いつか書きたい三国志

『晋書』巻十八 律暦志下所引 杜預『春秋長暦』

『晋書』律暦志下所引 杜預『春秋長暦』

原文

當陽侯杜預著春秋長曆、說云、
日行一度、月行十三度十九分之七有奇、日官當會集此之遲疾、以考成晦朔、以設閏月。閏月無中氣、而北斗邪指兩辰之間、所以異於他月。積此以相通、四時八節無違、乃得成歲、其微密至矣。得其精微、以合天道、則事敘而不愆。故傳曰、「閏以正時、時以作事」。然陰陽之運、隨動而差、差而不已、遂與曆錯。故仲尼・丘明每於朔閏發文、蓋矯正得失、因以宣明曆數也。
劉子駿造三正曆以修春秋、日蝕有甲乙者三十四、而三正曆惟得一蝕、比諸家既最疏。又六千餘歲輒益一日、凡歲當累日為次、而故益之、此不可行之甚者。
自古已來、諸論春秋者多違謬、或造家術、或用黃帝已來諸曆、以推經傳朔日、皆不諧合。日蝕於朔、此迺天驗、經傳又書其朔蝕、可謂得天、而劉賈諸儒說、皆以為月二日或三日、公違聖人明文、其弊在於守一元、不與天消息也。
余感春秋之事、嘗著曆論、極言曆之通理。其大指曰、天行不息、日月星辰各運其舍、皆動物也。物動則不一、雖行度有大量可得而限、累日為月、累月為歲、以新故相涉、不得不有毫末之差、此自然之理也。故春秋日有頻月而蝕者、有曠年不蝕者、理不得一、而算守恒數、故曆無不有先後也。始失於毫毛、而尚未可覺、積而成多、以失弦望晦朔、則不得不改憲以從之。書所謂「欽若昊天、曆象日月星辰」、易所謂「治曆明時」、言當順天以求合、非為合以驗天者也。推此論之、春秋二百餘年、其治曆變通多矣。雖數術絕滅、遠尋經傳微旨、大量可知、時之違謬、則經傳有驗。學者固當曲循經傳月日・日蝕、以考晦朔、以推時驗。而皆不然、各據其學、以推春秋、此無異於度己之跡、而欲削他人之足也。
余為曆論之後、至咸寧中、善算者李修・卜顯、依論體為術、名乾度曆、表上朝廷。其術合日行四分數而微增月行、用三百歲改憲之意、二元相推、七十餘歲、承以強弱、強弱之差蓋少、而適足以遠通盈縮。時尚書及史官、以乾度與泰始曆參校古今記注、乾度曆殊勝泰始曆、上勝官曆四十五事。今其術具存。又并考古今十曆以驗春秋、知三統之最疏也。
春秋大凡七百七十九日、三百九十三經、三百八十六傳。其三十七日蝕。三無甲乙。
黃帝曆得四百六十六日、一蝕。
顓頊曆得五百九日、八蝕。
夏曆得五百三十六日、十四蝕。
真夏曆得四百六十六日、一蝕。
殷曆得五百三日、十三蝕。
周曆得五百六日、十三蝕。
真周曆得四百八十五日、一蝕。
魯曆得五百二十九日、十三蝕。
三統曆得四百八十四日、一蝕。
乾象曆得四百九十五日、七蝕。
泰始曆得五百一十日、十九蝕。
乾度曆得五百三十八日、十九蝕。
今長曆得七百四十六日、三十三蝕。失三十三日、經傳誤。三無甲乙。
漢末、宋仲子集七曆以考春秋、案其夏・周二曆術數、皆與藝文志所記不同、故更名為真夏・真周曆也。

訓読

當陽侯の杜預 春秋長曆を著し、說きて云はく〔一〕、
日行は一度、月行は十三度十九分の七 奇有り、日官は當に此の遲疾を會集して、以て晦朔を考成し、以て閏月を設くべし。閏月には中氣無く、而して北斗は邪りに兩辰の間を指す、他月に異なる所以なり。此を積みて以て相 通ずれば、四時八節は違ふこと無く、乃ち成歲を得て、其れ微密の至りなり。其の精微を得て、以て天道に合へば、則ち事敘して愆らず。故に傳に曰く、「閏 以て時を正し、時 以て事を作す」と〔一〕。然れども陰陽の運は、動に隨ひて差(たが)ひ、差ひて已まず、遂に曆と錯(たが)ふ。故に仲尼・丘明は每に朔閏に文を發す、蓋し得失を矯正し、因りて以て曆數を宣明するなり。
劉子駿 三正曆を造りて以て春秋を修め、日蝕に甲乙有る者は三十四、而して三正曆は惟だ一蝕を得るのみ、諸家に比して既に最も疏たり。又 六千餘歲にして輒ち一日を益す、凡そ歲は當に累日もて次を為すべし、而るに故に之を益すは、此れ行ふ可からざるの甚だしきなり。
古より已來、諸々の春秋を論ずる者は違謬多く、或いは家術を造り、或は黃帝より已來の諸曆を用ひて、以て經傳の朔日を推すも、皆 諧合せず。日 朔も蝕するは、此れ迺ち天驗なり、經傳 又 其の朔の蝕を書するは、天を得たると謂ふ可し。而るに劉・賈の諸儒の說は、皆 以て月の二日 或いは三日と為す。公に聖人の明文に違ふ。其の弊は一元を守るに在りて、天の消息に與せざればなり。
余 春秋の事に感じ、嘗て曆論を著し、曆の通理を極言す。其の大指に曰く、「天行 息まず、日月星辰、各々其の舍を運るは、皆 動物なればなり。物 動かば則ち一ならず、行度 大量有りと雖も、得て限る可し。累日 月と為り、累月 歲と為り、新故を以て相 涉るに、毫末の差有らざるを得ざるは、此れ自然の理なり。故に春秋に日 頻月にして蝕する者有り、曠年にして蝕せざる者有りて、理は一なるを得ず、而して算は恒數を守り、故に曆は先後有らざるは無きなり。始めは毫毛に失するも、尚ほ未だ覺ゆる可からず、積みて多と成り、以て弦望晦朔を失へば、則ち憲を改めて以て之に從はざるを得ざるなり。書の所謂、「欽みて昊天に若(したが)ひ、日月星辰を曆象す」、易の所謂、「曆を治め時を明らかにす」とは、當に天に順ひて以て合を求むべく、合を為して以て天に驗するに非ざるを言ふなり。此を推して之を論ずれば、春秋の二百餘年、其の治曆は變通は多し。數術 絕滅すと雖も、遠く經傳の微旨を尋ぬれば、大量は知る可し。時の違謬なれば、則ち經傳 驗有り。學者は固より當に經傳の月日・日蝕を曲循して、以て晦朔を考へ、以て時驗を推すべし。而るに皆 然らず、各々其の學に據りて、以て春秋を推す。此れ己の跡を度りて、他人の足を削らんと欲するに異なる無きなり。
余 曆論を為すの後、咸寧中に至り、算を善くする者の李修・卜顯、論體に依りて術を為し、名づけて乾度曆とし、朝廷に表上す。其の術 日行は四分の數に合はせて月行を微增す、三百歲改憲の意を用て、二元 相 推し、七十餘歲、承くるに強弱を以てす、強弱の差は蓋し少なく、而して適足するに遠通の盈縮を以てす。時に尚書及び史官は、乾度と泰始曆とを以て古今の記注を參校するに、乾度曆 殊に泰始曆に勝り、官曆に勝ること四十五事と上す。今 其の術 具に存す。又 并びに古今の十曆を考へて、以て春秋を驗するに、三統の最も疏なるを知るなり。
春秋は大凡 七百七十九日なり、三百九十三は經、三百八十六は傳なり。其の三十七の日蝕に、三は甲乙無し。
黃帝曆は四百六十六日、一蝕を得たり。
顓頊曆は五百九日、八蝕を得たり。
夏曆は五百三十六日、十四蝕を得たり。
真夏曆は四百六十六日、一蝕を得たり。
殷曆は五百三日、十三蝕を得たり。
周曆は五百六日、十三蝕を得たり。
真周曆は四百八十五日、一蝕を得たり。
魯曆は五百二十九日、十三蝕を得たり。
三統曆は四百八十四日、一蝕を得たり。
乾象曆は四百九十五日、七蝕を得たり。
泰始曆は五百一十日、十九蝕を得たり。
乾度曆は五百三十八日、十九蝕を得たり。
今 長曆は七百四十六日、三十三蝕を得たり。三十三日を失ふは、經傳の誤りなり。三に甲乙無し。
漢末に、宋仲子 七曆を集めて以て春秋を考ふ。其の夏・周の二曆の術數を案ずるに、皆 藝文志の記する所と同じからず、故に名を更めて真夏・真周曆と為すなり。

〔一〕杜預『春秋長暦』からの引用部分の翻訳には、『全譯後漢書』志(一)律暦を参照した。『春秋長暦』は、『後漢書』律暦志 劉昭注に引かれており、採録部分が異なり、字句にも異同が見られる。
〔二〕『春秋左氏伝』文公 伝六年に同文が見える。


現代語訳

当陽侯の杜預は『春秋長暦』を著し、以下のように述べた。
太陽の一日の行度は一度で、月の一日の行度には十三度十九分の七度と若干の端数があり、日官は(太陽と月の行度の)遅速を調整して、晦と朔を検討し(暦法を)編成して、閏月を設置すべきである。閏月には(冬至や大寒などの)中気がなく、そのため北斗は規則に背いて(十二辰のうち)二つの辰のあいだを指すが、(これが閏月が)他の月と異なる点である。こうした調整を重ねることで(天象と暦とが)互いに通じあえば、四時八節は(暦と)乖離せず、かくして一年(の暦)が成り立ち、それは精密さが生み出したものである。その精密さによって、天道に準拠すれば、歴史の叙述を誤ることがない。ゆえに『春秋左氏伝』文公 伝六年に、「閏月を挿入することで四時(と暦の誤差)を調整し、四時にもとづいて農事が行われる」とある。しかし陰陽(二気)はめぐり、その運動によって(暦法と天象との)差異が生まれ、その差異は拡大し、徐々に(暦法と天象とが)食い違ってゆく。ゆえに仲尼と左丘明はつねに朔と閏について(『春秋』や「左伝」に)文を著すたび、得失(朔閏と天象の整合性)を矯正しようと思い、暦法(の重要性)を広めて明らかにした。
劉子駿(劉歆)は三正暦(三統暦)を作って『春秋』を研究した。(『春秋』で)日食の日付は三十四が記され、しかし三正暦は一回の日食しか算出できず、諸家(の暦法)と比べて最も劣ったものである。さらに(三正暦は)六千年あまりで一日を追加する。およそ年とは日々の積み重ねが順序をなしたもので、恣意的に一日を加えるのは、とくに行ってはいけないことである。
いにしえより以来、『春秋』を論じる人々には不適切な発言が多く、あるものは一家の暦術をつくり、あるものは黄帝より以来のさまざまな暦法を用いて、経伝の朔日を推算してきたが、みな整合的な理解に失敗している。朔日に日食が起こるのは、天の験(しるし)であり、『春秋』の経伝もまた朔日に日食を記録するのは、天(の意思)を得たものと言えよう。しかし劉歆や賈逵ら儒者たちの説は、どちらも月の二日あるいは三日(に日食が起きた)としている。あからさまに聖人の明文と食い違っている。彼らの誤りは一つの暦法を守ることにこだわり、(日食によって示される)天の消息(意志)を無視するところにある。
わたしは『春秋』(経伝が天の意思を反映していること)に感じ入り、かつて暦論を著し、暦に通底する論理を解き明かした。その概略は、「天の運行が止まることがなく、日月星辰が、それぞれに舎(特定のルート)を通る理由は、これらが(自分で)動く物だからである。物が(銘々に)動けば(ルートは)一つにならず、動き方のパターンは多様であるが、(パターンに)限度もあるだろう(完全にランダムではない)。日をかさねて月となり、月をかさねて歳(年)となる。(天象記録と暦法の)新しいものと古いものを比べて調査してみると、微少な差が生じ得ないことがないのは、これが自然の理に基づくからである。ゆえに『春秋』は(短期間で)まとまった月に頻繁に日食が起きたり、数年の(長い)あいだ日食が起きなかったりして、(見せかけの)理が一つに定まらず、ところが算(天の運行の定数)は(長期間では)不変なので、ゆえに(サンプル数を一定期間に限定して作られた)暦は(天象との)先後(差異)が無いものがないのである。はじめはほんの僅かな誤差であって、(暦の管理者は)検知ができないが、積み重なって多くの差となり、弦望(半月と満月)晦朔(月末と月初)を誤るようになれば、法則を変更して(天象に)合わせ直す必要がある。『尚書』尭典に、「つつしんで大いなる天(の運行)にしたがい、日月星辰について暦象(暦を計算し天象を観測)する」とあり、『易』革卦の大象に、「暦を正しく定めて四時(の変革)を明らかにする」とあるように、天象にしたがって暦を合致させるべきで、(暦法に)合致させて天が意志を示すのではないことを述べたものだ。以上を踏まえて考えれば、『春秋』二百年あまりで、(当時の)暦法が多く変遷している。(当時の)算出方法は絶えて伝わっていないが、遠く経伝の微旨から読み取れば、あらましを知ることができる。(暦法が配置した)時に誤りがあれば、経伝のなかで触れられている。学ぶものは経伝の月日と日食を曲循(曲げたり従ったりして比較検証)し、(当時の暦法の)晦と朔を考え、各時点での験(込められた意義)を推定すべきである。しかし(これまでの『春秋』学者は)みなそうせず、各自の学問に依拠して、『春秋』(当時の暦法)を推断している。これは自分の足跡(歩幅)を計って、他人の足を(歩幅に合うように)削ろうとしていることと同じである。
わたしが暦論を著した後、咸寧年間(二七五~二八〇年)に至り、算術を得意とする李修と卜顕(夏顕)は、(わたしが)論じた体系に基づいて暦術をつくり、これを乾度暦と名づけ、朝廷に提出した。その暦術(乾度暦)は太陽の運行には四分暦の定数をつかって月の運行は僅かに(行度を)増したもので、三百年で斗憲を改めるという意を受け、(日行と月行の)二元を調整し、七十年あまりでも(経過しても)、強弱の差が少しだと思われ、さらに調整をするため(日と月の)遠通の違いを反映させた。あるとき(西晋の朝廷で)尚書と史官は、乾度暦と泰始暦を用いて古今の記注(日食の記録)と比較検討をしたが、乾度暦のほうが泰始暦に勝り、官暦(泰始暦)に勝る四十五の事項を提出した。いまその暦術は詳細に備わっている。またあるとき古今の十暦と比較し、『春秋』で検証したところ、三統暦がもっとも不正確であることが分かった。
『春秋』には全部で七百七十九日(の日付表記)があり、三百九十三日は経(の文)、三百八十六日は伝(の文)に見える。『春秋左氏伝』が記す三十七回の日蝕のうち、三回分は甲乙(日付表記)がなかった。
黄帝暦(を『春秋左氏伝』の経文と比較した場合)は四百六十六日(の日付表記と)、一蝕(一回の日食)が(『春秋左氏伝』の日付と)一致した。
顓頊暦は五百九日、八蝕が一致した。
夏暦は五百三十六日、十四蝕が一致した。
真夏暦は四百六十六日、一蝕が一致した。
殷暦は五百三日、十三蝕が一致した。
周暦は五百六日、十三蝕が一致した。
真周暦は四百八十五日、一蝕が一致した。
魯暦は五百二十九日、十三蝕が一致した。
三統暦は四百八十四日、一蝕が一致した。
乾象暦は四百九十五日、七蝕が一致した。
泰始暦は五百一十日、十九蝕が一致した。
乾度暦は五百三十八日、十九蝕が一致した。
いま(わたくし杜預の)長暦は七百四十六日、三十三蝕が一致した。三十三日を一致させられなかったのは、経伝の誤りである。三つ(の日食)には甲乙(日付表記)がなかった(から検証の対象外である)。
後漢末に、宋仲子(宋忠)が七暦を集めて『春秋』を考証したが、その(宋忠が基づいた)夏と周の二暦の術数を検証したところ、どちらも藝文志の内容と一致しないので、(ここでは宋忠の使った暦の)名を変更して真夏・真周暦とした。220409