いつか書きたい三国志

『春秋左氏伝』哀公元年を読む

哀公 経元年

哀公は、名を蒋という。定公の子。母は定姒。
在位は前四九四~四六八年。

元年、春、王の正月、公 位に即く。
楚子・陳侯・隨侯・許男、蔡を圍む。
鼷鼠 郊牛を食(は)む。改めて牛を卜す。
夏、四月辛巳 郊す。
秋、齊侯・衞侯 晉を伐つ。
冬、仲孫何忌 師を帥ゐて邾を伐つ。

哀公 伝元年

哀公元年春

傳元年、春、楚子(昭王)が蔡を圍んだ。(定公四年の)柏舉の戦いへの報復である。(蔡の城から)一里のところに栽した(塁を巡らせた)。廣さ(塁の厚さ)は一丈で、高さはその倍であった。人夫が集まって、昼夜九日かかかった。これは子西(楚の令尹)(見積もり)どおりであった。蔡人は男女(別々に分かれて)(投降)した。江水と汝水の間に疆(さかひ)せしめて(移らせて)引き上げた。蔡はここにおいて呉に(別の地に)遷りたいと願い出た。

吳王夫差は越を(呉の)夫椒で破った。(定公十四年の)檇李の戦いへの報復である。遂に(勢いに乗って)越に(攻め)入った。越子(句践)は五千の兵士を率いて、會稽(山)に立て籠もった。大夫種に命じて吳の大宰嚭を頼って和睦を結ばせようとした。吳子(夫差)はこれを許そうとした。
ところが伍員(伍子胥)が、「いけません。臣の聞くところでは、德を樹つるは滋(しげ)くするに如くは莫く、疾(やまひ)を去るは盡くすに如くは莫しと。昔 有過の澆は、斟灌を殺して以て斟鄩を伐つ。夏后相を滅ししとき、后緡 方に娠(はら)あり。竇より逃げ出でて、有仍に歸り、少康を生む。仍の牧正と為り、澆を惎(にく)みて能く之に戒(そな)ふ。澆 椒をして之を求めしむ。有虞に逃げ奔り、之が庖正と為り、以て其の害を除く。虞思 是に於て之を妻はすに二姚を以てして、諸(これ)を綸に邑せしむ。田一成有り、眾一旅有り。能く其の德を布き、其の謀を兆(はじ)め、以て夏の眾を收め、其の官職を撫で、女艾をして澆を諜(うかが)はしめ、季杼をして豷を誘(いざな)はしめ、遂に過・戈を滅し、禹の績を復して、夏を祀りて天に配し、舊物を失はざりき。

有過の(君主の)澆(ぎょう)は、斟灌(の君主)を殺して以て斟鄩(の国)を討伐した。夏后相(夏の君主の相)を滅ぼしたとき、(夫人の)后緡は妊娠していた。竇(水門)から逃げ出して、(郷里の)有仍に帰り、少康を生んだ。(少康は)仍の牧正(統治官)となり、有澆をにくんで警戒しました。有澆は(臣下の)椒に命じて少康を求めた(捕らえようとした)。(少康は)有虞に逃げ奔り、そこの庖正(料理長)となり、降りかかる災難を避けた。虞思(有虞の君主の思)はやがて二人の娘を少康にめあわせ、かれを綸という邑に領地を与えた。田地は一成(十里四方)あり、兵は一旅(五百人)がいた。よく徳をほどこし、(夏を再興する)計画を始め、夏の衆(遺民)を集め、もとの官職を撫で(復活して旧人を任用し)、女艾に命じて澆の様子をさぐらせ、季杼(少康の子)に命じてをして豷(澆の弟)を誘い出させ、ついに過(豷の国)と戈(豷の国)を滅ぼし、(夏の始祖)禹が治めた旧国を復興し、夏の祖先を祭って天帝のもとに配し、旧領土を失わなかった。

いま吳は過(の国)に及ばず、越は少康よりも強大です。それなのに(和睦を許して)越の強大化を助長するのは、危険ではありませんか。句踐はひとに親しんで努めて恩恵を施しています。恩恵は相手をまちがえず、親愛は苦労をいといません。呉はわが国と同壤(領土が地続きで)、代々の仇敵です。いま(呉が越に)勝っても取り潰さず、存続させようとしている。天の心に叛いて仇敵を強大にするものです。後悔しても、禍いを消せません。姫姓の国(呉)の滅亡は、その日が迫るでしょう。蛮夷に(領土が)挟まっておりながら、仇敵を強大にするなら、伯(覇者)になろうとしても、できません」と言った。
伍員は引き下がって人に告げた。「越が(今後)十年で人口を増やして、さらに十年で教導するならば、二十年後には、呉は(越に滅ぼされ)沼地になるだろう」と言った。三月、越は呉と和平を結ぶに及んだ。

『国語』越語下に、越が民を増やすことに成功した表現がある。壮者に命じて老婦を取(めと)ること無く……、

呉が越に入ったことが(経文に)書いていないのは、呉が(戦勝の)慶びを(魯に)告げず、越が(魯に)敗北を告げなかったからだ。

哀公元年夏

夏、四月。齊侯・衞侯が邯鄲を救って、(晋の)五鹿を囲んだ。

吳が楚に攻め入ったとき(定公四年)、呉は陳の懐公を呼び付け(呉に従わせようとし)た。懐公は国の人々を朝廷に集めて(呉に赴くことの可否を)尋ねた。「楚につきたいものは右、呉につきたいものは左に並べ」と。陳の人は田(の位置)に従った(西の所有者は楚、東の所有者は呉に味方すると表明した)。田が無いものは所有する同族に従った。
逢滑(陳の大夫)は(左右どちらもに並ばず)懐公に向けて進み、「私の聞くところでは、国が興隆するときは(天が)福を与え、国が滅亡するときは(天が)禍いを与えるそうです。いま呉には福がないが、楚には禍いもない。楚を捨てるべきでなく、呉に従うべきでもない。そして晋は盟主です。もし晋(と関係があること)を理由に(呉との関係を)拒絶したら、呉はどう出るでしょうか」と言った。
懐公は、「(呉)国は勝ち(陳の)君主は逃げ去った。楚に禍いがないとはどういう意味か」と。逢滑は答えた。「国には(この程度のことなら)頻繁に起こります。どうして復興せぬことがあるでしょう。小国ですら復興するのですから、まして大国ならば尚更です。私が聞きますに、国が興隆するときは、視民如傷(民を負傷者のようにいたわり)、これは福です。国が滅亡するときは、民を土芥のように扱い、これは禍いです。楚には(民をいたわるような)徳がないが、民を艾殺(土や芥のように斬り殺す)こともありません。呉は日ごとに軍事に疲れ、戦死者の骨をくさむらにさらし、(呉の)徳を見たことがありません。もしかしたら天が楚の過ちを正し導こうとしているのかも知れません。禍いが呉に降りかかるのは、時間の問題でしょう」と言った。
陳侯はこれに従った。夫差が越に勝つに及び、先君(闔閭)の怨みを脩める(報いる)ことができた。

哀公元年秋

秋、八月。呉は陳を侵略したが、それは舊怨を脩む(旧怨を晴らした)ものである。

先君(呉の闔閭)が陳を呼び寄せても、陳が呉に来朝しなかったことを指す。


齊侯・衞侯が乾侯で会合したが、(晋を)范氏から救うためであった。(魯の)軍は、斉の軍・衛の孔圉・鮮虞の人と晋を討伐して、棘蒲を占領した。

呉の軍は陳にいた(引き上げなかった)。楚の大夫は皆 懼れて曰く、「(呉の)闔廬はただその民をうまく運用しただけで、わが柏挙を破った(定公四年)。いま聞くに、後嗣(夫差)はそれ以上(に優れている)とのこと。どうしたものか」と言った。 (令支の子西は、「二三子(あなたがた)は互いの不仲を心配すべきで、呉を心配しなくてよい。むかし闔閭は二品を食べることなく、居所に敷物を重ねなかった。部屋は低いつくりで階段を高くせず、器物は朱塗りや彫刻をしなかった。宮室は見栄えがよくなく、舟や車は飾りがなく、衣服は節約して、費用をかけないようにした。国内にいては、天が病気をおこせば、みずから孤児や未亡人を見回りし、困窮者に施した。軍内にいては、よく煮えたものを兵士に与えてから自分が食べ、自分の口にするものは、兵士にも分け与え、民をあわれみ、苦労をともにした。(民は)疲れを知らず、死んでも虚しいと思わなかった。(ところが)わが先の(亡き楚の)大夫の子常はこれと正反対のことをした。これがわが楚国が(呉の闔閭に)負けた理由である。

明解すぎるロジック。それほど難しい字も使われていない。読みやすすぎるから、前漢にテキストが整えられたことを疑ってしまう。

いま夫差を聞けば、(数泊の宿)にも高い物見台や池を作らせており、宿(一泊の宿)にも宮女を侍らせている。一日の行(日帰りの移動)でも、やりたいことをすべて実現し、遊び道具をはこび、珍しい食べ物を集め、観光と娯楽を第一としている。視民如讎(民を仇のようにあしらい)、その酷さは日に日に増している。きっと(夫差は)自滅するに違いない。どうして我ら(楚)を破ることができようか」と。

哀公元年 冬

冬、十一月、晋の趙鞅は朝歌を伐った。220321