いつか書きたい三国志

2024年夏の勉強メモ

『朱子語類』資治通鑑綱目の自著Q&A

朱子語類 -> 朱子二 -> 論自注書 -> 通鑑綱目
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說編通鑑綱目,尚未成文字。因言:「伯恭大事記忒藏頭亢腦,如摶謎相以。又,解題之類亦大多。」

『通鑑綱目』を編ずるを說くに、尚ほ未だ文字を成さず。因りて言ふ、「伯恭(呂祖謙)の『大事記』は忒て藏頭亢腦たりて、摶謎が如く相 以てす。又 解題の類ひ亦た大いに多たり」と。

問:「『正統』之說,自三代以下,如漢唐亦未純乎正統,乃變中之正者;如秦西晉隋,則統而不正者;如蜀東晉,則正而不統者。」曰:「何必恁地論!只天下為一,諸侯朝覲獄訟皆歸,便是得正統。其有正不正,又是隨他做,如何恁地論!有始不得正統,而後方得者,是正統之始;有始得正統,而後不得者,是正統之餘。如秦初猶未得正統,及始皇并天下,方始得正統。晉初亦未得正統,自泰康以後,方始得正統。隋初亦未得正統,自滅陳後,方得正統。如本朝至太宗并了太原,方是得正統。又有無統時:如三國南北五代,皆天下分裂,不能相君臣,皆不得正統。義剛錄作:「此時便是無統。」某嘗作通鑑綱目,有『無統』之說。此書今未及修,後之君子必有取焉。溫公只要編年號相續,此等處,須把一箇書『帝』、書『崩』,而餘書『主』、書『殂』。既不是他臣子,又不是他史官,只如旁人立看一般,何故作此尊奉之態?此等處,合只書甲子,而附注年號於其下,如魏黃初幾年,蜀章武幾年,吳青龍幾年之類,方為是。」又問:「南軒謂漢後當以蜀漢年號繼之,此說如何?」曰:「如此亦得。他亦以蜀漢是正統之餘,如東晉,亦是正統之餘也。」問:「東周如何?」曰:「必竟周是天子。」問:「唐後來多藩鎮割據,義剛錄云:「唐末天子不能有其土地,亦可謂正統之餘否?」則如何?」曰:「唐之天下甚闊,所不服者,只河北數鎮之地而已。」義剛錄云:「安得謂不能有其土地!」淳。義剛同

問ふ、「正統の說,三代より以下、漢・唐の如きも亦た未だ正統に純ならず、乃ち變中の正なる者なり。秦・西晉・隋の如きは、則ち統なるも正ならざる者なり。蜀・東晉の如きは、則ち正なるも統ならざる者なり」と。曰く、「何ぞ必ず恁地(かよう)に論ずるや。只だ天下 一と為し、諸侯 朝覲して獄訟 皆 歸せば、便ち是れ正統を得たり。其の正不正有りて、又 是れ他に隨ひて做し、如何に恁地(かよう)に論ずるや。始め正統を得ざるも、後に方に得る者有らば、是れ正統の始なり。始め正統を得るも、後に得ざる者有らば、是れ正統の餘なり。秦初の如きは猶ほ未だ正統を得ざるも、始皇 天下を并すに及び、方(はじ)めて始めて正統を得たり。晉の初も亦た未だ正統を得ざるも、泰康(武帝司馬炎)より以後、方めて始めて正統を得たり。隋初も亦た未だ正統を得ざるに、陳を滅すより後、方めて正統を得たり。本朝(宋)の如きは太宗(北宋の二代趙匡義)太原を并はせ了はるに至り、方めて是れ正統を得たり。又 統無き時有り。三國・南北・五代の如きは、皆 天下 分裂し、相 君臣たる能はざれば、皆 正統を得ず。『義剛錄』作る、「此の時 便ち是れ無統なり」と。某 嘗て『通鑑綱目』を作り、『無統』の說有り。此の書 今 未だ修するに及ばざるも、後の君子 必ず焉を取るもの有らん。溫公 只だ年號を編みて相 續かしめんと要し、此らの處、須らく一箇を把りて(正統な国を1つ選び出して)『帝』と書き、『崩』と書き、而して餘に『主』と書き、『殂』と書くべし。既ち是れ他(当事者の国)の臣子にあらず、又 是れ他の史官ならず、只だ旁人 立ちて一般を看るが如ければ(当事者でなければ)、何の故に此の尊奉の態を作るや。此らの處、合に只だ甲子と書きて(年号でなく干支で年を表記し)、而して附して年號を其の下に注すべし。魏の黃初幾年,蜀の章武幾年,吳の青龍幾年の類が如くせば、方に是と為す」と。

三国時代は「無統」なので、三国いずれの年号を記すこともなく、本文ではただ十干十二支で年を表現し、注釈をぶらさげて三国の年号を表記すればよい。


又問:「南軒謂漢後當以蜀漢年號繼之,此說如何?」曰:「如此亦得。他亦以蜀漢是正統之餘,如東晉,亦是正統之餘也。」問:「東周如何?」曰:「必竟周是天子。」問:「唐後來多藩鎮割據,義剛錄云:「唐末天子不能有其土地,亦可謂正統之餘否?」則如何?」曰:「唐之天下甚闊,所不服者,只河北數鎮之地而已。」義剛錄云:「安得謂不能有其土地!」淳。義剛同

又 問ふ、「南軒(張栻)謂ふらく漢の後 當に蜀漢の年號を以て之に繼ぐ。此の說 如何」と。曰く、「此の如きも亦た得たり。他も亦た蜀漢を以て是れ正統の餘とし、東晉の如きも、亦た是れ正統の餘とす」と。問ふ、「東周は如何」と。曰く、「必ず竟に周は是れ天子なり」と。問ふ、「唐の後來 多く藩鎮 割據す。『義剛錄』云はく、唐末の天子 其の土地を有つ能はず。亦た正統の餘と謂ふ可きや否やと。則ち如何」と。曰く、「唐の天下 甚だ闊く、服せざる所の者は、只だ河北の數鎮の地のみ。『義剛錄』云ふ、安にか得て其の土地を有つ能はずと謂ふや」と。(記録者)淳。義剛 同じ。

溫公通鑑以魏為主,故書「蜀丞相亮寇」何地,從魏志也,其理都錯。某所作綱目以蜀為主。後劉聰石勒諸人,皆晉之故臣,故東晉以君臨之。至宋後魏諸國,則兩朝平書之,不主一邊。年號只書甲子。

溫公の『通鑑』魏を以て主と為し、故に「蜀の丞相亮 寇す」と書す。何地(なん)ぞや、魏志に從へばなり。其の理 都て錯なり。某 作る所の『綱目』は蜀を以て主と為す。後に劉聰・石勒の諸人、皆 晉の故臣なり、故に東晉 以て之に君臨す。宋(劉宋)・後魏(北魏)の諸國に至り、則ち兩朝 平しく之を書し、一邊を主とせず。年號 只だ甲子と書く。

朱子は、蜀漢を「無統」とする説に同意しながらも、司馬光『資治通鑑』が魏を主とすることを批判し、それを逆転させた。それは、魏(曹操)が漢臣だったという経緯に基づく。「蜀漢が曹魏よりも正しい」という理由ではないことに注意が必要。ゆえに、劉聡・石勒(前趙・後趙)は晋臣として扱って、『資治通鑑綱目』では東晋の年号を用いるという。劉宋(南朝宋)に至り、一度も北魏を従えたことがないため、機械的に年号を十干十二支で表す。ここに「正しさ」の判定はない。


問綱目主意。曰:「主在正統。」問:「何以主在正統?」曰:「三國當以蜀漢為正,而溫公乃云,某年某月『諸葛亮入寇』,是冠履倒置,何以示訓?緣此遂欲起意成書。推此意,修正處極多。若成書,當亦不下通鑑許多文字。但恐精力不逮,未必能成耳。若度不能成,則須焚之。」大雅

『綱目』の主意を問ふ。曰く、「主は正統に在り」と。問ふ、「何を以て主 正統に在りとす」と。曰く、「三國 當に蜀漢を以て正と為し、而れども溫公 乃ち云ふ、某年某月『諸葛亮入寇』と。是れ冠履 倒置せば、何を以て訓を示さん。此に緣りて遂に意を起して書を成さんと欲す。此の意を推すに、修正する處 極めて多し。若し書を成さば、當に亦た『通鑑』の許多(あまた)の文字を下らざるべし(長大な記述に劣ることはない)。但だ精力 逮ばず、未だ必ず能く成さざるを恐るるのみ。若し度りて能く成さずんば、則ち須らく之を焚くべし」と。(記録者)大雅

『資治通鑑綱目』を一念発起して書いた理由は、諸葛亮が「入寇」扱いされているからだ。だから蜀漢を「正」とした。しかしこの歴史観・価値判断の基準ですべてを書き切ることに対しては、心が折れている。


問:「宋齊梁陳正統如何書?」曰:「自古亦有無統時。如周亡之後,秦未帝之前,自是無所統屬底道理。南北亦只是並書。」又問:「東晉如何書?」曰:「宋齊如何比得東晉!」又問:「三國如何書?」曰:「以蜀為正。蜀亡之後,無多年便是西晉。中國亦權以魏為正。」又問:「後唐亦可以繼唐否?」曰:「如何繼得!」賜

問ふ、「宋齊梁陳 正統は如何に書すか」と。曰く、「古より亦た無統の時有り。周 亡ぶの後、秦 未だ帝せざるの前の如し。是より統屬する所底(の)道理無し。南北も亦た只だ是れ並書す」と。又 問ふ、「東晉 如何に書すか」と。曰く、「宋齊 如何ぞ東晉に比し得るや(東晋は正統にできる点が宋斉梁陳と異なる)」と。又 問ふ、「三國 如何かに書すか」と。曰く、「蜀を以て正と為す。蜀 亡ぶの後、多年無くして便ち是れ西晉なり(蜀漢が滅びてから年数を隔てずに魏が滅んだ)。中國も亦た權に魏を以て正と為す(蜀漢の滅亡から魏晋革命までのあいだは魏を正統としてよい)」と。又 問ふ、「後唐も亦た以て唐に繼ぐ可きや否や」と。曰く、「如何んぞ繼ぐを得るや」と。(記録者)賜。

蜀漢について「入寇」というのは許せないが、何がなんでも魏がダメというわけではない。蜀漢滅亡から西晋成立までのあいだは、曹魏を「権(かり)」に正統とすることは是認される。「かわいた」正統観が感じられて、それは朱子もまた宋代の人間だからでしょう。蜀漢を押しのけて曹魏に軸足を置くという司馬光の記述に、局所的に反発したに過ぎない。
『資治通鑑綱目』で蜀が滅びた翌年は、本文に年号がなく、注に魏の年号(咸煕元年)・呉の年号(元興元年)を併記する。


綱目於無正統處,並書之,不相主客。通鑑於無統處,須立一箇為主。某又參取史法之善者:如權臣擅命,多書以某人為某王某公。范曄卻書「曹操自立為『魏公』」。綱目亦用此例。方子

綱目 正統無き處に於て、之を並書し、主客を相せず。通鑑 統無き處に於て、須らく一箇を立てて主と為す。某 又 史法の善き者を參取す。權臣 擅命するが如きは、多く書すらく某人を以て某王某公と為すと。范曄 卻りて書す「曹操 自立して『魏公』と為る」と。綱目 亦た此の例を用ふ。(記録者)方子

司馬光は強引に1つの勢力を「主」として主客を明らかにした。しかし朱子は、むりに主客の区別をつけなかった。権臣の自立・自称は、范曄の書き方に従った。


問:「武后擅唐,則可書云:『帝在房陵。』呂氏在漢,所謂『少帝』者,又非惠帝子,則宜何書?」曰:「彼謂『非惠帝子』者,乃漢之大臣不欲當弒逆之名耳。既云『後宮美人子』,則是明其非正嫡元子耳。」大雅

問ふ、「(則天)武后 唐を擅にせば、則ち書きて『帝 房陵に在り』と云ふ可し。呂氏 漢に在り、所謂『少帝』なる者は、又 惠帝の子に非ず。則ち宜しく何(いか)に書くべきか」と。曰く、「彼『惠帝の子に非ず』と謂ふ者は、乃ち漢の大臣 弒逆の名に當たるを欲せざるのみ。既に『後宮の美人の子』と云ふ、則ち是れ明らかに其の正嫡元子に非ざるのみ」と。(記録者)大雅。

或問武后之禍。曰:「前輩云,當廢武后所出,別立太宗子孫。」曰:「此論固善。但當時宗室為武后殺盡,存者皆愚暗,豈可恃?」因說:「通鑑提綱例:凡逆臣之死,皆書曰『死』。至狄仁傑,則甚疑之。李氏之復,雖出仁傑,然畢竟是死於周之大臣。不柰何,也教相隨入死例,書云,某年月日狄仁傑死也。」大雅。百六

或ひと(則天)武后の禍を問ふ。(朱子)曰く、「前輩(だれ?)云ふらく、當に武后の出づる所(武后の子)を廢し、別に太宗の子孫を立つべし」と。曰く、「此の論 固に善し。但だ當時の宗室 武后の殺し盡すところと為り、存する者 皆 愚暗なり。豈に恃む可きか」と。因りて說く、「通鑑 綱例を提げて、凡そ逆臣の死するや、皆 書して『死』tと曰ふ。狄仁傑(則天武后に信任された)に至り,則ち甚だ之を疑ふ。李氏(唐帝国)の復は、仁傑に出づると雖も、然れども畢竟 是れ周の大臣に死す。奈何とせざれば、也(また) 相 隨ひて死の例に入れしめ、書して、某年月日に狄仁傑 死すと云へ」と。(記録者)大雅、百六。240705

「『三国志演義』では」話法について

三国志の解説や説明の本で、「三国志演義では~」って言及が挟まっちゃうのって、複雑な事情があると思うんですよね。研究者自身が三国志演義から三国志に興味を持ったとしても、好きすぎてうっかり書いちゃうほど迂闊じゃないと思うんです。
読者が分かりやすいようにっていうサービスであることが多い気がします。自分でサービスするのか、出版社・編集者の助言でサービスするのか、内面化された他者の助言に従うのか、パターンはいろいろでしょう。

なんなら、日本の三国志研究者が出会ってのめり込んだ三国志って、三国志演義そのもの(白話小説)ではないし、その翻訳でもないと思うんです。三国志演義から翻訳や派生や魔改造をほどこされた日本の諸作品がさきに頭にあって。本を書くとき、「三国志演義では~」と言及するためにわざわざ三国志演義を確認し直すのかも知れません。うっかり(責任ある仕事ではなく三国志オタクとして)書いちゃうならば、横山光輝三国志では~とか、三國無双2では~って書き方になります。流通した三国志演義には大きく2つのバージョンがあって、自分が創作物から得た知識は、どちらのバージョンの系統に属するのか?は、裏取りをしないと恐くて書けません。翻案、翻訳、インスピレーション、二次創作がたくさんある三国志演義だからこその不便さですね。
あと、三国志の研究者といっても、研究対象やスタンスがいろいろです。三国志演義の研究者ももちろんたくさんいます。三国志演義の研究者に、歴史の解説を依頼するという狭義のミスマッチもあります。その場合は、読者サービスではなくて、そのひとの研究者としてのスタンスに由来して、三国志演義では~という言及が随処に挟まるのは、やむを得ないことでしょう。歴史の研究者を差し置いて歴史の解説をするなんてできないから、自分の専門を土台にして言える範囲で言いますが、とことわりを入れたくなるのは専門家なりの良心ではないでしょうか。

ちなみにここ10年くらい、三国志演義をベースにした三国時代全体を通して描く作品が、それ以前に比べると弱っている印象。それは、すぐれた作品が出尽くしたのかも知れないし、よりショートに消費したいという時代の雰囲気を受けたものかも知れません。すると、「三国志演義では~」というかつての読者サービスがノイズになっちゃうのかも知れません。
先人の歴史書の翻訳、解説した書籍やネット記事により、例外的に歴史にアクセスしやすくなったので、三国志演義の系統から離れた三国志への入口が増えているためです。いきなりネットで歴史書の記述にピンポイントで到達できるので、環境が変わったのかも知れません。
ぼくは、真・三國無双3からです。でも「無双キャラでは~」と論文に書くわけにはいかないから、どうしても人物像に言及したいときは、無双が三国志演義を参考にしてないか複数バージョンを調べて、満を持して「三国志演義では~」と言うでしょう。240625