いつか書きたい三国志

清朝考証学_2022夏_2

内藤湖南『支那史学史2』

修補旧史の史学

章学誠は清朝の史学の悪口をいって、整輯排比は史纂、参互捜討は史考であって、いずれも史学ではないと。整輯排比がさかんになったのは、乾隆のころからだが、多くの材料を集めるのは明末からきざし、乾隆の中ごろまで続いた。乾隆ごろから、経学の方面で考証が盛んになるとともに、史学においても単に材料を纂輯するのみならず、それを考訂するようになり、史学が進歩した。
乾隆中頃までの学風は、整輯排比というよりも、むしろ修補旧史というほうがよく、乾隆の中頃からは考訂旧史というのがよい。修補旧史の学は、万斯同を中心とした時代。また、一統志館で、顧祖禹・閻若璩・胡渭らを中心とした時代であった。これまであげた学者は、顧炎武・黄宗羲から伝わった系統であったが、この系統以外にも、有名な学者がいる。p89

明末清初に厳衍『資治通鑑補』があった。
厳衍と、門人の談允厚との共同の著述といってよい。厳衍が方針を立て、談允厚が博識なので師の遺漏をおぎなった。長く出版されず、一般に知られなかった。

『資治通鑑綱目』に依っており、蜀を正統にするとか、則天武后の即位を認めないとかがある。しかし、その他のことは、非常に努力して材料を広く集めたので、『資治通鑑』の誤りを正し、錯雑を整え、重複を削り、拘泥した意見を破っている。注を補ったばかりでなく、正文をも補っている。
『資治通鑑』に事実が欠けているのと、『資治通鑑』の文が簡に過ぎて前後の関係が明らかでないのとでは、いずれも各段において補った。『資治通鑑』に載せていない事実で、重大な関係にあるものは、特筆して補った。p89

注を補った例としては、一つは附録とした。あまりに事柄が瑣屑で本文に入れにくいことも、附録とした。また『資治通鑑』と他書とで記事が異なり、いずれが確かか定めがたいものは備考とした。
胡三省の注の誤りを正し、足らぬところを補って補注とした。

『資治通鑑』は、資治のために政治に詳しいが、個人の家のこと、系図は略してあり。世に用いられた人は書いてあるが、世に知られない人は書かれていない。マジメな人は書くが、変わり者をはぶく。男を記すが、女を省く。厳衍はこれを補った。

談允厚は、『資治通鑑』の誤りを指摘した序文を書いた。のちの銭大昕の史学の起源をなした。銭大昕は感服し、伝をかいて、二人の学は実学求是だといった。p90

明代の史学は、明代の一般の学問の風に関係をもっていた。世の中のあらゆることを総括し、知ろうとした。ゆえに、『大学衍義補』のような、あらゆることを総括しようとした。
史学も博識を主とし、しぜんに類書のような体裁ができた。厳衍が出てからは、専門的にあるものを狭く詳しく研究する風が生じたのであり、清朝になってますます盛んになった。
順治から康熙のはじめにかけて、有名な馬驌がでた。220812

考訂旧史の史学(一)

乾隆の中頃以降、経学の方面に起こった考証の学風が、史学の方面にも及ぶようになった。当時の考証が経学にのみ偏る弊を救う意味があった。
当時の史学の第一人者の銭大昕は、「恵棟・戴震の学が盛んに世に行われてから、天下の学者はただ経書を治め、歴史は略ぼ三史に渉るくらいで、三史以下は茫然として知らぬ。これで通儒と謂ふことができようか」。p103
新たに生じた史学は、考訂旧史の一派である。

これと同時に、前から存在した万斯同以来の修補旧史の一派においても、考証の学風を帯びたものが現れた。王鳴盛の『十七史商榷』・趙翼の『廿二史箚記』・銭大昕『廿二史考異』である。専門の歴史を考証を、補助する著述がある。王鳴盛『蛾術論』・趙翼『陔余叢考』・銭大昕『十駕斎養新録』である。歴史の考証のみならず、その他に渉る。
三人の年齢は近く、王鳴盛がもっとも年超で、嘉慶二年に78歳で没したが、そのとき趙翼は72歳、銭大昕は70歳であった。経歴と出身地も近い。p104

王鳴盛

王鳴盛は『十七史商榷』序文にいう。経学と史学は、研究の仕方が同じところもあり、異なるところもある。経学は道を明らかにするものであるが、道を求めるには、必ずしも空漠な繋辞上の研究によるを要せず。文字を正し、音読を辨じ、訓詁を釈し、伝注に通ずれば、義理おのずから現れる。「甘い」は買うことはできないが、アメという実物を買えば、おのずとそのなかに「甘い」が手に入る。
史を研究するにも、議論により法戒を求める必要はなく、ただ典制の実を考えればよい。褒貶をもって与奪をする必要はなく、ただ事蹟の実を調べればよい。これが経学と史学の同じところ。p105
異なるところは、経学をするひとは経に反駁しないが、史学においては司馬遷・班固の書も、間違いがあれば反駁してよい。
経に反駁しないのは当然として。経学は分かりにくいので、いにしえの伝注に対しても、この注はよいがこの注は悪いなどと取捨選択しても僭越。漢人の家法を墨守し、一家の説に依り、他を顧みぬやり方をしなければならない。ところが歴史は、本文さえも間違いがあればこれを訂正してよい。いわんや注は、いかなるものでも取捨してもよい。これが経学と史学の異なる点である。

王鳴盛は、この説を実行した。その史学は、制度・地理・事実の間違いを研究した。議論をはせて法戒を示し、ほしいままに人物を法戒しないといった。これは原則であり、じつはときどきは、なお旧式のやり方により、王鳴盛が人物について議論している箇所がある
この点、銭大昕になると、まったく旧式をはなれ、純粋に学術的研究となっている。p105

王鳴盛の史学研究は、みずから云うところによると、材料として、単に正史のみを取るのでなく、雑史・小説・地誌・系譜・日録・諸子百家・詩文集、さては仏教・銅鏡、金石文まで採った。その結果によって、歴史の事実を定めようとした。そのためにすこぶる博覧を要した。『十七史商榷』は百巻あるが、九十八巻までは正史を論じ、のこり二巻は史家の義例を論じた。p106

……王鳴盛は、名誉を強く求めた。博覧ではあったが、学問のみちを開く力はなかった。金石を研究しても、効果が著しくは現れていない。この点は、銭大昕のように何事にも興味をもち、その間に自然に一代の家法ができ、新しい史学を開いたものと異なる。

趙翼

為政