いつか書きたい三国志

三国志と清朝考証学についてのメモ

『三国志集解』に引かれている本

銭剣夫「盧弼著『三国志集解』校点記」より

宋の蕭常『続後漢書』、唐庚『三国雑事』。元の郝経『続後漢書』。清の銭大昭『三国志辨疑』、杭世駿『三国志補注』、趙一清『三国志注補』、侯康『三国志三国志補注続』、周寿昌『三国志証遺』、沈欽韓『三国志補訓詁』、銭儀吉『三国志証聞』、潘眉『三国志考証』、盧文弨『三国志続考証』、梁商鉅『三国志旁証』、陳景雲『三国志挙証』『三国志校呉』、侯發祥『三国志補義』、沈家本『三国志瑣言』、劉咸炘『三国志知意』がある。
清の王鳴盛『十七史商榷』、銭大昕『廿二史考異』と『諸史拾遺』、趙翼『廿二史札記』と『陔余叢考』、杭世駿『諸史然疑』、洪亮吉『四史発伏』、洪頤煊『諸史考異』がある。
晋の常璩『華陽国志』。唐の劉知幾の『史通』。宋の羅泌『路史』、高似孫『史略』、李文子『蜀鑑』。清の周済『晋略』、盧弨文『晋書校正』、李慈銘『晋書札記』、丁国釣『晋書校文』、呉士鑑『晋書斠注』がある。
明の王夫之『読通鑑論』。清の『通鑑輯覧』、清の厳衍『通鑑補』、章宗源『隋志考証』、姚振宗『隋志考証』、陳逢衡『竹書紀年集謬』、周嘉猷『南北史世系表』、梁玉縄『人表考』がある。
明の黄洪憲『朝鮮国紀』、清の丁謙『大夏国考』、黄遵憲『日本国志』がある。220804

清朝考証学者の生没年表

顧炎武1613-1682
黄宗羲1610-1695
清帝国1616-1912
胡渭1633-1717
閻若璩1636-1704
万斯同1638-1702
何焯1661-1722
陳景雲1670-1747
杭世駿1695-1773
恵棟1697-1758
趙一清1709-1764
盧文弨1717-1795
王鳴盛1722-1798
戴震1724-1777
趙翼1727-1814
銭大昕1728-1804
段玉裁1735-1815
銭大昭1744-1813
王念孫1744-1832
洪亮吉1746-1809
王引之1766-1834
潘眉1771-1841
沈欽韓1775-1831
梁商鉅1775-1849
侯康1798-1837
周寿昌1814-1884
沈家本1840-1913

乾隆1736-1795(6代 高宗乾隆帝、康熙帝の孫、雍正帝の子)
嘉慶1796-1820(7代 仁宗嘉慶帝、1795年に85歳の乾隆帝から譲位を受ける。1799年に乾隆帝が崩御)
徳川吉宗1716-1745、徳川家重-1760、家治-1786、家斉-1837というわけで、吉宗後期から家斉前期までが、乾隆・嘉慶、「乾嘉の学」の期間。

清朝考証学の概要

顧炎武「経学をおいて理学はない」
閻若璩 偽経を弁別して「求真(真実をもとめる)」
胡渭 河図洛書を攻撃してでたらめな学説の根拠を一掃
こうして清学の枠組みができあがった。
梁啓超『清代学術概論』小野和子(訳)東洋文庫8ページ

顧炎武・閻若璩・胡渭はもっとも「正統派」。正統派の全盛期の代表的な人物は、恵棟・戴震・段玉裁・王念孫・王引之。宋学について、議せず論ぜず。考証のために考証し、経学のために経学を研究した。呉派を開いたのは恵棟、皖派を開いたのは戴震。

清朝考証学のスローガンの出典。
「実事求是」は、事実について真理をもとめる。『漢書』巻三十六 河間献王徳伝より。
「徴なければ信ぜられず」は、『中庸』二十九章。220804

「一時代の正史の考証は、恵棟1697-1758『後漢書補注』、梁玉縄1745-1819『史記志疑』『漢書人表考』、銭大昭1744-1813『漢書辨疑』『後漢書辨疑』『続漢書辨疑』、梁商鉅1775-1849『三国志旁証』、周寿昌1814-1884『漢書注校補』『後漢書注補正』、杭世駿1698-1773『三国志補注』がわけても有名」

清人の『三国志』研究

楊耀坤「清人的『三国志』研究」(『文献』一九八九年)より。
清人の『三国志』研究は、専著が五十種類あまりある。
二つに分類できる。一つは専著札記で、もうひとつは補志である。
専著・札記は、
何焯『三国志校』・『義門読書記』三国志 三巻、陳景雲『三国志辨誤』三巻、杭世駿『三国志補注』六巻、趙一清『三国志注補』六十五巻、盧文弨『三国志続考証』一巻、銭大昕『三国志考異』三巻、王鳴盛『三国志商榷』四巻、趙翼『三国志札記』一巻半、銭大昭『三国志辨疑』三巻、潘眉『三国志考証』八巻、侯康『三国志補注』一巻、沈欽韓『三国志注補訓詁』八巻・『釈地理』八巻・『札記』一巻、梁商鉅『三国志旁証』三十巻、郭麟『国史蒙拾』二巻、康發祥『三国志補義』十三巻、李慈銘『三国志札記』一巻、周寿昌『三国志証遺』四巻、尚鎔『三国志辨微』二巻・続三巻、銭儀吉『三国志証聞』三巻、林国賛『三国志裴注述』二巻・『続三国志雑志』四巻、周星詒『三国志考証校語』一巻、楊晨『三国志札記』一巻、黄紹昌『三国志音釈』、丁謙『三国志烏丸鮮卑東夷伝附魚豢魏略西戎伝地理考釈』一巻、沈家本『三国志瑣言』四巻・『三国志注所引書目』二巻、史珥『三国志剿説(そうせつ)』、鄒樹栄『三国志偶辨』一巻、阮劉文如『三国魏志疑年録』・『蜀志疑年録』・『呉志疑年録』各一巻、趙暁栄『三国志闡微』二巻。
補表・補志は、
万斯同『三国志大事年表』・『三国志季漢方陳年表』・『三国志諸王世表』・『魏国将相大臣年表』・『魏方鎮年表』・『漢将相大臣年表』・『呉将相大臣年表』、周嘉猷『三国紀年表』、周明泰『三国志世系表』、洪飴孫『三国志職官表』、洪亮吉『補三国疆域志』、呉増僅『三国郡県表』、謝鍾英『三国大事表』・『三国疆域表』・『補三国疆域志補注』・『三国疆域志疑』、樹澎『補三国疆域志』、湯裕芬『補三国疆域志今釈』、范本礼『呉疆域図説』、侯康『補三国芸文志』、陶憲曾『補侯康三国芸文志補』、姚振宗『三国芸文志』、黄大華『三国志三公宰輔年表』。

何焯・陳景雲・杭世駿から趙一清へ

楊耀坤「清人的『三国志』研究」(『文献』一九八九年)より。

何焯

早くは、康熙年間(一六六二~一七二二)に、何焯が『三国志』を校勘した。何氏は校書を好み、銭大昕『潜研堂文集』巻三十『跋義門読書記』で、何焯を「固好読書、所見宋元槧本、皆一一記其異同。又工于楷法、蝿頭朱字、燦然盈帙。好事者得其手本、不惜重金購之」とする。

https://ctext.org/library.pl?if=gb&remap=gb&file=93358&page=65&
刘原父尝病欧九不韵书读集古录跋尾乃知其信予读原父汉书刊误则亦未为能读书者近世吴中言惜学必日何先生义门义门四好读书所见宋元药木皆耐财记其异同又工于精法蝇头朱字粲然盈株好事者得其手校本不惜善价晴之至其扰引史传精掘古人有绝可笑者朱尝陶潜传云所著文章皆题其年月义熙以前则书晋氏年号自永初以来淮云甲子而巴休文生于元嘉中所兄间必不误义门乃授陶诗书甲予者八事讥其纪事之失实夫太传固云所著文章不云所著诗也诗亦文章之一乙而其体则殊文章当题年月诗不必题年月夫人而知之矣情志载渊明集凡洸卷今文之捍者不过数首就此数首故之桃花源诗席称太元中祭程氏妹文称义熙州年此书瞽氏年号少证也自祭文则但称丁卯此永初以复书甲子之证蝇酬一休丈所云如合将栉床文于渊明之文固褊观而量辄之义门未尝尽见渊明所著交何由知其失变似堤管警休文恐两公有知当朝卢地下矣予作是辨枉戊戌五月后读七修类槁乃知义门亦揄肩所本今附其说于左云五臣注交选以渊明诗吾所作者皆耀俾骊入朱但题甲污噫朝耻辜二姓故以异之后世因仍其说治平中虎邱渭思悦绸陶之诗辨其不洲谓渊明之诗有题甲予者始庚子络田后凡十七年诗一十一首皆安帝时作也至恭帝完熙以年庚申始禅宋夫自庚予至庚申计一十年蓍曷粮一纠五峙一二匕乙仁一二有晋未禅珠之陇二冲牟内渐有关陛雍而麻雕即题甲子以洎撰陇关诗冲恨抚谭晋年号者所题甲予偶纪乞一时滞睡予谓五臣误读宋书晏欲以诗证史隅雌辩跃阶矣后怵乃援以攻休文不知本傅俱言成障味尝及情休文初无误也措研堂女集卷泥十门人袁廷祷拔宇八

かれが校書したものでは、さらに両『漢書』及び『三国志』があり、もっとも有名である。沈彤『果堂集』巻十『義門何先生行状』に、「かれが校定した両『漢書』・『三国志』がもっとも有名である。乾隆五(一七四〇)年、礼部侍郎の方包が要請し、その本を写して国子監に付させ、新刊本(乾隆年間に刊行された武英殿本)を正すのに用いた」と。いま殿本『三国志』には、多く何焯の校語があり、多くてかつ精当である。何焯はかれが著した『義門読書記』のなかで、『三国志』を読んだ三巻があり、議論・辨正をおこなっている。
銭大昕の跋文で(何焯を批判して)「其援引史伝、掎摭古人、有絶可笑者」とあるが、しかし何焯の本のなかには高い見識が見られる。たとえば、『呉志』呂蒙伝で、魯粛が死んだ後、呂蒙が魯粛に代わって荊州を守ったとあり、かつて孫権にむかって徐州攻略を提言した文がみえる。これについて何焯は、「袁尚・袁熙は十二年に死んでおり、魯粛の死はその十年後であるから、文中のセリフは時系列がおかしい」と言っている。この指摘は正確であり、後世の周寿昌らはこのこの辨駁を継承した。

陳景雲

何焯の高足弟子(高弟)に陳景雲がおり、『三国志辨証』三巻がある。原書に署名はないが、『四庫全書総目提要』の『三国志辨誤』三巻について、著者の名前と時代は分からないが、『蘇州府志』にによると、陳景雲はわかくして何焯に游んだ……とある。
『提要』が義門としているように、詳細は分からないが、何焯・陳景雲の書はどちらも三巻であって、内容はそれぞれ似ていなかった。『義門読書記』のなかで『三国志』を扱ったのは三巻で、おおく議論・辨正をおこなっている。『三国志辨誤』は、文句の校訂をおおく行っており、明らかに同じ書物ではない。『蘇州府志』に従って、『蘇州府志』にいう『三国志校誤』(これは『三国志辨誤』のこと)を陳景雲の著作としてよい。その校訂も精密で妥当であり、殿本の『考証』で採用されている。
銭大昕『十駕斎養新録』巻六『三国志注誤入正文』条で、陳景雲の校訂の一例を載せる。『魏志』王粛伝の評末に、「劉寔以為……」とあるが、これを陳寿本文ではなく裴松之の注だと区別した。『蜀志』譙周伝の「張璠以為……」と同じであるという。王粛は西晋の武帝の外祖父であるから、史臣は本伝のなかに批判する言葉を載せず、どうして(陳寿が突然)巻末の評で王粛の短所をいうのだろうか。陳寿の評は簡潔で要を得ることを特徴とするから、この言葉は裴松之注であると。

現行本では、裴松之注として区別されている。


杭世駿

何焯のあとに、杭世駿『三国志補注』六巻がでた。すでに裴松之は、広く詳しい注をつけていたが、千数百年後の清代において、裴松之を基礎として補注をつくったが、これは非常に困難であり、後世から杭世駿の書物への評価は高くない。李慈銘『越縵堂読書記』では、杭世駿について、大半が『世語注』、『水経注』、『太平御覧』及び漢・晋の諸書によっているとした。そのなかで、三少帝紀の諫議大夫の孔晏乂が上疏したとあるが、巻十六巻注では、孔乂あざなは元俊とあり、「晏」は衍字であるが、何晏の疏とつなげられているから、「晏」「乂」は誤文であるという。これは適切だが、それ以外は余計な指摘が多いという。
杭世駿の指摘にもよいものがあって、『魏志』董卓伝では、謝承『後漢書』を補うことによって、李傕・郭汜が謀反して長安を包囲した原因がはっきりする。『魏志』王昶伝は、嘉平期に王昶に『百官考課事』を撰述させたとあるが、裴松之はここに注釈をつけていない。杭世駿はここに、『太平御覧』王昶『考課事』をひいたおかげで、内容が分かるようになった。

趙一清

杭世駿と同時代に、趙一清がおり、『三国志注補』六十五巻である。陳寿『三国志』の紀伝体と同じ順序になっており、巻ごとに補注を加えた。清人の『三国志』を研究した著作のなかでは、もっとも巻数が多いもののひとつで、もっとも価値があるものの一つである。
(後日追記)
趙一清から少し遅れて、乾嘉の三大史学家が出た。銭大昕・王鳴盛・趙翼である。220806