いつか書きたい三国志

清朝考証学_2022夏_1

狩野直喜『中国哲学史』より

狩野直喜『中国哲学史』より。220807

四庫全書

四庫全書の材料となったのは、①勅撰本、②内府蔵本(康熙~、多くない)、③永楽大典本、④各省採進本(地方より購入、多い)、⑤私人の進献本、(江浙の蔵書家、京官より進呈したもの)、⑥通行本。
四庫全書は、宮城内では文淵閣、円明園には文源閣、奉天に文溯閣、熱河に文津閣をつくり貯蔵した。
江浙の地は人文の淵藪なので、江蘇の揚州に文滙閣を、鎮江に文宗閣を、浙江の杭州に文瀾閣をたてた。
七閣の四庫全書は、文源閣は英仏に焼かれ、文滙・文宗も長髪賊に焼かれた。文瀾閣は散佚したが補われ、民国のとき浙江図書館に収蔵された。旧のままなのは文淵閣・文溯閣・文津閣のみ。

文字の獄。雍正帝のとき、査嗣庭というものが出した試題に、「維民所止」とあった。「維」「止」は、「雍正」の首をとったものだ。有罪!

清朝考証学

乾隆・嘉慶の漢学は、後漢の馬融・鄭玄の説を祖述し、後漢の訓詁により六経を読む。後漢の学者は訓詁・名物度数に長じた。経学の支流たる説文・爾雅・広雅などの字引に一生を費やすものも。
道光以後に反動。後漢の煩瑣な訓詁よりも、前漢の経学を重んじ、大いなる思想、孔子の微言大義を重んじた。

ざっくりすぎる中国思想史。
前漢:自前の思想(今文)
後漢:経書の訓詁(古文)
宋明:自前の思想
乾嘉:経書の訓詁(古文)
道光:自前の思想(今文)
自前の思想をめざした時代に訓詁が軽んじたことはなく、訓詁を重んじた時代に自前の思想が行われなかったわけじゃないですが。

「漢学者は博覧多識にして学に根底あれども、ただ客観的に学問をなすといふばかりなれば、人物としては随分つまらぬ人間(例せば王鳴盛の如き)も多かった」(狩野直喜『中国哲学史』p502)
顧炎武の著書は『日知録』の他、経学に関するものでは、『左伝杜解補正』三巻がある。杜預は、漢儒などと違ひ随分誤りもあり、これを発見すること困難ならぬ。p511

黄宗羲『明夷待訪録』で、明帝国における宦官の害を説きました。
皇帝が大量の妻妾をもつから、宦官の人数が膨らむのであって、妻妾の人数を減らせばよい。質問。妻妾の人数を減らせば天子の血統が絶えるのではないか?答え。宦官によって天下が乱れたら、天子の子孫が多くてもなんの意味もない。すごい。

ぼくは思う。ある集団や思想をさす中立的な呼称は、なかなかない。当事者は呼称を必要としない。いきおい、敵対者・批判者からの名づけばかりが目立つ。レッテルを貼るという党派闘争的なニーズがあり、むだにセンスが光る。その結果、本来は貶めるはずの呼称が、後世(学問を含む)で呼称として定着しがち。困る。


黄宗羲は浙江餘姚の人。宗羲から出た学派を浙東学派という。宗羲の二人の弟及び萬氏兄妹より全祖望に至るまで。
実用の学を心がけ、経学においても考拠風となり、政治と関係の深い史学に興味を持った。清朝において史学が経学より分離独立したが、その源は黄宗羲及びその門流(浙東学派)に依る。p525

清朝の考証学は復古学である。
【江蘇学派】は漢代において経書として立てたものに対しては批評的態度をとらず信仰し、枝葉をめぐり考証を試みた。【浙東学派】はこれに反し、漢代に経として立てられたものに対しても大胆な批評を試みた。万斯大『周官辨非』は周官を偽とした。p527
閻若璩は、祖先が太原から淮南へ。学派は朱子学者で、朱子を尊崇した。「昨今にみられる宋儒の崇信と貶抑は、両極端でいけない。宋儒は聖道に功があるが、経を研究するなら漢儒ならうべきだ」と折衷的。顧炎武・黄宗羲よりも精密で学究的であるが、気魄の雄大さは劣る。『尚書古文疏証』を著した。

実事求是の学風が確立されるのは、四庫全書編纂が開始されてより後の、乾隆・嘉慶時代(1736‐1820)。
【浙東学派】に章学誠、【呉派】に恵棟・王鳴盛・銭大昕ら、【皖派】に戴震・段玉裁・王念孫・王引之らを輩出した。『世界大百科事典』第2版より。

康熙帝のときまで三藩の乱があり泰平でない。康熙帝が朱子崇拝家であり、宰相は朱子学者、太学や地方の学校も朱注に基づく。
乾隆帝のとき国勢が隆盛で、江南は豊かに。乾嘉期の科挙も朱子が権威だがそれは学制上のことで、学者は漢学を目指す。三恵をこの時代の首に置く。嘉慶になると漸く衰退の兆し。p547

増井経夫『中国の歴史書』より

増井経夫『中国の歴史書 中国史学史』より。

19_日知録

明の遺老、三太師。黄宗羲(1610-1696)・顧炎武(1613-1682)・王夫之(1619-1692)。康煕帝が『明史』をつくりはじめると、黄宗羲は辞退したが、弟子の万斯同を送り込んで協力を惜しまなかった。p194

顧炎武の祖父曰く、「明人による百巻より、宋人の一巻のほうが価値がある。新旧二書が同じ内容ならば、必ず旧がよく新が劣る。『漢書』は『史記』に及ばず、『新唐書』は『旧唐書』に及ばず、『通鑑綱目』は『通鑑』に及ばない。旧書を改作するより書き抜きがよい」増井p196
改作より抜粋、創作より考証、構成より分解へ。明代の楊慎、陳継儒にその傾向あり。
理念型より実務型。属僚の業務的。清代は中国史でもっとも史学が盛んだが、草分けの顧炎武以下の以下は、スポット史学。こまぎれ研究の集成。正史に寄りかかるのが安全で、文字の獄を断交する政府に挑まない。増井p197

20_明史

清朝が北京に入城して間もなく、順治二(1645)年、明史館を開設した。まだ成果が出ず。康熙十七(1678)年、再び明史館がひらかれ、王鴻緒が総裁に。まだ三藩の乱が平定されていないが、学者を動員。万斯同も加わった。雍正元(1723)年、『明史稿』三百十巻をつくりあげた。
趙翼『廿二史箚記』で、明史をべたぼめした。p207

21_十七史商榷

『史記』滑稽列伝に、楚の楽人である優孟の話がある。孫叔敖にそっくりだった。『史通』暗惑篇は、そんなわけない、ちっとも現実的ではないという。
『史記』と『漢書』に、「沙中偶語」がる。群臣がむれているのをみた高祖に、張良が「謀反の相談をしているのです」と教える。高祖は謀反をふせぐために、雍歯を取り立てたという。『史通』、王充『論衡』はこれに文句をいう。誇大を排除する心はむかしからあった。遊びの文学的要素を消却するであるから、真実に近づこうとする論理と相剋した。
『史記索隠』の司馬貞も、『史記正義』の張守節も、地名・職官の比定がおもな仕事となった。

明代は、下級官僚から富豪まで古典を鑑賞するようになった。『史通』は明人の発見。『旧唐書』も明人の再編集。明人の校訂には、遊びがあった。読もうという貫徹よりも、読めればいいじゃないかという気楽さが強かった。校訂のあいだに、改竄が多く、魯迅は「秦の焚書よりひどい」とした。校訂は余技だった。p215

康熙から乾隆にかけて頻発した「文字の獄」は、それほど執筆を制約しなかった。課題を経書に求めず、史書に求めるな作用を果たした。経書を扱うと、直接 統治理念にかかずらうことになる。これを不可侵の領域とした。これが清朝考証学へ導きこまれる道であった。p216

清朝考証学で、通史を試みたのは、黄文啺『通史発凡』のみがある。
史家は矩を超えず、このわくに先鞭を付けたのは、王鳴盛1720-1797『十七史商榷』であった。恵棟に経学を授けられ、乾隆十九(1754)年に進士に及第。皇族の書いた「嘯亭雑録」に「王西荘之貪」という文があり、貪欲さがみえる。『漢学師承記』によると、人の墓誌銘を書いて貧乏ぐらしをした。p217
商榷とは、「商度して揚榷」したもの。明代に、海虞(常熟)の毛晋が、汲古閣で板行したものが世に行われたが、まだ全編を校訂したものはない。そのため王鳴盛が、譌文を改め、脱文を補い、衍文を去り……などを行った。

王鳴盛曰く、「国の典制、人の事績について、得失や美悪はおのずと現れるので、あえて褒貶する必要はない。正確に記録さえすればよいのだ。読史と読経の方法は、大同小異なのを悟った。ただ異なるのは、経を修める場合は、決して経に反駁してはならないが、史は、司馬遷・班固であっても間違っていれば訂正してよい。まして、裴駰・顔師古は遠慮はいらない。書を著すよりも、書を読むほうがよいと考えていた。よく校訂して読むべきだ。p218

清朝考証学は、論議の多いわりに、焦点が定まらない。博覧であるが構築力が不足する。構成よりも分解に、総合よりも分析に向けた。上(清朝)から凍結してくる圧力に、下から抵抗するひとつの型であった。
広い視野をもつが、何事にも反応を示そうとする、また示さなければならない立場は、下級官僚の律儀さである。高潔ではない。p223

22_廿二史考異

南北朝に宮廷史=正史が蓄積し、唐代に劉知幾『史通』の史学評論、杜佑『通典』の宮廷制度史として集大成された。宋代に編年の『通鑑』、紀伝の『通志』が書かれたが、新しい『左伝』『史記』であった。『通鑑』は資治、『通志』が「二十略」に重点をおくように、宮廷の威儀よりも官僚の規範であった。p224
官僚がもっとも成熟したのが、清代であった。

大きな編纂物は、宮廷に吸収されて勅撰に。学者を動員し、異民族統治に対する批判の口封じをした。個人の著作は、退官し講学のあいだに執筆された。遺をひろい、缼をおぎなう題材を選びがち。経学・史学に共通した。
閻若璩が『古文尚書疏証』で、古文尚書を後世の偽作だといっても、その手法(細かいことをしただけ)ゆえに、とがめられなかった。史学も、「この方法なら大丈夫だ」という経学の手本があったから可能になった。「疏証」という注疏による説明は、おしつけがましくなく、謙虚であった。異民族統治の評価については、口をつぐんだが、話題として避けやすいので、史学には若干 自由の余裕があった。

『明史』を作り直すような大事業ではんかう、正史を「疏証」する安全な対象・安全な手法にとどまった。スケールは小さいが楽しい。一、逐字的に疏証を試み、伝統的な注釈学であり、主張はなくただ正確さを期待するだけ。二、自分で課題を選んで考証するもので、課題の選択にまだ弾力が残されている。
二、自分で課題を見つけるのが、王鳴盛であったが、風当たりが強かった。一、逐次的な疏証は、王鳴盛の妹婿の銭大昕が代表である。
王鳴盛と銭大昕の兄弟は、考証学の全般を推すことが(ほぼ)できる。科学的な手法といわれるものが、(考証学が搦め捕られた古典主義の)呪縛からどれだけ解放されていたか、をはかる目安になる。

銭大昕「地名・職官が異なり、人口の移動もある。史書はあくびが出るのも仕方がない。しかし、実事求是をむねとし、あきらかにしよう」と。銭大昕は几帳面だが、ハッとする見解は少ない。220807

山井湧『明清思想史の研究』より

山井湧『明清思想史の研究』(東京大学出版会、一九八〇年)
明の万暦期の史学の成果については、和田清博士『東亜史論叢』(生活社、一九四二年)「明代総説」を参照。山井p227

明末清初における経世致用の学

人間的修養をめざす明代心学と、実学求是の清朝考証学は対照をなすが、裏返しでなく中間がある。
明末に変則の士大夫群が出現。明の遺老・遺臣とよばれ、経世致用の学が成立。①明学とは違った意味の実践派、②天文暦算・農業水利、兵学火器の技術派、③経学史学に重きをおいた経学史学派。山井p229

③経学史学派は、黄宗羲・顧炎武・王夫之。儒学は経世の学。経書は聖賢の道、根本原理を述べたもの(経世のための立言)、史書は各時代における経書の具体的な展開のあと、実際の変化の記載。経学史学は経世の用に役立つ。学問の範囲が広く、現実社会の問題にとりくみ政治論を展開した。山井p232
③の黄宗羲らはその場限りの政治論でなく、原理的な方針を持ち、一々過去の史実を列挙し、それを根拠とし参考とする。個人の心の修養よりも、客観的・具体的な事象を扱うので、清朝考証学に発展する可能性が生じた。
彼らは明朝回復の反清軍事運動に参加した活動家でもあった。山井p233

遺老時代の経世致用の意識は、明朝滅亡を成人後に体験したほうが強烈。明朝が滅んで民族意識が高揚したが、清朝の支配が安泰し、文字の獄などによる清朝の弾圧政策があると、経世致用の意識は、表面的に姿を消し、文献学としての面だけが残存し、いわゆる実事求是の考証学として生き延びた。山井p236
経世致用の学は、明末万暦までの心学全盛期と、清初康熙末期以後の考証学伸展期との間の過渡期における学問意識。明代の心学に対するアンチテーゼとして、明末の社会の混乱から生じた時代の産物であり、その社会的条件が消え去るとともに、考証学を産み落として姿を消した。山井p236

明学から清学への転換

・梁啓超『清代学術概論』(一九二〇年)
・梁啓超『中国近三百年学術史』(一九二三年)
・銭穆『中国近三百年学術史』(一九三七年)

銭穆は、考証学の源は、明の中葉にあるとし、東林学派の存在を大きく取り上げた。和田清『東亜史論薮』(一九四二年)の「明代総説」において、明末に、史学・地理学をはじめとした著作が作られ、蔵書・刻書が盛んに行われたとする。中国人も日本人も、梁啓超『清代学術概論』に従い、清朝考証学は、宋明性理学の一大反動であるとする。銭穆・和田清は、その痛切に対する批判である。
梁啓超(一九二三)は、見解が変わったのか、不備を集成したのか。山井氏は、梁啓超(一九二三)のほうが真に近いと思うが、「経世致用の実務」と「考証学」の関係がよく分からないので、支持されていない。山井p241

山井氏は、「一大反動」という梁啓超の説を集成し、宋明性理学と清朝考証学のあいだに、明末清初の時代背景をうけた「経世致用」の学問があったとし、うまく繋ぐための思想史の整理を試みている。220807

経世致用の学(十七世紀)から、清朝考証学(十八・十九世紀)へ。
目的や主眼は、経世致用(実学)から、実事求是(古典の解明)へ。内容は、政治論(経学・史学)から、文献学(古典の訓詁考証)へ。基礎方法は、読書・博学、政治的活動から、政治的要素が脱落する。関心の所在は、社会・政治の現状とその改善から、古典に関する事実とその究明へ。社会的関心の要素は脱落する。外的社会の重要性がうすれ、古典・学問の世界に没入する。客観主義(実証的)であることは、経世致用(十七世紀)を継承。経書の尊重から、経書への従属へ。経書の権威を無条件にみとめ、その権威のもとに安住することにより、訓詁考証に打ち込みえた。
ところが同時に考証学は、経書の権威も、聖人の道も眼中になくなる。経書を没価値視(価値がないものと見なす)して、経書も他の書物と区別なく、単なる研究資料・訓詁考証の材料として扱う一面があった。偽書であると明らかにし、経書の価値を下落させることがあった。山井p258

エルマン『哲学から文献学へ』


ガイによれば、「テキストの評価、様々な異本の校勘、誤りの修正・検証こそが四庫全書事業のすべてであった」。学者たち自身は、史部のものであれ経部のものであれ、すべての文献は同一の証明基準によって統合されるという共通の意識を抱いていた。エルマンp15

四庫全書の事業を指揮していたとき、考証学の支援者であった紀昀は……と述べた。聖王の理想が実現されるべきなら、聖王の時代こと研究されるべき。文献学は単なる補助的道具以上のもの。儒教文化の過去のたりかまを復元する必須の学問。エルマンp29 閻若璩も顧炎武も、経書への不信の念はまったくない。ぎゃくに閻若璩は、文献研究の目標は、古注釈および音声の変化の研究を通じて、「聖人たちの真意」を把握しなおすこと。顧炎武は、孔子が経書を伝授するには彼の時代と地域によって発音したはずで、孔子の語り方を再構築しようとした。エルマンp33

閻若璩「経書・史書・伝に何の違いがあろう。真なるを信じるのみ。……史書・伝が真で経書が偽書である場合、史書・伝によって経書を訂正してなんの問題があろうか」エルマンp32

閻若璩の偽作説への清朝の対応は、エルマンp13、p76


ミシェル・フーコー「注釈は、本文の断崖の前で立ち止まる。そして自己の内部で自らを何度も生み出すという、不可能かつ終わりなき作業を担う。それは言語を聖化する」エルマンp77

顧炎武は経書全体の幅広い研究を通じてのみ儒教の原理が発見され描写され得るとした。18世紀に考証学が自覚的な学問となったとき銭大昕は顧炎武を受け継いだ。銭大昕は、「魏晋の老・荘の議論は清談。宋明の心・性の議論も清談」と、魏晋と宋明を批判した。エルマンp91

阮元「聖賢の道は経にあり、経は訓詁でなくては明らかにならない。漢代人の訓詁は、聖人からの距離がもっとも近い」。古いほど真実を会得できる。p101
四書から五経への回帰。
漢学という呼称は、事情を不明瞭にする。漢学とは、十八世紀に恵棟によって蘇州で台頭した学派を意味する。しかし、常州の今文学派も交渉的な探求をするが、恵棟とは学問系統を異にする。戴震と安徽の皖派は、漢代の資料を批判の対象にする。あくまで証明可能な真実をめざすのであり、恵棟のごとき「漢学」の保存ではなかった。戴震の学系に属する焦循は、「孔子を祖述するにせよ、漢代は孔子の時代からどれほど離れているのか。孔子を学ぶことが目標だ。漢代の学問を学ぶのは、漢代の人が孔子を祖述していると思う限りにおいてだ。それなのに漢代の学問を対象とするのは間違っている」と。エルマンp103
考証学は、だれの専有物でもない。四庫全書の編者が、南宋の王応麟を考証学の先駆けとするのも、(学問の内容が重要であり)だれがいつやったかが重要ではなかったから。p104

四庫全書総目提要の評価基準(書経部137種の評言より)
1.資料と証明方法を正しく使用しているか(言及21回)
2.独断的判断への批判(13回)
3.考証として考慮に値するか(11回)
4.宋の義理の方法を用いているか(9回)
5.具体的学問と結びついているか(7回)
6.正しい訓詁の方法を用いているか(6回)
7.発見や独自性(4回)
纂修官の関心は、資料と証明の原理を正しく使うことにあった。p110

銭大昭が代表的な人物とみなされた。章学誠ではない。阮元は、銭大昕の学問的成功について述べている。
段玉裁曰く、校訂の難しさは、是非を定めることの難しさだ。是非には2つある。底本の是非と、主張の是非だ。まず底本の是非を定めてこそ、その主張の是非を判断することができる。何を底本というか。著者の自筆原稿だ。何を主張というのか。著者が語った義理である。経書の校訂においては、賈氏は賈氏、孔氏は孔氏……とそれぞれ元の姿にかえし、各注釈者の依拠した底本を把握してから、その義理を判定するのであり。そうしてはじめて経書の底本が定められ、経書の義理も徐々に定めていくことができる。エルマンp113
閻若璩『疏証』はこの模範となった。

文献の復原と校勘は、十八世紀の学者にとって、相互依存的な関係にある学問分野であった。最良の版本の索定において学者たちは「機械的」及び「弾力的」な校勘技術を用いた。古代文献を印行するとき、一部の学者はもっとも信用できるテキストを底本にして原稿をつくった。こうした校勘の種類は、まったく改変なしに写本をそのまま使うものとして、「機械的」である(「死校」という)。すべてが(まちがった文字までも)そのテキストのなかに保存される。そのやり方は、校勘のごく初歩的な形態である。もっとも信頼できるテキストを確認することに依存している。
他の人々は、すべての入手可能な文献を基礎にして、まちがった文字を訂正し、脱字を埋めている。すなわち、融通性のある「活校」である。孫星衍は、先秦の哲学書の復原作業において中心的な位置を占める。盧文弨も。

江南で18世紀に金石文物を尊重した。歴史学の方法の改革を見てとれる。博学と批判精神が、年代学・地形学・制度研究・儀礼研究・天文学などを総合する、文献研究者たちに望まれた。漢学の方法論を歴史研究に適用したパイオニアは、王鳴盛1722-1798である。歴史学者は利用可能なすべての資料を考慮にいれるべきだと主張した。王鳴盛が王朝の正史を研究するときは、先秦諸子・小説・詩歌・筆記・文集・地方志、仏教と老荘まで含んだ。エルマンp116

金石文は、考証学的歴史学者から非常に注目された。なぜか。王朝の歴史を証拠づけるために、青銅や石に刻まれた資料をつかうことに熱心だったから。章学誠は、考証的歴史学者における総合の欠如に対して不満を抱いていたが、資料の批判的評価・使用に熱心であり、それらの資料をより包括的な過去像を描き出すために使用したという。

杜維運は、18世紀後半の考証学的歴史学の登場を詳しく描き出した。王鳴盛・銭大昕・趙翼らの努力は、中国の歴史学を中立的研究の確固たる基礎のうえに据えた。かれらは、歴史研究を名誉ある地位にもどし、他の考証学者を歴史研究にいざなうことに成功した。
1787年にかかれた正史研究の序文で、王鳴盛は清代歴史学者の信条をかたる。

歴史事績に善悪があるが、史書を読むものは必ずしも原則を立てて、かってに毀誉褒貶を加える必要はない。ただ事績の実際を調べて……記載の異同、見聞の離合について一つ一つ分析して、疑いをなくすべきである。だれが褒められるか貶されるべきかは、天下の公論に委ねればよい。学問の道は、虚に求めるよりも実に求めるほうがいい。議論や褒貶は、すべて虚文にすぎない。史書の記載者の記録、史書の閲覧者の研究は、いずれも実を得ることをめざすだけ。それ以外に何を求めようか。『十七史商榷』序文。


歴史の真相を描き出すために、金石学・地理学・言語学的研究をする道をえらんだ。銭大昕は王鳴盛に賛同しつつ、歴史的事実そのものが誰を賞賛し誰を非難するべきかを示すはずだという。銭大昕によると、歴史的事実について非難をおこなうにおいては、法廷にも似た慎重さを必要とする。政治的あるいは国家的な特定の立場を支えるために、歴史的証拠の使用が強制されたり、我田引水されてはならない。史料の使用においては、事件に関する最古の記事を、後出しの記事を訂正するものとして重くみている(最古の記事に拠って、後出しの記事を正すべきだ)。
杜維運『清乾嘉時代』43-44。銭大昕『潜研堂文集』2:224-225(巻16)

盧文弨にいたり、「史と経ははたらきは違うが、源は同じ。『尚書』『春秋』は聖人の史であって、経に進んだもの。史と経を分けて語るべきでない」という。
一方、王鳴盛は、経書・史書のあいだに相違があるとした。「経に反論することはないが、史となると、司馬遷や班固であっても、誤りがあれば批判してよい」と『十七史商榷』序でいった。ただし、王鳴盛においてその違い(批判してよいか)は小さなものと見なされた。いずれも「実なるもの」を求める点においては同じである。エルマンp118
銭大昕はもう一歩すすめた。経と史の区別をつくったのは、漢の滅亡後であり、人為的な区別にすぎない。四部分類わるい。史書とは、特別な王朝についての書物ではなく、千年にもわたる歴史をあきらかにするもの。古典的伝統を再構成する手段として、「史書より経書が優先だ」という説を、銭大昕は否定した。史書こそ、過去の再現にとって極めて重要である。つまり、王鳴盛も銭大昕も、間接的に、(経書にのみ集中した)恵棟・戴震を批判しているのである。
さらに転じると、18世紀後半の章学誠がでる。p119

段玉裁によると、聖人の意図を知るために、経書を読む。孔子の言語環境に配慮する。注を読むときは注をつけた人が見ていたであろう経書のテキストに注意をはらう。
校勘には二種類あり、活校は融通性をもつ。
史学は、王鳴盛から始まり、金石文もふくめた過去の復元をめざした。王鳴盛以前のあたかも経書から聖人を、鄭玄注からは鄭玄の意図を読み取ろうとした考証学、それを復元しようとした活校的な校勘をしたならば、それは?


閻若璩と戴震が(清朝)考証学を代表する人物となりえたことに確かに示されているのは、商人の家柄の出自であることが学術と研究生活にとってほとんど妨げにならない、ということ。それどころか、商人の富こそが職業としての学問を可能ならしめていた。エルマンp144

考証学は累積的研究で進歩した。宋明と異なり、累積しやすい課題選びによる。補続の学問。彼らは王応麟を学問の先駆者と見なし、独自に検討。閻若璩は『困学紀聞』に注釈し、閻若璩の没後1704年に何焯の手で完成された。現在の標準的な版には、18世紀の全祖望のしごとが収められている。エルマンp263

近藤春雄『中国学芸大事典』大修館書店、1980年を見よ。愛知県立図書館でPDFで自宅から閲覧可能。


エルマンの本の解説より。
朱子学との一定の協調を残した上で、天の道をとらえるにおいて、(陽明学が重んじたような直接的な)心の遡及は一切認めず、外在的経書を、成立当時の言語コードに依拠して読み解いてゆくことにのみ、天の道への接近を許す。朱子学との協調の可能性を保留しておくことは、顧炎武のみならず、後世の一部の考証学の担い手にも見られた。

濱口富士雄「銭大昕……」

濱口富士雄「銭大昕の考拠学としての「史学」について」

清末の朱一新は、銭氏が考拠学の全盛であり、誤りがあったとしても王鳴盛に勝るとした。朱氏は、ただしこれは史料解釈の基礎であって、歴史研究の典型はこれに尽きないとし、銭大昕の史学ののありかたが、考拠的な史料批判と解釈(読史)が中心であり、歴史研究の典型とは異なるとする。考拠学としての史学だ(に過ぎない)という。
梁啓超は、「考証学のうねりが、いきおい史学にも及ばざるを得なかった、趙翼・王鳴盛・銭大昕などが生まれたとした。経学における考証方法を史学研究に移行させたもので、考証学とはいえても史学とはいえない」とした。乾嘉の考拠学の充実は、経学から史学領域に波及したとし、方法論がそのまま応用されたとした。梁啓超は出身と同じく、史実に対する議論や政治・制度・事件についての分析など、いわゆる問題意識にもとづく史論が希薄。史料批判と解釈、つまり考証学に留まっていると。
このような(限界をもつ)結果の考拠学的な土壌から、史学研究の機運が生まれ、王鳴盛・趙翼ら、清代実証史学が出てくる。その推進役が、銭大昕。経学で実事求是をやりとげた上で、合理的・実証的な学問姿勢を、音韻・訓詁・文字学に基礎づけられた史学を始めた。銭大昕は、いかに考証学から史学を作り出したか。