いつか書きたい三国志

杜預注『春秋左氏伝』先行研究を抜粋(加賀栄治氏)

『中国古典解釈史 魏晋篇』より1

加賀栄治『中国古典解釈史 魏晋篇』より。

p34経の真義を解明すべき所拠資料を、選択された伝に求め、その伝に拠って裏づけられ客観的に検証認識された経の義理法則を解釈原則とすることが、通儒の学の本質点であるとするならば、これは明らかに伝の絶対的な重視であり、文献資料の重視、とりわけ古文経伝を重視した古文学者の方法の徹底である。

p35劉歆以後の左氏学者、たとえば賈逵は、父徽の作った「左氏条例二十一篇」を受け継いでおり(『後漢書』賈逵伝)、鄭興・鄭衆父子にはそれぞれ「条例」があり(『後漢書』鄭興伝)、後漢末までには、潁容の「春秋釈例十巻」(『隋書』経籍志。『後漢書』儒林伝では「左氏条例五万余言」)があり、
荀爽の「春秋条例」がある(『後漢書』荀爽伝)など、所拠資料の選択と、その資料を経緯して義理を通ずる方法の樹立においては、少なくとも左氏学者ないしは古文学者たちがみな積極的意識的に努力している。
p37古文か今文かはもはや問題とならず、通理か否かが問題となる。後漢末魏晋の経書解釈はこうした段階をうけて、通理か否かを問題とした時期であった。…通理を究明せんとすれば、古文今文両学に通ずることは、当然その前提であり(読書)、結果でもある(思索)。

p37たとえ杜預の左伝解釈に公羊伝・穀梁伝が採られ、范寧の穀梁伝解釈に、左伝並びに杜預注・公羊伝並びに何休注が採られていても、それはけっして雑駁をもたらすものではなく、特に范寧の場合は…むしろ並存すべきものですらあったのである。
p38経書解釈の重要な基礎である経伝資料整備は、ほぼ後漢末までに完了し…とりわけ両漢学術を集大成したと評される後漢末の鄭玄による整備工作の成果は、全経書にわたるほどで、それが圧倒的な勢で魏晋にうけつがれていったから、魏晋人が努力した方向は、より多く通理の究明に傾いていった。


p341経伝の記載表現を字義どおり読ませ、句義・文義を停滞することなく、連属させ、無理なく通達させて解釈していることも、拠伝解経法の徹底化の方向を歩みながら、時代の「新」である合離主義的解釈態度を発揮させようとしたものであった。のみならず、この方向への歩みは…
解釈の通達・すなわち通理の究明にふさわしいかたち・「両読をはぶき」・「尋省易了」ならしめるような経伝編成のかたちを、その注釈においてとらせることとなった。杜預の「春秋経伝集解」は、経と伝とを、対応する年ごとに分けて合わせならべるかたち(=経伝分年比附)をとる。

p341かの王弼の「周易注」における経伝編成のかたちが、いわゆる「費氏易の法」といわれる拠伝解経法を徹底させる歩みを続けていった結果、『周易』上下経の各卦各爻に対応する彖伝・象伝・文言伝を、割裂して合わせて並べる形を採っているのと、まさしく歩みを等しくする。

p346(左伝の)服虔注が、注の中に経文を記載するかたちをとっているのは、かの「周易」の鄭玄注が、経文すなわち卦・爻辞に対して注をつけたのち、つづけてその注中に、伝文すなわち彖・象伝を記載したといわれているのと、同じ趣意―拠伝解経法の徹底―から発想されたものである。
鄭玄本(周易)のこのかたちが、王弼注本にいたる重要な階梯であったと同様、服注本のこのかたちは、杜注本にいたる階梯…である。しかしながら、服注本が…拠伝解経法を徹底させようと…しても、左伝経伝にける経と伝の関係は、その成り立ち…からいって、公羊・穀梁に伝のように、ほとんど逐一、
公羊・穀梁二伝のように、ほとんど逐一、経文を追ってゆくような密接な関係を持つ伝文ではなかったから、拠伝解経法徹底の効果は、必ずしも、よく発揮できるとはいえないようである。…おびただしい無伝の経は、いったいどう処置されるであろうか。…どこにも記載されなかったと思われる。

経伝分年比附の…杜注が、対応する伝文のない経文の下に、一々最後まで「無伝」と注記している。…
無経の伝に対し…服虔注が、伝の注の中で経文を記載しようとしても、記載できないものがあり、したがって「経文に闕くる所有り」(『南斉書』陸澄伝)という。

p349杜預のことばに、「経の年を分けて、伝の年と相い附け、其の義類を比して、各おの随いてこれを釈く。名づけて『経伝集解』と曰う」とある。たんに経文にも注釈をつけたことだけではなく、経と伝との義類(義理の類例)をつねに比(ちか)づけ比(くら)べつつ釈いているところをこそみるべきである。
p349附記:杜預は、左伝に拠って春秋を解する立場にたち…徹底させ…る。春秋経伝に記載されている記事の前後因果関係には、きわめて敏感でもあり、注意もしており、経文と経文との間・経文と伝文との間・伝文と伝文との間の結びつけに対し、意識的にそれを指示釈明しようとしている。

p350杜注には後から前を指示するもの…前から指示するもの(があり)もともと左伝の資料的性質が、いろいろの材料を総合したものであり、それを春秋の伝として経と相即貫通させなければならない指示であるが、杜預の「経伝集解」が、分年比附したこととも相即の関係を持つ。拠伝解経法徹底のあらわれ。
p351「左氏春秋」が「左氏伝」となり、記事が今見るように、経と対応する各公各年に分けられるようになったのは、前漢末期において、「春秋経」の伝としての性格を附与するための工作がなされた結果。経文の記載と即応させつつ作られたものではなく、どの年に分けて置くべきか疑問を生じる記事が出た。
左伝の記事には、数年にわたる事実を一連として記載するものがあった…。それを、分年工作によって分断した結果、伝文の位置に齟齬をきたすものを生ずるにいたった。特に目立つのは、一連の…最後の事実を、ある年の始めに置き、それ以外の部分をすべて前年末に置くようにした場合がそれである。

おなじ齟齬は、『資治通鑑』で見つけてます!めちゃ共感。
杜預が春秋経と左氏伝をねりあわせて、一連の編年の記述をつくることと、司馬光が『後漢書』『三国志』『後漢紀』『華陽国志』をねりあわせて、一連の『資治通鑑』をつくるのは、同じ困難が伴ってます。さすが『春秋左氏伝』を継ぐもの。

杜注は…前年の末の記事と一連であることを示し、一連に読むための補いをする程度にとどめている。杜預の認識では、ほとんど齟齬とはとらず、むしろ伝文は伝文で(経文は経文で)一連に通読する建前を貫こうとしている。…すでにできあがっていた伝文の分年工作の結果を肯定し、経伝分年比附をした。

先行研究を読んでないと、「車輪の再発明」をしちゃいます。が、自力で材料(史料)と向きあい、きちんと車輪を再発明できたならば、自信をもっていいはずです(笑)
時間のムダだし、効率が悪いし、特許権は取れないし、研究史における功績にならないのは知ってますけど。


p360春秋各国の説話記事を「春秋経」十二公の年と対応させながら編成し、いわば史伝を作成するような方向で形成したため、経伝を分年比附してみると、無伝の経・無経の伝が、おびただしい量で明示された。劉歆が「左氏春秋」を「春秋経」の伝として表章したとき、「左氏は春秋を伝せず」と批判された。
無伝の経・無経の伝をいかに説くは、左氏経伝にとって(劉歆以来の)宿命の課題。杜預は、無伝の経は直文だから無伝でもよい、無経の伝は広記備言して春秋の真義を究めるから無経でよいとした。この課題への処理法を詮議するよりは、杜預の左氏経伝観を通して、杜預の解釈の実態を究明すべき。

p361杜預において、伝に拠って解される「経」が、ただ「春秋経」の記載表現、表現から示される春秋の義理のみを指すものではなく、その経文をも合わせてもう一つ奥にあるものを指すことになるのではなかろうか。春秋経の文は孔子の手で伝えられたと杜預は考えるので、無伝の経も直文として意味を持つ。
p362杜預は「経闕」「経誤」として伝文に拠って経文を是正する。暦日は「春秋長暦」を作り、経文を批正することが多い。鎌田正氏が網羅的に挙示した。これを単に伝文主義とするのは不適切。杜預にとっても、伝は経義を敷衍し詳しく釈くもの。先儒よりも伝文を重視するには「新」なる春秋経学観ゆえ。220416

『中国古典解釈史 魏晋篇』より2

p363春秋経が理念を記載し規範を示すものとされる限り、拠伝解経は義理の解明に集中される。公羊・穀梁より遅れて世に出た左氏伝も、いかに二伝と異なり、かつそれは何故かを明確にすること、義例説を整備することが劉歆以来行われた。二伝の学者からの熾烈な論難過程があった(鎌田正氏参照)。
何休「公羊解詁」は拠伝解経法の徹底により、通理究明で強靱さを発揮した。それは鄭玄から受けた批判(発墨守・箴膏膏・起廃疾)に示される。後漢末の春秋解釈の是非はその春秋義例説がどれほど拠伝解経法を徹底させ、通理を樹立させたかによる。魏晋の経書解釈の課題も同じで、杜預の成果もその継承。

p364~杜預「左伝序」が左丘明の遺志を継ぐものを自負するが(何休以来の)拠伝解経法による春秋義例説の整備を徹底したもの。その成果を「春秋釈例」十五巻にまとめた。釈例を復元した十五巻中の十一巻を占める土地名・世族譜・経伝長歴は、厳密には春秋義例説に含まれない。残り四巻分が42の諸例。
杜預序にように釈例は40部(篇)15巻が本来の姿。隋志~宋志まで著録された。宋「崇文総目」のみ15巻53例とする。乾隆46年に四庫全書の編纂官の紀昀が今本の釈例を奉った。p367に釈例の版本の形成・伝承プロセスを載せる。

p367杜預の諸例の特徴は、杜預自身も明言する「錯綜包通」。正義の疏釈のように、一定条件で選択されたものをすべて交錯させて論理を綜合し、その論理で同じ義理を持つもののすべてを通じ最大範囲まで及ぼすことが包通。『周易』繋辞伝で易の義理に通理し究明する方法として主張され合論理的とされた。
p368錯綜包通で義例説を立てる場合、錯綜すべき数と当てはめるか否かの区別(サンプル選びの範囲と基準)が問題となる。錯綜すべき経・伝はすべて同じウェイトで扱われ、杜預の経伝観が反映される。無伝の経・無経の伝をそのまま肯定し、経伝のもう1つ奥に向かおうとした。

p369伝の本意は経を解するに在り(公即位例)、究明の伝を為りしは、仲尼の春秋を釈するゆえん(釈例 終篇)とあり、左伝をもって春秋経を解したとする点で杜預は先儒と同じ。義例説樹立の所資を左伝の記載に求めるのも同じ(先儒は杜預と異なり、公羊・穀梁の義例説を仮取して加える場合があるが)。
p370杜預は左伝序で、先儒と異説を樹立し、「専ら」「必ず」経義を左伝に拠ると宣言した。しかし杜預は、劉歆・賈逵を引くことも、批判しながら公羊・穀梁の義説を引くこともある。左伝序の字面に基づき、杜預の新規性を「左伝に拠ることの徹底」に求めるだけでは、釈例の実際の内容と一致しない。

王弼『周易注』の「新」は、「費氏易の法」といわれる拠伝解経法の徹底を通じ、方法論(拠伝解経)は後漢以来の方法を受けながら、打ち立てた解釈原則が「新」しかったこと。
卦とは・爻とは・卦と爻の関係は?「易」の成り立ちと構成に対する見方を打ち立て、義理解釈に展開するための論理を立てた。

p371王弼「周易略例」に相当するのが杜預「春秋序」。
春秋とは・経とは・伝とは・それらの関係はいかに、という春秋の成り立ち・構成を貫通する見方が示され、それによって、経伝それぞれが明確に性格づけられ、義例説樹立の根拠づけがなされた。新たな義例説が経伝分年比附・釈例作成に還元される。

p377史官の記録→魯の春秋(周の礼経)→孔子の春秋経→左丘明の伝という一連の関係が、まっすぐ連なっているのが杜預の春秋経伝観。「新」の源。
「史」一尊の論ではない。春秋における孔子は刊正して修へたもの、左丘明は経を孔子から受けて義理を釈ひたもの。孔子を「史」に従属させない。
p378(杜預の理解において)孔子の修定は、周公の志(周の典礼=魯春秋)に従って行われたもの。孔子修定の春秋経は、終始「史」に繋がれる。おびただしい無経の伝は、左丘明自身が魯国の史官だから広記備言できたされ、所資は史官の手に成る「簡牘の記」とされる。左丘明も「史」に繋げられる。

p380簡牘の記は事実を示そうとする伝の所資のみならず、経義を明らかにする所資となる。杜預の春秋経伝観にとって、旧史の策書と簡牘の記は、それなしでは経伝が成り立たず、義理も明らかにならない。策書と簡牘の記により、はじめて左氏経伝の性格が密着して明らかになり、意義を発揮する。

p383杜預の新規性は、正義が言うように「凡」「不凡」の区別を立てたこと。杜預は「凡例は周公が制めた礼経(隠公七年伝注)」と理解し、史官の記録=魯史の「旧春秋」は、周公の礼経だとした歴史的事実か否かは問われない)。正義もこの杜預の理解にもどかしさを表明し、必ずしも支持されていない。

p387杜預が義例説を樹立するため採った方法論は、積極的には①左伝の「凡そ云々」を周公の礼経=史官策書の法=旧義例とし、②「書す」「書せず」といい経文の例を釈くものを孔子の修改=新義例(変例)とし、消極的には③非例非義(多数派の例外)の存在を指摘したこと。③に義例を見出す先儒を批判。

p392諸侯の薨卒で名を書くか否かを「名を書かざるは、未だ同盟せざればなり」「同盟なるが故に、赴ぐるに名を以てす」「未だ同盟せざれども、赴ぐるに名を以てす」と説明するが、所詮は国際慣行ならびに史官の記載方式を示すのみ。通達・貫通の結果、史官の記載との結びつきを強くしただけ。
非例非義が全面的に「史官記注の常辞」であるばかりでなく、凡例も変例もすべて「史」と関係をもち、時には「史」そのまま。明らかにするべきは、義例説と「史」の結ばれ方ではなく、なにゆえ杜預が「史」という概念を導入し、それにより通達させようとしたかの意図方向・根本態度。

p394春秋では隠荘閔僖の元年だけ「即位」と書いていない。穀梁・公羊の二伝、左伝先儒はこれを問題として義理を解こうとし「即位を書かざる(称せざる)は云々」とし、杜預の義例説では孔子の変例「不書」「不称」に分類されるものだが、杜預は「即位」がないことを変例でなく史官策書の常例とする。
杜預は経文が四公の「即位」と書かないわけを「即位の礼を行わなかった」ため史官が策書しなかったという一つの原則とする。伝文が「不書」「不称」と言っているにも拘わらず、杜預はこれを(孔子のによる「不書」「不称」の)変例とせず(非例非義ながらも一貫した原則とし)史官の常例と位置づける。

p397正義とそこに引く釈例によれば、賈逵・服虔・穎容の三人は「即位はしたが孔子が修訂し削除(不書)にした」とする。穎容は「もとは史官が書いたが」と明示する。だが杜預は、即位の礼という「実(事実・行動)」がないから、史官が書くべき理由がなかったと考える(史は虚書する縁なし)。
賈逵は隠公の即位を書かない理由を「桓公が兄隠公の位を簒奪したことを(孔子が)憎むから」とした。だが杜預によれば、同様に即位が書かれない場合でも、僖公は閔公から位を奪わず、閔公は荘公から位を奪っていない。簒奪を「即位」という文を削る理由とする賈逵の説明は、通達でないと杜預は考える。
「隠公元年に即位と書かないのは、摂だから」という先儒の説明は、仮託(孔子が価値判断し、文を削ったと想定すること)であって実でない。杜預は、伝文にはそういう仮託の義がないとし、書かれていない=即位儀礼がなかった、とシンプルに事実の反映と見なす。
杜預は義例説、義理を説くことに冷淡。

しかし杜預は荘公元年注や、公即位例で説明する隠公の事情において、公羊・穀梁に伝の義例を節酒したと見られ、隠公に「譲る」意志があったことを強調し、荘公に「忍びず」の心情を当てはめて見出す。義理説を言わないのではなく、あくまでも「史」の線の上に載せる(寄せる)ことが杜預の特徴。

p401杜預は左氏伝の通理究明を「史」の営みとした。それまで「経」の営みとしかされなかったものと、大きく異なる「新」を呈示した。時代の文化意識の新しい動き・史学の勃興と相即するか。伝を「魯の国史・左丘明の作」と設定すれば、史官の記録たる左伝がなぜ(二伝より)重要かを、より明示できる。

p410杜預の解釈に「史」の概念が貫通され用いられるのは、左伝の「事の実」に随ってそのまま書かれたものとし、それが経と同質であることを必要としたため。その「史」は、宿敵の公羊・穀梁の義説を換骨奪胎してその解釈に活かすために用いられた。いったい杜預の根本的意図はどこか。歴史として…はNG。
p410杜預の解釈でつねに主張されるのは「左伝に拠る」「公羊・穀梁を膚引せず(二伝の義理を皮相的に借用せず、「史」を媒介にして換骨奪胎して用いる)」で、両者の不離の関係が「史」とのつながりとして「集解」に現れてくる。

p412他国の史官が書いて赴告した辞に従ったもの、使者の告示に従ったものなど「告示に従って書す」史官策書の法と解する。隠公十一年伝の凡例に一致するが、「告ぐれば則ち書す」よりも「告げしままに書す」と杜預が理解しており、これを解釈して義理を見出してよいのか疑わしくなる。
p413杜預が史官策書の法を導入するのは、経伝間の齟齬の処置(=左氏伝に拠る)と、二伝の義説の換骨奪胎(公羊・穀梁を膚引せず)のため。ときに無理をおかし誤解とすべきものまで推し及ぼす。
杜預は、劉歆以来の「左伝は春秋を伝せず」という批判を解決するため「史」結びつけた。

p414左伝は、あまりに多い無伝の経・無経の伝の存在、経に対応する伝が事実の対応のみで義理を示さないなど、左伝は義理説の整備を抱えた。後漢の左伝学者が公羊・穀梁二伝の義例を仮取したのはこの課題ゆえ。杜預はこの点を洞察した上で、左伝の実態・特徴に最も即応するものとして「史」概念を導入。
p415杜預が二伝の義説を受けるから立場が不徹底だとか、左伝の忠臣という意味を単に二伝との対立関係の上からのみ見るのは、杜預の根本的意図を見誤る。杜預は左伝の宿命的課題を解決するため、二伝をも「史」の線で生かして摂取・換骨奪胎して、春秋学の大成を志向した。これ結論ですね。220417

『中国古典解釈史 魏晋篇』より3

p492「歴史」をたんに事実の記録とのみ見ずに、そこに規範をひそめ、そこから理念を提示するものと自覚した。中国における「歴史」の営みが、人間生活の規範であるとあれた経書の理念、端的には春秋の理念に、導かれ、引かれていたことを意味する。
(杜預の著作を通じて)史記(史官の記録)すなわち「歴史」によって、経書・春秋が「歴史」に結ぶものであることをも、逆に明示した。
「歴史」の営みが人間文化の営みとして、やがて大きく重い位置を占めるようになるにつれ、「歴史」による理念の捉え方・示し方の意義と価値とが高く認識された。

魏晋の時代はこの認識が高まった時代。杜預の春秋解釈は、春秋を実として捉えようとする態度から発し、(秩序)理念を事実に拠って捉えるべきものとし、理念は事実の上にこそ示されるものと見なしたのは、時代の新しい文化意識の動向と相即するものであった。
人でいえば史官、記載でいえば史官の記録という意味での「史」が、杜預の解釈を貫通し、しかもそれが周公に結ばれて「古」に復るものであるように説かれているとはいえ、その「史」こそは、「史官建置」が制度化された魏晋における「新」であり(『史通』外篇史官設置)、「史」は現実目前の文化活動。
「歴史」に対する深い反省と高い認識のもとに、史学を独立せしめるに至ったのは、魏晋およびそれ以後の、新しい文化活動がもたらしたもの。杜預がもっとも新しい春秋解釈となり得たわけも、もっとも近い契機が、時代の新しい文化現象である「史」にあったから。
p493伝は経の大義・理念を釈き明かすものとして不可欠とされた。春秋経伝は、即「歴史」ではないとされたのは当然で杜預も同様。しかし周公の礼経=凡例を旧例とし、孔子の修改を変例とした杜預の春秋義例説が、なぜ「史」で貫通されたか。
左伝の成り立ちの本来性にルーツを持つ。
左伝全体を一なるものとし、春秋の伝であると見ることを変えず、経伝を一体として貫通させようとする限り、それを「史」、端的には「歴史」と見る以外に道はない。……が、杜預の発想はこの順序ではない。
理念の通達が要請されたのは、後漢の通儒の学以来の方向。通理究明が杜預のもともとの志向。

通理の究明が、天道と人道とを通ずる五経理念の一大体系を組成をめざしたのは、後漢末の荊州学。易と春秋(実質的には左伝)が忠臣になった。易は天道、春秋は人道をより究明された。具体現実のさまざまな人間行為を包含しそれを通達させ得る理念は、春秋とくに左伝に拠るべきとした、ように思われる。220418

春秋左氏伝序 川勝義雄(解説)

杜預『春秋釈例』は完全な本が残らない。元までは伝わっていたが明代に散佚したらしく、清朝の紀昀が『永楽大典』という明代の百科全書をはじめ、その他に引用されたものをあつめ、原本を見て当初に解説した『正義』に従って、15巻・46篇に復元編纂した。
『春秋釈例』の「諸例」はみな毀誉褒貶の義を含んだものであるのに対し、「地名・譜第・暦数」の三部は"義"を含まない"事"実の問題であるから、「諸例」との間に「及」字を入れて区別し、「諸例」の後にこの三部を置くのだと『正義』は説明する。紀昀の輯本の配列もこれに従う。
杜預の合理的な研究法は「地名・譜第・暦数」三部において一層明白。紀昀輯本では『永楽大典』によって「譜第」を「世族譜」、「暦数」を「経伝長暦」とする。「地名」は西晋当時の地名に否定し、地図まで作っていたらしいが、古今地名対照図は現存しない。科学的な古代研究の組織的な遂行であった。220415