いつか書きたい三国志

『春秋左氏伝』哀公十一年・十二年を読む

哀公 経十一年

十有一年春、齊の國書 師を帥ゐて我(魯国)を伐つ。
夏、陳の轅頗 出でて鄭に奔る。
五月、公 吳に會して齊を伐つ。
甲戌、齊の國書 師を帥ゐて吳と艾陵に戰ふ。齊の師 敗績す。齊の國書を獲たり。

秋七月辛酉、滕子虞母 卒す。
冬十有一月、滕の隱公を葬る。

衞の世叔齊 宋に出奔す。

哀公 伝十一年

哀公十一年春

十一年春、斉は鄎(の戦いを仕返しをする)が故に、国書・高無㔻(こうむひ)が、軍を率いて魯を伐とうとして、(斉の)清まで軍を進めた。

◆冉求が季孫氏に、斉を防ぐ策を説く
季孫がその宰の冉求(子有、孔子の門人)に、「斉軍が清にいて、きっと魯を攻撃するためだ。どうしたらよいか」と聞いた。冉求は、「(魯の三桓のうち)一子(季氏)は(国都を)守り、二子(叔孫氏と孟孫氏)は(魯公の軍に)從って、国境を守りなさい」と。
季孫は、「できない」と言った。
冉求は、「(それでは反対に、叔孫氏と孟孫氏を、魯の)国内の近郊に留め置いたらよい」と。季孫氏は二子(叔孫氏と孟孫氏に)告げた。二子は拒否した。
冉求は、「それがダメなら、魯君は出陣してはいけない。一子(季孫氏)が軍を率いて、城を背にして戦うのに、そのあとに続かない(協力しない)ものは、もはや魯人ではない。魯の羣室(都の士大夫の家々、三桓氏)は、斉の兵車よりも多い。一室ですら(斉軍の)兵車の数に匹敵する。心配はない。二子が戦いを望まないのは、理由があることで、(なぜなら)政権が季氏に握られているから。あなたの(執政する)時代に、斉人が魯を攻撃したのに、戦うことができなければ、あなたの大きな恥になります。しかも(魯君は)諸侯の列に並べなくなる」と。

魯の国内の分裂ぶり(三桓氏がしのぎを削る)と、季孫氏の宰として、孔子の弟子の冉求(子有)が筋の通った方策を述べているので、読んでて心地がよい。『論語』を読むとき、冉求をもっと好意的に捉えたい。
季孫氏も、執政者として、他の二子にムチャぶりをしているのではなく、自分が前線に立ち、最大の犠牲を引き受けるから、二子は後方支援を頼む、と言っている。季孫氏がわりとすぐれた人物に見えるが、それは表面的な読み方なのか?


◆冉求が孟孫氏と叔孫氏を説得
季孫は(冉求を)従えて朝廷にゆき、党氏(大きな派閥の大夫)の家の溝のところで待たせた。
叔孫武叔が冉求を呼び入れて、戦争のことを質問した。冉求は答えて、「君子は遠慮(遠い先の心配)をしているのでしょう。私には分かりません」と言った。
孟懿子が強いて(是非とも)と尋ねたので、冉求は答えた。「わたし風情は自分の才能を考えて(身の丈に応じて)発言します。自分の力量を測って共する(ふさわしい)ひとに仕えています。

季孫氏は立派な人なので、わたし冉求は仕えて、意見を申し上げる価値を感じている。孟孫氏と叔孫氏は、腰抜けなので、私が戦争について意見を申し上げる価値のないひとだ。

叔孫武叔「これでは(冉求の言葉を肯定すると)私が一人前の男ではないと言っていることになる」と言った。(朝廷から)引き下がって乘を蒐(けみ)す(兵車を検閲し、出陣の準備をした)。

◆魯の防衛軍が出陣する
孟孺子洩(孟懿子の子の泄、孟伯彘)が右翼を率い、顔羽がその御者となり、邴洩がその右役をつとめた。冉求が左翼を率い、管周父がその御者となり、樊遅が右役をつとめた。
季孫は、「須(樊遅の名)は若すぎる」と。有子(冉求)は、「(若いかも知れないが)命令どおり動く」と言った。
季孫の兵は七千で、冉有はさらに武城の人三百をわが(左右の親)兵とした。老幼は公宮を守り、雩門(南の城門)の外に陣取らせた。
五日呉、右翼も出陣した。(魯の昭公の子の)公叔務人は(決死の覚悟で公宮を)守っているもの(老幼)を見て泣きながら、「事(夫役)は多くて政(税)は重い。上はよい考えがなく、士(三桓氏)は(国のために)死ねない。どうして国を治めることができよう。私がこう言ったからには、なぜ努力しないものか」と言った。

◆魯と斉が開戦する
魯軍は斉軍と郊外で戦った。斉師は稷曲(の方面)から(攻めてきたが)、魯軍は溝をこえない(進もうとしない)。(これを見た魯軍の)樊遅は、「渡れないのではない。あなた(冉求、の命令)を信じないのです。(溝をこえたときの賞罰の約束を)三刻(三たび、結んで)こえてほしい」と言った。(冉求は)その通りにした。魯軍はその命令に従った。(かくて)魯軍が斉軍に攻め込んだ。
(魯軍の)右翼(の孟泄)が逃げた。斉人はそれを追撃した。(斉の)陳瓘・陳荘は泗水を渡っ(て魯軍を追っ)た。

孟之側が遅れて入って、(魯軍の右翼の)殿軍となった。(都の城門にさしかかると)矢を抜いて馬をたたいて、「馬が進まなかった(から遅れた)」と言った。
林不狃の伍(部下)が、「逃げましょうか」と言った。林不狃は、「誰が(敵軍に)敵わぬものか」と言った。(林不狃の部下が)「それなら止まりましょうか」と言った。(林不狃)が「(止まったところで)惡(いづく)んぞ賢(まさ)らん(そんなことをしても偉いとも言われまい」と言った。ゆっくりと(斉軍に向けて)歩いてゆき、(林不狃は)死亡した。

『春秋左氏伝』のなかの、会話劇のような部分。


(林不狃の戦死に反して、冉求の率いる)魯軍は甲首八十を討ち取り、斉人は軍を整えていられなくなった。夜になって間諜が、「斉人が逃げます」と言った。冉有(冉求)はこれを從(追撃)したいと思った。三(たびに及んだが)季孫は許さなかった。

◆斉を退けた後の魯軍での評価
孟孺子が人に語って、「私は顔羽にかなわないが、邴洩より勝る。子羽(顔羽)は(才気が)鋭く敏捷である。わたしは戦う気がないが、(逃げるとは口走らず)黙っていられた。邴洩は(馬を)駆って(逃げよ)と言った。

公為(公叔務人)はその嬖僮(気に入りの小姓)の汪錡と同じ車に乗り、一緒に戦死したので、一緒に殯(かり埋葬)された。(汪錡の死の扱いについて)孔子は、「よく(けなげに)干戈を振るって社稷を護衛した。殤とする無かる可きなり(年少者の若死にとして扱うべきでない)」と言った。
冉有は矛を斉軍にふるって(突入したので)、魯軍は斉軍に攻め入ることができた。孔子は「(冉有は)義(に勇んだもの)だ」と言った。

哀公十一年夏

夏、陳の轅頗が鄭に出奔した。これよりさき、轅頗は司徒の役につき、封田に賦し(領内の田地すべてに課税して資金をつくり)、公女を嫁がせたところ、(費用に)余りがでたので、自分のために大きな器物をつくった。そこで(器物を作ったことを咎めて)陳国のひとが轅頗を放逐した(轅頗は鄭に逃げ出した)。逃げる道中でのどが渇いて、一族の轅咺が、稻醴(濁り酒)・粱糗(ほしいい)・腶脯(ほじし)を進めた。(轅頗は)喜んで、「なんとまあ十分に(飲食物が)揃っていることよ」と言った。轅咺は、「あの器物が完成したとき、(轅頗が放逐されるリスクを感じて)確保しておきました」と言った。(轅頗は)答えて、「なぜ(器物を作るとき)私を諫めてくれなかったのか」と言った。轅咺は「(私のほうが)先に逃げなければならないことを懼れたからです」と言った。

轅咺が轅頗を諫めたら、轅頗が機嫌を損ねて、轅咺を迫害するだろう。だから轅咺は諫言を思い止まり、しかし轅氏がみんなで逃げる準備をしたということ?そこまで複雑なことは言っておらず、ただ轅咺がリスクに敏感で、手回しがよかった、というだけの話か?


(今春の)郊での戰の(報復の)ために、魯の哀公は呉子(呉王)と会合して斉を伐った。五月、(斉の)博を攻め落とし、壬申(二十六日)、嬴に至った。中軍は(呉)王に従い、胥門巣は上軍をひきい、王子姑曹は下軍をひきい、展如は右軍をひきいた。斉の国書は中軍をひきいた。高無㔻は上軍をひきい、宗楼は下軍をひきいた。(斉の)陳僖子が弟の書に、「なんじが死ねば、私は思い通りになる」と言った。(下軍の将の)宗子陽(宗楼)閭丘明の二人は(決死の覚悟で)互いを励ましあった。桑掩胥が(中軍の将の)国子(国書)の御者をつとめた。(これを見た)公孫夏は、「二子(子陽と閭丘明)はきっと討ち死にするだろう」と言った。

いよいよ戦いが始まろうというとき、公孫夏は部下に命じて虞殯(葬送歌)を歌わせた。陳子行は部下に命じて(死者の口に含ませる)玉を口に含ませた。公孫揮は部下に命じて、「人ごとに尋約せよ(それぞれ八尺の縄を用意せよ)。呉人の髪は短いぞ」と言った。

呉人は単発なので、呉人の首は縄がなければ結びつけられない。

東郭書は「三度戦うときっと死ぬ(ということだ)。今度が三回目だ」と言った。(魯に逃げていた)弦多に琴を贈らせて、「もうあなたにお目に掛かることはないだろう」と告げさせ、(陳僖子の弟の)は、「この戦いでは、私は(進撃の合図の)軍鼓を聞くだけで、金(退却の合図のドラ)は聞かないぞ」と言った。

(五月)甲戌(二十八日)、艾陵で戦った。(呉の右軍の将)展如は(斉の上軍の将)高子(高無㔻)を破った。(斉の中軍の将の)国子(国書)は(呉の上軍の将の)胥門巣を破った。呉王の親兵が(胥門巣)を助けたので、(呉軍は)おおいに斉軍を破り、国書・公孫夏・閭丘明・陳書・東郭書と革車(兵車)八百乗、甲首(武装兵の首)三千を討ち取って、魯の哀公に献上した。

合戦になろうとしたとき、呉王が(魯の)叔孫武叔に、「お前の役目は何か」と尋ねると、叔孫武叔は、「司馬です」と言った。

季孫が司徒、叔孫が司馬、孟孫が司空。

呉王は叔孫武叔に鎧・剣・鈹(もろはのつるぎ)を与えて、「お前の主君の用向きをつとめ、謹んで君命にそむくな」と言った。叔孫が返事できずにいると、衛(人)の賜(子貢)が進み出て、「州仇(叔孫の名)のこと、ありがたく鎧をいただいてお供します」と言い、拝礼して頂戴した。
魯の哀公は大史固を遣わして(斉に)国子(国書)の元(くび))を届けさせた。その首を新しいかごにいれ、玄纁(黒い絹)でつつみ、組紐をかけ、書状を上にのせて、(その書状には)「天がもし(斉侯の)不衷(不善)を知らなかったら、どうして下国(わが国)を勝たせたでしょうか」とあった。

◆子胥が呉の滅亡を予期して死ぬ
呉が斉を伐とうとしたとき、越子(句践)がおおくの配下を率いて呉に挨拶にきた。呉王から列士(下々の家来)まで、みなに贈り物をした。呉人はみな喜んだが、子胥だけは心配して、「これは呉に豢(かん)した(餌付けした)のだ」と言った。子胥は、呉王を諫めて、「越はわが国にとって、心腹の病気のようなもの。壤地同面(領土は地続き)なので、わが国を欲しがっています。いま(越が)柔軟な態度で仕えているのは、その欲望を実現するためです。早く処置するのがよい。たとえ斉を思い通りに討てたとしても、石田(石まじりの田地)を得るようなもので、使いようがありません。越が(滅びて)沼地とならねば、呉は泯(ほろびる)でしょう。医者に病気を治してもらうとき、病毒を残せというものはいない。盤庚の誥に、「わがままで従わないものは、断ち切って滅ぼして子孫に残さず、子孫をその地で生育させるな」とある(『尚書』盤庚中)。だから商が興隆した。いま呉王は違うことをやり、大きなこと(覇業)を求めても、難しいのでは」と言った。呉王は聞かなかった。
(子胥は)斉に使者として出かけ、わが子を鮑氏に預け、王孫氏と改名した。戦役(艾陵の戦い)から帰ると、呉王はこれを聞いて、(子胥に)屬鏤(という名の鋭い剣)を与えて自殺させた。(子胥の)死に際に、「私の墓に檟を植えてくれ。檟が(呉王の棺の)材料になる。呉はきっと亡びるだろう。三年たてば、弱体化が始まるだろう。満ちれば欠けるのが、天の道である」と言った。

哀公十一年秋冬

秋、季孫は命令して国の守備を固めさせた。「小国(魯)が大国(斉)に勝つのは、禍いのもとだ。(わが国が今年の夏に破った)斉が攻めてくるのは、もうすぐだ」と言った。

◆衛の大叔疾(世叔斉)が宋に出奔する
冬、衛の大叔疾(世叔斉)が宋に出奔した。
これよりさき、疾(大叔疾)は宋の子朝の家から妻をめとったが、その妻の妹のほうを寵愛した。子朝が(宋から)出奔すると、孔文子は大叔疾にすすめて、その妻(子朝の親族)を追い出して、自分の娘(孔姞)を(大叔斉の)妻とした。大叔斉は侍人(そば役人)に銘じて、はじめの妻の妹をだまして、犂に寘(お)き(囲っておき)、別宅を作った。(大叔斉には)二人の妻がいることになった。孔文子は怒り、大叔斉を攻めようとしたが、仲尼(孔子)がこれを止めた。(しかし孔文子は)大叔斉から妻(孔文子の娘)を取り返した。
あるとき(大叔斉は)外州(衛の邑)でみだらなことをしたことがあり、外州の人が(大叔斉の)車を奪って(衛君に)献上した。大叔斉はこの二つのことを恥じて、(宋に)出奔したのである。

衛の人は(大叔疾の)遺を立てて、(孔文子の娘で大叔疾の妻であった)孔姞を妻にさせた。
(宋に出奔した)大叔疾は向魋(しょうたい)(桓氏)の臣下となり、美しい珠を贈ったので、向魋は大叔疾に城鉏(の邑)を与えた。宋公はその珠を欲しがったが、向魋は拒んだので、罪を得ることになった。
あとで桓氏(向魋)が(宋から)出奔したとき(哀公十四年)、城鉏の人は大叔疾を攻めて(追い出した)。衛の荘公は(許して大叔斉を呼び)戻し、巣に住まわせて、そこで死んだ。鄖で納棺し、少禘の邑に葬った。

◆大叔疾の周囲のエピソード
これよりさき、晋の悼公の子の憖(ぎん)が衛に逃げてきた。その娘を御者として狩りをしていたら、大叔懿子(大叔疾の父)が憖を止めて酒をご馳走し、やがてその娘を娶って悼子(大叔疾)を生んだ。悼子(大叔疾)が位をついだので、(大叔疾の甥の)夏戊を大夫に任命した。悼子(大叔疾)が(宋に)出奔すると、衛の人は夏戊(の領地を)削り取った。

孔文子が大叔疾を攻めようと考え、仲尼(孔子)に相談に訪れると、仲尼は、「胡簋(祭器)のことは、かつて学んだが、甲兵(軍事)のことは、まだ聞いていない」と言った。(仲尼は文子の前から)退いて車を用意して行こうとしたとき、「鳥は木を選ぶが、木はどうして鳥を選ぶでしょう」と言った。文子はあわてて(孔子を)止めて、「圉(わたし)はどうして私的なことを相談するでしょうか。衛国の難儀について相談したのです」と言った。孔子が止まろうとしたが、魯の人が幣(贈り物)で召し返したので、孔子は(魯に)帰った。

◆孔子が季孫氏をたしなめる
季孫(季康子)は田賦(田地の広さに応じた税の割り当て)をしようとした。冉有に命じて(課税の可否を)仲尼に相談させた。仲尼曰は、「丘(わたし)は知りません」と言った。三たび問い合わせ、最後に、「あなたは国老(の地位)です。あなたの考えを聞いてから実行しようと思う。どうして答えてくれないのか」と言った。仲尼は答えず、冉有(冉求)に個人的な見解として、「君子が政治をするには、礼にかなうようにし、民に施すことは手厚くし、行う道は中道にかない、課税は軽くするものだ。そうすれば、(従来の)丘賦だけでも(財政は)十分だ。もし政治が礼からはずれ、貪欲で際限なく(課税すれば)、田賦を儲けても不足する。季孫どのが法を守って政治をしたいなら、周公の典が残っている。(周公の法規を守らず)ほしいままに行うなら、なぜ私に相談する必要があろうか」と言った。季孫は聞き入れなかった。220402

哀公 経十二年

十有二年春、(季孫が)田賦を用いた。
夏五月甲辰、孟子が卒した。

孟子は、魯の昭公が呉から娶った夫人。呉は魯と同じ羌姓なので、同姓不婚をやぶっているので、姓をいわずに「呉孟子」と呼んだ。『論語』述而篇に登場する。

魯公が、呉と橐臯(呉の邑名)で会合した。

秋、魯公は衛侯・宋の皇瑗と鄖(呉の地名)で会合した。
宋の向巣が、軍を率いて鄭を伐った。
冬十有二月、螽があった。

哀公 伝十二年

哀公十二年春夏

十二年春王正月、(新たに)田賦(田地に対する税)を施行した。

前年末に、季孫が孔子に相談していた。孔子は反対したが、季孫は構わずに施行した。


◆魯の昭公の妻が死ぬ
夏五月、昭(魯の昭公)の夫人の孟子が亡くなった。昭公は呉から迎えたので、(魯公との同姓を憚り)姓を書かない。死んでも(諸侯に)赴(つ)げず、ゆえに「夫人」と記さない。

隠公三年の「君氏卒」の伝を参照する。

(埋葬後、墓から)帰って(正寝で)哭礼を行わなかったので、「小君を葬る」と記さない。孔子は弔問に訪れ、季氏(季康子)のところに出かけ(弔意を述べようとしたが)、季氏は(上卿であるにも拘わらず)絻(ぶん)せず(喪の冠を着けていない)。孔子は絰(喪服)を脱いで(季康子に)挨拶した。

◆魯が呉の盟約更新を断る 魯の哀公は呉と橐臯で会合した。呉子は大宰嚭を(魯に遣わして)、(哀公七年の鄫の)盟約の復活を要請させたが、魯公は気乗りせず、子貢に受け答えをさせた。「盟約というのは、信義を固めるためのもの。だから心は(正しいことに)定め、玉帛を(神に)捧げ、言葉で約束し、明らかな神(の証)を求めるもの。わが寡君(魯公)は、「かりにも盟約をしたなら、改めるべきではない。もし改めるなら、日ごとに盟約を更新しても何の利益もない」と言っています。いまあなた(大宰嚭)は、盟約を暖めること(復活)を求めておられるが、暖められるなら、冷やすこと(破棄)もできます」と言った。盟約を復活させなかった。

哀公十二年秋

◆会合で呉の大宰嚭が衛君を捕らえる
呉は衛に対して会合を求めた。これよりさき、衛人が呉の行人(使者)且姚を殺して、(その報復を)懼れ、(衛の行人の)子羽に相談した。子羽は、「呉は無道を働いており、(衛君が会合に出かけたら)辱めを受けるかも知れない。(会合は)中止がよい」と言った。
(衛の大夫の)子木は、「呉は無道であり、国が無道ならば、害悪を他国に与える。呉は無道だが(やがて亡びるが)、現状の衛に危害を加える力はある。会合に行きなさい。大木が倒れるとき、周囲を打ちたたくもので、国で第一の名犬ですら、狂えば誰にでも噛みつく。まして(呉のような)大国(が倒れて狂う)なら尚更です」と言った。
秋、衛侯は呉と鄖で会合した。魯公は衛侯・宋の皇瑗と盟約し、けっきょく呉との盟約は断った。

呉人は(鄖での会合に赴いた)衛侯の宿舎に垣根をめぐらせて閉じ込めた。(これを見た魯の)子服景伯は子貢に告げて、「諸侯の会合というのは、本題が終わったら、(盟主は)参加した諸侯を手厚くもてなし、(会合が主催された)地の諸侯は生肉を贈って、互いに別れの挨拶をするもの。いま呉は衛君に礼を行わないばかりか、垣根をめぐらせて困らせた。あなたはどうして(呉の)大宰嚭に会って、詫びを入れないのか」と言った。
子貢は(進物の)一束の錦をもらい受けて(呉の大宰嚭のところに)出かけた。(子貢と大宰嚭の)話題は衛君のことに及んだ。大宰嚭は、「わが呉王は衛君に仕えようと思っていたが、衛君が来るのが遅かったので、(衛君の考えが分からず)恐れて、引き止めたのだ」と言った。

衛の国内には、呉との会合に行くべきでない、という反対意見があった。呉が無道で……というところ。

子貢は、「衛君がきたとき、きっと多くの人々との相談があったでしょう。賛成するもの、反対するものがいた。ゆえに来るのが遅れた。(衛君を呉との会合に)行かせようとしたのは、あなた(呉の大宰嚭)の味方だ。行かせまいとしたのは、あなたの敵対者だ。もs衛君を閉じ込めれば、味方を敵対者に移し替えることになる。(衛国内で呉を)敵視するものの、思うつぼだ。しかも諸侯を(会合で捕らえて)恐れさせるようでは、呉王が覇者になるのは難しいのでは」と言った。
大宰嚭は喜んで、衛侯を解放した。(衛侯は)帰国すると、夷言を效ふ(呉の言葉を学んだ)。
子之(公孫弥牟)はまだ幼少であったが、「わが衛君は(禍いを)免れないだろう。えびすの国(呉)で亡くなるのではないか。(呉に)捕らわれたのに、その言葉を好んで(学んで)いる。(呉に)服従するに違いない」と言った。

哀公十二年冬

冬十二月、螽がでた。季孫は(不審に思って理由を)仲尼に訊ねると、仲尼は、「私の聞くところでは、火星が隠れると蟄(地虫のうごめき)も止まるとか。いま火星は西で傾いて輝いている。(現在を十二月とするのは)司厤(暦の管理者)が(閏月の置き方を)誤ったのでしょう」と言った。

宋と鄭の間に、隙地(どちらにも属さない土地)があって、弥作・頃丘・玉暢・喦・戈・鍚という邑であった。鄭の子産は宋人と(和睦を)結んだとき、「どちらにも帰属させずにおこう」と言った。宋の平公と元公の一族が、蕭から鄭に逃げ込んだとき(定公十五年)、鄭人は(逃げてきた)彼らのために喦・戈・鍚に城壁を築い(て守ってやっ)た。九月、宋の向巣が鄭を討伐し、鍚を占領し、元公の孫を殺し、(その勢いで)喦を包囲した。十二月、鄭の罕達は喦を救いにゆき、丙申(十二月二十九日)、宋軍を包囲した。220402