いつか書きたい三国志

渡邉義浩「「春秋左氏伝序」と「史」の宣揚」を読む

「春秋左氏伝序」と「史」の宣揚

『狩野直禎先生米寿記念三国志論集』三国志学会、二〇一六年(『「古典中国」における史学と儒教』第六章に所収)。

杜預は序の冒頭で、春秋が魯の史記であることを明言。儒家経典中でもっとも古く『春秋』に触れる『孟子』の理解と大きく異なる。 『孟子』は制作者を孔子とし、孔子は『春秋』により自らの評価が定まるとするほど、自信を持っていたとする。杜預は『孟子』を引くが、孔子の制作でなく魯の春秋とする。
杜預に留保があり、『春秋』は魯の春秋そのものでなく、孔子によって刊正された(それでもなお『孟子』の理解と異なる)。 杜預が『孟子』を否定する論拠は左伝。昭公 伝二年に韓宣子が魯に来訪し、「周の礼は尽く魯にある」と言った。魯の春秋は、史記の策書で、周公の典に従い事を序していたと解釈。

孔子は『春秋』制作者から筆削者へと地位を下げる。孔子の筆削は、周の典礼=魯の春秋から、周公の志を明らかにするための加工。しかし孔子が義理を示す必要がないと考えたら、旧史のまま。
魯の史官(国史)の左丘明も、聖人孔子が修めた要所以外は義理を挙げないと、杜預は理解した。

後漢の公羊学を集大成した何休は『公羊伝』哀公十四年に、孔子の『春秋』制作で、孔子が漢の成立を予知し、ための法とすべき「春秋の義」を制作した神秘的な「素王」。公羊家の「孔子素王説」は「聖漢」の正統性を支え、左氏伝を圧倒し官学となった。

杜預は聖漢との一体化から『春秋』を解き放つ。
経典解釈の合理性を高め、西晋の正統化に用いる。

川勝義雄氏は「素王」孔子を、最も偉大な史官にしたと捉えたが、しかし史官は「国史」左丘明であり、孔子はあくまで聖人。史官(左丘明)は聖人(孔子)を助ける職務ゆえ尊重される。
川勝氏は『春秋』は実は本質的に史書とするが、史書は孔子の筆削前の魯の春秋。『春秋』は孔子の刊正を経たもの。孔子の筆削を経た『春秋』は義例が示されている点で、儒教経典であり史書ではない。

杜預の義例説の特徴は、『春秋』という経典で最も尊重すべき存在を、孔子から周公に移したこと。
杜預は『春秋』義例を、周公の垂法・史書の旧章の「凡例」と、孔子の新意に基づく「変例(不凡とも)」とし、それ以外を義例を記さない「非例」とした。孔子「変例」より、周公「凡例」を重要とした。
周公尊重は古文学に共通。だが劉歆「七略」は『春秋左氏伝』の義例を、孔子の毀誉褒貶が弟子に口授されたものとし、周公の義例とはしない。
「凡そ~」五十凡例を周公の義例とするのは、杜預の新設。西晋の正当化のため、「書弑例」を周公の凡例とすることで、漢を正統化する公羊学・孔子に代替。

杜預は「五情」=五つの表現方法を全体に及ぼし、経と左氏伝を研究すれば、王道のあり方・人間の大綱が完全に備わると主張。
『春秋』は魯の春秋という史書を素材とするが、周公の「凡例」・孔子の「変例」・義例なき「非例」と、義例表現方法としての「五情」を備える経書になった!と杜預は説く。

杜預は左氏伝理解のために二つの方法論を用いる。加賀栄治氏によると「拠伝解経法」「経伝分年比附」。前者を徹底した結果、後者の形態を取るに至った。

先儒は『春秋』が文字表現の差異で、義を示すとした。杜預は、魯の春秋の文の質文が異なるだけで、これを非例とする。
なぜか。左伝によって経義を判断すべきだから。経文のわずかな用例の違いから恣意的に義例を立ててはならず、すべて【凡例に基づいて書かれた左伝の義例】によって解釈すべき。

加賀氏は事実を説く左伝により、理念を現実から切り離して強調しない杜預の態度に、時代の文化意識の新しい動きである史学の勃興と相即するものを見る。
ただしその場合でも、史実で表現された義例が、すべて周公の凡例が期限とされているように、経学が史学に優越していることは留意すべき!!

杜預は史学が尊重する事実によって事例を説き、これまでの春秋学の理念的な義例を打ち破った。結果、史学は経学を資するものと位置づけられることで、学問の存立基盤を正統化される。
杜預は拠伝解経法により、史学を利用して自らの経学中における地位を確立し、同時に史学を経学により正統化した。


杜預は、本来は聖世に出現するはずの麒麟の時ならぬ出現を論拠に、「獲麟」は瑞祥でなく、慨嘆した孔子が『春秋』を筆削する契機だ、と理解した。天が孔子に瑞祥を下したことの否定であり、孔子は天子でなくなる。したがって素王ではない、という結論を導く前に、ある質問者がカットイン。
『春秋』が魯の隠公から始まるのはなぜか。質問の背後には、孔子が周の王室を貶め、真に王者たる魯に託する意図で『春秋』を制作した、という公羊学者の黜周王魯説がある。
杜預は「春 王の正月」は周の平王、周暦を指すとし、孔子は黜周王魯をせず、周道の復興(論語陽貨篇)が筆削の意図だとする。

論語子罕篇で子路が門人を臣下にし、孔子が叱責したことを論拠に、孔子素王説・左丘明素臣説を否定。
伏線を回収し、春秋経の終わりは獲麟で終わるという公羊経に従いながらも、獲麟のとき孔子が袂を返し「道が窮まった」という公羊学説に反対。

杜預はこれまでの春秋学の理念的な「空言」による義例を打ち破り、史学の尊重する事実、すなわち「行事」により義例を説くことが、公羊・穀梁は左氏先学よりも優れていると主張した。

魯の史官の左丘明は、聖人孔子を助けるだけでなく、魯の春秋に残された「周公の凡例」を明らかにして左伝のなかに書き記した。孔子に比肩する助力者という位置づけ。
魯の史官の文は、孔子が筆削すれば経となる。筆削から外れた部分も非例ながら経の一部を構成すると明らかにされた。

儒教により正統性を保証された史学は地位を高める。目録史上はじめて四部分類を採用した荀勗『新簿』は丙部として始めて史部が独立。東晋の李充『晋元帝書目』で子部と入れ替わって乙部に格上げされ、杜預の宣揚が実を結ぶ。
『隋書』経籍志でも、史部は子部(孟子・荀子を含む)より上位になった。

史官が、史記「太史公曰」、漢書「賛曰」、三国志「評曰」、後漢書「賛曰、論曰」のような史実への評価を行うことが、魯の春秋に対して周公が「凡例」を含ませ、孔子が「変例」を込めた行為に準え得るため。孫盛の「歴史評」が流行したもの同じ。
史学の隆盛と向上は杜預の序の普及が背景にある。

史学の正統性が確立し、史官の地位が向上した。九品中正制度で、秘書郎に次いで起家官として尊重されたのは、史官の佐著作郎(劉宋以後は著作佐郎)。
秘書郎も史書執筆に不可欠な秘籍を蔵する、秘書省の郎官。著作佐郎の尊重は、かれらが別伝を課せられ史書が増加し、内容が杜撰になることに繋がる。

杜撰な史書が増加すると、裴松之は内的・外的史料批判という史学独自の方法論を確立し、「史」の自立をもたらす。唐代における国家による史の権威承認と、収斂のための「正史」編纂に繋がる。

裴松之のもと「史」が自立すると、「史」にとって優先すべきことが、A近代歴史学に近接性を持つ、記述の客観性・整合性からなる事実の記録としての正しさなのか、B春秋の義例を起源とするような、倫理的・観念的な正しさなのか、という問題を生む。
劉知幾『史通』巻一・六家は、「史」の起源を『春秋』に求める。劉知幾にとって優先すべきものが、杜預を起源とする後者B(倫理的・観念的な正しさ)であったことを示す。
杜預による「史」の宣揚は、大きな意義を持っていた。220424