いつか書きたい三国志

厳衍『資治通鑑補』について

厳衍『通鑑補』目次

34 巻57 漢紀49 建寧五年
https://ctext.org/library.pl?if=gb&file=20922&page=2
35 巻60 漢紀51 中平五年
https://ctext.org/library.pl?if=gb&file=20924&page=2
36 巻61 漢紀53 興平元年
https://ctext.org/library.pl?if=gb&file=20928&page=2
37 巻63 漢紀55 建安四年
https://ctext.org/library.pl?if=gb&file=20930&page=2
38 巻65 漢紀57 建安十一年
https://ctext.org/library.pl?if=gb&file=20934&page=2
39 巻66 漢紀58 建安十四年
https://ctext.org/library.pl?if=gb&file=21148&page=2
40 巻68 漢紀60 建安二十二年
https://ctext.org/library.pl?if=gb&file=21152&page=2
41 巻69 漢紀61 章武元年
https://ctext.org/library.pl?if=gb&file=21156&page=2
42 巻71 漢紀63 建興六年(太和二年)
https://ctext.org/library.pl?if=gb&file=21159&page=2
43 巻73 漢紀65 建興十三年(青龍三年)
https://ctext.org/library.pl?if=gb&file=21164&page=2
44 巻75 漢紀67 延熙九年(正始七年)
https://ctext.org/library.pl?if=gb&file=21391&page=2
45 巻76 漢紀68 延熙十六年(嘉平五年)
https://ctext.org/library.pl?if=gb&file=21394&page=2
46 巻78 漢紀70 景耀五年(景元三年)
https://ctext.org/library.pl?if=gb&file=21397&page=2
47 巻80 晋(呉)紀2 晋泰始九年・呉鳳皇二年
https://ctext.org/library.pl?if=gb&file=21400&page=2

維基百科「資治通鑑補」抄訳

維基百科「資治通鑑補」の抄訳

《資治通鑑補》簡稱《通鑑補》,明代嚴衍撰。 嚴衍為明末秀才出身,精于史学,嗜讀《資治通鑑》,常與門人談允厚反覆談論通鑑內容,明神宗万历四十三年(1615年)开始撰寫《資治通鑑補》500卷,拾遗补缺,辨證皆確,指出司馬溫公《資治通鑑》有七病——漏(刪節太甚)、復(一事兩載)、紊(前後事失序)、雜(張李互見)、誤(事有舛誤)、執(取捨固執己見,如不載屈原事)、誣(如皮日休仕於黃巢,近誣)。補充《通鑑》有二十二項之多,如“嚴正統”、“補文章”、“補賢媛”、“補藝術”、“補釋道”……,此书订正《通鉴》處有百分之一二,补充的部分则有十分之三四。[1]此書不僅更正《通鑑》的失誤,同時也更正胡三省的注誤,如卷六十八:“此亦侏儒觀一節之驗也”胡注“侏儒,優人,以能諧笑取寵。”嚴衍更正為:“侏儒,短人……注非”。

『資治通鑑補』を『通鑑補』とよぶ。明代の厳衍の撰。
厳衍は明末の秀才で、史学に精通し、『資治通鑑』をたしなむ。門人の談允厚と、『通鑑』の内容を、反覆談論した。
明の神宗の万暦四十三(一六一五)年、『通鑑補』五百巻をつくり始めた。遺を拾ひ闕を補ひ、弁証はみな確実で、司馬温公(司馬光)『資治通鑑』には、七病があるとした。
1.漏(刪節太甚)けずりすぎ
2.復(一事兩載)ちょうふく
3.紊(前後事失序)順序がちがう
4.雑(張李互見)いりまじり
5.誤(事有舛誤)あやまり
6.執(取捨固執己見,如不載屈原事)取捨選択のかたより
7.誣(如皮日休仕於黄巣、近誣)ねつぞう

『資治通鑑』に二十二項をおぎなった。
1.嚴正統(正統をただす)
2.補文章(文書をおぎなう)
3.補賢媛(賢女をおぎなう)
4.補藝術(芸術をおぎなう)
5.補釋道(仏教?をおぎなう)
……
『通鑑補』は、『通鑑』を訂正したのが1%~2%で、補充したのが30%~40%。

陶継明「厳衍与『資治能鑑補』」、下で抄訳します。


この書物は、少なからず『通鑑』の不足や誤りを訂正するが、胡三省の注も訂正する。巻六十八に、「此亦侏儒觀一節之驗也」とあり、胡注に、「侏儒、優人、以能諧笑取寵」とある。厳衍はこれを訂正し、「侏儒は、短人なり。……注は非なり」とある。

崇禎十一(一六三八)年七月、「五代史」の部分ができ、全体が完成した。翌年に、談允厚が「『資治通鑑補』後序」を書いて、十年来の撰述の経緯について記した。
「先生と私は……一字もなおざりにしない。『通鑑』原本と十七史を一文字ずつ「対勘」した」と。

談允厚「『資治通鑑補』后序」。馮恵民(輯)『通鑑厳補輯要』(斉魯書社、一九八三年)


銭大昕は、「辨正皆確乎不可易」、「其有功于『通鑑』者、胡身之而後、僅見此書」とほめた(銭大昕「厳先生伝」)。
反対に、厳衍の補文は偏濫で、補文章・補賢媛・補芸術は、内容が膨大で煩雑であった。清人の王応奎はこれを謗り、「膨膀通鑑」といった。

《柳南随笔》卷三:“嘉定严永思衍,唐叔达先生婿也。尝取涑水《通鉴》广之,穷年矻矻一事,而遍采诸书,卷帙多至四倍,时人目为《涨膀通鉴》。


この本は、早い段階では、抄本が流通しただけであった。嘉慶二(一八一五)年、張敦仁が阮元のところから一部を抄録し、道光四年に、「補正『通鑑』正文者、匯而録之」といい、『厳永思先生通鑑補正略』として発刊した。咸豊元(一八五一)年、江夏の童和豫が、全本を排印して『資治通鑑補』百余部とした。光緒二(一八七六)年、常州の盛康が「童和豫本」を基礎として、ふたたび勘訂し印行した。220812

陶継明「厳衍と『資治通鑑補』」

严衍与《资治能鉴补》
作者:陶继明 文章来源:本站原创 点击数:1905 更新时间:2008-10-20
https://web.archive.org/web/20140320053325/http://www.malu.gov.cn/zjml/ShowArticle.asp?ArticleID=2166

陶継明「厳衍と『資治通鑑補』」
上記のウェブサイトが、オリジナルの掲載場所。

『資治通鑑』の研究と注釈は、第一は胡三省の『資治通鑑音注』、第二は明代の厳衍の『資治通鑑補』である。
厳衍は、字を永思といい、一字を午庭、号は文拙道人。明の万暦三(一五七五)年に生まれ、清の順治二(一六四五)年に死んだ。万暦年間に秀才となり、「嘉定四先生」とされた。唐時升の女婿となり、唐時升から学問を授けられた。
若いころから史書を嗜読し、古学に専心した。41歳のとき『資治通鑑』研究を開始。「終日食べない日はあったが、終日読まないときはなかった」など生活を傾けた。読んだ当初、『資治通鑑』は広く深く、大海を望むようで見渡せないと思ったが、もう一度読むと……ですばらしいと思ったが、三度・四度と読むと、少なからざる欠点・錯誤が見えてきたと。

『通鑑』の欠点を補正しようと決意した。万暦四十三(一六一五)年に開始し、歴代王朝の旧史を見返して、『通鑑』一字ずつを点検し、淵源に遡って、司馬光の取捨選択をぎんみし、錯誤を訂正し、拾遺補闕した。三十年の歳月が経ち、崇禎十七(一六四四)年に最後まで完成した。門人の談允厚が補助した。『資治通鑑補』は、『通鑑』の百分の一、二を訂正し、補充したのは十分の三、四である。ゆえに『資治通鑑補』と名づけた。

厳衍の『通鑑』読解は謹厳であり、『通鑑』を補正するために、厳衍と談允厚は、「每联床对榻,彼此相商。—字未妥,抽翻百帙。片言无据,考订兼旬。至于得失己见,是非无疑,辄又迟徊久之,或竞日夕而后下笔」というありさま。
補正の作業中、『通鑑』に疏誤があれば、実際の状況を調査し、厳衍は原文を改めるか、さもなくば「存疑」あるいは「備考」欄に書き出し、原文を改めることはなかった。銭大昕は「厳先生伝」を書いて、「辨正皆确乎不可易」「其有功于《通鉴》者,胡身之而后,仅见此书」と評価した。

厳衍の『資治通鑑補』294巻は長いので、出版の出資者がおらず、抄本が流通しただけであった。清代の嘉慶二(一八一五)年、厳衍の死後170年で、張敦仁が阮元のところで複写し、道光四(一八二四)年に『通鑑補』のなかの「補正『通鑑』正文者匯而録之」の部分だけを、『厳永思先生通鑑補正略』としてはじめて世に出した。『通鑑補』の全文は、咸豊元(一八五一)年、江夏の童和豫が百余部を排印した。……厳衍の著述には、ほかに『宋元道鑑補』などがあり……。220812

『資治通鑑補』巻六十九 漢紀61より

せっかく読み始めたのに、たいしたことが書いてなかったです。蜀漢を正統とするのは、朱子の『資治通鑑綱目』だけの独創でなくて、みんなそう思ってきたんだ。だから、諸葛亮がやったことを「入寇」と言われると、イラッとするんだと。劉備が漢帝の子孫であることは、『蜀志』にそう書いてあるのだし、当時の人々が疑った、敵国の人々が疑ったという記録がないのだから、それが正しいのだ。司馬光が、魏の時間軸で『通鑑』を書いたことは、正しくないよと。

『資治通鑑補』巻六十九 漢紀61より
通鑑、魏を帝とするに而れども通鑑補、何を以て漢を帝とするや。曰く、此れ衍のみ一人の見に非ず。乃ち朱子の旨なり。又 獨り朱子の旨なるのみに非ず、乃ち千萬の世の同然の心なり。故に通鑑を読む者は毎に諸葛亮の入寇に至り、之の為に縮舌せざる無し。則ち人心 知る可し。人心の歸する所は即ち正統為り、而して況んや又 漢室の胄為るをや。曰く、温公に言有り、昭烈の漢に於ては中山靖王の後なりと云ふと雖も而れども族屬は疎遠にして其の世數・名位を紀す能はず。亦た猶ほ宋の高祖 楚の元王の後を稱し、南唐の烈祖 呉王恪の後を稱するがごとし。是非は辨じ難し。故に不敢て光武及び晉の元帝を以て比と為す。曰く、温公の此の言 亦た一時の見なり。凡そ後世の信ずる所、以て口實と為す者は、前代の正史のみ。蜀志 明言すらく、漢の景帝の子の中山靖王勝、勝の子の貞、元狩六年に涿縣の陸城亭侯に封ぜられ、酣金に坐して侯を失ひ、因りて焉に家すと。昭烈の貞の後為ること昭昭たり。當時の士民 之を疑ふ者有る莫く、呉魏の敵国 之を疑ふ者有る莫し。漢より今に至るまで千数百年、之を疑ふ者有る莫きも、温公に至りて之を疑ふは何ぞや。古人の行政 既絶の世に於て、猶然と之を繼ぐ。溫公の作史 已紹の統に於て、乃ち之を絕たんと欲す。抑々何ぞ例を引くことの同じからざるか。孔子は殷の後にして、其の世数・名位 亦た紀す可からざるなり。温公 豈に之を絕つ能ふか。舜すら且つ曹氏の系なること 史に明らかなり。謂へらく能く其の生生・本末を審らかにする莫し。乃ち温公 獨り何をか本とする所にして正統を以て之に歸するか。曰く、漢の禪りしなり。曰く此の所謂 受禪も亦た猶ほ盜賊の劫質なるのみ。豈に堯舜禹の授受の義なるか。今 有豪奴悍僕の其の孱主を劫奪する業、而して之に囚り其の契券を強要して以て舊と為すなり。幸に一□子有り。焉ぞ其の零田・媵室を守りて以て血祀を荷延して而して傍観する者、且つ之を議して曰く、爾の祖業 已に之を爾僕に属せしむ。則ち爾陛 當に為爾主爾顯為其僕耳。温公をして是の獄を断ぜしむ。其れ將に何を以て之を處するに通鑑の魏を帝とするは、何を以て是と異ならんか。