いつか書きたい三国志

『春秋左氏伝』哀公三年・四年を読む

哀公 経三年

三年春、齊の國夏・衛の石曼姑、師を帥ゐて戚を圍む。
夏四月甲午、地 震ふ。
五月辛卯(二十八日)、桓宮・僖宮 災あり。
季孫斯・叔孫州仇、師を帥ゐて啓陽に城く。
宋の樂髠 師を帥ゐて曹を伐つ。
秋七月丙子、季孫斯 卒す。
蔡人、其の大夫の公孫獵を呉に放つ。 冬十月癸卯、秦伯 卒す。
叔孫州仇・仲孫何忌、師を帥ゐて邾を圍む。

哀公 伝三年

哀公三年春

三年春、斉・衛が(衛の太子の蒯聵の留まっている)戚を囲んで、救援を中山に求めた。

哀公三年夏

◆魯で火災が起こる
夏五月辛卯(二十八日)、司鐸(役所の名)から出火し、火は公宮をこえ、桓公・僖公の廟にも火が移った。火を消しにきたものはみな、「府を顧みよ(くらに気を配れ)」と言った。
南宮敬叔がやってきて、周人(周の典籍をつかさどる役人)に命じて、御書を出させ(大切な文書を運び出させて)、宮に俟たしめ(公宮に保管させ)て、「女(なんぢ)に庀(そな)へて在らずんば、死なん」と言った。

お前に預けておいて(周王朝の貴重な文章を)亡くしたら、死罪に処するぞ。


子服景伯(子服何)がやってきて、「(典礼を掌る)宰人に命じて典礼の文書を運び出し、つぎの命令を待て。命令どおりにしなければ、常刑(常法による処罰)があるぞ」と言った。(馬を掌る)校人は馬に乗って、(車を掌る)巾車は轄(くさび)に脂をさした。百官はそれぞれの職務を果たして備え、(財貨を蔵する)府庫を厳重に守り、官人はすばやく控えさせ、延焼を防ぐために帷幕を濡らし、鬱せる攸(ところ)(火気の籠もっているところ)に赴いた。屋根を塗れたもので覆い、大廟(祖廟)から始めて、内外を順に守り、手薄なところを補い、「命令に従わねば、常刑で処罰するぞ、赦免しないぞ」と言った。

平凡な火事の記録に見える。とくに「義」について説いておらず、桓公・僖公の廟が燃えそうで苦労しただけの事件か。


公父文伯がやってきた。校人に命じて(君主の車に馬を繋いで)出発の準備をさせた。そこに季桓子がきた。(哀)公の馬車の御者となり、象魏の外(雉門の両観の外で)、消火するものに命じ、「人が傷ついたら(消火活動を)中止しなさい。財貨はまた稼げばよい」と言った。命じて象魏(両観)(に掲げてある法令を)保管させ、「舊章(古い法令)を失ってはいけない」と言った。
富父槐がきて、「防火の備えをしないで、役所の仕事をするのは、(こぼした)瀋(しる)(液体)を拾うようなものだ(防火が不十分だ)」と言った。そこで(火の広がっている方角から)枯れ木やワラを取り除いた。道(空白地)を(公宮の周りに)設けて公宮に帰った。
このとき孔子は陳におり、この火災を聞いて、「きっと(燃えたのは)桓公と僖公の廟であろう」と言った。

◆周人が萇弘を殺す
(周の卿士)劉氏と(晋の大夫)范氏は、代々通婚していた。萇弘は、劉の文公に仕えていた。こうしたことから周は范氏に味方をした。趙鞅は(周と范氏を)討伐した。六月癸卯、周人が萇弘を殺し(て言い訳をした)た。

哀公三年秋

秋、季孫(季桓子)が病気になった。(寵臣の)正常(人名)に命じて、「殉死するな。(妻の)南孺子の子が男子であったら、(魯君に)告げてわが後継ぎにしてくれ。女子であったら、を後継ぎに立てればよい」と言った。季孫(季桓子)が卒した。康子(肥)が後を継いだ。
季桓子の葬儀が終わり、季康子が朝廷にいたとき、南氏が男子を産んだ。正常は(男子を車に)載せて朝廷にいき、魯君に告げて、「夫子(亡き季桓子)に遺言があります。この私に命じて、南氏が男子を産んだら、魯君と大夫に伝えて、この男子を後継ぎにせよと言いました。いま男子が生まれました。憚りながら申し上げます」と言った。そのまま(正常は)衛に逃れた。季康子は(季桓子の遺言に背くことを嫌って)引退を申し出た。魯君(哀公)は共劉を使わして男子を確認させると、男子は何者かに殺されていた。そこで(殺した?)ものを討伐し、正常を呼び戻したが、正常は(季康子を恐れて)帰ってこなかった。

哀公三年冬

冬十月、晋の趙鞅は(范氏と中行氏がたてこもる)朝歌を囲み、城の南郊外に陣どった。荀寅(中行文子)はその包囲軍を攻撃し、部下の兵を北門に回し、そこから城内に入らせた。自分はすきに乗じ、敵軍を突破して出た。荀寅(中行文子)は癸丑(十月二十二日)邯鄲に逃げた。十一月、趙鞅は士臯夷(范氏に一族の范臯夷)を殺した。(それは)范氏を憎んでのことであった。220323

哀公 経四年

四年春、王の二月庚戌、盜 蔡侯申を殺す。
蔡の公孫辰 吳に出奔す。
秦の惠公を葬る。
宋人 小邾子を執ふ。
夏、蔡 其の大夫の公孫姓・公孫霍を殺す。
晋人 戎蛮子赤を執へて楚に歸(おく)る。
西郛に城く(西の外城に壁を築いて、晋の攻撃に備えた)。
六月辛丑、亳(はく)社 災あり。

亳は、殷の都。人君を戒めるために建てた。『公羊伝』は「蒲社」に作っている。

秋八月甲寅、滕子結 卒す。
冬十有二月、蔡の昭公を葬る。
滕の頃公を葬る。

哀公 伝四年

哀公四年春

四年春、蔡の昭侯 將に吳に如かんとす。諸々の大夫らは蔡の昭公が(国の所在地をまたもや呉に)移そうしているのではないかと心配した。承(とど)めた。そこで公孫翩が追いかけて(昭侯に)射かけ(命中し)た。昭侯は民家に入って亡くなった。公孫翩は二本の矢を手にして、その民家の門を守ったので、あえて進む者はいなかった。

文之鍇が遅れてやってきて、「壁のように(人垣を作って集団で)進んだら、(公孫翩は矢を二本しか持っていないから)多くとも二人を殺せるだけだ」と言った。文之鍇は弓をもって先頭を進んだ。公孫翩が文之鍇を射ると、ひじに当てたが、文之鍇はひるまずに公孫翩を殺した。
かくして公孫辰を追い出して、公孫姓と公孫盱(霍)を殺した。

哀公四年夏

◆楚の蛮族が晋に逃げ込む
夏、楚人が(楚に背いた異民族の)夷虎の平定を終えた。楚は北(の中原)に進出しようとした。

左司馬販・申公寿餘・葉公諸梁(の三大夫)は、(楚の領内に住む)蔡の人々を負函(地名)に集め、方城の外の人々を繒関に集めた。「呉が江水を遡って郢の都に攻め入ろうとしている。君命を奉じて戦うことになった」と言って(ウソをつき)、(夜に突然)約束を決めて(その翌日)、(蛮氏の)梁と霍を襲った。
(楚の大夫の)單浮餘は蛮氏(の国)を包囲すると、蛮氏の軍はくずれた。蛮子(蛮の君主)赤は、晋の陰地に逃れた。

司馬(左司馬販)は豊・析・狄・戎の人々を徴発し、(晋の)上雒に臨ん(で攻め込ん)だ。
(申公寿餘が率いる)左師(左翼の部隊)は菟和に陣どり。(葉公諸梁が率いる)右師(右翼の部隊)は倉野に陣どった。陰地(蛮が逃げ込んだ地)の命(特命の)大夫の士蔑に申し入れをさせて、「晋と楚のあいだには盟約があり、好むことも憎むことも同じようにする、となっています。もしこの盟約を破らないならば(晋に逃げ込んだ蛮を、晋は捕らえるべきで)、寡君(楚君)はそれを願っています。さもなくば(晋・楚の盟約を、晋が破るつもりなら)、少習(武関)に軍を進めて、お返事を待とうと思います」と言った。

士蔑はこれ(楚の追及)について趙孟に意見を求めた。趙孟は、「わが晋国はまだ安寧ではない。どうして楚と対立できようか。ぜひ速やかに(蛮の君主を楚に)引き渡しなさい」と言った。
そこで士蔑は九州(に分散している)戎を集めて、田地をさいて蛮子に与えて、周囲に城壁を築く(ように見せかけた)。さらに(城壁工事の)吉凶を占おうとした。蛮子が占いの結果を聞きにきたところを、すばやく捕らえた。その(蛮の)五人の大夫と、三戸をまとめて楚の軍に畀(あた)ふ(引き渡した)。司馬(司馬販)はまた蛮に邑(土地)を与えて後継ぎを立て(ると偽って)、残りの蛮の民を誘いあつめ、ことごとく捕虜にして連れ帰った。

哀公四年秋・冬

秋七月、斉の陳乞・弦施・衛の甯跪が、范氏を救い、庚午、五鹿を囲んだ。九月、趙鞅が邯鄲を囲み、冬十一月、邯鄲が降服した。荀寅は鮮虞にのがれ、趙稷は(晋の)臨にのがれた。
十二月、(斉の)弦施は(趙稷)を迎えにゆき、そのおりに臨の城壁を壊した。(斉の)國夏は晋を伐って、邢・任・欒・鄗・逆畤・陰人・盂・壺口を奪い、鮮虞と会合して、荀寅を(晋の邑の)柏人に送り入れた。220324