いつか書きたい三国志

『春秋左氏伝』哀公十三年・十四年を読む

哀公 経十三年

十有三年春、鄭の罕達(かんたつ)は師を帥ゐて宋師を喦に取る。
夏、許男成(許の元公)が卒した。
公 晋侯と呉子とに黄池に会す。
楚の公子申 師を帥ゐて陳を伐つ。
於越(をゐつ)は呉に入る。

秋、魯公が会より至る。
晋の魏曼多 師を帥ゐて衛を侵す。
許の元公を葬る。
九月、螽(しゅう)あり。
冬十有一月、星有り東方に孛す。
陳の夏区夫を殺す。 十有二月、螽(しゅう)あり。

哀公 伝十三年

哀公十三年春夏

春、宋の向魋は(経文にある、鄭の罕達に囲まれた宋の)軍を救った。鄭の子賸(罕達)は軍にふれて、「桓魋(向魋、を捕らえた)ものには褒賞を与える」と言った。桓魋は逃げ帰った。そこで(鄭軍は早速に)宋軍を喦で攻め破り、(宋の大夫)成讙と郜延を捕らえた。(宋と鄭の緩衝地帯の弥作などの)六邑をもとどおり、虚(どっちつかずの地)とした。

緩衝地帯にどっちつかずの六邑があったことは、哀公 伝十二年冬に見えていた。


夏、魯公は単の平公・晋の定公・呉の夫差と黄池で会合した。

◆呉が越軍に攻め込まれて敗れる
六月丙子(十二日)、越子(句践)が呉を伐ち、二つの隧(地下道)を掘り、疇無餘・謳陽は、南から進んで(呉の)郊外に到達した。呉の太子友・王子地・王孫弥庸・寿於姚は、泓水のほとりから(越軍の様子を)観察した。王孫弥庸は姑蔑の(人がかざす)旗を見つけて、「私たちの父の旗だ。敵を見たからには、殺さずにはおかない」と言った。太子は、「戦って勝てねば、国を滅ぼすことになる。しばらく待て」と言った。王弥は聞き入れず、五千人の兵を集めた。王子地はこれを助け、乙酉(二十一日)に再び戦った。弥庸は疇無餘を獲らえ、王子地は謳陽を獲らえた。越子(句践)が到着し、王子地が(陣地を)守った、丙戌(二十二日)。再び戦った。(越軍は)おおいに呉軍を破り、太子友・王孫弥庸・寿於姚を捕虜にした。丁亥、呉に攻め入った。呉人は敗報を呉王に伝え、呉王がそれが(他の諸侯に)聞かれることをはばかり、みずから(報告にきた)七人を幕下(陣営のなか)で首を刎ねた。

哀公十三年秋冬

◆呉と晋が順序を争う
秋七月辛丑、(諸侯が)盟いを結んだ。呉と晋が(血をすする)順序の戦後を争った。呉人は、「周室(との関係)では、わが呉が年上だ」と言った。晋人は、「姫姓(の国)では、わが晋が伯(代々の覇者)だ」と言った。趙鞅は(晋の大夫)司馬寅を呼んで、「日が旰(暮れた)。重大な盟いはまだ完了しないのは、われら二人の罪だ。鼓を建て(台に乗せ)士卒を整列させ(陣立てし)、われら二人が(呉と)死戦を演じれば、(晋と呉の)どちらが先か分かるはずだ」と言った。

直前に、越が呉国に攻め入ったという局地的な戦闘があったあと、いきなり、晋と呉の覇権争いという「天下の中心」の話題に移っていて唐突。これにうまく接続するために、呉王が敗戦を隠したという文があったのか。

(司馬寅)は、「しばし(呉の)様子を見てきましょう」と言った。帰ってきて、「肉を食べれば顔つきは暗くならないが(肉食者無墨)、いま呉王の顔つきは暗い。呉国は負かされ、太子が死んだのでは。また夷(えびす、呉人)は、德が輕く(気分が浮ついて)、長くは我慢できない。少しお待ちなさい」と言った。かくして晋人を先として盟約をすることになった。

◆子服景伯が呉人の先導を断る
呉人は公を以て(魯公を引き連れて)晋侯に会おうとした。(魯の)子服景伯は(呉の)使者に、「王(周の天子)が諸侯を合す(召集する)ときは、伯(覇者)が諸侯をひきつれて王に会う。覇者が諸侯を集めたときは、公侯(大国)が子男(小国)をひきつれて覇者に会う。王より以下、徴聘の(とき用いる)玉帛は同じではない。ゆえに敝邑(わが魯国)の呉国に対する職貢(貢ぎ物)が、晋(に対する)よりも多いことはあっても、少ないことはない。それは(呉国を)伯(覇者)と見なすからだ。
いま諸侯が会合しており(周王はおらず)、あなた(呉)がわが寡君(魯公)を晋君のところに引きあわせようとすれば、晋国が覇者ということになる。敝邑(魯国)は(呉と晋への)職貢を改めなければならない。魯は呉に対して(自分が)八百乗の国として賦を納めているが、もし(晋を覇者と見なし、わが魯国が呉国よりも小さい)子男の国だとするなら、(六百乗の)邾の半分を、呉国に差し出せば十分ということになる。そして(魯国は)邾国と同様に晋に仕えることになる。
それに執事(役人がた)は伯(覇者)として諸侯を召しているが、(呉国が)侯を以て之を終る(呉国は覇者ではなく、諸侯のなかの大国に過ぎない状態で会合を終える)なら、(呉国に)なんの利益もないのでは」と言った。
呉人は中止した。

春秋呉が、春秋晋に決定的に遅れを取った。それを、魯の目線(子服景伯の言葉)でも、確認するように論じられた。呉は、魯公を晋君の前に連れて行って、「呉は魯より上だ」と威信を見せつけようとした。しかしそれは、晋を覇者だと認定し、呉は晋よりも下だ、という現状を確定させる行為に他ならない。


◆呉が景伯を拉致する
やがて(呉人は、魯公の連れ出しを)中止したことを後悔した。(魯の)景伯を捕らえようとした。景伯は、「私は後継ぎを魯(国もと)に立ててきた。二乗(二台の車)と六人の従者をつれてお供しましょう(呉に捕らわれても恐くない)。いつでも命令に従います」と言った。さっそく景伯を捕らえて連れ帰った。
(宋の)戶牖
に到着したとき、(景伯は、呉の)大宰嚭に、「魯では十月上辛の日に、上帝と先王を祭り、季辛に終えることが決まっている。私には祖先以来の役割があり、襄公の時代から、変更はありません。もし祭りに出席できないと、祝宗(神官)は、「(祭りが不十分なのは、景伯をさらった)呉のせいだ」と(神に)告げるだろう。しかも魯国が(呉国に)共せず(職貢に協力的でない)として、身分の低い七人(景伯とその従者)を捕らえたところで、(魯国にとって)何の損害があるものか」と言った。
大宰嚭は呉王に、「魯国にとって損害がなく、わが国の悪評が立つだけ。解放するほうがよい」と言った。呉王は(景伯を)帰らせた。

呉の(大夫の)申叔儀は、食糧を(魯の)公孫の有山氏に依頼した。「きらびやかな玉を佩いている人がいても、私にはできず、うまい酒が器いっぱいでも、私や父は眺めるばかり」と言った。
有山氏は答えて、「梁(上等のもの)はないが、麤(粗末なもの)ならある。あなたが首山に登って、「庚癸」と叫んだら、「わかった」と応じて与えるだろう」と言った。

引用しやすそうな言葉だが、正史でこれを見たことがない。


(呉が)宋を伐って、丈夫(男たち)を殺して、婦人(女たち)を捕らえようとした。大宰嚭は、「戦いに勝てるが、長くは留まって居られない」と(呉王を諫めて)言った。呉軍は引き上げた。冬に、呉は越と和睦した。220402

哀公 経十四年

十有四年春、西に狩して麟を獲たり。
小邾の射(えき)、句繹(こうえき)を以て來奔す。
夏四月、斉の陳恒 其の君を執へて、舒州に寘(お)く。
庚戌、叔還 卒す。
五月庚申朔、日 之を食すること有り。
陳の宗豎 楚に出奔す。
宋の向魋(しょうたい) 曹に入りて以て叛く。
莒子狂 卒す。
六月、宋の向魋 曹より衛に出奔す。宋の向巣 來奔す。
斉人 其の君壬(じん)を舒州に弒す。
秋、晋の趙鞅 師を帥ゐて衛を伐つ。
八月辛丑、仲孫何忌 卒す。
冬、陳の宗豎 楚より復た陳に入る。陳人 之を殺す。
陳の轅買(えんばい) 楚に出奔す。
星有りて孛す。 饑う。

杜預が序でいうように、『公羊伝』『穀梁伝』の経文と同じように、『春秋』は哀公十四年の「西狩獲麟」で終わる。『左氏伝』は、哀公十六年の「孔子卒」まで経文がある。世に「続経」と言われる。門人あるいは『左氏伝』作者が、孔子の死を伝えるために加筆したものか。
杜預が「伝無し」するように、哀公十四年・哀公十五年の経に、伝にない経があることから、魯史の原文を書き留めたものではないかと。

哀公 伝十四年

哀公十四年春

◆あの獲麟
十四年春、(魯で)西に出かけて大野(地名)で狩りをした。叔孫氏の車子(御者)の鉏商が麟を獲えたが、不祥なものとして、虞人(山係りの役人)に賜わった。仲尼はこれを(つくづくと)見て、「麟だな」と言った。そこで(魯の史官が)取り上げて記録したのである。

◆小邾の使者が、子路をもとめる
小邾(の大夫)の射が句繹を持って魯に逃げてきた。射は、「季路(子路)と要(よう)(約束)できるなら、私は(魯との国家間の)盟約の必要などない」と言った。子路に命じると、子路は断った。季康子は冉有(冉求)に命じて(子路に対し)、「千乗の国(である魯国)の盟約の信用をせず、あなた(子路)一人の言葉を信じるというのだ。どうして名誉と思わないのだ」と言った。子路は答えて、「魯が小邾と有事(戦争をする)場合、その理由は敢えて聞きません。敵(小邾)の城下で死んでも構いません。しかし彼(射)は(小邾の君主に背いた)不臣の人物です。(射と個人的に約束するのは、射のことを)義のある人物と認めることになる。私にはできない」と言った。

哀公十四年夏

◆闞氏(子我)と斉の陳氏の対立
斉の簡公が魯にいたとき、闞止(子我)が(簡公の)お気に入りだった。(簡公が)即位してから、(子我に)政治をさせた。陳成子(陳恒)が(子我を)憚って、朝廷にいるとき(子我に)振り向いてもらおうとした。(この様子を見た)諸御鞅が簡公に、「陳氏と闞氏(子我)は並び立ちません。斉君はどちらかをお選びなさい」と言った。聞き入れなかった。
子我が夕に(朝廷に上がろうとしたとき)、陳逆(陳成子と同族の陳子行)が人を殺す場面に、(子我が)出くわした。これを捕まえて朝廷に入った。陳氏はこのころ(一族のなかで)仲が良かったので、(陳逆に)病気のふりをさせ、潘沐(髪を洗う米のとぎじる)を贈り、酒や肉を差し入れ、(陳逆を護衛するものに)酒や肉を振る舞って、看守を酔わせて、殺した。(陳逆を)逃がした。子我は(後難を恐れて)、陳氏の者たちと陳宗(陳氏の宗主、陳成子)の家で盟った。

◆陳逆の「殺人」の前日譚
これよりさき、(陳氏の一族の)陳豹が子我の臣になろうとした。公孫なにがしに(自分を推薦してもらおうと)頼んだが、そのうち(陳豹の家に)喪があったので中止になった。公孫氏が(陳豹の登用を、子我に)口利きして、「陳豹というものがおり、背が高いが上僂(猫背)で、望視(上目づかい)です。君子(子我)に仕えれば、主人の希望に適うでしょう。あなたの臣になりたがっていますが、その人となりが憚(懸念)されるので、推薦するのが遅れました」と言った。子我は、「何の心配があろう。私(の使い方)しだいだ」と言った。(子我が陳豹を)臣とした。
ある日、政治の話をすると、(陳豹は子我に)気に入られた。子我が陳豹に、「私が陳氏の一族をすべて放逐し、お前を(陳氏の当主に)立てようと思うが、どうだろう」と言った。陳豹は答えて、「私は陳氏のなかで傍流であり、一族のなかでの敵は、数人もいません。すべて放逐をして頂く必要はない」と言った。(陳豹は子我のことばを)陳氏(のものたち)に告げた。陳子行(陳逆)は(陳成子)に、「かれ(子我)は主君(斉の簡公、の寵愛)を得ている。機先を制さないと、必ずあなた(陳成子)に禍いが及ぶでしょう」と忠告した。

子我は、ライバルの陳氏たちの力を削ぐために、自分の部下として思い通りになる、傍系の陳豹を、陳氏のトップに置くことを計画した。もしも陳豹が、個人的な野心が強ければ、子我の計画は正解し、陳氏は崩壊していた。しかし、陳豹はそれを陳氏の主流派(陳逆、陳成子)に伝えた。子我の思惑ははずれた。


子行(陳逆)は公宮にとまって(様子をうかがった)。夏五月壬申(十三日)、陳成子ら兄弟(八人)が四台の車に乗って、公宮に出かけた。

陳成子の兄弟八人の名は分かっている。すごいな。新釈p1827。

子我は幄(役所)にいたが、外に出て陳成子らを出迎えた。(陳成子らは公宮に)入って、門を閉じ(子我を閉め出し)た。(子我の)付き添いの人が、(門の封鎖を)防ごうとしたので、(潜んでいた)子行(陳逆)は付き添いの人を殺した。

斉の簡公は(このとき)夫人とともに檀台で酒を飲んでいた。陳成子は(簡公を)寝(おもて御殿)に移らせようとすると、簡公は戈を手に持って、(陳成子を)撃とうとした。大史の子餘は、「(簡公さまに)不利なことはしません。害を除くためです」と言った。
(簡公の怒りをこうむって)陳成子は公宮を出て倉庫に入ったが、簡公がまだ怒っていると聞いて、(斉を)出ようとして、「どこに行っても(仕えるべき)君主がいない」と言った。子行(陳逆)は剣を引き抜いて、「需(ぐずぐずすること)はこと(を成功させるため)の敵である。陳氏の宗家を継げるものは、代わりはいくらでもいる。あんたを殺さずにおいたら、陳の祖先から(神罰を受ける)だろう」と言った。(陳成子は出奔を)中止した。

◆陳氏が子我を殺す
子我が家に帰り、部下をあつめて闈(公宮の小門)と大門を攻めたが、どちらも勝てなかったので、逃げ出すと、陳氏が追いかけた。(子我は)弇中で進む道を失い、豊丘に到着した。豊丘の人が(子我を)捕らえて(陳氏に)告げた。(陳氏は)子我を郭関において殺した。陳成子は(子我の一味の)大陸子方を殺そうとしたが、陳逆が(命を)請うて助けた。
(これよりさき、大陸子方は)簡公の命だと(詐って)道中で(駅の)車を取って、耏まで逃げた。人々は(詐りと)知って東に行かせ(追い戻し)た。(大陸子方が許されて、斉の宮殿の)雍門を出るとき、陳豹が車を与えようとすると、受け取らず、「陳逆(きみ)が私のために命乞いをし、車までくれたら、私的な恩義を受けることになる。私は子我に仕えており、(子我の)政敵から)私的な恩義を受けたなら、(これから逃げていく予定の)魯や衛の士に顔向けできない」といった。こうして東郭賈(大陸子方)は衛に逃げた。

庚辰(五月二十一日)、陳恒(陳成子)は簡公を舒州を捕らえ(閉じ込めた)。簡公は、「私が早く諸御鞅の言葉に従っていたら、こうはならなかった」と言った。

諸御鞅の言葉は、同じ哀公十四年夏にある。


◆宋の景公と、権臣の桓魋が争う
宋の桓魋(かんたい)は(君主に)寵愛されて、(かえって)君主(宋の景公)を侵害した。景公は夫人(母)に依頼して桓魋を招待してご馳走し、(その場で)桓魋を殺害しようとした。実現しないうちに、桓魋が先手をうち景公を殺害しようとした。(桓魋の私邑の)鞌を(宋国の邑の)薄と交換しようと持ちかけた。景公は、「だめだ。薄は宗邑(祖先の宗廟のあるところ)だ」と断った。(景公は)鞌に七つの邑を追加して、桓魋にあたえた。
桓魋は(御礼のため景公を)持てなしたいと申し出て、日中(正午)と時刻を定め、家(のの子郎党)をすべて連れて(宴席に)行った。景公はこれを知り、皇野(司馬子仲)に、「私は桓魋を長じさせた(育ててやった)のに、私の命を狙っている。どうか救ってくれ」と言った。司馬子仲は、「臣下が(君主に対して)順でないのは、神が憎むことだ。まして人間ならば(なおさら憎む)。どうして命令を受けないことがあってよいか。しかし左師(桓魋の兄、向巣)を味方にしなければ、(桓魋を排除する)計画は失敗しま。君命として召し寄せましょう」と言った。

左師は食事のときいつも鍾を撃った。(このとき)鍾の音が聞こえたので、景公は、「夫子(左師)の食事の時間だ」と言った。食べ終わって、また鐘を鳴らした。景公は、「よい(タイミングだ)」と言って、車に乗って迎えに行かせた。

この食事の鐘のあたりも、演劇がかっていて、テンポがよい文章。


(子仲は左師にむけて言うには、)「迹人(狩り場の管理者)がきて告げた。逢沢に介麇(大鹿)がいると。公(わが君)には、桓魋は(行った先から)帰っていないが、左師(に来てもらって)私とともに田(狩猟)をしたい。どうだろうかと言った。わが君はあなたに告げる(直接話す)のを遠慮されているので、そこで野(わたし)が、私(内々に)試みてみましょうと言った。わが君は急いでいるので、車を手配してあなたを迎えにきた」と。

会話文のなかに、話者とわが君との会話が入っており、二重構造になっている。


(かくして左師と子仲は同乗して)公宮に行った。景公は(左師に)わけを話すと、(左師はことの意外さに驚いて)拝礼したままで身を起こせなかった。
司馬(子仲)は、「景公は(左師と誓いの)言葉を立てなさい」と(促して)言った。景公は、「(もしも)あなたを難(あだ)とすることがあったら、上には天(神)があり、下には先君(のみたま)がある(から厳罰を下すだろう)」と言った。(左師は)「(わが弟の)桓魋の共せざる(不心得)は、宋の禍です。どうして命令に従わないことがあろうか」と言った。

司馬(子仲)は(出兵のしるしの)瑞(玉)を請うて、(郎党に)命じて桓氏(桓魋)を責めようとした。すると(桓氏の)父兄や故臣は、「いけない」と言って反対をした。しかし新臣(新たな家来たち)は、「ご主人の命令に従いましょう」と言った。さっそく桓魋を攻めた。

(桓魋の弟の)子頎(しき)は(事変を聞いて)騁(馬車を走らせて)桓司馬(桓魋)に告げた。司馬(桓魋)は(都に攻め)入らんとしたが、(桓魋の弟の)子車がこれを止めた。「君主にうまく仕えることができないのに、さらに国(都)を攻めるというのでは、民は味方しません。祇(た)だ死を取るのみ(討ち死に行くだけです)」と入った。桓魋は(都の攻撃を中止し)曹国に行って、そこで叛いた。

◆宋国から桓魋一族が放逐される
六月、(宋の景公は)左師巣に命じて桓魋を伐たせた。(巣は弟の桓魋を滅ぼすことを望まず、そのために景公の怒りを買って討たれたら困るので)(宋の国内の)大夫を人質にして曹国に入ろうとしたが、できなかった。彼もまた曹国に入り、(亡命先の曹国で、曹人を)人質にしようとした。

左師巣=桓巣=向巣が、なぜこのような動きをしたのか。カッコのなかで補われている行動意図がないと、この文は解釈ができない。

桓魋は、「いけない。君主にうまく仕えられないばかりか、民からも罪を得る(憎まれる)ことになれば、どうにもならない」と言って、曹人の人質を解放した。

桓魋=向魋(きょうたい)。桓巣=向巣(きょうそう)。おぎなう文字を「桓」で統一してます。


(しかし曹国の)民が背いたので、桓魋は衛に逃げた。向巣(桓巣)は(魯国に)に逃げてきた。
そのとき宋公(宋の景公)は桓巣をひきとめて、「寡人(わたし)はあなたと(約束の)言葉をかわした。(宋国のなかで)向氏(桓氏)の祀りを絶やしてはいけない」と言った。桓巣は辞退して、「私の罪は大きい。桓氏(向氏)をことごとく滅ぼしても結構です。もし先臣(先代まで)の功績を理由にして、後継者を置いてもらえるなら、景公の恩恵のおかげです。私のようなものが(宋国に)入国することはできません」と言った。
(弟の)司馬牛も、自分の邑と(邑を治める証の)珪を返上して、斉に逃げた。

向魋(桓魋)が衛の地に逃げていったとき、(衛の大夫の)公文氏が桓魋を攻撃し、(桓魋が持っている)夏后氏の璜(名玉)を欲しがったので、桓魋はほかの玉(偽物)を与えて、斉に逃げ込んだ。

(斉の)陳成子(陳恒)は、(桓魋を)次卿とした。司馬牛も宋国の邑を返上して、呉に行った。呉人は好意を示さなかったので、(司馬牛は)引き換えした。趙簡子が(司馬牛が賢だと聞いて)招き、陳成子もまた招いたが(どちらにも仕えず)、やがて魯の郭門の外(町外れの門の外)で亡くなった。阬氏が司馬牛を丘輿に葬った。

◆斉の簡公が弑殺される
(六月)甲午(六日)、斉の陳恒がその君主(簡公)を舒州で弑した。孔丘は三日の斉(ものいみ)をしてから、君主(魯の哀公)に、斉の討伐を要請した。三度に及んだ。哀公は、「魯は斉のために弱(痛めつけられる)ことが長かった。孔子が斉を討伐しようというのは、どういうつもりだ」と言った。孔子は答えて、「陳恒がその君主(斉の簡公)を弑殺したので、民は半分も味方しないだろう。魯の軍勢(すべて)に、斉の半分(陳恒の敵対者)を加算するならば、勝つことができる」と。

斉の簡公が殺されるなんて、普通に大事件が起きているし、孔子が兵の算数をしているのがおもしろい。

(哀公は)「子(あなた)は季孫に告げなさい」と言った。孔子はそれを断って、ひとに告げて、「私は大夫の後(末席)に従って(連なって)いるので、申し上げずには居られなかった」と言った。

哀公十五年秋

これよりさき、(魯の)孟孺子洩(孟懿子の子の孟武伯)が成(邑の名)で馬を飼おうとした。成の宰(代官)の公孫宿は受け入れないで、「孟孫(父ぎみ)は成の病める(民が苦しんでいる)のを見て、馬を圉(か)わなかった」と言った。孟孺子は怒って成を襲ったが、(成の防御が固くて)攻め入ることができず、引き還した。成の担当官が、孟孺子を訪れたが、孟孺子はこれを鞭うった。秋八月辛丑、孟懿子が亡くなった。成の人はかけつけて弔おうとしたが、孟孺子はなかに入れなかった。(成の人は)袒(肩はだをぬぎ)免(冠をはずして)衢(大通りの辻で哭泣し)、(孟孺子の命令に従って葬儀の)手伝いをしようとしたが、孟孺子は拒否した。成の人は恐ろしく思い、成に帰らず(に留まった)。220406