いつか書きたい三国志

杜預『春秋左氏伝集解』序を読む

春秋左氏伝序

『春秋』経文について

春秋は、魯の史記の名なり。事を記す者〈史官〉は、事を以て日に繫(か)け、日を以て月に繫(か)け、月を以て時に繫け、時を以て年に繫く。

時は、四時。春夏秋冬。
できごとを日の配下におき、日を月の配下におき、月を時(季節)の配下とし、時(季節)を年の配下とする構造。同じ物言いを、『後漢書』律暦志・『晋書』律暦志に引く、杜預の『春秋長暦』でも言っていた。
編年繋月体という。

〈年月の〉遠近を紀し、〈事柄の〉同異を別(わか)つ所以なり。

故に史の記す所は、必ず年を表はして以て事を首む。年に四時有り、故に錯舉して以て記す所の名と為すなり。

年は、国君在位の年(隠公三年など)。
春夏秋冬という四季の名から「錯舉」した、春と秋だけを抜き出した。『春秋』という魯の歴史書の名前の由来を説明したところ。


周禮に史官有り。邦國・四方の事を掌り、四方の志を達す。

四方の国々からの報告を記すことをつかさどり、あるいは天子から王令や報告などを書いて四方の国々に通達することを掌る。
ここはまだ、『周礼』に準拠し、『春秋』経文を解説しているところ。

諸侯も亦た各々國史有り。大事は之を策に書し、小事は簡牘のみ。孟子曰く、「楚に之を檮杌(とうこつ)と謂ひ、晉に之を乘と謂ひ、而して魯に之を春秋とい謂ふ、其の實は一なり」と。
韓宣子 魯に適き、易象と魯の春秋を見て曰く、「周禮 盡く魯に在り。吾 乃ち今にして周公の德と、周の王たる所以とを知るなり」と。韓子の見る所は、蓋し周の舊典禮經ならん。

周德 既に衰へ、官 其の守り〈守るべき決まり〉を失ふ。上の人 春秋をして〈褒貶勧戒のこころを〉昭明ならしむこと能はず。赴告の策書、諸々の記注する所、多く舊章〈書法〉に違ふ。

伝達経路が、周代の本来のかたちから乖離した。これが、孔子が筆削を加えなければいけない理由である。孔子の手を借りる必要、孔子の手を経るべき必要が生じたのは、周代の情報の発行、伝達、記録のしかたが乱れたからだ。

仲尼 魯史の策書の成文に因り、其の〈書法の〉真偽を考へて、其の典禮を志す。上は以て周公の遺制に遵ひ、下は以て將來の法を明らかにす。

周王の正しい記録方法を、もっともよく保存している魯国の歴史記録(春秋)のルールに則った。真偽というのは、新釈漢文大系の理解では、書法の真偽のこと。内容の真偽ではない。過去の周王のルールと、未来に守られ続けるべきルール


其の教への存する所にして、文の害する所は、則ち刊(けづ)りて之を正し、以て勸誡を示す。

世の教訓が含まれているのに、文が損なわれてその義をよく表していない場合は、不適切な古い文を削って、正しく書き直した。へえ。

其の餘は皆 即ち舊史を用ふ。

世の教訓が含まれており、文が十全に備わっていてその義を表しているならば、孔子がわざわざ手を加えず、魯の歴史記録のままスルーした。

史に文質有り、辭に詳略有り、必ずしも改めざるなり。

文:事実を文飾すること
質:文飾を用いず事実をそのまま書くこと
詳:くわしい、略:簡略だ
さまざまな文の書き方のパターンがあるが、「勧戒」のこころが正しく伝わっているものは、孔子が手を加えなかったよと。文のパターンは、どんな場合にも共通で、「勧戒」の示し方だけに注視して判断したよ、と言いたかっただけ。
『論語』雍也篇に、文と質がある。知ってる。

故に傳に曰く、「其れ善き志なり」と。又 曰く、「聖人に非ずんば、孰か能く之を修めん」と。

『春秋左氏伝』昭公 伝三十一年と、『春秋左氏伝』成公十四年が出典。
左氏の伝のなかで、春秋の経を「りっぱな記録書だ」といった部分がある(昭公 伝三十一年)。左氏の伝のなかで、春秋の経を「聖人でなければ修められない(編纂できない?)」と言った。

蓋し周公の志、仲尼は〈周公の精神に〉從ひて之を明らかにするなり。

『春秋左氏伝』伝文について

左丘明 經を仲尼に受けて、以為へらく經は不刊の書なりと。

左丘明は経文を孔子から授けられた。という情報経路の理解を、少なくとも杜預がしている。これは重要な情報。
不刊の書。一字たりとも削ることのできない(神聖な書である)と、左丘明が経文を尊重した、と杜預が理解していた。

故に〈左丘明の手による〉傳は或いは經に先んじて以て事を始め、或いは經に後れて以て義を終ふ。

ときに、経文の前に、経につらなる事柄(前日譚や解釈)を書き始めることがある。経文より遅れて(後に、経の)義を説明することがある。
隠公元年のように、経文を理解する手引きがあり、「先経の伝」という。
経文のあとに、すぐに解経(経文を解釈するため)の文をおかないで、はるか後年に遅れて解釈を配置することがある。
杜預が、経文と伝文を合刻したというか、交互に挟み込んで、くっつけたことの意図も、踏まえて論じなければならない。

或いは經に依りて以て理を辨(わきま)へ、或いは經に錯(まじ)へて以て異を合はせ、義に隨ひて發す。

経文に基づいて、経文の義理を解き明かし、経文をまじえて〈書法、文辞の〉異なるところを整合させ(て義を明らかにし)た。経文をまじえて並べて検討し、書法(文辞)が違っていても、その義が同じものを考え合わせること。
『礼記』経解篇に「属辞比事(辞を属(あ)はせて事を比ぶ」とある。
すべて経義に従って発す(明らかにした)。
杜預のなかで、『左伝』の編者として設定されている左丘明は、孔子から経文を受け取り、孔子が明らかにした義を全面的に肯定して継承した上で、孔子の「義」をより明らかにするために、経文に補うかたちで伝文を増やしていった。杜預が想定する左丘明の活動の目的は、もっぱら周王朝、孔子の「義」を明らかにすることである。
左丘明が「義」を明らかにする活動、、を杜預が読み解いていくなかで、史学への萌芽を読み取れないか、ということがやりたいわけですね。


其の〈経文と旧史とで〉例の重なる所、舊史の遺文は、略して盡くは舉げず。

義例が重複するところは、一度の説明で済ませる。

聖人の修むる所の要に非ざるが故なり。

無伝の経があることを指す。孔子がつくった経文と、左丘明のタネ本である旧史に重複があれば、タネ本から引き直すことはしなかった。経文と同じ伝文を直後にくり返しても、だるいだけ。しかも杜預の理解では、タネ本と経文が重複するということは、聖人が特別に筆削を加えたところではないから。


〈無経の伝があるのは〉(左丘明が)身ら國史〈魯の史官〉と為(な)り、躬ら載籍を覽たり。

『論語』公冶長篇にみえる左丘明は、『左伝』製作者とした場合に年代が合わない。新釈漢文大系の解題を参照。
漢代以来の通説として、魯の史官(または君子)の左丘明が、『春秋』の経文を孔子から授けられ、経文のために伝文をつくった。それが『左氏春秋』と言われた、とされてきた。

〈経文がなくても、魯の史書をタネ本として〉必ず廣く記して備(つぶ)さに之を言ふ。其の文 緩くして〈ゆったり余裕があり〉、其の旨 遠し〈幽遠である〉。

〈左丘明の伝は〉將に學者をして始を原(たづ)ねて終を要(もと)め、其の枝葉を尋ねて、其の窮まる所を究めしめんとす。

『左伝』が、『公羊伝』『穀梁伝』よりも勝っている理由は、無経の伝によって、学ぶものに、事件の始原や結末を探究させてくれるところにある。
他の二伝に対して、『左伝』の優位性を出すためには、孔子の解釈、経に込められた思いを解き明かすということだけではダメ。左丘明が魯の史官であったという「役得の産物」であることが、『左伝』の情報量を担保し、事件の始原と結末を調べたいというニーズを満たしてくれる。歴史書に傾きつつある。

優にして之を柔にし、自ら之を求めしむ。
饜にして之を飫(よう)にし、自ら之に趨(おもむ)かしむ。江海の浸、膏澤の潤が若し。

『左伝』の伝文が豊かな文辞をもって経文を説明し、その義理を伝文のなかに行き渡らせていることは、水のうるおいが浸透し、潤っていることに似ている。

渙然として冰釋し、怡然として〈よろこび楽しんで〉理 順ふ。然る後に得たりと為すなり。

春の氷が「さらり」と解けるように、深遠なる経義が、伝文によって「さらり」と明らかになること。


「凡例」について

其のを發こして以てと言ふは、

『左伝』が「凡そ……」と説き起こして、『春秋』の義例を述べているのは、
左伝が「凡そ……」と義例をのべる凡例が五十あり、春秋五十凡という。ただし、「母弟」の凡例が二回出てくるので、実際には四十九である。

皆 經國の常制にして、周公の垂法〈後世に残された法度〉、史書の舊章〈記載するときの古い決まり〉なり。

「凡そ……」の物言いは、『左伝』のオリジナルではなく、国を治めるための定まった規則であり、周公が定めて後世に伝えた法度であり、史官が史書を作成するときの古い決まりである。

仲尼は〈常制・垂法・旧章に〉從ひて之を〈乱れたものを正し〉脩め、以て一經の通體を成す〈春秋の経文の全体の体例とした〉。其の〈経義が〉顯なるを微かに〈言葉少ないに〉して〈経義が〉幽なる〈奥深く知りがたいもの〉を闡(ひら)き、義類〈義理の類型〉を裁成する者〈整然と並べるの〉は、舊例〈旧史の凡例〉に據りて義〈経義〉を發(おこ)し〈説明し〉、行事〈実際におこなったことの是非〉を指して以て褒貶を正す。

諸々の〈『左伝』のなかで孔子が筆削したものに対して〉「稱す・書す・書せず・先づ書す・故に書す・言はず・稱せず・書して曰く」の類は、皆 新〈孔子の創意の新例〉舊〈孔子以前の旧例〉を起し〈区別し〉、大義を發(おこ)す所以なり。之〈ここに挙げた八つ、孔子の新例〉を變例と謂ふ。
然れども亦た史〈史官〉の書せざる所〈タネ本になく〉、即ち以て義と為す者〈孔子のこころに適うもの〉有り。此れ蓋し春秋の新意ならん〈変例に数え入れてよい〉。故に傳〈左伝〉には〈旧史を改めたもの・旧史にないもので〉「凡〈凡そ……〉」と言はず、曲(つぶ)さにして〈こまごまと委曲を尽くして〉之を暢ぶるなり。
其の經〈経文〉に〈特別の〉義例無く、行事〈実際の行為〉に因りて言ふ〈そのまま記述に語らせている〉は、則ち傳は直(ただ)に其の歸趣〈帰着した結末〉を言ふのみ。非例なり〈褒貶を含む義例ではない〉。

非例:「義」を述べない、ただの「事」が認識されている。


三つの体・五つの例

故に傳を發(おこ)すの體に三有り〈旧例(正例)・変例・非例〉、而して例の為にするの〈三例を説明するための〉情〈心くばり〉は五〈以下の五体〉有り。

一に曰く、微にして顯なり。文 此に見(あら)はれて義をば起すこと彼(かしこ)に在り。〈成公 経十四年の〉族を稱するは君命を尊ぶなり、族を舍(す)つる〈名のみを書く〉は夫人を尊ぶなり。〈僖公 経十九年の〉梁 亡ぶ、〈僖公 経十四年の〉緣陵に城(きづ)くの類 是なり。

春秋の文辞が簡約であるが、義はあきらか。
経文はあっさりしているが、その義を明らかにすることは、あっさりした文の外部に求めることができる。ねちねちと、経文で説明しておらず、違和感を催す簡潔な表現に、格別の毀誉褒貶の意図が込められている。


二に曰く、志(しる)して晦(くら)し。言を約にして制を示し、推して以て例を知る。〈桓公二年〉參會には地(ち)いはず、〈宣公七年〉與に謀るに及(と)と曰ふの類 是なり。

「事」を書き記しても、その「義」がくらくて知りがたい。 言葉を簡約にして、制(きまり)を示しているが、そのことを深く推したずねて(はじめて)義例を知ることができる。
「義」を直接説くことがなく、ただ「事(できごと)」を記すので、孔子さまの意図がわかりにくい(晦(くら)い)ことが、儒家経典としての『春秋』の弱点であり、それを克服するためのロジックが必要。と、杜預は認識している。


三に曰く、婉にして章を成す、曲げて義訓に從ひ、以て大順を示す。諸々の諱避する所、〈桓公元年の〉璧(たま)もて許田を假るの類 是なり。

婉曲に述べているが、文は整然としている。文辞を曲げて(あからさまには言わないで)、義訓(臣下の守るべき教え)に従い、大順(臣下の従うべき道)を示している。忌み憚ることがあるとき、この筆法を用いる。


四に曰く、盡くして汙(ま)げず。其の事を直書し、文を具(そな)へて意を見(あら)はす。〈荘公二十三年の〉楹(えい)を丹(あか)にす、〈荘公二十四年の〉桷(かく)に刻む、〈桓公十五年の〉天王 車を求む、〈荘公三十一年〉齊侯 捷を獻ずの類 是なり。

事実をありのまま残らず書き記し、事実を曲げない。文辞を十分にそなえて、意を率直に示している。


五に曰く、惡を懲らして善を勸む。名を求めて亡(うしな)ひ、蓋(おほ)はんと欲して章(あら)はる。〈昭公二十年に〉齊豹に盜と書す、〈襄公二十一年・昭公五年・昭公三十一年に〉三叛人に名(な)いふの類 是なり。

名声を求めて、かえって名声を失う。悪事を覆い隠そうとして、かえって悪事がさらけ出される。


此の五體を推して〈五体に基づいて〉、以て經・傳を尋ね〈研究し〉、類に觸れて之を長(なが)くし〈同類のものに出会えば、その義例で敷衍し〉、二百四十二年の行事に附せば〈できごとの記録のうえに、義例を施していくならば〉、王道の正、人倫の紀 備(そな)はれり。

経文と伝文の関係

或ひと曰く、春秋は文を錯(まじ)ふるを以て〈文辞を組み合わせて〉義を見(あら)はす。若し論ずる所の如くんば〈杜預くんの言うとおりなら〉、則ち經は當に事は同じけれども文は異にして、其の義無きも有るべし。

杜預への反問。もし杜預の言うとおりなら、
「経文において、同じ事柄で文の表現が異なっておいても、その義に(差異が)ない場合が想定される、ことになってしまうのではないかね?」

先儒の傳ふる所、皆 其れ然らずと。

杜預への反問者。「しかし先儒の説は、文の表現が異なっていれば、義に差異がある、としてきたはずだ」。杜預くん、どのように反論するのかね?


答へて曰く、「春秋は一字を以て褒貶を為すと雖も、然れども皆 數句を須(もち)ひて以て言を成す。八卦の爻、錯綜して六十四と為す可きが如くに非ざるなり。固より當に傳に依りて以て斷を為すべしと。

杜預「一字の表現の違いで、毀誉褒貶するとは仰いますが、しかし複数の言葉で文を練り上げているもの。易経の卦のように、メカニカル・テクニカルな差異の体系ではなくて、自然言語を使っているのだ。表現と義が、必ずしも一対一で対応するものではない。n対nでの緩やかな義の解読、抽出をするぐらいでよい。
一字が異なるたびに、特別の義理を立てるのではなく、左伝の文によって経義を求めるべきであると。
つまり、『春秋』の経文は、自然言語で書かれているから、易経の卦のように、パターン化が完璧に決まっているわけではない。ある部分での解釈(義の抽出)が、すべて他の部分に当てはまるとは限らない。『春秋』は事前にルールが規定された、プログラム言語ではない。それは、孔子が特別な意味を込めない場合、タネ本(魯の史記)に変更を加えなかった、ということで説明が終わってますよね。you see?
その『春秋』経文の「完成度の低さ」を補うのが、『左伝』の役割なのですよ。孔子の編纂は、徹底されたもの、単一ルールで数式のように導けるわけではないから、『左伝』によって判断をする(断を為す)べきだ」と。


先行研究の批判

古今の左氏春秋を言ふ者は多し。今 其の遺文の見る可き者は十數家、大體は轉(うた)た相 祖述するのみ。進みて為に經文を錯綜して以て其の變を盡くすことを成さず、

先行研究をくり返して引くだけ。自らオリジナルに経文を照らし合わせて、変化の違いを調べつくして、自説を打ち立てることをしない。

退きて丘明の傳を守らず。

一歩引き下がって(みずから孔子と向き合わず、経文の研究から一歩引いて)左伝の伝文を手掛かりとし、左伝の解釈に基づいて経文を理解することすら、サボっている。

丘明の傳に於て、通ぜざる所有らば、皆 沒して說(と)かず、而して更に公羊・穀梁を膚引し、適(まさ)に自ら亂るに足れり。

左丘明の伝文が理解できなければ、捨て置いて説かない(言及しない、触れない)ばかりか、公羊と穀梁を皮相的に引用して(左伝を解釈し)、みずから錯乱に陥っている。


預 今 異を為す所以は、專ら丘明の傳を脩めて以て經を釋かんとすればなり。

わたくし杜預が先行研究に対して異を唱えているのは、左丘明の伝で、経を解している(解釈?)しているという点だ。

經の條貫は、必ず傳に出づ。傳の義例は、總(すべ)て諸(これ)を凡に歸す。

経文をつらぬく筋道は、かならず左伝に出ている。左伝で説く『春秋』の義例は、すべて「凡例」に基づいている。

變例を推して以て褒貶を正し、二傳を簡(えら)びて異端を去る。蓋し丘明の志なり。

変例(孔子の筆削の義を説くもの)を推し究めて、褒貶の義を正しく(読み取って)説き、(左伝に伝文がない場合は、公羊と穀梁の)二伝から(よい部分だけ)選び取って、よからぬものは捨てる。
これが、左丘明の考えに忠実であろうと。
つまり、左伝「で」経文「を」読む。左伝を経ていない経文理解は、基本的にやらない。左伝が空白のときだけ、例外的に公羊・穀梁を参考にするが、あくまで補助的なツールである。

其の疑錯有れば、則ち備さに論じて之を闕(か)き、以て後賢を俟たん。

文字の錯誤などが疑わしいときは、こまごまと論じて結論を出すのではなく、後世に宿題として託そう。


然れども劉子駿は大義に創通し〈はじめて精通し〉、賈景伯の父子〈賈徽と賈逵〉・許恵卿〈許淑〉は、皆 先儒の美なる者なり。末に穎子嚴〈穎容〉といふ者有り、淺近なりと雖も亦た復た名家なり。故に特に劉・賈・許・穎の違ひを舉げて、以て同異を見(あら)はす。

賈徽は、劉歆から左氏を学んで『春秋条例』をつくった。賈逵は、父の賈徽の学問を伝えて『左氏伝訓詁』をつくった。
穎子厳(穎容)は『春秋条例』五万言がある。


杜預自身の著作物

經の年と傳の年とを分かちて相 附し、其の義類を比べ、各々隨ひて之を解く。

先行研究批判を踏まえて、杜預なりに作った本について。
経文の年、左伝の年をそれぞれ区切り、経文と伝文の対応関係が見えやすくなるようにし、義理の種類を、経・伝で互いに比較検討して、経・伝の解釈を行った。
新釈漢文大系によると、左伝の分年は杜預に始まるのではなく、漢代から行われていたものであろう、とのこと。
ぼくは思う。左伝「で」経を読むという、杜預なりの伝の読み方を強調するには、この体裁がもっとも相応しい。テキストの並びからして、杜預の読み方に巻き込まれ、引き摺られることになる。
『三国志』を裴松之注「で」読むと、ワケが分からなくなる。それは、裴松之の注が、陳寿の本文の義(というものがあれば)を明らかにすることを目的にしていないからだ。

名づけて『經傳集解』と曰ふ。

春秋経と左伝とを分年して対応させながら、一書にあつめて解釈したので経伝解釈という(左伝正義の説)。あるいは、何晏『論語集解』のように、左伝に対する先儒の注解を集めたので、経伝集解というのだとも(会箋)。

又 別に諸例

左伝の春秋義例をいう。公即位例・会盟朝聘例・戦敗例・母弟例などのたぐいをいう。

及び地名・譜第〈系譜〉・歷數〈春秋長暦または経伝長暦〉を集めて、相 與に部を為す。凡そ四十部、十五卷。皆 其の異同を顯(あら)はし、從ひて之を釋く。名づけて『〈春秋〉釋例』と曰ふ。將に學者をして其の聚むる所を觀しめんとす。異同の說は、『釋例』もて之を詳らかにするなり。

春秋三伝の比較

或ひと曰く、「春秋の作は、左傳及び穀梁、明文無し。

『春秋』の製作経緯について、左伝と穀梁伝には明らかな記載がない。他方、 『公羊伝』哀公十六年に、孔子が春秋を製作したことについて記述がある。

說く者〈左伝学者〉以為へらく仲尼 衛より魯に反り、春秋を修めて、素王に立ち、

孔子を素王としたのは、公羊家の董仲舒に始まる(『漢書』董仲舒伝)。劉向『説苑』貴徳篇、王充『論衡』超貴篇・定賢篇、あるいは緯書に見える。左伝家の賈逵『春秋序』にも反映され、鄭玄『六芸論』にもある(左伝正義引)。孔子の春秋製作を神聖化した説。

丘明は素臣と為ると。

左丘明が春秋経のために左伝を作ったという説は、『史記』十二諸侯年表序に始まる。

公羊を言ふ者〈公羊学者〉も亦た云ふらく、周を黜(しりぞ)けて魯を王とす。

公羊家の説で、周王朝を天子の位から退けて、魯を新しい王者とする。「新周故宋王魯説」という。二王の後のうち、杞は故(ふる)く宋は他らしいという区別を立て、「新宋故杞」という。孔子が春秋を作って魯を新王としたので、周を新たに二王の後にふくめ、宋を二王の故(ふる)きものとしたので、「新周故宋王魯」という(『春秋繁露』三代改制質文篇)。後漢の公羊学者の何休も『公羊解詁』のなかで述べている。

行ひを危(たか)くし言は遜(したが)ひ、

『論語』憲問篇を踏まえたもの。危険=たかい、は高潔にすること。

以て當時の害を避く。故に其の文を微かにし、其の義を隱すと。公羊の經は獲麟に止まりて、而れども左氏の經は孔丘 卒するに終る〈孔子が自分の死を書けないはずだ〉。敢て安んずる所〈どちらが正しいか〉を問ふと。

答へて曰く、「余が聞く所に異なり〈私が持っている情報と違う〉。仲尼曰く、『文王 既に沒すれども、文 茲に在らずや』と〈論語子罕篇〉。此れ制作の本意なり。歎じて曰く、『鳳鳥 至らず、河は圖を出ださず。吾 已んぬるかな』と〈論語子罕篇〉。蓋し時王の政を傷(いた)むなり。麟鳳の五靈は、王者の嘉瑞なり。今 麟 出づるに、其の時に非ず。其の應を虛しくして其の歸を失ふ〈麒麟が人に捕らわれて帰り先を失った〉。此れ聖人の感を為す所以なり。筆を獲麟の一句に絕つ者は、感じて起る所なれば、固より終りを為す所以なり」と。

獲麟で孔子が書き終えたのは、(孔子が獲麟に)深く感じいって、春秋の製作に取り掛かった動機とつながっているから、そこで終わるのは当然なことだ。


公羊学派への反論

曰く、然らば春秋は何ぞ魯の隱公に始まると。
答へて曰く、「周の平王は、東周の始王なり。隱公は、讓國〈弟の桓公に位を譲ろうとした〉の賢君なり。其の時を考ふれば、則ち〈平王の末年と隠公の初期が〉相 接(まじ)はり、

魯の隠公元年は、周の平王の四十九年。平王は、隠公三年三月に崩じた。在位期間はすれ違いになっている。

其の位を言へば、則ち列國なり。其の始〈魯公の始祖の伯禽〉を本(もと)づけば、則ち周公の祚胤なり。若し平王 能く天の永命を祈(もと)め、中興を紹開し、隱公 能く祖業〈周公の事業〉を弘宣し、王室を光啟せば、則ち西周の美 尋ぬ可く、文武〈文王と武王〉の跡 墜ちず。
是の故に〈平王と隠公が祖業を輝かせなかったので〉其の歷數に因りて、其の行事を附け、周の舊を采りて、以て王義を會成し、法を將來に垂る。
〈隠公元年の王正月の王とは〉書する所の王は、即ち平王なり。用ふる所の歷は、即ち周正なり。〈公が邾の儀父と蔑に盟ふとある公とは〉稱する所の公は、即ち魯の隱なり」と。〈以上を踏まえると〉安くんぞ其の周を黜けて、魯を王とするに在らんやと。

公羊学者の、孔子が素王だとか、魯公を天子をした、という妄言を退けてゆく。
より現実(実際の歴史)に即して、公羊学者を攻撃する。杜預が左伝を持ち上げ、公羊学者をやり込めるために、現実(実際の歴史)を盛んに利用すると、方式が史料批判に似てくる。


子曰く、「如し我を用ふる者有らば、吾 其れ東周を為さんか」と〈論語陽貨篇〉。此れ其の義なり〈孔子は東周を復興したい〉。若し夫れ制作の文は、往を彰らかにし來を考ふる所以にして、情は辭に見はる。言 高ければ、則ち旨 遠し。辭 約なれば、則ち義 微かなり。此れ理の常、之を隱すには非ざるなり。聖人は周身の防を包ねたり。

孔子の意図が伝わりにくいのは、内容が高尚になれば、表現が深遠となるし、言葉が簡素ならば、意味が微かとなる。これが杜預の主張。
まちがっても保身のため、難を避けるためにわざと分かりにくく書いた(だって孔子は、周王を革命で滅ぼしたり、自身が素王になったりするから、隠す必要があったのだ)という公羊学を退けていく。


既に作るの後、方に復た隱諱して以て患(うれ)ひを避くとは、聞く所に非ざるなり。子路 門人をして臣為らしめんとす。孔子 以て天を欺くと為す。 而るに仲尼は素王、丘明は素臣なりと云ふは、又 通論に非ざるなり。

孔子は臣下がいない。臣下がいるように偽装した子路を、孔子は叱った(論語子罕篇)。孔子が素王であるはずがない。孔子が素王、左丘明が素臣という、公羊学派の説はでたらめである。


先儒 以為へらく、

先儒は具体的には不明だが、服虔『左伝正義引』にも、夫子(孔子)が哀公十一年に衛から魯に帰って、春秋の製作に着手した。(完成後に)麒麟がきた、という記述がある。

制作すること三年にして、文は成りて麟を致すと。既に已に妖妄なり。

春秋に着手して三年で完成し、そこで瑞祥として麒麟が訪れた、という公羊学派の説は、でたらめである。

又 經を引きて以て仲尼 卒すに至るとは、亦た又た誣(し)ふるに近し。

孔子が自分の死を、経文に書き加えたというのもデタラメ。

〈なぜなら〉公羊の經は獲麟に止(とど)まり、

『公羊伝』の経文が哀公十四年の獲麟で終わり(完成して三年後に麒麟が来たなら、それが経文に含まれるはずがない)。公羊学派のデタラメさは明らか。

而して左氏は小邾射の三叛の數に在ざるに據る。

『春秋左氏伝』は、哀公十四年の獲麟のあとの経文に、「小邾の射(えき)、句繹(こうえき)を以て來奔す」とある。左伝は春秋の義例についていい、「三叛人を名いふ」とし、三人の謀叛人の名を書いてその悪を懲らしめた、と説明している。その三人のなかに、小邾の射が含まれていないことから、ここから孔子の卒までの続経(経文の続き)は、孔子が修めたものではないという理解になる。

故に余 以為へらく、麟に感じて作ると。作ること獲麟より起これば、則ち文 起る所に止まるとするは、其の實を得たると為す。〈公羊学派の〉袂(たもと)を反(かへ)し面を拭ひ、「吾が道 窮まる」と稱する〈『公羊伝』哀公十四年の獲麟の条〉に至りては、亦た取ること無しと。220410

公羊学派への反論の形態が、経義上の争いから、より史実に即した道理、史料批判へと傾きつつある。公羊学派に勝つには、史実や合理性を用いることが有利であった。