いつか書きたい三国志

何焯にかんする碩士論文3本

李銘「『三国志』何焯批校研究」

李銘「『三国志』何焯批校研究」

摘要より

康熙年間の何焯が批校した『三国志』は、広く伝抄し引用された。乾隆期の武英殿本『三国志』、趙一清『三国志補注』、盧弼『三国志集解』、1959年の中華書局『三国志』にも成果が取り込まれている。
2006年に中華書局点校本「二十四史」の修定作業が始められ、『三国志』の点校のために何焯の研究が必要となった。これにかんがみ、われら復旦大学が所属する、清代の劉履芬が採録した何焯『三国志』批校本が、おもな研究対象である。漢語史研究と古籍整理の観点から、2つの方面で検討した。
1.前人と今人がすでに引用したもの(何焯の説)を、再検証する。
2.前人と今人が引用しておらず、新たに分析を加え、利用価値を見出す。
第1章では、前人と今人が利用した何焯の批校について、概括し総括する。第2章では、現代の学術界の分類に照らし、何焯の批校を、古今字・通仮字・異体字の3分類から分析する。第3章では、何焯の…、第4章では、中華書局校点本による何焯利用の得失について検討し、同時に何焯が示した異文にもとづき『三国志』のテキストを校理する。
この論文が貢献するのは2つの方面で、
1.文字学・語彙学において、何焯『三国志』批校から、漢語研究史に成果を提供する。
2.古籍整理の観点から、『三国志』の校点の仕事に貢献する。

1-1 何焯及びその『三国志』批校本

何焯は、1661-1722。義門先生。康熙二十五(1686)年、貢生に選ばれて都にゆき、尚書の徐乾学・祭酒の翁叔元の門生となった。康熙四十一(1702)年、宰相の李光地の推薦により……、のちに武英殿の纂修を兼任した。
何焯批校『三国志』は、原本はすでに佚したが、後人の文によって概要を知ることができる。上海図書館が所蔵する約山過録本?の題記に、
王艮斎端公(王峻)によると、何焯の校閲はとても精密で、誤りや脱落があれば、南雍本を用いて、南北両宋本・元版にあわせ、ならびに北雍本・毛本をあわせ、またひろく『太平御覧』『冊府元亀』の諸書と照らして是正した……。

呉金華は、盧弼『覆胡綏之先生書』に、「……」とあることに基づき、何焯が底本としたのは、明の南京の国子監の刻本だと推断した。何焯の批校『三国志』は、おおくの人の手により世に伝わった。……がいる。

1-2『三国志』何焯批校の研究まとめ

清代に大量に採用された何焯の成果のうち、筆頭は(武英)殿本『三国志』である。乾隆四年、経史館は、北監本を底本として、「二十一史」を作り直した。『明史』を除いて、すべての史には『考証』がついている。
殿本『三国志』の考証は、998条ある。そこに示された異文で、宋本は195条(北宋本44条を含む)、元本は62条、『太平御覧』は111条、『冊府元亀』は39条など(ここにあげられた数字を足すと407条)。この異文は、何焯の校語とほぼ同じ。
これ以外に、998条には、盧明楷の49条、李龍官の37条、陳浩37条、朱良裘10条、張照7条の5人のものがあり、かれらで140条の按語がついている。

異文の判定と、語言・文字の研究は接続されている。
『魏志』邴原伝に……。
何焯は、「分」を改めて「介」にすべきとし、「2つの介の字は、ともに『冊府元亀』に従って改める」とある。殿本の『考証』で、盧明楷は、「分の字だと文意が通らない、『冊府元亀』は介につくる。……という理由で、介にすべきだ」とある。

雍正・乾隆期、趙一清が著した『三国志注補』もまた、何焯の批校を引用している。わが統計によれば、趙一清は654条の何焯の成果を引用した(『広雅書局刊行『三国志注補』補遺』の39条を含む)。
盧弼も、何焯の評点を1000条近くひく。

以上3つが、何焯の成果を大量に利用した著作である。
・武英殿本
・趙一清『三国志注補』
・盧弼『三国志集解』
これを三書とする。以下の問題がある。

(1)当時の条件を限る?こと。何焯は、古今字・通仮字・異体字を懐疑し、正しいことと誤ることがあった。『呉志』賀斉伝で、「古書通用」とあり、『魏志』曹彰伝で、異体字の指摘をしている。これらについて、引用した三書は、異文として表示した(引用の仕方がザツである)。
(2)何焯が利用した、明本『太平御覧』『冊府元亀』には、おおくの異文があり、宋本の『太平御覧』と『冊府元亀』のなかに存在しない。たとえば、『魏志』管輅伝で、何焯が『冊府元亀』に基づいて指摘しているが、宋本の『冊府元亀』では、何焯の言うとおりになっていない。『蜀志』秦宓伝でも、何焯が引いた『冊府元亀』は何焯の言うとおりになっていない。
(3)何焯も意味不明として、質問を投げかけていることがある。『魏志』夏侯玄伝で、「未詳」で終わらせていることがある。呉金華『三国志校詁』で、何焯の質問に答えている。このような質問の投げかけを、三書は少なからず引っきぱなし。
(4))三書の引用の仕方に、規範がない。盧文弨が殿本『考証』をひいたが、何焯がその門人の陳少章の説を引いているが、何焯の意見かのように引用してる。武帝紀注引『傅子』など。

1959年、陳乃乾の校本による『三国志』が出た。何焯の成果96条をひき、校勘記409条のうち、4分の1を占める。たとえば、『魏志』田疇伝で、何焯は「当」を「受」に改めろという。この点について、呉金華が何焯を否定している。

呉金華『三国志校詁』・『三国志叢考』で、盧弼『三国志集解』が引用した何焯の批校について検証し、結論を出している。1989年に岳麓書社が出した呉金華点校『三国志』点校本は、2001年に修正版が出た。何焯の成果を92条引き、全体の801条のうち11%である。

1-3張若靄・劉履芬による何焯批校の過録

清代の張若靄は、何焯『三国志』批校を過録した。同治年間い、劉履芬が、著者の過録本を考訂して、再び過録した。劉氏による過録本が、復旦大学の図書館にある。
張若靄1713-1746は、安徽の人。劉履芬1827-1879は、蘇州の人。
劉履芬が再過録した何焯『三国志』批校本は、同治九年の金陵書局の刊本とし、はじめに劉氏による題記がある。
……。
朱筆で、何焯・李光地・陳季方を書き写しており、何焯の批校には名を記さない。陳景雲の説は「少章云」、李光地は「李云」、陳季方は「季方云」ではじまる。これ以外に、銭大昕・梁商鉅らの批注も朱筆されている。
北宋本・宋本・南雍本および『冊府元亀』・『太平御覧』・『後漢書』・『通鑑』・『文選』・『三国志文類』ら諸書の異文をのせ、巻末に総評がある。
劉履芬の過録本には3500条の批校があり、もとづいた本は、表のとおり。

おもに何焯の評語(①北宋本80、②宋本367、元本72、広韻2、後漢書35、資治通鑑16、太平御覧175、冊府元亀52、世説新語15、文選19、三国志文類31)と、訓詁の評語(何焯の批語2140件)がひかれ、文字・語音・語彙・語法から検討の余地がある。
もしも何焯の底本が南監本を底本としているなら、劉履芬の過録本は南監本の異文は、何焯の校語ではない。南監本275条の異文は、研究範囲からはずす。

1-4研究の視角と方法

段玉裁は「与諸同志論校書之難」で、校書の難しさを述べる。

2 何焯批校の文字学研究
2-1何焯批校のなかの古今字
2-2何焯批校のなかの通仮字
2-3何焯批校のなかの異体字

3何焯批校の語彙学研究
3-1詞義(言葉の意味)の訓詁
3-2同義語の研究
3-3同素逆序詞の研究(宰輔と輔宰など)

4何焯批校と『三国志』文本整理
何焯批校によって、1959年の中華書局標点本『三国志』の不足を補うという試み。

あらためて何焯の指摘の妥当性を点検し、現代の中華書局が標点本がひろうべき何焯の指摘を発掘し、中華書局本にテキスト変更を提案する論文。
何焯が残した宿題は、筆者の先生である呉金華が答えてくれたため、何焯の指摘を疑問をつぶしたかたちで何焯の説をみることができ、その成果を取り込むことができる。
何焯の指摘を、最新の研究にきちんと認めてもらって取り込ませるために、何焯の説の正しさや意義を、2・3で確認していた。そして4で提案をおこなった。


論文末に、劉履芬過録・張若靄録・何焯『三国志』批校を載せる。220812

これは3つの書物じゃなくて、何焯に批校を、張若靄が採録したものを、劉履芬が採録したもの。孫引きの関係になっているという意味。
復旦大学に所蔵されているという劉履芬の本を、活字に起こしたもの。

李娟「何焯『義門読書記』研究」

李娟「何焯『義門読書記』研究」

0-1研究の現状

何焯は、祖先が元の元統年間に「義行を以て旌門とす」といい、義門を塾号とした。
現状の研究は、何焯の平生の事蹟と、古典テキストの校勘学に及ぶが、これだけの研究では、かれの清朝初期の学術的な地位に似つかわしくない。何焯は、康熙年間の学者で、書法家・蔵書家である。経学・史学・詩文に造詣が深い。呉地で名声があり、笪重光(だつちょうこう)・姜宸英・汪士鋐(おうしこう)とともに、「康熙四大家」といわれ、皇八子の師となり、「揚州八怪」の一人とされた。
『義門読書記』は、「発正経義・評閲史書・考釈詩文集」の成果である。学術界では、『義門読書記』の校勘の成果が多く引用されるが、専門に研究対象として扱うものは少ない。崔高維は何焯に点校と部分的校勘をしたが、それ以外では研究がない。

現在、『義門読書記』の研究は、その一部の篇章のみに限定され、丁燁「何焯文選評点研究」(復旦大学碩士論文、2007年)、趙俊鈴「今伝三種何焯『文選』評点本辨」(『蘭州学刊』2008年第2期)である。
詩歌についてもある。はぶく。
王慶振「論『義門読書記』的校勘学成就」(北京師範大学碩士論文、2005年)は、『義門読書記』の校勘学について。以上は、一定の成果があるが、『義門読書記』の全体としての理解には至らない。『義門読書記』の学術的価値を、そのなかに現れた文献学の思想の観点から分析を加えたい。

0-2研究上の価値と学術上の意義

『義門読書記』は読書札記であるが、この種の札記は、宋代の王応麟『困学紀聞』、明代の王欽順『困知記』、清代の閻若璩『潜邱札記』らの流れをくむ。
札記は、宋明理学の「語録体」と明らかに異なり、清代の学術の重要な組成成分となった。古籍を閲読し、古代の典章制度と文字訓詁らを理解し、知識を提供するものだ。
何焯の事蹟は、輯録考証に費やされたが、『義門読書記』は校勘学を成り立たせたもので、校勘学の観点からは研究されてきた。この論文では、『義門読書記』の版本・体例・内容と作者の交友関係や著述活動から捉えなおし、文献学の思想(校勘・注釈・考証として現れたもの)を分析し、歴史的地位と、清初学術への貢献について説明をくわえる。
何焯は冤罪で投獄され、その著作は死後に散佚したが、弟子が校勘を加えて出版し、『義門読書記』とした。本の成立について研究もする。

0-3構造と主要な内容

2章で、3節にわけて『義門読書記』の内容と特色を紹介する。発正経義・評閲史書・考釈詩文集である。

1-1何焯の伝記

何焯の校定した両漢書・三国志がもっとも有名。何焯の死後、乾隆五年、方苞の推薦により、校定はその本を写させて国子監に付し、新刊本の取正の本とした。
康熙・雍正年間に、何焯の弟子がおり、金農・陳季方・陳少章・沈彤がもっとも有名。陳季方は文詞にたくみで、陳少章は史学にくわしい。沈彤は、早年に何焯の門を出て、全祖望・恵棟から認められて、呉派の早期の代表的な人物となった。

1-2何焯の著述

『義門読書記』の成書過程はふくざつ。最初の『義門読書記』は6巻しかなく、乾隆十六(1751)年に刊行された。何焯の子の何雲龍、従子の何堂らによる。内容は、春秋左氏伝・穀梁伝・公羊伝・史記・漢書・三国志であり、次序に、「先春秋三伝、而次以両漢書・国志焉。その他は徐々に追加していく。漢・魏・唐の詩は、単独で(別に)発行する」とある。

崔高維点校『義門読書記』1285頁。

漢・魏・唐の詩は、経史に関する著作とは別に、単独で出版する予定であった。
のちに58巻の『義門読書記』が出たのは、最初は乾隆三十四(1769)年であり、何焯の弟子の蒋元益の従弟の蒋維鈞が刊行した。このとき『義門読書記』は3つの部分から成り、はじめの12巻は経義の発正で、「先哲の経義を発し、未顕の微言を究む」とされた。つぎは、史書の閲評17巻で、何焯がもっとも得意とした部分である。当時の太学が刊刻した経史で、方法が採用して厘正(訂正)に用いていた。さいごの29巻は、詩文集の考釈であり、何焯の功績はもっとも深い部分。

1987年に崔高維が点校した中華書局本がもっともよい本である。3冊1290頁。附録として、乾隆九年に門人の沈彤ら3人がつくった何焯の生涯を知ることができる文などがついている。

2-1『義門読書記』の主要な内容と特色

第一部は、『大学』『中庸』『論語』『孟子』『詩経』『左氏春秋』『穀梁春秋』と『公羊春秋』についてのもの。第二部は、『史記』『漢書』『後漢書』『三国志』と『新五代史』のためのもの。なかでも、『史記』『漢書』『後漢書』と『三国志』の評閲が、もっともよい。第三部は詩文集であり、29巻ある。詩文集には、『昌黎集』『河東集』『歐陽文忠公文』『元豊類稿』『文選』『陶靖節詩』『杜工部集』と『李義山詩集』がある。

注釈は、文字の解釈と説明で、別人と自己が分かりあえるようにする。
校勘は、「校讎」ともいい、錯誤を訂正する。王鳴盛は『十七史商榷』で、「読書をいするなら、さきに校書をしっかりやらないと、読み間違える」といった。
考証は、「考拠」ともいい、歴史的な言語を研究する方法である。事実や例証から帰納的に。乾隆・嘉慶に、考拠の学は栄えて、「考拠学派」「乾嘉学派」といわれた。

何焯がこの学派の形成にどのように関わるか。それを早く。


何焯の校勘は、4つの方法をとった。「対校法」「本校法」「他校法」「理校法」である。

李娟先生は触れていないが、校勘法の分類は陳垣による。
1)本校法は、校勘すべき書籍によって、書籍の内部で校勘の証拠を探す。2)対校法は、校勘すべき書籍の異なる版本を対照して誤りを発見する。3)他校法は、べつの書籍によって校勘する。4)理校法は、推理によって校勘をする。学者が誤りを発見したが、比較し傍証とできる史料がないとき、推理して訂正せざるを得ないときにもちいる。語言・体例・史実の三つをもちいる。
https://www.kurims.kyoto-u.ac.jp/~kyodo/kokyuroku/contents/pdf/1831-10.pdf


何焯の校勘は原則性がとても強く、非常に証拠を重視し、原文を簒改しない。……何焯の詩文集への評点は、校勘・注釈・考証が融合している。

以下、経書・史書・文学作品について、『義門読書記』を概観するのがこの論文のねらい。先行研究は、一部分のみピックアップしたものがあるが、『義門読書記』全体を論じていない、というところから始まったもの。
しかし、ここまで見るに、何焯の生涯と、『義門読書記』の概要について、先行研究を要約し、つまみ食いしたところが多いようにみえる。どこまで独自性に踏み込めるかが、2-1からの本番である。さもなくば、「よく調べたが、分析対象をしぼりこめていない論文」となってしまう。


2-1経義を発正する

はぶく。

2-2史書を評閲する

この部分の文献学の内容は校勘を主とし、同時に注釈と考証を兼顧する。校勘は、おもに衍文・脱文・訛誤・倒文を正す。対校法・本校法・他校法・理校法をもちいる。みだりに改めず、証拠を重視する。注釈は、字詞の音義、事物の名称、古今の字、制度の起源、避諱と通仮を指摘する。考証は多くなく、名物制度と歴史史実をふれる。
2-1注釈
2-1-1字詞音義
『史記』武安侯列伝の「引縄批根」について……。
2-1-2事物名称
『漢書』昭帝紀に……。
2-1-3制度の起源
『漢書』武帝紀に……。
2-1-4その他
古今字・避諱・通仮……。

何焯が行ったことを分類していることに価値はある。しかし、現象をなぞっているだけ。

2-2校勘
校勘の実践
2-2-1衍文を校す。
2-2-2脱文を校す。
2-2-3訛誤を校す。
2-2-4倒文(錯簡)を校す。

校勘の方法

この部分はわりと引用しやすそう。

2-3-1対校法
対校法は、同書の祖本あるいは別本を対読し、同じでないところに出会ったら、その傍らに注をつける方法。もっとも勘弁であり、穏当であり、機械的な方法である。ゆえに、書物を校するときは、さきにこの方法を用い、その後で他の方法を用いる。
『史記』商君列伝に……『史記』春申君列伝に……。
2-3-2本校法
同書の前後を互いに比較して証拠とし、異同のなかから正す。この方法は考証方法として強く、一人で完結できる手法。
『漢書』杜欽伝に……とあり、李尋伝との比較から多々出す。『後漢書』献帝紀を、『後漢書』董卓伝と照らすなど。
2-3-3他校法
その書物及びその注疏以外の本で、関わりのある書物をつかう。この方法は、対校法と本校法では校勘の証拠が得られないときに用いる。
『史記』と『漢書』、『左伝』と『史記』、『世語』と『史記』などの組み合わせがある。『蜀志』劉備の記事を、袁宏『後漢紀』で他校し、『蜀志』の誤りを指摘したことも。
2-3-4理校法
根拠となるテキストがないか、あるいは複数のテキストで異なっており、依拠すべき最適解がないときに、道理によって是非を定める。上記の3つの方法では有効な校勘ができないときに、この方法を用いる。主観がおおきな作用を占め、とても難しく、誤りやすい。陳垣は「最高妙者此法、最危険者亦此法」という。

『孫子』などの諸子のテキストが乱れているとき、伝世文献と、断片的な出土資料しかないときがある。伝世文献「で」出土資料の欠落した文字を推定していくのは、正しい態度ではない。かといって、なんでも出土資料に引き寄せていくのでは、その出土資料が悪いバージョンのテキストだったときに、混乱を招くだけ。出土資料ですら、同時代で最悪のバージョンだった可能性があるし、また出土資料が作成時点ではベストな資料であったとしても、そのあと改変されながら読まれただろう。古ければなんでも良い、正しい、依拠して読むべきだ、というのも安易すぎる態度である。出土文献と伝世文献があまりにかけ離れて、わけが分からないとき、読み手の「理」を動員して、どちらにより近づけて読むのか、あるいは両方とも違うが最適と思われる始原のすがたを想像するなりして、どこにも存在しないベストなテキストを掴み取っていく。これは、もっとも難易度が高く、独善的におちいる可能性がある。が、見識があるひとが彼ら自身の「理」によって中空から取り出したテキストは、もっともよいテキストである。

たとえば、『後漢書』文苑 禰衡伝で、文の意味がよく分からないところを、『文選』のテキストによって理解する。

2-4考証部分
事物の名称と史実について。
2-4-1事物の名称を考証する
『史記』鯨布列伝に、「淮南」とあるが、亭林は「九江」とすべきでは、という。ここから、「淮南」という地名について考える。「宗正」という官名について検討しているところもある。
2-4-2歴史の史実を考証する
『後漢書』献帝紀に、曹操が伏皇后と二皇子を殺したとある。李賢注『山陽公載記』に、劉備が蜀でこれを聞いて喪を発したとある。何焯は、『山陽公載記』を正確でないとする。
『三国志』鄭渾伝で、鄭渾の兄の鄭泰は、荀攸らと董卓を殺そうとした。注に載せる張璠『漢紀』では、のちに王允とともに董卓を殺そうとしたとある。何焯は、注に対して、のちに王允とも共謀したというのは誤りが疑われ、『後漢書』のほうが実を得ているとする。このように、何焯は確実な証拠によって、李賢注の誤りを指摘する。

どのような確実な証拠なのかは、ここで触れられない。


3詩文集を考釈する

李娟氏のこの文では、2章とほぼ共通の項目を立てている。
注釈部分は、字音詞義・句式(これは新しい)・避諱・名物制度・制度源起・通仮・校勘部分は、衍文を校す・脱文を校す・訛誤を校す・倒文を校す。考証部分は、史実を考証する、であろう。

3『義門読書記』の貢献

3-1清初の学術筆記の典範に

一つ、清初のもの書きたちは、文字の獄で罪となることを畏れ、明末清初のことをいわず、当時の社会状況に規定された。
二つ、清代の学術は、古籍を閲読し、古代の典章制度と文字の訓詁を助けとし、多方面の知識を得た。梁啓超『清代学術概論』では、「札記冊子」が作られ、宋明理学の「語録体」と異なるとした。
梁啓超は、顧炎武『日知録』、閻若璩『潜邱札記』、銭大昕『十駕斎養新録』、臧琳『経義雑記』、盧文弨『鍾山札記』、『龍城札記』、孫志祖『読書□録』、何焯『義門読書記』、王鳴盛『蛾術論』などがある……としている。

『清代学術概論』の日本語訳でこの部分は確認ずみ。ただし、梁啓超が何焯に触れてますよね、というだけなら、巻末索引ですでにぼくも確認しているのだ。


徐徳明『清人学術筆記提要』は、清代の学術筆記を3つに分類する。1つは、李惇の『群経識小』らのような、経史匯釈のたぐいで、経部・史部の注釈である。2つめは、群書の集校のたぐいで、盧文弨『群書拾補』や何焯『義門読書記』など。子史にわたり、作者が心血を注いだもの。3つめは、経史の訓詁にかたよったもので、銭大昕『十駕斎養新録』などがある。

ちょっとピンとこないので、徐徳明を引くなら原文を見る必要がある。つぎに引く、李娟氏の補足も、やはりピンとこない。いっしょくたに分類するのではなく、二章で見たすぐれた注釈・校勘などの成果があるから、「清代の樸学の典範となる作品である」とのこと。

徐徳明は何焯『義門読書記』を2類にしているが、内容がおおくの経書・史書・詩文にも及ぶよと(群書集校の類には収まらないと)。なぜ、樸学の典範になるのか、について、梁啓超・徐徳明の枠組みのなかで訂正するには至っていない。きびしめ。

3-2清代の校勘・考拠の風気の先がけ

乾隆五年、校定は方苞の要請により、旨を下して校本を写して国子監に附し、新刊本の正を取る所と為した。康熙時代に、宮内の書籍は多く何焯の校する所に由り、宮中の至宝とされた。雍正帝が皇四子であったとき、彼に『困学紀聞』を校勘せよと要請し、その他の皇子たちも同じ要請をした。張之洞『書目答問』の後ろに附録される『国朝著述諸家姓名略』では、校勘者の30人あまりを列挙し、何焯が筆頭である。

張 之洞(ちょう しどう)は、清末の政治家。洋務派官僚として重要な役割を果たした。曽国藩・李鴻章・左宗棠とならんで「四大名臣」とも称される。1837-1909。
かなり後世からの評価であり、うまく考証学史に繋がっていない。

何焯は考拠の学で、「開風気之先」である。

かぎかっこに括られているのだが、出典がある言葉だとしたら、出典が示されていない。オリジナルな物言いなのかな。「开风」で論文中を検索したが、うまくいかない。
乾嘉の学がさかえた、政治的・文化的要因について概説的に抜き書きしているけれども、何焯でなければならない説明はない。「清学の開山」という評語が35頁に見えるけれど、ぼやぼやした説明しかない。


何焯の成果は、
1.大量に別人の校勘の成果を保存し、文献価値と資料価値をそなえていると。『史記』扁鵲倉公列伝のなかに、亭林曰……、徐広注に……、などとあり、これは顧炎武が脱文を校した成果を保存している(亭林は顧炎武の号)。
2.ひとつの文字やことばで、他の古籍から関連する記述をひいてきて解釈し、大量の文献を保存した。
3.『義門読書記』は、疑問点や異文の存在について著録してくれたので、原則に基づいて校勘の成果を出した。何焯が疑問に思ったところは、疑問として残してくれたので、根本的な歴史的真実を追及し得る。

37頁に何焯の考証の欠点や限界を指摘した人々のこと。梁啓超が「閻若璩の考証の功は、何焯に十倍する」としたとあるが、これは李娟氏の誤りである。これ大事なメモです。まじめに探して、時間を食ってしまった。
何焯は考拠の学の創始者であり、先鋒である、というのは李娟氏のただの感想です。碩士論文(修士論文)だから、あんまり追及するのはよくない。『義門読書記』という本そのものをタイトルにして、1本にまとめる先行研究がないという問題関心から出発して、『義門読書記』に関わる全般を、先行研究を抜きながら繋げましたという印象。220813

邵中技「乾嘉考史三大家『三国志』研究述論」

邵中技「乾嘉考史三大家『三国志』研究述論」

乾嘉考史三大家が『三国志』を考証した成果を研究対象とする。
第一章は、銭大昕による『三国志』の研究状況。銭大昕は史文の校勘に重点をおき、衍文・脱文・訛文・倒文らを改訂し、増補あるいは削除をした。地名・人名・職官・年代・史実らの考証をした。
第二章で、王鳴盛による『三国志』の研究状況。史文の校勘以外に、典章制度・史実・四方と人物考評に重点がある。王鳴盛は、考証を主とし、論議を輔とし、両者は両立し矛盾はしない。
第三章で、趙翼による『三国志』の研究状況。趙翼の重点は文字の校勘、衍文の削除と脱文の補填、名物の訓詁にはない。内容の異同と得失について、見解を示した。
おわりに、銭大昕・王鳴盛・趙翼の異同についてまとめる。

導論

裴松之・劉知幾があり、宋代の蕭常が『続後漢書』をつくったとき、『続後漢書音義』をつくり、訛誤の訂正をした。宋末元初、胡三省の『資治通鑑注』がある。清代の乾嘉時期に高まったが、早くは康熙年間の何焯の『三国志』校勘があり、三十家が『三国志』の考証を進めた。三人が代表的で、銭大昕、王鳴盛、趙翼がいる。

乾嘉の学に先立つものとして、何焯の校勘があがり、三十家あまりのなかから考史三大家が生じる、というかたちで通り抜ける。


並べただけなので、また時間があるときに読む。220814