いつか書きたい三国志

2024年の春に考えたこと

Twitter @Hiro_Satohより

経学と史学

むかしの人(孔子)が何を言ったか、どんな意図でいったか、内容と意図を誰が正しく引き継いだか(道統)、というのが学問(儒学)で論じられるが、自分の主張の材料に過ぎない。
実際の人物・学問系統などの「歴史」は、それら説明手段としての下位概念、補助学問に過ぎないのでしょう。
経>>史

実際に何が起こったか(歴史学)、それを史書の編者がどんな意図で記録したか(史料批判)、それをいかに理解し論じるか(史学史)というのが、史学の主要テーマに思われがちですが、
「経>>史」の世界では、主張したい歴史像がより強く先にあり、史学それ自体は目的にならない??

小島毅『朱子学と陽明学』を読んで考えました。

『三国志演義』の史学

『三国志演義』って、たった1冊で楽しく分かる正史『三国志』という本。正史が「史学」で、『演義』が「文学」という対立構図は意味がない。
『演義』は「史学」から見たらぜんぜんダメ、というのもおかしな見方。
正史『三国志』も『三国志演義』も中国における「史」です。ただしこれは、中国が非科学的という意味でもない。
そういう意味で、『世説新語』も『捜神記』ももちろん「史」であり、それらを吸収した正史『晋書』ももちろん「史」です。むしろ、「史」の典型例。
『晋書』をたくさん読むと、「史」の手触り?が感じ取れるようになり、『三国志演義』も「史」だな、って感触が定まってくるのです。

近代西洋の歴史学(科学としての史学)を分析対象とした「歴史哲学」は、「実際にどうであったか」を歴史学の本流とし、関連する諸学を「補助科学」も位置づけることがあります。経済学とか、天文学とか、考古学すらも「補助科学」のようになる。
学問のあいだに優劣はなくて、どこに着目(対象)し、何を目指すか(目的)というの問題であって、ある学問をつまんだら、他が「補助」に見えるという、相対的な立場(見え方の順序)の違いでしかないと思います。
中国における本流は経学であり、史学は代表的な「補助」学問なんでしょう。四部分類の「子」「集」もまた「補助」学問と見れば、どれかを過剰に持ち上げすぎることはなく、また自分の問題意識を押し付けすぎて、学問がワケが分からなくなることが少ないのではないか。

おかしなこと言ってるなーって感じになるのは自覚があるんですが、正史『三国志』と『三国志演義』って、現代日本人が第一印象で感じるほどは質的な差異がなくて、それがどんなふうに、どんな観点で、どの程度が同じなのか?違うのか?っていうのを言語化していくのが、ぼくの問題関心なんだと思います。
具体的には、「正史なんて国家に忖度・迎合した本だから信用できないぞ」とまるごと退けるのではなく。「中国における歴史なんて何でもありなんだ。いわば文学だ。事実と虚構の区別がついてない。歴史学の史料として使い道が乏しい(史料批判をするとほとんど内容がなくなる)」でもなく。ただし、「三国志演義がかれらにとっての歴史なんだ。正史と演義を同格に見ていた」でもなく。「裴松之より以後、演義にむかって情報の精度が落ちた、目が曇った」でもなく。
順番に解き明かしたいことが多いので、お時間をください(=博士課程)みたいな感じです。

儒教史を学び始める

南宋の朱子学は「性即理」、明代の陽明学は「心即理」で対立的
固有名詞の「タグ」は高校で付けたが、学問の時代背景と文脈、朱子と王陽明のプロフ、両者の学問のどこが同じでどこが違うか(何をめぐる批判か)、評価や継承の系譜などを知り、はじめて朱子学・陽明学をおもしろく感じ始めた←イマココ

高校の日本史・世界史は、固有名詞を「タグ付け」できれば成功。記憶力は人生最高潮だが、考えたり面白さを感じとるには若すぎる。 自分がどんな分野・切り口におもしろさや意味を感じるのか自分自身でも分からない。「若さという資源」に任せたトライ&エラーの期間なんでしょう

日本の三国志の受容史(文化史)に並行し、中国における三国志の受容史(文化史)がある。※むしろ日本の受容史が支流
その前提に巨大な地盤として、儒教史・史学史(学問史)がある。これも中国の本流、日本の支流がありつつ、合流と分岐をくり返す。ぼくはカバーできませんが、仏教史も

複数の翻訳との付き合い方

古い本や外国の本は、「1つも翻訳がない」より「1つ以上翻訳がある」ほうが良いことは、全員が同意するでしょう。
では同じ本(資料)に、何種類も翻訳(や注釈)が必要なのか?
翻訳者の目的や強み、時期(利用できる参考文献、時代に要請された問題意識)が違うので、多ければ多いほどよい?

ていねいに読まれてきた古い本(資料)は、翻訳や注釈の層が厚い。
見通しをもった先生が、「その観点からこの本を読みたいなら、だれだれの翻訳を見よ」とガイドしてくれるなら、翻訳や注釈は多ければ多いほどよい(のではないか)
※すべての翻訳には、個々の目的、長所・短所がある

王安石の位置

王莽がしくじり、曹丕が見切り発車した「禅譲」は、魏で事後的に鄭玄説(五行、感生帝説、緯書)で裏打ちさせ、魏晋革命で完成。
標準化された手順は「だれでも」手早くできる。南朝(宋斉梁陳)で加速し、唐末の「五代十国」であまりに手軽になりすぎたので、北宋の王安石の儒学(新法)が理論をくずした。

唐と宋のあいだで中国史が区切れる(唐宋変革)という説があります。
三国志ファンが好き?な王朝交替は、北宋まで。北宋は(曹丕以来の)禅譲という方法で帝国を始め、北宋には火徳の感生帝の祭祀があった。
五代十国の反省→北宋で改革(王安石の儒学)→金に敗北を反省(靖康の変)→南宋(程頤・朱子の儒学)

文献を研究する2つの入口

すべて過去の文献は、
①後世の受容、変化や展開の一例
②われわれの研究の先達
という2つの側面をもつ。前から見るか、後ろから見るか。たとえば『三国志演義』を日本語訳した『通俗三国志』は、①『三国志演義』の後世・他地域での展開例ですが、②ぼくたち日本人の三国志受容の大先輩でもある。

①後世の受容例(研究対象)と見るか、②われわれの先輩読者(先行研究)と見るか。
『通俗三国志』だけでなく、
「三国時代の歴史と陳寿『三国志』」
「漢代儒教から見た朱子学」
「朱子学から見た伊藤仁斎」
「『三国志演義』李卓吾本と毛宗崗本」
「『水滸伝』版本の書き入れ」
何でもいける。

①後世このような差異が生じた(単純な比較)、これほど歪んで受容された(あげつらい)と言うのは研究ではない。②尊重すべき先例だ(崇拝)、曲解による妄説だ(批判)と言うのも研究ではない。
対象に埋没し教説を練ることや、対象を愛でることは、研究じゃない。後知恵を振り回したり、近代知で論評することも研究ではない。

①後世の受容事例を、②先輩読者が文献と格闘した事例だと捉えると、がぜん興味が大きくなる(研究をしたい気持ちが強くなる)。

それならば、古い文献(経典・史書や作品)を研究するって何?という疑問に行き当たる。240430

「日本近世の仏教界では、版本に書き入れをしながら教理学習がされており…………無名の僧侶たちが……講義を聴くなどして書いたものですから、それ自体の思想的価値は得てして高くありません。……仏教が師匠から弟子に伝わるものだとするならば、師匠から弟子に仏教が伝わる現場、テキストが読まれていくその瞬間が書かれている一次資料だとは言えないでしょうか」(一色大悟先生、『なぜ古い本を網羅的に調べる必要があるのか』128p)


『水滸伝』のキャノン化

儒家経典(尚書や春秋左氏伝)の成立時期や過程・真偽は厚い研究層があって、追いかけるだけでも大変なんですけど(出土資料が1つ出れば解決するというタイプの問題でもない)、
時期が新しく、清朝考証学で重視されなかった『水滸伝』は、物語内容やテキストが流動的であった段階(「異同の相」を伝える版本体系)に遡ることができる。小松謙先生によると『水滸伝』を「キャノン※」化したのは金聖歎。金聖歎は自分の『水滸伝』を「キャノン」とし、施耐庵の元来のもとしい、他を俗本とした。

『水滸伝』研究から、19世紀西洋のフィロロジー(≒文献学)を連想し、「キャノン」(経典とか聖書)という概念を持ちだしたのは中島隆博先生

ぼくが思うに、儒家経典がさまざまな(古の帝王らの)発言・行動の記録であり、その内容・教訓の理解を助ける物語集・説話集であるという側面もあったならば、『水滸伝』の版本研究の発想法は、前漢までの儒家経典の成立史の研究と近いことをしているのではないか。

荒木達雄(編)『なぜ古い本を網羅的に調べる必要があるのか』は、各自の問題関心、研究の意義を考えている大学院生におすすめの本です。『水滸伝』が題材ですけど『水滸伝』に収まらないし、古い本のデジタル化活動報告に終わる、みたいな本でもありません。


北宋の濮議

後漢献帝が劉備を「皇叔」と呼ぶのは、正史になくて『三国志演義』にある。どこから来たか
北宋と明代に「自分は皇帝ではないが、皇帝の父になった人」を、「皇伯」「皇叔」と呼ぶべきという説があった(濮議、嘉靖大礼の議)240426

司馬と牛の話

司馬叡(東晋の初代皇帝)を、曹魏の牛金の子孫とするのは「北魏書」に見える悪口ですけど、
北宋で『資治通鑑』をつくった司馬光の性格を嫌って、蘇東坡(蘇軾)は、「司馬牛!司馬牛!」ってけなしてる(蘇轍『龍川別志』、宋蔡絛『鐵圍山叢談』)

漢にかえれ

劉備は「漢室復興」を叫び、いまだに中国の人は「漢字」「漢服」「漢民族」と言いますが、
「漢にかえれ」は生命力の強いスローガンで、
・中唐の韓愈・柳宗元(漢代の文、古文復興)
・明末清初、清代の考証学(漢学)
などセーブポイントにされがち。他にもありそう

四部分類と大学の専攻

大学の専攻「文史哲」と前近代中国「経史子集」は噛み合わなくて、12通りの組み合わせがある。先行研究・自分の研究がどの枠に入るのか位置感覚がほしい
大学の「史」学は四部分類「史」と違う。同じ文字だから混乱する。Philosophyを「理学」と翻訳していたら悲劇だった(経学とさらに混乱する)


春秋は過去の記録で、史部に近しい(史部の設定は魏晋期なので、春秋の成立より遅いが)。春秋を経部の書(経書)にするのは儒学の作為でしょうが、春秋の伝の学問(経学)を、近代の史学で退けるのも違和感。
中華の食材をフランスのシェフに調理させ「和食として不味い」と評するデタラメ感?

朱子学・陽明学は、学問のなかで「理」という語を使うから「理学」と言われます。「宋明理学」という言い方もある
近代日本でPhilosophyの訳語を定めるとき「理学」案もあったが「哲学」で落ち着いた。でも、「物理学」「心理学」などで生き残りました(物の理学、心の理学)

別の背景(時代・土地・文化)の概念を翻訳するとき、既存の言葉と同じにすると、連想しやすく分かりやすいが混同される。既存の言葉と分けると、なじみづらいが厳密性と異質性は保たれる。
「文学」「史学」は連想・混同されやすい
「哲学」はなじめないが、厳密性が残った

大学院生が研究を語ること

大学院生は研究成果を学術論文で示すべき、というのは本当にそうです。言いたいことがあれば論文を書け、というのはその通りです。
論文のなかでは、先行研究の整理と批判をします。言いたいことは実際のところ先行研究の批判を通じて浮かび上がってくるものですし、他の人が論文を読んでもやはり同様に問題意識が浮かび上がってくるように表現を工夫すべきでしょう(思考回路を脚色し、着想のウソを書けという意味ではないです。かといって先行者を批判してやり込めるために、恣意的なつまみ食いや強引な接続、文脈の捏造をするのも違います)。

ただし、論文で言及できる先行研究の範囲は、限定的なものにならざるを得ません。元来、先人の仕事を踏まえた上で研究がスタートするわけですが、「そもそもなぜ研究を始めたのか」「どんな興味からこの研究に至ったか」などの肉声を書けば、論文の中では場違い感が出ちゃいます。冗長になって、学術的な成果としての論文の有用性が下がるし、エッセイですか?と首をかしげられます。投稿規定の文字数にも収まりません。

すでに研究を成した先生たちの肉声は、大学の講義のあいまのつぶやき、一般向けの講演会の質疑応答で漏れたり、一般書(新書や選書)のあとがきに忍ばせてあったりします。「ああ、その入口や動機があったから、こんな研究になったのか」という体温・手触りが分かると、戦闘的で防備ガチガチの学術論文ですら、スッと読み通しやすくなる場合があります。
研究者の仕事が世間一般に共感を持って受け入れられ、おもしろがられるのは、こういった研究の背景やルーツ、先人の仕事に対するエッセイ調の問題意識であったりする。

ひるがえって、ぼくたち大学院生は、ろくに論文すら完成していないのだから、そういった肉声をこぼすのはハシタナイ行為ですし、アカデミズムで就職をするならば絶対に不利になるでしょう。しかし、敢えて脇を甘くして「研究を始めるのっておもしろそう」と不注意にも発信する大学院生がいてもいいのではないか。
どこにどのように繋がるか分かりませんが、研究の仲間(年齢の上下を問わない)が増えるのは楽しいし、自分が一般書などのかたちで研究成果をまとめたとき、潜在的な読者になって頂ける方が増える可能性はゼロではないでしょう。ただし、そのような功利的な戦略があるのではなく、ただ、書きたいから書く、吐き出したいから吐く、ということを、ついウッカリやっているのですが。240430

陳寿本文のほうが内容が豊か

陳寿本文は、簡潔でドラマチックではない(裴松之注のほうがドラマチック)という指摘を聞くけれど、
ちょっと読み方を変えると、陳寿本文のほうが緊張感がすごくて、読み応えがあります。西晋への配慮、同時代の功臣への配慮、蜀漢への敬意のにじませ

『春秋』のちょっとした文字づかいの違い(恐らく大半は、たいした意図はなく、もとの資料を漫然と書き写しただけ)に、ものすごく複雑な意図を探るのが中国の歴史記録の読み方。
陳寿はちょっとした文字づかいの差異に、全身全霊、政治生命&リアル生命を賭けてます。裴松之注よりもドラマチック

陳寿の文は淡々としているので、事実に近く、史料批判への防御力が高い(偏向が少ない)、というのは、あえて二項対立的にいうならば「誤読」だと思います。240510

『テクストの誘惑/フィロロジーの射程』より

『テクストの誘惑/フィロロジーの射程』
amazonで「フィロロジー」と検索して出てきたので買って読みました。2012年の本なので手に入りにくいかも知れません。13人の人文学の専門家が、この抽象的なタイトルに関わりがありそうなかたちで、各分野の話をしている入門書。アンソロジーです。

隣接分野の学者に説明する方法

学者のアンソロジーで勉強になるのは、ある専門家が「別分野(隣接分野)の専門家」に分かるように研究内容を説明する方法。 ぼくは先週、学振DC2を初めて書いたんですが、別分野の専門家に伝わる文章ってどんなだろう?というのをずっと考えました。
・中学生・高校生に分かる
・この分野のファン、一般の読者、好事家に分かる
とは別の書き方があるはずです。
読み手も研究者なのだから、説明を省けることがあるはずだ。反対に、読み手が研究者だからこそ、別の研究者たちの研究対象との差異を浮かび上がらせ、詳しく書かねばならないことがあるはずだ。
この「別分野(隣接分野)の専門家」という読者の設定は、じつは渡邉義浩先生(主編)『全譯三國志』が取っている立場なのです。※聞いたところによると
同業者というか、同業他社(他者)というか、に伝わるための文章づくりの参考例として『テクストの誘惑/フィロロジーの射程』は勉強になりました。

歴史書や語録はどこまで真実か

三国志や注釈に引用された歴史書に、英雄たちの発言が記録されています。曹操の「私が他人を裏切っても、他人に私を裏切らせまいぞ」みたいなやつです。
「本当にこのとおりに言ったのか?」は、裴松之が拘っている問題です。
この問題は、複数の階層に分かれています。
・一言一句、語尾までその通りなのか?
・大体の意味は合っているが、省略や文章語にするためのアレンジがあるのか?
・そもそも、その類いの発言がまったくないのか?
歴史書の虚実を論じるとき、どのレベルの「実」を求めて、どのレベルの「虚」を討つのか。

同じような話を大学院の授業のなかで見聞きするんですけど、『論語』『朱子語類』の言葉は、孔子や朱子がそのまま言ったのか。書き留めることが可能なのか(テープレコーダーもないのに)。書き留めた弟子の聞き違いじゃないのか。口語と文章語の壁はどのように越えるのか。
虚実の判定のみならず、『論語』『朱子語類』を現代日本語訳に翻訳するときに、これらをどのような書物と捉えるかの態度が現れます。「先生がこんな発言をした」という箇条書きのようなメモなのか、いきいきとした肉声を写し取ったものなのか。箇条書きのメモなのに、鼻息がかかるような言葉にすると変テコだ。肉声のつもりで編纂されたのに、抽象化した文章語でまとめるのも台無しにする。

『論語』『朱子語類』が編纂されたときに実際にどうであったか/途中でどの程度の編集の手が入ったか/それが学派(読者としての学統)のなかでどのような書物として読まれて理解されきたか/学統の末端(現代に学ぶもの)としてこれらの書物をどのように認識するか。これらをすべて消化し、テキストに対する立場を定めてはじめて、日本語訳の語調が決まるんですよね。

事例が戻っちゃいますけど、裴松之注の地の文を翻訳するとき、絶対に丁寧語を使うのは、劉宋の文帝に命令されて書いた注釈なので、かりに裴松之が史料批判(記述の真偽判定)をしていても、「~なのだ」「~である」みたいな現代の学者の論文のような口調になるはずがない、というのが『全譯三國志』の[現代語訳]に反映されています。

『三国志』なんかどうでもいいじゃんとか、もうちょっと荒々しい立場から『論語』『朱子語類』は内容(教訓)が分かればよいのだから、語尾なんて関係がないよ、という立場もあるでしょうが、この問題は『聖書』とか『コーラン』に載っている言葉をどのように読むのかに繋がるので、蔑ろにしてはいけないと思います。たまたまぼくが、『三国志』や『朱子語類』を読む分野の大学院生だったから、「語尾なんてお好きにどうぞ」と言われそうなだけで、『聖書』『コーラン』だったら、適当にやっていいはずがない、というのは恐らく現代日本でも広く伝わると思います。直感的に。
史実性(実際にそのように言ったのか)、どのように記録され編集されて伝播したか、それをどのような態度で読むべきか。

善意の校閲者が、本来の姿を失わせる

古い時代の歴史記録や文学作品は、書いた当人の直筆は残っていません(残っていても本物だと判定するのは学術的にはほぼ無理でしょう)。
引用と整理・整理、書き写しや版木の作成などを経由するので、「時代の淘汰圧」を勝ち抜いた書物は、かなり「読みやすく」なっています。なぜならば、明らかなミスがあった場合、途中で修正されるから。歴代の(善意の)校閲者がたくさん介在します。途中で、書き写しや版木の系統が分岐して、誤りが一人歩きして「成長」する場合がありますが、国家権力や学者、あるいは出版業者(権力と権威があり、あるいは人手とお金をかけられる主体)によって整理され、悪い系統のテキストは根絶やしにされたり、より整合性の高い正規ルートに引き戻されたりします。

ぼくが読んだ感覚だと『詩経』の鄭玄注は後半にいくほど「読みにくく」なりました。最初のほうの鄭玄注は、異様に「読みやすい」のです。これは、鄭玄の学説の難易度が変わったとか、表現力(文章力)が変わったのではなくて、前半のほうが多くの善意の校閲者の手を経てきて、文が整えられてきたからだと思います。ロジカルに読むと、この文字の並びはおかしいよねとか、ここは表面的に見ただけでも明らかに矛盾があるよねといった文は、削り取られていきます。もしかしたら鄭玄自身が、誤りや矛盾を含めた注釈を付けていたかも知れないし、意見がブレていたかも知れないのに。
「鄭玄ほんらい」の学説は、どのようなものであったか。


前掲『テクストの誘惑/フィロロジーの射程』では、平安時代に唐に入った日本人が作った報告書が、明らかに唐の実際の地理や都市の数と違うのに、なんでこんなデタラメな報告をしたのか?が問題とされていました。数字を操作するには、報告内容の誇張、あるいは国威発揚などの狙いは推定されますが、孤立した交流・報告書ではないから、明らかに事実と異なるとバレバレ。
こういった報告書は、歴代の校閲者の手を経ると、現実的にあり得るように、字の書き間違え・読み間違えで説明が付けられて、修正されてしまう。「この『七』は『十』のことだろうな。それならば実態に近づく」みたいな。

『テクストの誘惑/フィロロジーの射程』で、『大和物語』という作品に、明らかにセオリーから外れた和歌が採録されている異本がある、という事例が紹介されていました。現代日本の研究者が編纂した『日本古典文学大系』『新編日本古典文学全集』では、セオリーに合致する和歌が載っている。しかし、セオリーから外れた和歌を排除して、それで満足してよいのか、という疑問が立つ。
その和歌は、作中で即興で作られたという扱いである。「即興で作ったので、うっかり作中人物がセオリーを外した」という物語が先にあったけれども、書き写されていくうちに、「ここ間違ってますよ」と修正が加えられ、セオリーに合うテキストが、元来のかたちを駆逐した可能性がある。作中で明らかに、「セオリーから外れてるぞ、恥ずかしいやつめ」という応酬があれば、セオリー外しのテキストが保存されるだろうけど、歌いっぱなしにされると、元来のかたちは分からない。
ただし、書き写す人(伝言ゲームの途中走者の誰か)がセオリーを正しく理解していなかっただけかも知れない。文学上の約束ごとや格言を正反対に覚えていることはよくある。一字ずつ見比べるのが面倒なので、「自動運転」でミスって、途中でセオリー外れの系統が生まれた可能性もある。だから、「セオリーに合わないテキストがより元来の姿を伝えている」とは言えない。

テキストは、整っていれば正しいというわけではないし、整っていなければ原初的な姿を伝えている、とも言い切れない。
文献学(フィロロジー)はおもしろいですね。
私たちはこの問題を、最初に『三国志演義』を通じて経験するわけですが、その問題は、儒家経典の経書とその学説(注釈)も同じだし、もちろん歴史書も同じですし、隣接分野では、平安時代に中国に渡った日本人留学生とか、『大和物語』にも事例を見つけることができるというお話でした。240512

漢文に「違和感」がある場合

漢文も、人が書いたものなので「上手い」「ここは下手」「途中で書き手が変わった?」という言外のささやきのようなものが聞こえてきます。
ぼくの場合は、陳寿と裴松之注のあいだを往復してめぐることで、「この文は違和感があるかも?」などの引っかかりを感じるようになりました。そこから問いを立てて調べ、テキストの成り立ちを考えることができたり、単なる思い過ごしだったりします。
漢文について第六感のようなアンテナを張るには、その前提として、「ある程度、そのジャンルを読み慣れている」ことが必要でしょう。端的に言えば、「ここが読めないのは、自分の能力不足なのか、あるいは漢文そのものに瑕疵?があるのか」を区別できないといけません。全編を通じて文意や流れがさっぱり分からないのに、引っかかりを論じても仕方がないでしょう。
ぼくの場合、「自分がすんなり読めたらよい漢文、すんなり読めなければ問題があることが疑われる」という目利きの境地には遠いですが、「ここで引っかかるのは、自分の漢文の力の不足なのか(調べ物をして追いつくべきなのか)、それとも文そのものに起伏があるのか」は、なんとなく区別して感じ取れるようになってきたような?という感じです。めちゃ微妙ですが、こうやって積み重ねていくしかないのかなと。240512

漢文の翻訳を直接習うこと

早稲田大学三国志研究会で、渡邉義浩先生の全譯シリーズを参考にして漢文を学ぼうっていう話も出てて。ぼくは「全譯シリーズの編者」&「サークルのメンバー」を兼ねているので、付き合ってもらえる範囲で手伝いたいなって思いました。

翻訳者が悩んだプロセスは、翻訳書に載りません(外国語から日本語、古典から現代語も同じ)。明らかに意味が定まらないときは訳注を残せますが、最後の手段。本が分厚くなり過ぎないように、蛮勇で推断せざるを得ない。
だからこそ、翻訳者の肉声が聞ける大学の講義、一般講座、読書会などが貴重。

東京の湯島聖堂の文化講座(一般講座)で、岩本憲司先生の『春秋左氏伝』の講義を聴いてきました。
月1回、第3水曜のお昼です。申し込みは直接現地でするしかないみたいですが、『春秋』に興味があるならば、絶対に行かないと!というチャンスだと思います
岩本憲司先生の『春秋左氏伝』の講座で、「ここは分かりにくい」という原文の箇所があり、中国・日本の先行する書物を参考にしながら、読み方・意味を定めていくっていう肉声を聞きました。岩本先生ですら、こうやって悩みながら読みを探っており、そのプロセスを聞けたのは超貴重な経験。240515

李贄(李卓吾)の「譙周」評

李卓吾の『蔵書』は、千年後に知己が現れるまで山中に隠蔵しておこうという名前の歴史書。かくす書、をさむる書。※書庫の目録ではありません
『蔵書』は、戦国末、秦から漢唐宋をへて元代までの歴史人物を評価基準によりアレンジしたもの。『続蔵書』は明代の人物だけを切り離したもの。

『焚書』巻四 雑述

明末の李卓吾が、蜀漢の譙周・姜維・費禕を論じた文が、『焚書』卷四 雜述にありました。人の資質は3種類あり、識(見識)、仁(才覚)、勇(胆力)だと。※『論語』子罕篇を踏まえる。
劉禅に降伏を勧めた譙周は、見識に勝ったので生き残った(民を生かすという社会的有用性において優れており、同様に裏切り者として評判の悪い呂不韋・李斯・馮道と同じタイプである)。姜維は胆力はあったが見識がないので、事業(魏の討伐、蜀漢の復興)に失敗して死んだ。費禕は才覚はあったが、才覚に釣り合う見識がないから、事業を達成できずにやはり死んだ(暗殺された)。見識・才覚・胆力をすべて備えているのは、太公望・管仲・張良でしたねと。

【原文】二十分識
有二十分見識、便能成就得十分才、蓋有此見識、則雖只有五六分才料、便成十分矣。
有二十分見識、便能使發得十分膽、蓋識見既大、雖只有四五分膽、亦成十分去矣。是才與膽皆因識見而後充者也。空有其才而無其膽、則有所怯而不敢;空有其膽而無其才、則不過冥行妄作之人耳。蓋才膽實由識而濟、故天下唯識為難。有其識、則雖四五分才與膽、皆可建立而成事也。然天下又有因才而生膽者、有因膽而發才者、又未可以一概也。然則識也、才也、膽也、非但學道為然、舉凡出世處世、治國治家、以至於平治天下、總不能舍此矣、故曰「智者不惑、仁者不憂、勇者不懼」。智即識、仁即才、勇即膽。蜀之譙周、以識勝者也。姜伯約以膽勝、而無識、故事不成而身死;費偉以才勝而識次之、故事亦未成而身死、此可以觀英傑作用之大略矣。三者俱全、學道則有三教大聖人在、經世則有呂尚、管夷吾、張子房在。空山岑寂、長夜無聲、偶論及此、亦一快也。懷林在旁、起而問曰:「和尚於此三者何缺?」餘謂我有五分膽、三分才、二十分識、故處世僅僅得免於禍。若在參禪學道之輩、我有二十分膽、十分才、五分識、不敢比於釋迦老子明矣。若出詞為經、落筆驚人、我有二十分識、二十分才、二十分膽。嗚呼!足矣、我安得不快樂!雖無可語者、而林能以是為問、亦是空穀足音也、安得而不快也!
《訓読》
二十分の見識有らば、便ち能く十分の才を成就し得たり。蓋し此の見識有らば、則ち只だ五六分の才料り有ると雖も、便ち十分を成す。
二十分の見識有らば、便ち能く十分の膽を發せしめ得て、蓋し識見 既に大なれば、只だ四五分の膽有るのみと雖も、亦た十分を成し去る。是れ才と膽とは皆 識見に因りて後に充つる者なり。空しく其の才有りて其の膽無くんば、則ち怯みて敢てせざる所有り。空しく其の膽有りて其の才無くんば、則ち冥行妄作の人に過ぎざるのみ。蓋し才膽 實に識に由りて濟せば、故に天下 唯だ識をば難と為す。其の識有らば、則ち四五分の才と膽のみと雖も、皆 建立して事を成す可きなり。然して天下 又 才に因りて膽を生かす者有り、膽に因りて才を發する者有り、又 未だ一概を以てす可からざるなり。然らば則ち識なるや、才なるや、膽るや、但だ道を學びて然りと為すに非ず、舉げて凡そ世に出で世に處し、國を治め家を治めて、以て天下を平治するに至り、總て此を舍つる能はず。故に曰く、「智者は惑はず、仁者は憂はず、勇者は懼れず(『論語』子罕篇)」と。智は即ち識なり、仁は即ち才なり、勇は即ち膽なり。蜀の譙周、識を以て勝る者なり。姜伯約は膽を以て勝るも、而れども識無く、故に事 成らずして身は死す。費偉は才を以て勝り、而れども識 之に次げば、故に事 亦た未だ成らずして身は死す。此れ以て英傑の作用の大略を觀る可きなり。三者 俱に全ければ、道を學びて則ち三教の大聖人の在有り、經世すれば則ち呂尚・管夷吾・張子房の在有り。

『焚書』巻五 読史

李贄(李卓吾)は、五代十国の馮道とともに、譙周を持ち上げます。西晋に蜀漢を差し出したことを批判されがちですけど、学識に基づいて、民を苦しみから救ったのだと。『焚書』卷五 讀史

《訓読》以て譙周・馮道の諸老に至りては、寧ろ祭器を受(さず)け晉に歸するの謗(そし)り、五季に歷事するの恥あるも、而れども無辜の民をして日々塗炭に遭はしむるに忍びず。要(かなら)ず皆 一定の學術有り、苟苟なる者に非ず。各々用に周たりて、總て辦事するに足る。彼の區區たる者 其の名實を選擇して俱に利する者にして之を兼せんと欲するも、なし得るや。此れ他無きも、名教 之を累(うれ)ふなり。
【原文】以至譙周、馮道諸老寧受祭器歸晉之謗,歷事五季之恥,而不忍無辜之民日遭塗炭,要皆有一定之學術,非苟苟者。各周於用,總足辦事,彼區區者欲選擇其名實俱利者而兼之,得乎?此無他,名教累之也。240516