰ぐ。今の君子、豈に徒だ之に順ふのみにして、又 從りて之が爲に辭あるか」と。

孟子の言うとおりにせず、燕国の離叛を招いてしまった斉王。しかし陳賈は、周公の失敗例(管叔に殷の遺族を管理させたら、かえって管叔が周王朝から離叛したこと)を引用した。周公ですら、他国の管理を誤るんだから、斉王の失敗は恥じることではないよと。

この年、斉の宣王 薨じ、子の湣王地 立つ。

燕への介入、管理監督に失敗したのは、斉の宣王であった。同じタイミングで死んでいるから、失意のうちに死んだ……と見なしたくなる。つぎに立った斉の湣王は、前二八四年まで在位。秦と並んで、「東帝」となる。


赧王二年(前三一三)

秦の右更疾 趙を伐ち、藺を抜き、其の将の荘豹を虜ふ。

右更、秦爵第十四。師古曰、左・右・中更、皆主領更卒而部其役使也。
荘姓有出於宋者、『左傳』所謂戴・武・荘之族是也。有出於楚者、楚荘王之後、荘蹻是也。斉之荘暴、楚之荘辛、蒙之荘周、與此荘豹、其時適相先後、莫能審其所自出。


◆張儀が秦のために、楚・斉を断交させる
秦王 斉を伐たんと欲し、斉・楚の從親するを患ふ。乃ち張儀をして楚に至らしめ、楚王に說きて曰く、「大王 誠に能く臣を聽き、關を閉ぢて(使者と通行を断絶させ)約を斉と絕たば、臣 請ふ商於の地の六百里を獻じ、秦の女をして大王の箕帚の妾と爲すを得しめん。秦・楚 女を嫁し婦を娶し、長じて兄弟の国と爲らん」と。

張儀は楚に、「もし楚が斉と断交してくれたら、秦は楚に(断交の謝礼として)商於の地を差し出すだろう、と言った。

楚王 說びて之を許す。羣臣 皆 賀すに、陳軫 獨り弔ず。王 怒りて曰く、「寡人 師を興さずして六百里地を得たり、何ぞ弔るか」と。対へて曰く、「然らず。以へらく臣 之を觀るに、商於の地は得る可からずして斉・秦 合し、斉・秦 合せば則ち患ひ必ず至らん」と。王曰く、「說くこと有るか」と。対へて曰く、「夫れ秦の楚を重んずる所以は、其の斉有るを以てなり。今 關を閉ぢて約を斉に絕たば則ち楚 孤にして、秦 奚ぞ貪夫孤国もて之に商於の地の六百里を與ふるか。張儀 秦に至り、必ず王に負かん。是れ王 北は斉の交はりを絕ち、西に患を秦に生ずるなり。兩国の兵 必ず俱に至らん。王の爲に計るに、陰かに合して陽はりて斉と絕つに若かず。人をして張儀に隨はしめ、苟し吾に地を與ふれば、斉に絕つとも未だ晚からざるなり」と。王曰く、「願はくは陳子 口を閉じ、復た言ふ毋れ。以て寡人の地を得るを待て」と。乃ち相印を以て張儀に授け、厚く之に賜ふ。遂に關を閉ぢ約を斉に絕ち、一将軍をして張儀に隨はしめて秦に至る。

張儀 詳(いつ)はりて車を墮ち、三月朝せず。楚王 之を聞き、曰く、「儀 寡人を以て斉と絕たしむること未だ甚しきや」と。乃ち勇士の宋遺をして宋の符を借り(国交断絶のため宋を経由でないと入国できなかった)、北して斉王を罵らしむ。斉王 大いに怒り、節を折りて以て秦に事へ、斉・秦の交 合せり。

張儀は、秦に帰国したあと仮病をつかい、楚王との約束(秦が商於の地を楚に差し出す)の履行タイミングを遅らせた。斉と秦の同盟が成立する(楚が孤立する)のを待ってから、秦の朝廷に出仕した。

張儀 乃ち朝し、楚の使者に見えて曰く、「子 何ぞ地を受けざるか。某より某に至るまで、廣袤は六里なり」と。使者 怒り、還りて楚王に報ず。

張儀は、秦を代表して、楚に六百里を与えると約束したはずが、楚の使者に、「まだ六里四方を受け取ってないの」とあおった。

楚王 大いに怒り、兵を發して秦を攻めんと欲す。陳軫曰く、「軫 口を發して言ふ可きや。之を攻むるは、因りて之に賂して以て一名 都として、之と力を幷すに如かず。斉を攻むるは、是れ我 地を秦に亡ひ、償(むく)ひを斉に取るなり。今 王 已に斉に絕ちて秦に欺かるを責む。是れ吾 斉・秦の交を合はせて天下の兵を來すなり。国 必ず大いに傷はん」と。楚王 聽かず、屈匄をして師を帥ゐて秦を伐たしむ。秦も亦た兵を發して庶長章(魏章)をして之を撃たしむ。

張儀のカラ手形に踊らされて、楚王は、秦からの割譲に期待し、斉と断交した。秦に約束を破られ、秦を攻撃することになった。陳軫が心配しているように、秦・斉の二大国を同時に敵に回すことになったので、楚王は危険な状態にある。


赧王三年(前三一二)

春、秦師 楚と丹陽に戦ふに及ぶ。

『索隠』によると、漢中の丹楊。劉昭によると、南郡枝江県に、丹陽聚があって、秦が楚を破ったとところ。胡三省が考えるに、枝江県の丹陽は、楚の都の郢に近く、秭歸の丹陽は、秦と楚が交戦する経路にない。『索隠』の説は誤り。……

楚師 大いに敗る。甲士八萬を斬り、屈匄及び列侯・執珪(楚の爵名)の七十餘人を虜へ、遂に漢中郡を取る。

沔陽・成固より新城・上庸に至るまで、時に皆 漢中郡の地なり。

楚王 悉く国内の兵を發して以て復た秦を襲ひ、藍田に戦ふ。

『班志』によると、京兆の藍田であり、秦の孝公が設置した。楚は秦の深くまで攻め入ったのである。

楚師 大いに敗る。韓・魏 楚の困なるを聞き、南して楚を襲ひ、鄧(南陽郡もしくは潁川郡)に至る。楚人 之を聞き、乃ち兵を引きて歸り、兩城を割きて以て平を秦に請ふ。

◆燕の昭王が、隗から始めて斉に報復する
燕人 共に太子平を立て、是れ昭王なり。昭王は(斉軍が)燕を破りし後、死を弔ひて孤を問ひ、百姓と與に甘苦を同にし、身を卑くして幣を厚くして以て賢者を招く。郭隗に謂ひて曰く、「斉 孤の国の乱に因りて襲ひて燕を破り、孤 極まりて燕は小にして力の少なく、以て報ゆるに足らざるを知る。然らば誠に賢士を得て與に国を共にし、以て先王(燕王噲)の恥を雪ぐは、孤の願ひなり。先生 可なる者を視れば、身ら之を事とするを得ん」と。郭隗曰く、「古の人君 千金を以て涓人をして千里の馬を求めしむる者有り。馬 已に死するに、其の首を買ひて五百金にして返す。君 大いに怒るに、涓人曰く、『死馬すら且つ之を買ふ、況んや生くる者をや。馬 今に至らん』と。期年ならずして、千里の馬 至る者は三なり。今 王 必ず士を致さん欲するに、先に隗より始めよ。況んや隗より賢なる者、豈に千里を遠しとせんか」と。是に於て昭王 隗が爲に改めて宮を築きて之に師事す。是に於て士 爭ひて燕に趣く。楽毅 魏より往き、劇辛 趙より往く。昭王 楽毅を以て亞卿と爲し、任ずるに国政を以てす。

燕が楽毅を用いて、斉を破る張本である。
のちに趙の李牧が、劇辛を破ったことのインパクトはここから計り知るべきである。劇辛は、郭隗のアドバイスをきっかけに、燕が得た人材であった。


韓の宣恵王 薨じ、子の襄王倉 立つ。

赧王四年(前三一一)

蜀相(陳荘か)が蜀侯を殺した。

秦の恵王 人をして楚の懐王に告げしめ、請ふらくは、武関の外を以て黔中の地に易へんことを。

武関は、『春秋左氏伝』に見える「少習」のこと。弘農郡析県の西百七十里であり、道は南陽に通じている。武関の外とは、秦の丹・析・商於の地。

楚王曰く、「地を易ふることを願はず。願はくは張儀さえ得れば黔中の地を獻ぜん」と。張儀 之を聞き、行かんことを請ふ。秦王曰く、「楚将 心を子に甘んず(楚王はあなた張儀にだまされた)、行ってどうするのか」と。張儀曰く、「秦は強く楚は弱し。大王さえ在あらば、楚 宜しく敢て臣を取るべからず。且つ臣 其の嬖臣の靳尚と善く、靳尚 事を幸姬の鄭袖(『戦国策』では褏袖)に得たり。袖の言は、楚王は聽かざる者無し」と。

楚の懐王は、張儀にだまされた。だから「張儀さえ引き渡せば、黔中の地を秦にくれてやる(当初のカラ約束であった、武関の外は要らない)」と言った。それぐらい張儀に対して、腹を立てている。
しかし張儀は、あえて楚に乗り込む。秦の恵王の後ろ盾があれば、軽々しく楚で殺されるはずがない。楚王の側近や寵姫ともつながっているから、自分は殺されないだろうと。

遂に往く。楚王 囚らへ、将に之を殺さんとす。靳尚 鄭袖に謂ひて曰く、「秦王 甚だ張儀を愛す。将に上庸六縣及び美女を以て之を贖はんとす。

上庸は、春秋の庸国なり。『班志』に、上庸県は、漢中郡に属すと。
張儀が期待していた、楚王まわりの人脈が、助命に動いてくれた。

王 地を重んじ秦を尊び、秦の女をば必ず貴びて夫人 斥けられん」と。是に於て鄭袖 日夜に楚王に泣きてく、「臣は各々其の主が爲にするのみ。今 張儀を殺さば、秦 必ず大いに怒らん。妾 請ふらく、子母 俱に江南に遷り、秦の魚肉する所と爲る毋かれ」と。王 乃ち張儀を赦して厚く之を禮す。張儀 因りて楚王に說きて曰く、「夫れ爲從者無以異於驅羣羊而攻猛虎、不格明矣。今 王 秦に事へざれば、秦 韓を劫して梁を驅りて楚を攻めん。則ち楚 危ふからん。秦 西に巴・蜀有り、船を治め粟を積め、岷江に浮かびて下り、一日にして五百餘里を行き、十日に至らずして扞関(楚の西の国境)を拒ぎ、扞関 驚かば則ち 境より以東 城守を盡くさん。黔中・巫郡 王の有に非ず。

秦は益州をすでに占領している。楚は上流を奪われているから、秦が西から東へと攻めれば、持ち堪えることができない。張儀は、楚王を脅迫している。

秦 甲を舉げて武関を出づれば、則ち北地(楚の北の国境、陳・蔡・汝・潁のこと)は絶えん。秦兵の楚を攻むるや、危難 三月の内に在り。而れども楚 諸侯の救を待つこと半歲の外に在り。夫れ弱国の救を待ちて、強秦の禍を忘る。此れ臣の大王の爲に患ふ所なり。大王 誠に能く臣を聽け。臣 請ふらくは秦・楚を長じて兄弟の国と爲し、相 攻伐すること無からしめんと」と。楚王 已に張儀を得れば黔中の地を出し重(がた)く(黔中の地を大切に思って、秦に差し出すことを嫌って)、張儀の意見を聞き入れた(秦と和睦した)。

※張儀の事績について、最下部に移動。

張儀の活躍について、資料が多い。しかし時期を絞れない。秦の武王が即位すると、張儀は退けられた。つまり、秦の武王が即位するより前に、詰め込む必要があったのだ。……というのが司馬光の判断であろう。

張儀 歸りて報ずるに、未だ咸陽に至らざるに、秦の恵王 薨じ、子の武王 立つ。武王 自ら太子たりし時、張儀を說ばず、卽位するに及び、羣臣 多く之を毀短す。諸侯 儀と秦王と隙有るを聞き、皆(六国は)畔衡(秦から叛いて連衡)し、復た合從す。

赧王五年(前三一○)

張儀 秦の武王に說きて曰く、「王の爲に計らば、東方(韓と魏)に變有り、然る後に王 以て多く割きて地を得可きなり。臣 聞くらく、斉王 甚だ臣(わたくし張儀)を憎み、臣の在る所、斉 必ず之を伐つ。臣 願はくは乞ふ、其の不肖の身もて以て梁(魏の都)に之かば、斉 必ず梁を伐たん。斉・梁 兵を交へれば相 去る能はず(戦闘を停止できない)。王 其の間を以て韓を伐ち、三川に入り、天子を挾み、圖籍を案ずれば、此れ王業なり」と。

胡三省によると、張儀は周王朝を傾けて、秦に利益をもたらそうとしている。この説を堅持している。
上で司馬錯が「巴蜀を併合すべき」と言ったときも、張儀は「韓を攻め、三川に入り、周王朝の宝器を奪え」と言っていた。張儀の主張は、胡三省のいうように一貫している。ただ、戦国諸国を手玉にとるから、コロコロ意見が変わるように見えるだけで。
今回は、張儀じしんが魏に入ることで、魏・斉の戦争を誘発し、その隙に、秦が韓・周を攻めよと言っている。

王 之を許す。斉王 果たして梁を伐ち、梁王 恐る。張儀曰く、「王 患ふこと勿れ。請ふらくは斉をして兵を罷めしめよ」と。乃ち其の舍人をして楚に之かしめ、(楚の人を)借りて使者に立てて、斉王に、「甚しきかな、王の儀を秦に託するや」と。斉王曰く、「何故か」と。楚の使者曰く、「張儀の秦を去るや、固より秦王と謀れり。斉・梁をして相 攻めしむるは、秦をして三川を取らんとせばなり。今 王 果たして梁を伐つ。是れ王 内に国を罷(つか)れしめ外に與(つか)れし国を伐ち、儀をして秦王に信あらしむるなり」と。斉王 乃ち兵を解きて還る。張儀 魏に相たること一歳にして、卒す。

秦の武王の時代(昭襄王の登場直前)に、張儀が退場してくれたのは、時代の区切れ目を感じさせる。


張儀は蘇秦とともに縦横の術により、諸侯の間を遊説し、位を上げて富貴となり、天下は争ってあやかろうとした。魏人に公孫衍というものがおり、「犀首」と号し、談論によって名を知られた。それ以外に、蘇代・蘇厲・周最・楼緩といった連中がおり、天下を騒がせて、詭弁によって地位を上げており、数え切れない。ただし張儀と蘇秦と公孫衍がもっとも有名であった。
※張儀の死亡に絡めての文も下に移動。

秦王 甘茂をして蜀相の陳荘を誅せしむ。
秦王・魏王 臨晋(漢代の馮翊)に会盟す。

趙の武霊王が呉広のむすめ孟姚を娶り、寵愛して、これが恵后である。恵后は、武霊王とのあいだに、子の何を生んだ。

何が趙王に立って、長子の章と争う張本である。


赧王六年(前三○九)

秦 初めて丞相を置き、樗里疾を以て右丞相と為す。

樗裡疾は、秦の恵王の弟。つまり、秦の武王の叔父。


赧王七年(前三○八)

秦・魏が應(襄陽の城父県か)で会盟した。

『左傳』曰、邘・晋・應・韓、武之穆也。杜預『註』云、應国在襄陽城父縣西。余按襄陽無城父縣。『後漢志』、潁川父城縣西南有應鄕、古應国也。


秦王 甘茂をして魏と約して以て韓を伐ち、向寿をして輔け行かしむ。甘茂 向寿をして還らしめ、王に謂ひて曰く、「魏 臣を聽く、然らば願はくは王 伐つ勿かれ」と。王 甘茂を息壤に迎へて其の故を問ふ。対へて曰く、「宜陽は大県にして、其の實は郡なり。今 王 数險(函谷及び三崤の険)に倍(そむ)き、千里を行き、之を攻むること難し。魯人 曾參と同じ姓名なる者 人を殺し、人 其の母に告ぐる有り。其の母 織りて自若たり。三人 之を告ぐるに及び、其の母 杼を投じて機を下し、牆を踰て走る。臣の賢 曾參に若かず、王の臣を信ずるも又 其の母に如かず、臣を疑ふ者は特だ三人のみに非ず。臣 恐る、大王の杼を投ずるを。魏の文侯 楽羊をして将として中山を攻めしめ、三年にして之を抜く(威烈王二十三年)。反りて功を論ずるに、文侯 之に謗書一篋を示す。楽羊 再拜して稽首して曰く、『此れ臣の功に非ず、君の力なり』と。今 臣、羇旅の臣なり(甘茂は、楚の下蔡の人なので他国出身者)。樗里子・公孫奭 韓を挾みて之を議し、王 必ず之を聽さん。是れ王 魏王を欺きて臣 公仲侈(韓の宰相)の怨を受けん」と。王曰く、「寡人 聽く弗きなり、請ふ子と盟はんことを」と。乃ち息壤に盟ふ。秋、甘茂・庶長封 師を帥ゐて宜陽を伐つ。

『史記』秦本紀にあった記事。秦の武王が、甘茂に韓の討伐を命じたら、甘茂がかってに引き返してきて、「秦の国内で、樗裡子・公孫奭に足を引っぱられることが必定。外征なんかできませんよ」という。秦王は、甘茂への新任を誓う。


赧王八年(前三○七)

甘茂 宜陽を攻むるに、五月なるも抜かず。樗里子・公孫奭 果たして之を爭ふ。秦王 甘茂を召し、兵を罷めんと欲す。甘茂曰く、「息壤 彼に在り(私を信任するという誓いをお忘れですか)」と。王曰く、「之有り」。因りて大いに悉く兵を起こして以て甘茂を佐く。斬首すること六萬、遂に宜陽を抜く。韓の公仲侈 入りて秦に謝して以て平(和平)を請ふ。

◆秦の武王の死、昭襄王の即位
秦の武王 好むに力戲を以てす。力士の任鄙・烏獲・孟說 皆 大官に至る。八月、武王 孟說と與に鼎を舉げ、脈を絶ちて薨ず。

脈者、係絡臟腑、其血理分行於支體之間;人舉重而力不能勝、故脈絶而死。按『史記‧甘茂傳』云、武王至周而卒于周。蓋舉鼎者、舉九鼎也。『世家』以爲龍文赤鼎。『史記』「脈」作「臏」。
脈じゃなくて、腰だとか足の筋だとか、いろいろありますね。

孟說を族す(族殺した)。武王 子無く、異母弟の稷 燕に質たり。国人 逆へて之を立て、是れ昭襄王なり。

昭襄王は、燕に迎えられた楽毅と会っている。ただし楽毅が斉を追い詰めるのは、昭襄王が燕を去った後のこと。

昭襄王の母の羋八子は、楚の女性であり、宣太后である。

羋、楚姓也。漢因秦制、嫡稱皇后、次稱夫人、又有美人・良人・八子・七子・長使・少使之號。美人爵視二千石、比少上造。八子視千石、比中更。


◆趙の武霊王の胡服騎射
趙の武霊王 北して中山の地を略し、房子(常山郡)に至る。遂に代に至り、北のかた無窮に至る。

略地之師速而疾。杜預曰、略者、總攝巡行之名也。
代より北のかた塞外に出で、大漠は数千里、故に無窮と曰ふ。『戦国策』、武霊王曰、「昔先君襄王與代交地、城境封之、名曰無窮之門、所以詔後而期遠也」。

西して河に至り、黃華(山の名)の上に登る。肥義と謀りて胡服騎射もて以て百姓に敎へて、曰く、「愚者 笑ふ所なり、賢者 察するなり。世を驅りて以て我を笑ふと雖も、胡地・中山、吾 必ず之を有たん」と。遂に胡服す。

国人 皆 欲せず、公子成 疾を稱して朝せず。王 人をして之に請はしめて曰く、「家は親(父母)を聽き、国は君を聽く。今 寡人 敎を作りて服を易ふるに公叔 服せず。吾 恐るらくは、天下 己を議するを。国を制むるに常有り、民を利するに本爲り。政に從ひて經有り、行をして上たらしむ。德を明らかにして先に賤を論じ、政に從ひて先に貴うを信ず。故に願はくは公叔の義を慕ひて以て胡服の功を成さんと」と。公子成 再拜し稽首して曰く、「臣 聞くに、中国は、聖賢の敎ふる所なり、禮楽の用ゐる所なり。遠方の觀て赴く所なり、蠻夷の則りて效ふ所なり。今 王 此を舍てて遠方の服を襲ひ、古の道を變へ、人の心に逆らふ。臣 願はくは王 孰れか之を圖らんや」と。使者 以て報ず。王 自ら往きて之を請ひ、曰く、「吾が国 東は斉・中山有り、

趙の都の邯鄲を按ずるに、東は斉に接し、中山は其の東北に在り。故に『史記』趙世家』に、武霊王の言を載せて曰く、「吾が国 東は河・薄落の水有り、斉・中山と與に之を同にす」と。蓋し河・薄落の水 趙の東に在り、斉・中山と與に此の地險を同にするなり。

北は燕・東胡有り、西は樓煩・秦・韓の邊有り。

『史記正義』に曰く、營州之境、卽東胡・烏丸之地。林胡・樓煩、卽嵐・勝之北也。『班志』に、鴈門郡樓煩縣。應劭『註』云、故樓煩胡地。嵐・勝以南、石州離石・藺等、七国時趙邊也、與秦隔河。晋・洺・潞・澤等州、皆七国時韓地、趙之西邊也。

今 騎射の備無くば、則ち何を以て之を守らんか。先時 中山 斉の強兵を負ひ、吾が地を侵暴し、吾が民を係累す。水を引きて鄗を圍む。社稷の神霊微くんば、則ち鄗 幾ど守らざるなり。

鄗、趙邑。漢光武改爲高邑。隋・唐爲柏鄕縣地、唐屬趙州。
武霊王の胡服騎射は、中山国・斉の軍に侵略された経験をふまえて、国防のために仕方なくやった。核兵器に似ている。核兵器を持つことは、道義的に批判をこうむるだろう。しかし核兵器なくして、いかにこの地政学的リスクを引き受けるのか?ムリですよね?という。核武装がよいとは言ってないです。武霊王のロジックを譬えただけです。

先君 之を醜とし(侵略されたことを国家の汚点とし)、故に寡人 服を變じて騎射し、以て四境の難に備へんと、中山の怨に報いんと欲す。而れども叔は中国の俗に順ひ、變服の名を悪み、以て鄗が事の醜を忘る。寡人の望む所に非ざるなり」と。公子成 命を聽き、乃ち胡服を賜はる。明日 服して朝す。是に於て、始めて胡服令を出し、而して騎を招きて射る。

赧王九年(前三○六)

◆甘茂が秦から斉に亡命
秦の昭王は向寿に宜陽を平定させ、樗里子・甘茂に魏を伐たせた。甘茂は王に言い、武遂を以て復た之を韓に歸せしむ。

『史記正義』に曰く、武遂は本は韓に屬し、平陽に近し。『楚世家』云はく、韓の先王の墓 平陽に在り、武遂 之を去ること七十里なり。去年、秦 宜陽を抜き、因りて河を涉りて武遂に城き、今 復た之を韓に歸せしむ。

向寿・公孫奭 之を爭ひ、得る能はず、此に由り怨みて甘茂を讒す。茂 懼れ、輟し魏の蒲阪(のちの河東郡)を伐ち、亡げて去る。樗里子 魏と講話して兵を罷む。甘茂 斉に奔る。

趙王 中山の地を略し、寧葭に至る。西して胡地を略し、榆中に至る。

寧葭について、『水經註』、衡漳水東北歷下博城西、又西逕楽鄕縣故城南、又東引葭水注之。
楡中について、『水經註』、諸次水出上郡諸次山、其水東逕榆林塞、世又謂之榆林山、卽『漢書』所謂「榆溪舊塞」者。自溪西去、悉榆柳之藪、緣歷沙陵、屆龜茲縣西出、故云広長榆也。王恢曰「樹榆爲塞」、謂此。蘇林以爲榆中在上郡、非也。按『始皇本紀』、西北逐匈奴、自榆中並河以東、屬之陰山。然榆中在金城東五十許里、陰山在朔方東、以此推之、不得在上郡。余謂蘇林之說固未爲盡、而道元所謂榆中在金城東五十許里亦非也。據衛青取河南地、案榆溪舊塞、正在唐麟・勝二州界、其西則接古上郡之境。況諸次水出上郡、逕榆林塞入河、則榆中在上郡之東明矣、諸次水無西流至金城・榆中之理。夷考其故、道元特以班『志』金城郡有榆中縣、遂牽合以爲說、不知此一節之誤尤甚於蘇林也。『史記正義』曰、榆中、勝州北河北岸也。杜佑曰、勝州榆林郡南卽秦榆林塞。

林胡王 馬を獻ず、

如淳曰、林胡、卽儋林。余謂此胡種落依阻林薄、因曰林胡。

(趙王が中山の侵略から)歸りて、楼緩をして秦に之かしめ、仇液をして韓に之かしめ、王賁をして楚に之かしむ。

王賁について、康曰、離之父、翦之子。余按離父・翦子、秦将也;此王賁乃趙人、康說非是。胡三省によると、この王賁は、秦将の王賁とは別人。

富丁をして魏に之かしめ、趙爵をして斉に之かしむ。代相の趙固 胡を主り、其の兵を致らしむ。

楚王 斉・韓と合從す。

楚は、斉・韓と合従したが、すぐに叛いた。適足致斉・韓之兵耳(ただ斉・韓の兵を致せば十分?だった)


赧王十年(前三○五)

彗星が出現した。
趙王 中山を伐ち、丹丘(漢の中丘県)・爽陽・鴻の塞を取り、又 鄗・石邑・封龍・東垣を取る。中山 四邑を獻じて以て和す。

「爽陽・鴻之塞」は、『史記』では「華陽・鴟之塞」につくる。ほかの地名についての胡三省注を省く。


秦の宣太后の異父弟を穰侯の魏冉と曰ひ、同父弟を華陽君の羋戎と曰ふ。王の同母弟を高陵君・涇陽君と曰ふ。魏冉 最も賢たり、

秦封穰侯於陶、陶卽范蠡所居陶邑。孟康曰、陶卽定陶。班『志』、定陶縣屬濟陰郡。下云封於穰與陶;穰縣屬南陽郡、去定陶差遠。『水經註』曰、穰侯封於穰、益封於陶;其免相也、出之陶而卒。陶有穰侯冢。華陽、卽武王歸馬之地。『水經註』、洛水自上洛縣東北分爲二水、枝渠東北出爲門水、水東北歷陽華之山、卽華陽也。班『志』、高陵縣屬馮翊、涇陽縣屬安定。杜佑曰、京兆涇陽縣乃秦封涇陽君之地。漢涇陽縣在今平涼郡界涇陽故城是也。宋白曰、雍州涇陽本秦舊縣。與杜佑同。『索隱』曰、高陵君、名顕;涇陽君、名悝。

恵王(恵文王)・武王の時より、職に任じ事に用ふ。武王 薨ずるや、諸弟 爭ひて立ち、唯だ魏冉のみ力めて能く昭王(昭襄王)を立つ。昭王 卽位するや、魏冉を以て将軍と爲し、咸陽を衛らしむ。是の歳、庶長壮及び大臣・諸公子 謀りて乱を作し、魏冉 之を誅す。恵文后(昭王の嫡母)に及ぶまで皆 良き死を得ず、悼武王后(秦武王后、昭王嫂也)居を魏に出す。王の兄弟 善からざる者は、魏冉 皆 之を滅す。王 少ければ、宣太后 自ら事を治め、魏冉を任じて爲政せしめ、威は秦国を震はす。

范雎が魏冉と対立する張本である。


赧王十一年(前三○四)

秦王・楚王 黄棘(南陽郡棘陽県)に盟ふ。
秦 復た楚に上庸を與ふ。

赧王三年、秦 楚師を敗り、屈匄を虜へ、楚の上庸を取る、とあった。


赧王十二年(前三○三)

彗星が出現した。
秦 魏の蒲阪・晋陽・封陵を取る。

「晋陽」は『史記』世家では、「陽晋」に作る。その地は、蒲阪の東、風陵の西、大河の陽(北)であるはず。もとは晋の地であり、ゆえにこれを陽晋といった。蘇秦が言った、「陽晋の道を衛る」はこれであり、蓋し魏境を以て陽晋有り、故に衛境に在る者は「衛陽晋」と稱して以て之を区別した。

又 韓の武遂を取る。

赧王九年、秦 韓に武遂を歸す、とあった。

斉・韓・魏は楚を以て其の從親に負き、兵を合はせて楚を伐つ。

赧王九年、楚 斉・韓と合從し、蓋し卽ち之に負くなり。

楚王 太子橫をして秦に質と爲して以て救を請ふ。秦の客卿の通 兵を将ゐて楚を救ひ、三国 兵を引きて去る。

赧王十三年(前三○二)

秦王・魏王・韓の太子嬰 臨晋に会し、韓の太子 咸陽に至りて歸る。秦 復た魏に蒲阪を與ふ。

去年、秦 魏の蒲阪を取りしなり。


秦の大夫に私かに楚の太子と鬬ふ者有り。太子 之を殺し、亡げ歸る。

楚の太子 秦に質たりて亡げ歸り、復た斉に質たり。秦 以て言を爲して誘ひて其の父を陷れ、斉 其の父に乘じて之に要むるに利を以てす。


赧王十四年(前三○一)

日の之を食する有り、旣なり。
秦人 韓の穰を取る。

『班志』によると、穰縣は南陽郡に屬す。時を以て之を考ふるに、當に楚に屬すべし。然るに韓 潁川の地を得て、南陽と境を接す。七国の兵爭、疆埸の間、一彼一此なり。或いは此の時 穰は韓に屬せしか。


蜀守の煇 秦に叛す。秦の司馬錯 往きて之を誅す。

蜀守は、蜀の郡守である。『史記』秦紀』では、「蜀侯」に作る。『華陽国志』では、秦が王子煇を封じて蜀侯としたと。蜀侯 祭り、胙を王に歸す。後に母 之を疾し、毒を加へて以て進む。王 大いに怒り、司馬錯をして煇劍を賜はらしむ。

秦の庶長奐 韓・魏・斉の兵に会して楚を伐つ、

楚太子の亡歸せしの怨を修むなり。

其の師を重丘に敗り、其の将の唐昩を殺す。遂に重丘を取る。

春秋之時、有二重丘、衛孫蒯飲馬於重丘、杜預曰、曹邑;諸侯同盟于重丘、杜預曰、斉地。時楚之境皆不至此。『呂氏春秋』曰、斉令章子與韓・魏攻荊、荊使唐薎将兵應之、夾泚而軍;章子夜襲之、斬薎於是水之上。『水經註』曰、泚水又西、澳水注之。水北出茈丘山、南入于泚水。意者重丘卽茈丘也。
……「昩」、『荀子』作「蔑」、楊倞『註』曰、與「昩」同、語音相近、當音末。

趙王 中山を伐ち、中山君 斉に奔る。

赧王十五年(前三○○)

秦の涇陽君 斉に質と爲る。
秦の華陽君 楚を伐ち、大いに楚師を破り、斬首すること三萬、其の将の景缺を殺し、楚の襄城(潁川郡)を取る。

『班志』に、襄城縣屬潁川郡、有西不羹、楚霊王所謂「大城陳・蔡・不羹、賦皆千乘」是也。陸德明曰、不羹、舊音郎;『漢書‧地理志』作「更」字。

楚王 恐れ、太子をして斉に質たらしめ以て平を請ふ。

楚の懐王が秦に入って死に、斉は太子を留めて楚に邀ふ張本である。

秦の樗里疾 卒し、趙人の楼緩を以て丞相と爲す。

趙の武霊王 少子の何を愛し、其の生まるるに及びて之を立てんと欲す。

及其生者、及其生而親見之。
年末にこの記事がぶら下がっているのは、翌年の武霊王の退位に繋ぐため。


赧王十六年(前二九九)

◆趙の武霊王の退位
五月戊申、(燕で)大いに東宮に朝し、国を何に傳へ、王 廟見(始めて卽位して祖廟に見ゆるなり)して禮 畢はり、出でて臨朝す。大夫 悉く臣と爲る。肥義 相国と爲り、幷せて王に傅たり。武霊王 自ら「主父」と號す。

主父、言爲国之主之父也。一曰、言其子主国而己則父也。

主父 子をして国を治めしめんと欲し、身づから胡服し、士大夫を将ゐて西北のかた胡の地を略す。将に雲中・九原より南して咸陽を襲はんとし、是に於て詐きて自ら使者と爲り、秦に入る。以て秦の地形及び秦王の人と爲りを觀んと欲す。秦王 知らず、已にして其の狀 甚偉にして、人臣の度に非ざるを怪しむ。

賓主相見、交際之禮已、方怪其非人臣。

人をして之を逐はしむ。主父 行きて已に関を脫す。審らかに之を問ふに、乃ち主父なり。秦人 大いに驚く。

斉王・魏王 韓に会す。

◆楚王に秦に入国する
秦人 楚を伐ち、八城を取る。秦王 楚王に書を遺りて曰く、「始め寡人 王と約して兄弟と爲り、黄棘に盟ふ(赧王十一年)。太子 質に入り、驩(やは)らぐに至るなり(赧王十二年)。太子 寡人の重臣を陵殺し、謝らずして亡げ去る(赧王十三年)。寡人 誠に怒りに勝へず、兵をして君王の邊を侵せしむ(重丘で戦い、襄城を取った)。今 聞くに君王 乃ち太子をして斉に質として以て平を求む(赧王十五年)。寡人 楚と境を接し、婚姻して相 親しむ。

胡三省が考えるに、張儀は「秦・楚嫁女娶婦爲昆弟の国」と言っている。史書から考えるに、赧王四年よりこの年に至るまで、秦・楚はまだ婚姻を結んでいない。赧王十九年に至り、楚の懐王が秦で死んだ。赧王二十三年に至り、楚の襄王が秦から婦人を迎えた。けだし先に婚約だけし、楚の襄王の喪が終わってから、はじめて婦人を迎えて婚姻が成立したのだろう。

而今 秦・楚 驩(やは)らがざれば、則ち以て諸侯に令する無し。寡人 願はくは君王と武関に会し、面して相 約し、盟を結びて去ること、寡人の願ひなり」と。

楚王 之を患ひ、往かんと欲するも欺かるるを恐れ、往かざらんと欲するも秦の益々怒るを恐る。昭睢曰く、「行く毋くして兵を發して自守するのみ。秦は、虎狼なり。諸侯を幷すの心有り、信ず可からざるなり」と。懐王の子の 王に行くことを勸め、王 乃ち秦に入る。秦王 一将軍をして詐はりて王と爲らしめ、兵を武関に伏せ、楚王 至らば則ち関を閉ぢて之を劫し、與に俱に西せしめ、咸陽に至り、章臺に朝せしめ、藩臣の禮が如くす。

秦章臺宮在渭南。漢張敞走馬章臺街、孟康曰、在長安中;臣瓚曰、街在章臺下。漢長安在渭南、以此言之、章臺宮在渭南明矣。

要むるに巫・黔中郡を割くを以てす。楚王 盟はんと欲し、秦王 先に地を得んと欲す。楚王 怒りて曰く、「秦 我を詐き、而も又 強ひて我に要むるに地を以てするか」と。因りて復た許さず。秦人 之を留む。

楚の大臣 之を患ひ、乃ち相 與に謀りて曰く、「吾が王 秦に在りて還るを得ず、要むるに地を割くを以てし、而して太子 斉に質と爲る。斉・秦 謀を合すれば、則ち楚 国無からん」と。王子の国に在る者を立てんと欲す。昭睢曰く、「王 太子と與に俱に諸侯に困し、今 又 王命に倍きて其の庶子を立つるは、宜しからず」と。乃ち詐りて斉に赴く。

詐はりて楚王 薨じて太子に還りて楚に王たらんことを請ふと言へり。

斉の湣王 羣臣を召して之を謀る。或もの曰く、「若かず、太子を留めて以て楚の淮北を求むるに」と。

楚 陳・蔡を滅し、封は汝に畛(いた)り、越を滅し、呉の故地を取る、幷せて古の徐夷の地有り。皆 淮北に在り、卽ち楚の謂ふ所の「下東国」なり。

斉相曰く、「可からず。郢中に王を立つれば、

郢は、楚の都。班『志』、南郡江陵縣、故楚郢都、楚文王自丹陽徙此。後九世、平王城之;又後十世、秦抜之、東徙寿春、亦名曰郢。『水經』、江水東逕江陵縣故城南、又東逕郢城南。『註』云、今江陵城、楚船官地、春秋之渚宮。郢城卽子囊遺言所城者。

是れ吾 空質を抱きて不義を天下に行ふなり」と。其の人曰く、「然らず。郢中に王を立つれば、因りて其の新王と市(か)へて(取引して)曰く、『我(斉)に下東国(淮北)を予ふれば、吾 王(庶子の楚王)の爲に(斉に人質の)太子を殺さん。然らずんば、将に三国(斉・韓・魏)と與に共に之を(国外で正当な楚王に)立てんと』」と。

市は、相 要むるに利を以てするを謂ひ、巿道が如きなり。予は、讀みて與と曰ふ。三国は、斉・韓・魏を謂ふなり。
楚では、王を秦に奪われ、太子は斉にいる。楚でやむなく庶子の王を立てたら、斉がその太子を利用して、庶子の王から領土を奪ってやろう。庶子の王は、自分の立場を守るために、淮北を斉に差し出すだろうと。秦が楚王を抑留したことを利用し、斉が楚の弱みにつけこみ、利益を得ようとしている。

斉王 卒に其の相が計を用ひて楚の太子を歸す。楚人 之を立つ。

秦王 孟嘗君の賢を聞きて、涇陽君をして斉に質と爲して以て請ふ。孟嘗君 來たりて秦に入り、秦王 以て丞相と爲す。

赧王十七年(前二九八)

◆孟嘗君が鶏鳴狗盗で秦王から脱出
或ひと秦王に謂ひて曰く、「孟嘗君 秦に相たらば、必ず斉を先とし秦を後とせん。秦 其れ危ふきかな」と。秦王 乃ち楼緩を以て相と爲し、孟嘗君を囚へ、之を殺さんと欲す。

『史記』孟嘗君列伝に見えること。

孟嘗君 人をして解かんことを秦王の幸姬に求めしむ。姬曰く、「願はくは君の狐白裘を得ん」と。

狐白裘は、緝狐掖之皮爲之、所謂千金之裘非一狐之掖者也。

孟嘗君 狐白裘有り、已に之を秦王に獻じ、以て姬の求めに應ずる無し。客に善く狗盜を爲す者有り、秦の藏中に入り、狐白裘を盜みて以て姬に獻ず。姬 乃ち之が爲に王に言ひて之を遣らしむ(孟嘗君を釈放させた)。王 後に悔い、之を追はしむ。孟嘗君 関に至り、関の法に、雞鳴にして客を出すと。時に尚蚤にして、追ふ者 将に至らんとす。客に善く鶏鳴を爲す者有り、野雞 之を聞きて皆 鳴き、孟嘗君 乃ち脫して歸るを得たり。

楚人 秦に告げて曰く、「社稷の神霊に賴り、国に王有らん」と。秦王 怒り、兵を發して武関を出でて楚を撃ち、斬首すること五萬、十六城を取る。

◆平原君が公孫龍・鄒衍を食客とする
趙王 其の弟を封じ、平原君と爲す。

『班志』に、平原縣屬平原郡。勝封於東武城、號平原君、非封於平原也。東武城屬清河郡、杜佑曰、今貝州武城縣是也。蓋定襄有武城、時同屬趙、故此加「東」也。

平原君 士を好み、食客 嘗て数千人なり。公孫龍なる者有り、善く堅白同異の辯を爲す。

『漢書‧藝文志』、『公孫龍子』十四篇。『註』云、卽爲堅白同異之辯者。成玄英『荘子疏』云、公孫龍著『守白論』、行於世。堅白、卽守白也、言堅執其說、如墨子墨守之義。自堅白之論起、辯者互執是非、不勝異說。公孫龍能合衆異而爲同、故謂之同異。『史記註』曰、『晋太康地記』云、汝南西平縣有龍淵、水可用淬刀劍、極堅利、故有堅白之論云、黄、所以爲堅也;白、所以爲利也。或曰、黄所以爲不堅、白所以爲不利。二說未知孰是。勝、音升。淬、取内翻。

平原君 之を客とす。孔穿 魯より趙に適き、

按『孔叢子』、孔穿、孔子之後。孫愐曰、孔姓、殷湯之後、本自帝嚳元𡚱簡狄、吞乙卵生契、賜姓子氏;至湯、以其祖感乙而生、故名履、字天乙;後代以「子」加「乙」、始爲孔氏。至宋孔父遭華督之難、其子奔魯、故孔子生於魯。愐、彌兗翻。嚳、苦沃翻。華、戶化翻。難、乃旦翻。

公孫龍と臧三耳を論ず。龍 甚だ辯析たり。

三耳、如『荘子』所載雞三足之說。『荘子疏』謂数起於一、一與一爲二、二與一爲三、三名雖立、實無定體、故雞可以爲三足、則兩耳・三耳、其說亦猶是耳。一說︰耳主聽、兩耳、形也、兼聽而言、可得爲三。臧、臧獲之臧。臧獲、奴婢也。
辯、別也;析、分也;言分別甚精微也。

子高(孔穿の字)應ずる弗く、俄かにして辭して出で、明日に復た平原君に見ゆ。平原君曰く、「疇昔(朝夕)に公孫の言 信辯なり、先生 以て何如と爲すや」と。対へて曰く、「然り。幾ど能く臧三耳ならしむ。然りと雖も、實に難し。僕 願はくは得て又 君に問ふ、今 三耳 甚だ難くして實に非なるを謂ひ、兩耳 甚だ易くして實に是なるを謂ふなり。知らず君 将に易に從ひて是とする者なるや、其れ亦た難に從ひて非なる者なるや」と。平原君 以て應ふる無し。明日、公孫龍に謂ひて曰く、「公 復た孔子と高く辯事する無きなり。其れ人の理 辭に勝り、公の辭 理に勝る。終に必ず詘を受けん」と。

鄒衍 趙を過り、平原君 公孫龍と白馬非馬の說を論ぜしむ。

此亦『荘子』所謂狗非犬之說。『疏』云、狗之與犬、一實兩名、名實合、則此爲狗、彼爲犬;名實離、則狗異於犬。又『墨子』曰、狗、犬也。然[殺]狗非狗[殺]犬也。大指與白馬非馬之說同。

鄒子曰、「不可。夫辯者、別殊類使不相害、序異端使不相乱。抒意通指、〈夫、音扶。別、彼列翻。『索隱』曰、抒、音墅、抒者舒也;又常恕翻。康曰、亦音舒。〉明其所謂、使人與知焉、不務相迷也。〈與、音如字;又讀曰預。〉故勝者不失其所守、不勝者得其所求。〈辯以求是、辯雖不勝而得審其是、所謂得其所求也。〉若是、故辯可爲也。及至煩文以相假、飾辭以相惇、〈惇、都昆翻、迫也、詆也、誰何也。〉巧譬以相移、引人使不得及其意、如此害大道。夫繳紉〈【章、十二行本「紉」作「紛」;乙十一行本同;孔本同;熊校同。】〉爭言而競後息、〈『索隱』、繳、音糾;康吉弔切、非。言其言戾、紛然而爭、欲人先屈、務在人後方止也。〉不能無害君子、衍不爲也」。座皆稱善。〈言一座之人皆稱衍言爲善。〉公孫龍由是遂詘。〈『通鑑』書此、言小辯終不足破大道。絀、音敕律翻。『說文』曰、絀、貶下也。又讀與屈同。220316

鄒衍のところをはぶく。『資治通鑑』のこの巻の最後だから、公孫龍・鄒衍がぶら下げられているだけ。別に読解すべし。

張儀について(上で省いたもの)

張儀の事績

張儀遂之韓、說韓王曰、「韓地險悪山居、〈之、如也、自楚如韓也。韓有宜陽・成皋、南盡魯陽、皆山險之地。說、式芮翻。〉五穀所生、非菽而麥、〈菽、式竹翻、豆也。〉国無二歲之食;見卒不過二十萬。〈見卒、見在之兵。見、賢遍翻。〉秦被甲百餘萬。〈被、皮義翻。〉山東之士被甲蒙胄以會戦、秦人捐甲徒裼以趨敵、〈胄、今謂之兜鍪。捐、與專翻、棄也。徒、徒行也。裼、音錫、袒也。趨、七喻翻。鍪、音牟。〉左挈人頭、右挾生虜。夫戦孟賁・烏獲之士以攻不服之弱国、〈挾、戶頰翻。孟賁・烏獲、古之勇士。賁、音奔。〉無異垂千鈞之重於鳥卵之上、必無幸矣。〈三十斤爲鈞。必無幸矣、言無幸而獲全之理。〉大王不事秦、秦下甲據宜陽、塞成皋、〈下、遐稼翻。塞、悉則翻。〉則王之国分矣、鴻臺之宮、桑林之苑、非王之有也。爲大王計、莫如事秦以攻楚、以轉禍而悅秦、計無便於此者!」韓王許之。
張儀歸報、秦王封以六邑、號武信君。復使東說斉王曰、「從人說大王者〈復、扶又翻。從人、合從之人也。從、子容翻。說、式芮翻。〉必曰、『斉蔽於三晋、地廣民衆、兵強士勇、雖有百秦、将無柰斉何。』大王賢其說而不計其實。今秦・楚嫁女娶婦、爲昆弟之国;韓獻宜陽;梁效河外;〈河外、秦蓋以河東爲河外、梁則以河西爲河外、張儀以秦言之也。〉趙王入朝、割河間以事秦。〈朝、直遙翻。河間、趙地。漢文帝二年、分爲河間国。應劭曰、在兩河之間。唐爲瀛州。〉大王不事秦、秦驅韓・梁攻斉之南地、 〈漢泰山・城陽、斉南境之地也。〉悉趙兵、渡清河、指博関、臨菑・卽墨非王之有也!〈博関在濟州西界之博陵。『史記正義』曰、博関在博州。趙兵從貝州渡清河指博関、則漯河以南臨菑・卽墨危矣。濟、子禮翻。漯、託合翻。〉国一日見攻、雖欲事秦、不可得也!」斉王許張儀。
張儀去、西說趙王曰、「大王收率天下以擯秦、秦兵不敢出函谷関十五年。〈擯、必刃翻。事見上巻顕王三十六年。〉大王之威行於山東、敝邑恐懼、〈春秋以來、列国交聘、行人率自稱其国曰敝邑。〉繕甲厲兵、力田積粟、愁居懾處、不敢動搖、〈懾、之涉翻、怖也、心伏也、失常也、失氣也。處、昌呂翻。〉唯大王有意督過之也。〈師古曰、督過、視責也。『索隱』曰、督者、正其事而責之;督過、是深責其過也。〉今以大王之力、舉巴・蜀、〈事見愼靚王五年。〉幷漢中、〈事見上二年。〉包兩周、〈元年服韓・魏、則包兩周矣。〉守白馬之津。〈班『志』、白馬縣屬東郡。『水經註』、白馬津在白馬城之西北。白馬城、唐爲滑州治所。『開山圖』曰、白馬津東可二十許里、有白馬山、山上常有白馬羣行、悲鳴則河決、馳走則山崩、後人因以名縣及津。按『通鑑』不語怪、今此註亦近於怪、姑以廣異聞耳。〉秦雖僻遠、然而心忿含怒之日久矣。今秦有敝甲凋兵軍於澠池、〈敝、敗悪也。凋、瘁也、半傷也。敗甲凋兵、謙其辭、言軍於澠池、則張其勢以臨趙矣。康曰、澠池、趙邑。余據趙與韓・魏接境、韓有野王・上黨、魏有河東・河内、而澠池則秦地也、漢爲縣、屬弘農郡、趙安能越韓・魏而有之!康說非是。澠、莫善翻;又莫忍翻。〉願渡河、踰漳、據番吾、〈言欲自澠池北渡河、又自此東踰漳水而進據番吾、此亦張聲勢以臨趙也。番吾、卽漢常山郡之蒲吾縣也。劉昭『註』曰、『史記』番吾君、杜預云、晋之蒲邑也。此說非。『括地志』、番吾故城、在恆州房山縣東二十里。番、音婆、又音盤。〉會邯鄲之下、願以甲子合戦、正殷紂之事。〈武王伐紂、癸亥陳于商郊、甲子昧爽、紂帥其旅若林、會于牧野、前徒倒戈、攻其後以北、遂以勝殷殺紂。張儀引以懼趙、其有所侮而動、亦已甚矣。邯鄲、趙都、音寒丹。〉謹使使臣先聞左右。〈使臣、上疏吏翻。〉今楚與秦爲昆弟之国、而韓・梁稱東藩之臣、斉獻魚鹽之地、〈斉東瀕于海、海濱廣斥、魚鹽所出也。此時斉未嘗獻地于秦、張儀駕說以恐動趙耳。〉此斷趙之右肩也。夫斷右肩而與人鬬、〈夫、音扶。斷、丁管翻。〉失其黨而孤居、求欲毋危得乎!今秦發三将軍、其一軍塞午道、〈『索隱』曰、午道當在趙之東、斉之西。午道、地名也。鄭玄云、一縱一橫爲午、謂交道也。塞、悉則翻。〉告斉使渡清河、軍於邯鄲之東、〈邯鄲、音寒丹。〉一軍軍成皋、驅韓・梁軍於河外、〈『史記正義』曰、河外、謂鄭滑州、北臨河。余謂此河外、亦因趙而言之。〉一軍軍於澠池、約四国爲一以攻趙、趙服必四分其地。〈言秦約斉・韓・魏四分趙地。〉臣竊爲大王計、莫如與秦王面相約而口相結、常爲兄弟之国也」。趙王許之。〈當時趙於山東最強、且主從約、張儀說之、亦費辭矣。〉
張儀乃北之燕、〈燕、因肩翻。〉說燕王曰、「今趙王已入朝、効河間以事秦。〈張儀自趙至燕、借此氣勢而爲是虛言以動燕耳。朝、直遙翻。〉大王不事秦、秦下甲雲中・九原、〈『虞氏記』曰、趙自五原河曲築長城、東至陰山、又於河西造大城、一箱崩不就、乃改卜陰山河曲而禱焉。晝見羣鵠遊於雲中、徘徊經日、見大光在其下、乃卽其處築城、今雲中城是也。余謂此亦語怪、酈道元爲後魏書之耳。宋白曰、勝州榆林縣界有雲中古城、趙武侯所築、秦置雲中郡、唐爲單于都護府。班『志』、九原縣屬五原郡。漢之五原、卽秦之九原郡也。唐爲豐・鹽等州之地。宋白曰、唐豐州治九原縣。按雲中九原、皆在燕之西、秦自上郡朔方下兵則可至。『史記正義』曰、古雲中・九原郡皆在勝州。雲中郡故城在榆林東北四十里。九原郡故城在勝州西界、今連谷縣是。下、遐稼翻。元爲、于僞翻。〉驅趙而攻燕、則易水・長城非大王之有也!〈『水經註』、易水出涿郡故安縣閻鄕西山、東屆関城西南、卽燕長城門也。易水又歷長城而東過范陽・容城・安次・泉州縣南而東入海。〉且今時斉・趙之於秦、猶郡縣也、不敢妄舉師以攻伐。今王事秦、長無斉・趙之患矣」。〈以利動之。〉燕王請獻常山之尾五城以和。〈常山、卽北嶽恆山也。漢文帝諱恆、改曰常山、置常山郡。班『志』、常山在常山郡上曲陽縣西北、其尾則燕之西南界。〉


張儀の死亡に絡めて

孟子論之曰、或謂、「公孫衍・張儀豈不大丈夫哉!一怒而諸侯懼、安居而天下熄」。〈熄、滅也、火滅爲熄。此言天下兵革之事熄滅也。〉孟子曰、「是悪足爲大丈夫哉!〈悪、音烏。〉君子立天下之正位、行天下之正道、得志則與民由之、不得志則獨行其道、富貴不能淫、貧賤不能移、威武不能詘、〈詘、與屈同。〉是之謂大丈夫」。 揚子『法言』曰、或問、「儀・秦學乎鬼谷術而習乎縱橫言、安中国者各十餘年、是夫?」〈夫、音扶。〉曰、「詐人也、聖人悪諸」。〈悪、烏路翻。〉曰、「孔子讀而儀・秦行、〈謂讀孔子之言而行儀・秦之事。〉何如也?」曰、「甚矣鳳鳴而鷙翰也!」〈翰、侯旰翻、又侯安翻、羽翰。〉「然則子貢不爲歟?」曰、「乱而不解、子貢恥諸。〈太史公曰、子貢一出、存魯、乱斉、破吳、強晋而霸越。溫公曰、考其年與事皆不合、蓋六国遊說之士託爲之辭、太史公不加考訂、因而記之;揚子雲亦據『太史公書』發此語也。說、式芮翻。〉說而不富貴、儀・秦恥諸」。〈說、式芮翻。〉或曰、「儀・秦其才矣乎、跡不蹈已?」〈宋咸曰、蹈、踐也;言儀・秦之才術超卓、自然不踐循舊人之跡。踐、慈演翻。〉曰、「昔在任人、帝而難之。〈『書‧舜典』、而難任人。孔安国『註』云、任、佞也;難、拒也;言佞人則斥遠之。任、音壬。難、乃旦翻。〉不以才乎?才乎才、非吾徒之才也!」