いつか書きたい三国志

何焯『義門読書記』春秋に関する箚記(巻九~巻十二)

訓読は、一読したのみで反射神経で作っています。誤りが多く含まれる可能性があります。自分にとって「おもしろい」箇所がないか、スキャンするために作ったページです。テキストはインターネット上で拾ったものなので、これも正確でない可能性があります。250203
自分の関心に照らして「おもしろい」とていねいに訓読し、いまの関心に限ってあまり「おもしろい」と感じられない場合は、(だれかにとって)重要な條でも、訓読を省いていることがあります。250207

『義門読書記』巻九 左氏春秋上

隱公

春秋之作,曷為不托始於惠公而始於隱公?曰:春秋,誅亂臣賊子之書也。隱公,被弑之君也。
春秋の作,曷為れぞ始めを惠公に托せずして隱公より始むるか。曰く、春秋は、亂臣賊子を誅するの書なり。隱公は,被弑の君なり。

三年將立州吁,乃定之矣。桓公亦非適子,故云。
三年、將に州吁を立てんとし,乃ち之を定む。桓公も亦た適子に非ず,故に云ふ。

四年,石碏使告于陳,拒守之策必具。
四年,石碏 使して陳に告ぐ,拒守の策 必ず具はれり。

六年,往歲鄭伯請成于陳,陳侯不許。周、鄭交惡,而陳桓公方有寵於王,故不許鄭成。
六年,往歲 鄭伯 成を陳に請ひ,陳侯 許さず。周・鄭 交々惡み,而も陳桓公 方に王に寵有り,故に鄭成を許さず。

鄭伯如周,始朝桓王也。鄭既結怨於陳,又懼王之將討之也,故朝周。
鄭伯 周に如き,始めて桓王に朝すなり。鄭 既に怨を陳に結び,又 王の將に之を討たんとするを懼るなり。故に周に朝す。

陳及鄭平。陳既不失王寵,又得鄭援。七年。
陳及(と)鄭 平らぐ。陳 既に王の寵を失ひ,又 鄭の援を得たり。七年。

鄭公子忽在王所,至。乃成昏。鄭既朝周,陳遂復與鄭為好,且結昏以固其交。與忽為昏,忽在王所,使王知昔之惡、今之好,皆為王也。
鄭の公子忽 王の所に在り,至る。乃ち昏を成す。鄭 既に周に朝し,陳 遂に復た鄭と好みを為し,且つ結昏して以て其の交を固む。忽と昏を為し,忽 王所に在れば,王をして昔の惡、今の好を知らしむ。皆 王が為なり。

八年,鄭伯以齊人朝王,禮也,猶守卿士之舊職。
八年,鄭伯 齊人を以て王に朝するは,禮なり,猶ほ卿士の舊職を守るがごとし。

十年,鄭師入郊。注以郊為遠郊,吾疑之。郊,周邑也。昭二十三年,晉人圍郊。意鄭既伐宋,復命于王,且將請討蔡、衛、陳,故身自入見,駐師于郊也。
十年,鄭師 郊に入る。注に郊を以て遠郊と為す,吾 之を疑ふ。郊とは,周邑なり。昭二十三年に,晉人 郊を圍ふと。意は鄭 既に宋を伐ち,王に復命し,且に將に蔡、衛、陳を討つことを請ひ,故に身自ら入見し,師を郊に駐むなり。

『左伝』の文と杜預注。ネタ1。 秋七月庚寅、鄭師入郊、猶在郊(鄭師還駐兵於遠郊)。宋人衞人入鄭(宋衞奇兵、承虛入鄭)。蔡人從之伐戴(從宋衞伐戴也)。


十一年,潁考叔取鄭伯之旗蝥弧以先登,子都自下射之,顛。
子都殺潁考叔,而鄭莊不能討,何也?豈惜其材耶?後之詛也,其特以安靜軍心耶?
子都 潁の考叔を殺し,而れども鄭莊 討つ能はざるは,何ぞや。豈に其の材を惜むや。後の詛なり,其れ特に以て軍心を安靜するか。

「詛」は、のろふ・ちかふ・ちかひ・そしる・うらむ・はばむ。どの意味か。


乃與鄭人,鄭師先登故。
乃ち鄭人と與にす。鄭師 先に登るが故なり。

與鄭人蘇忿生之田:溫、原、絺、樊、隰郕、欑茅、向、盟、州、陘、隤、懷。其田去鄭遠甚,鄭即力足以服之,亦不能越國,以鄙遠也,
其の田 鄭より去り遠きこと甚だし。鄭 即ち力めて以て之を服するに足るも,亦た國を越ゆる能はず、鄙遠たるを以てなり。

為其少故也。吾將授之矣。幾事不密則害成,授則授之,何為漏言?
幾事 密ならざれば則ち害 成り,授くれば則ち之を授く。何為れそ漏言する。

羽父懼,反譖公于桓公而請弑之。隱之攝政,已踰十年,桓公不為少矣,貪權懷寵,不早歸政,于是啟羽父之邪謀,又不能明告于國,執而戮之,進退無據,身死人手,非不幸也。
隱の攝政,已に十年を踰え,桓公 少為らず,權を貪り寵を懷き,早く政を歸さず,是に于て羽父の邪謀を啟するも,又 國に明告する能はず,執りて之を戮す。進退 據る無く,身ら人手に死す。不幸に非ざるなり。

隠公が殺されたことは自業自得である。冷たい。


桓公

三年,惡芮伯之多寵人也,似隋之獨孤后。
隋の獨孤后に似たり。

五年,王奪鄭伯政,至是并奪其在卿士之職。
五年,王 鄭伯の政を奪ひ,是に至り其の卿士の職に在るを并奪す。

鄭子元請為左拒以當蔡人、衛人,為右拒以當陳人,所謂攻瑕則堅者亦瑕也。季梁亦曰:偏敗,衆乃攜矣。鄢陵之役,晉之勝楚者亦然。
所謂 瑕を攻むれば則ち堅き者も亦た瑕つくなり。季梁も亦た曰く、「偏敗は,衆の攜なり。鄢陵の役に、晉の楚に勝つも亦た然り」と。

季梁は、上古の人、陽朱の友(『列子』力命)。あるいは、明の銭士鰲センシゴウ。
ここではどちらでもなく、『左伝』桓公 伝八年、「季梁曰。楚人上左。君必左。無與王遇。且攻其右。右無良焉。必敗。偏敗。眾乃攜矣。」を踏まえた『左伝』内部の参照。


祝聃射王中肩。射王中肩,而不書王師敗績、于某不忍言也。
王を射て肩に中たるも,而れども「王師 敗績す」と書かず,某に于て言を忍ばざるなり。

標点本に従って点を切った。これとは異なり、「而不書王師敗績于某、不忍言也」と点を切って、「王師 某に于て敗績すと書かず、言を忍ばざるなり」のほうが良いか。ネタ2


北戎伐齊,齊侯使乞師于鄭,以鄭嘗大敗戎師故。六年。
以て鄭 嘗て戎師に大敗する故なり。六年

鄭忽以其有功也怒,棄禮而驕,宜其不終也。
禮を棄てて驕たり,宜しく其れ終らざるべし(よい死に方をしない)。

八年,所以怒我而怠寇也,田單以是破燕。
田單 是を以て燕を破る。

十一年,君次于郊郢,以禦四邑。我以銳師宵加于鄖,唐太宗中分麾下,竟擒夏王。
唐の太宗 麾下を中分し,竟に夏王に擒はる。

十二年,楚人坐其北門,而覆諸山下。南門,楚軍所在。絞人既敗,必走北門,故移軍斷其路。
南門は,楚軍の在る所なり。人を絞して既に敗れれば,必ず北門に走る。故に軍を移して其の路を斷つ。

孤之罪也。皆免之。莫敖既死,群帥自可宥。十三年。
莫敖 既に死せば,群帥 自ら宥す可し。十三年なり。

十五年,許叔入于許,因鄭亂,
鄭の亂るるに因る(鄭に因りて亂る)

將納厲公也。同盟故。
同盟せるが故なり。

荘公

六年,請殺楚子。殺亦何益?
殺して亦た何の益あらん。

八年,姑務修德,以待時乎。喪心。
心を喪ふなり。

十三年,齊人滅遂而戍之。遂,虞後也。陳胡公,遂之小宗。齊人滅遂,故篡齊者即為陳氏。
遂は,虞(虞舜?)の後なり。陳の胡公なり。遂の小宗なり。齊人 遂を滅し,故に齊を篡する者は即ち陳氏と為る。

十四年,諸侯伐宋,齊請師于周,討背盟,而挾天子以臨之。
盟に背くを討ち,而して天子を挾みて以て之に臨む。

厲公入遂,殺傅瑕,懲祭仲也。晉惠公亦殺里丕。
厲公 遂に入り,傅瑕を殺す,祭仲を懲すなり。晉の惠公も亦た里・丕を殺す。

十八年,虢公、晉侯、鄭伯使原莊公逆王后于陳,至。實惠后,亦鄭武公娶于申曰武姜之例。
亦た鄭の武公 娶于申曰武姜之例。

公追戎于濟西,不言其來,諱之也。魯自隱公二年即與戎為潛之會,及齊桓始伯之明年,經即書追戎濟西,此五伯攘夷之明效。戎以好來,莊恃中國之大援,絶不與通,復追而蹙之,故傳曰:不言其來,諱之也。
公 戎を濟西に追ひて,其の來たると言はざるは,之を諱むなり。魯 隱公二年より即ち戎と與に潛の會を為し,齊桓始伯の明年に及ぶ,經 即ち戎を濟西に追ふを書き,此れ五伯 攘夷するの明效なり。戎 好を以て來たり,莊 中國の大援を恃みて,絶えて與に通ぜず,復た追ひて之を蹙す。故に傳に曰く、其の來たると言はざるは,之を諱めばなりと。

十九年,蘇子奉子頽以奔衛,衛師、燕師伐周。衛惠公之復入也,王人子突救衛以佐黔牟,衛方怨王,故子頽以衛師伐周。
衛の惠公の復た入るや,王人子突 衛を救ひて以て黔牟を佐け,衛方怨王,故に子頽 衛師を以て周を伐つ。

二十年冬,齊人伐戎。戎居北方,議齊之後,不先翦之,未可以及遠也。故自是年書齊人伐戎,至三十年冬,書齊人伐山戎,明年六月書齊人來獻戎捷,經營十年,始成斬孤竹、刜令支之績。書齊人,偉其伐也。夏書齊大災,而冬興伐戎之師,于是知管仲之治國,能寬民力矣。
戎 北方に居るは,議齊之後,之を翦つを先とせず,未だ以て遠に及ぶ可からざるなり。故に是年より齊人 伐戎と書き,三十年冬に至り,齊人 山戎を伐つと書き,明年六月に齊人 來獻戎捷と書く。經營すること十年,始成 孤竹を斬るは、刜令支の績なり。齊人と書くは,其の伐を偉とすればなり。夏に、齊の大災を書き,而して冬に伐戎の師を興すと。是に于て管仲の治國,能寬民力なるを知る。

「公追戎于濟西」の條と関連づけて読めるか。


王子頽享五大夫,樂及徧舞,有生之樂,無死之心,何得不敗?
有生の樂,無死の心,何ぞ敗れざるを得ん。

二十五年,晉侯圍聚,盡殺群公子,獻公之子九人,唯存重耳,豈非天道?
獻公の子の九人,唯だ重耳のみ存す,豈に天道に非ざるか。

賂外嬖梁五與東關嬖五。賂外嬖與東關嬖,素非居内,公既不疑為姬所得使,且與三公子之徒非日相接,謀不得洩也。二十八年。 外嬖と東關嬖に賂し,素より居内に非ず。公 既に不疑為姬所得使,且つ與三公子之徒非日相接,謀 洩るを得ずざるなり。二十八年なり。

三十二年,成季奔陳。觀其如陳葬原仲,則陳之于季友可知。
其の陳に如きて原仲を葬るを觀れば,則ち陳の季友に于て知る可し。

閔公

閔二年,齊侯使公子無虧帥車三百乘、甲士三千人以戍曹。使無虧戍曹,與衛同禍福也。
戍曹を虧くる無からしむ,衛と禍福を同にするなり。

僖公

僖四年,齊侯以諸侯之師侵蔡,蔡潰,遂伐楚。齊以伐楚召諸侯,楚必預為備,預為備必戰,戰則勝負未可知也。今因伐蔡而猝移師臨楚,楚無備必震,震而後可服也。此齊之得也。齊以伐楚召諸侯。楚素強,陵暴中夏,諸侯懷兩端,必有至有不至。前此一再謀伐楚而不果,可騐。惟率之伐蔡,則諸侯無所顧忌而畢至,因而劫其衆以伐楚,諸侯在其術,巾有不唯命者乎?雖然,非素約也,心與力之不一,其何以戰?屈完來,即與之盟而退,唯用其虚聲焉耳。又齊之得也,
僖四年,齊侯 諸侯の師を以て蔡を侵し,蔡 潰え,遂に楚を伐つ。齊 楚を伐つを以て諸侯を召さば,楚 必ず預め備を為し,預め備を為さば必ず戰ふ,戰はば則ち勝負 未だ知る可からず。今 伐蔡に因りて猝移師臨楚,楚 備無くして必ず震え,震而後可服也。此れ齊の得なり。齊以伐楚召諸侯。楚 素より強く,中夏を陵暴し,諸侯 兩端を懷き,必ず至るもの有り至らざるもの有り。前に此れ一再謀伐楚而不果,可騐。惟だ率之伐蔡,則ち諸侯 顧忌する所無くして畢く至り,因りて其の衆を劫して以て楚を伐たば,諸侯 其の術に在り,巾有不唯命者乎?雖然,非素約也,心與力之不一,其何以戰?屈完 來たり,即與之盟而退,唯用其虚聲焉耳。又齊之得也,

斉の兵法のたくみさを言うのみ。


先君之好是繼,見衆之與己者固。
衆の己に與する者 固きを見る。

五年王使周公召鄭伯,曰:吾撫女以從楚,輔之以晉,可以少安。楚方僭王猾夏,而惠王反欲撫鄭以從楚,牽于私故也。有父子,然後有君臣;父子之倫不正,則夷夏上下之防裂焉。輔之以晉者,晉侯前年方殺其世子,從君于昏者也。
五年、王 周公に使して鄭伯を召して,曰く、吾 女を撫して以て楚に從ひ,之を輔くるに晉を以てす。以て少しく安ず可しと。楚 方に王を僭し夏を猾さんとし,而れども惠王 反りて鄭を撫して以て楚に從はんと欲するは,私に牽くが故なり。父子有りて,然る後に君臣有り。父子の倫 正しからざれば,則ち夷夏の上下に防 裂けん。之を輔くるに晉を以てする者は,晉侯 前年に方に其の世子を殺して,從君于昏者也。

六年楚子圍許以救鄭。楚人圍許,惠王啟之也。齊桓有志于尊周攘夷,而王自沮敗之,于是乎周之不可復振也定矣。
楚人 許を圍み,惠王 之を啟す。齊桓 尊周攘夷に志有り,而れども王 自ら沮して之を敗り,是に于てや周の復た振ふ可からざるや定まれり。

七年鄭伯使太子華聽命于會,至。齊侯辭焉。齊因子華足以破鄭,然鄭與齊非接壤,破之而不能有也,徒足為楚、宋之資,且勤諸侯以自封,于名為不順辭。子華、敬仲之善相時勢也,又獲令名焉。
七年、鄭伯 太子華をして會に聽命せしめ,至る。齊侯 焉を辭す。齊 子華 以て鄭を破るに足るに因り,然して鄭 齊と接壤するに非ざれば,之を破れども有つ能はざるなり。徒だ楚・宋の資と為るに足るのみ。且つ勤諸侯以自封,于名為不順辭。子華・敬仲の善 時勢を相るなり、又 令名を獲るなり。

若總其罪人以臨之,鄭有辭矣。齊始為首止之會,本以正父子之倫,今總其罪人以臨之,則前後名義自相違反,故曰鄭有辭。鄭之叛,以王故也。總其罪人以臨之,豈惟鄭有辭,亦豈能定王太子哉?
齊 始め首止の會を為すは,本より以て父子の倫を正すなり。今 其の罪人を總して以て之に臨めば,則ち前後の名義 自ら相 違反し,故に曰く「鄭に辭有り」と。鄭の叛するは,王を以ての故なり。其の罪人を總して以て之に臨むは,豈に惟だ鄭に辭有るのみや,亦た豈に能く王太子を定むるや。

八年,鄭伯乞盟。請服也,亦以襄王新立故。
亦た襄王を以て新たに立つるが故なり。

九年,王使宰孔賜齊侯胙。賜齊侯胙者,報其首止之功也。齊桓承之以恭,所以為霸者之極盛。
齊侯に胙を賜はるは,其の首止の功に報ゆるなり。齊桓 之を承くるに恭を以てし,所以に霸者の極盛と為る。

宰孔先歸,遇晉侯,曰:可無會也。首止之盟,鄭伯逃歸,惠王實使周公命之,且曰輔之以晉,皆不與桓同心者也。故晉侯來會,周公沮之。
首止の盟に,鄭伯 逃げ歸り,惠王 實に使周公命之,且つ之を輔くるに晉を以てすと曰ふ。皆 桓と同心せざる者なり。故に晉侯 來會するに,周公 之を沮む。

十五年,征繕以輔孺子。陰飴甥征繕以輔孺子,有種、蠡之才。王城對秦伯之詞,才智縱橫,卒脫其君,可謂能矣。惜乎所見不遠。惠公之入,不能輔以正誼,至于内外交怨,身為敵禽。使其先如外傳所載狐偃之教重耳者,焉至是哉?故處事當先經後權,用人當先仁後智也。
十五年,征繕 以て孺子を輔す。陰飴の甥の征繕 以て孺子を輔け,種・蠡の才有り。王城 秦伯の詞に對へ,才智 縱橫(縦横家)たりて,卒かに其の君を脫す。能と謂ふ可し。惜しきかな所見 遠ならざる。惠公の入るや,能く輔して以て正誼せず、内外 交怨し,身為敵禽に至る。使其の先をして如外傳所載狐偃之教重耳者,焉ぞ是に至るや。故に處事は當に經(つね)を先にし權(かり)を後にすべし,用人は當に仁を先にし智を後にすべし。

ただの登場人物の論評だ。


小人慼,謂之不免;君子恕,以為必歸。呂甥之言,近于縱橫,獨四語深溫,惻惻動人。
小人の慼,之を不免と謂ふ;君子の恕,以て必歸と為す。呂甥の言,縱橫に近く,獨り四語のみ深溫たりて,惻惻動人。

十八年,鄭伯始朝于楚。齊桓冬死,而鄭伯春朝楚矣。悲夫!
十八年,鄭伯 始めて楚に朝す。齊桓 冬に死し,而して鄭伯 春に楚に朝す。悲しきかな。

覇者が、桓公を失った斉から南蛮の楚に移ってしまう。


邢人、狄人伐衛。邢人不念狄之非族類己之嘗見迫,盟主新亡,背德即讎,與伐同姓,其取滅也宜。
邢人・狄人 衛を伐つ。邢人 狄の族類に非ず、己の嘗て迫らるを念はず,盟主 新たに亡く,德に背きて即ち讎たり。與に同姓を伐つ。其れ滅を取るや宜なるかな。

二十二年,楚人伐宋以救鄭。此楚子也,稱人者何?不與夷狄之勝中國也。
此れ楚子なり。「(楚)人」と稱するは何ぞや。夷狄の中國に勝つに與せざるなり。

尊王攘夷のコメントがやたら目立つ。


二十四年,得罪于母弟之寵子帶。宋本無弟字。
宋本は「弟」の字無し。

二十五年,衛侯燬滅邢。同姓也,故名。滅同姓者,不惟衛侯。于譏貶之中獨名焉者,甚之也。齊桓公存三亡國,創伯之功,于是為大。衛、邢均為桓公所建盟主,死而遂倍之,使齊、狄共謀其難。衛侯于是曾狄人之不若矣。
二十五年,衛侯 邢を燬滅す。同姓なれば,故に名いふ。同姓を滅す者は,惟だ衛侯のみにあらず。譏貶の中に于て獨り焉を名いふは,之を甚しとすればなり。齊桓公 三つの國を亡すこと存るも,創伯の功,是よりも大と為す。衛・邢 均しく桓公の建つる所と為る。盟主 死して而遂に之に倍き,齊・狄をして共に其の難を謀らしむ。衛侯 是に于て曾ち狄人の若くならず。

『左伝』の「名いふ」基準に反論している。
杜預注:其の恥を知らず、詐きて以て同姓を滅ぼして而れども反りて功を器に銘するを惡(にく)むなり(惡其不知恥詐以滅同姓而反銘功於器)。何焯が、他の事例をあげて、尊王攘夷をプラスで味付けしている。


二十八年,少長有禮。蒍賈曰:子玉剛而無禮。晉侯觀師,曰:少長有禮,其可用也。勝敗決矣。
二十八年,少長有禮。蒍賈曰く、子玉 剛にして無禮なり。晉侯 師を觀て、曰く、少長有禮,其れ用ふ可きなり。勝敗 決せりと。

二十八年,原軫將中軍,胥臣佐下軍,上德也。晉侯舉賢任人若此,何可當也?
晉侯 賢を舉げ人を任ずること此の若し。何ぞ當る可きや。

子犯曰:子玉無禮哉!至。既戰而後圖之。子犯長于治國,先軫長於用兵,于此可見。
子犯 治國に長じ,先軫 用兵に長ず。此に于て見る可し。

胥臣蒙馬以虎皮,至。子玉收其卒而止,故不敗。先犯陳、蔡,蓋偏敗則衆攜,又知特為楚人所脅,莫有鬥心也。然楚人慓疾,難與爭鋒,故上軍急麾下軍使退,勿乘勝即攻其堅。欒枝偽遁,下軍望見其旆,整衆而退也。恐楚人知之,曳柴揚塵,則真若不能支楚者。而後楚之二師盡銳馳之,原卻以中軍橫擊楚之中軍,左師斷而為二。子玉見二師不能相救,乃收其卒以自完,而左師遂為晉之上下二軍,悉力夾攻,子西僅以身免矣。楚師背酅而舍,先據形勝,故必俟其動而後擊之,所謂致人而不致于人也。
先に陳・蔡を犯すは、蓋し偏敗するは則ち衆攜なればなり,又 特に楚人の脅す所と為り,鬥心有る莫きを知ればなり。然れども楚人 慓疾なれば,與に爭鋒し難く,故に上軍 急麾下軍使退,勿乘勝即攻其堅。欒枝偽遁,下軍望見其旆,整衆而退也。楚人 之を知るを恐れ,曳柴揚塵,則真若不能支楚者。而後楚之二師盡銳馳之,原卻以中軍橫擊楚之中軍,左師斷而為二。子玉見二師不能相救,乃收其卒以自完,而左師遂為晉之上下二軍,悉力夾攻,子西僅以身免矣。楚師背酅而舍,先據形勝,故必俟其動而後擊之,所謂致人而不致于人也。

兵法による戦況分析。


是糞土也,而可以濟師。楚人信鬼,故曰可以濟師。
楚人 鬼を信ずれば,故に可以濟師と曰ふ。

楚に対する敵意、攘夷がはげしい。


大夫若入,其若申、息之老何?楚起蠻夷,其與中國戰,亦用中國攻中國,而楚人不以當敵,如是役,則以陳、蔡為右,申、息為左。陳、蔡,其所役也,申、息,其所滅也。陳、蔡先潰,申、息為晉兩軍夾攻,中軍橫擊,復潰,子玉即收其卒而止。中軍皆王族,未嘗肯使罹于鋒鏑也。及成王之罪狀,子玉止曰:若申、息之老何?蓋申、息久為楚地,猶所惜也。陳、蔡之人熸焉,則不問矣。
楚 蠻夷より起り,其れ中國と戰ふ。亦た中國を用て中國を攻むれば,而ち楚人 不以當敵,如是役。則ち陳・蔡を以て右と為し,申・息もて左と為す。陳、蔡,其所役也。申・息、其れ滅ぶ所なり。陳・蔡 先に潰ゆれば、申、息為晉兩軍夾攻,中軍橫擊,復潰,子玉即收其卒而止。中軍皆王族,未嘗肯使罹于鋒鏑也。及成王之罪狀,子玉止曰:若申、息之老何?蓋申、息久為楚地,猶所惜也。陳、蔡之人熸焉,則不問矣。

晉侯作三行以禦狄,不許請隧,而私作三行。其後遂沿之為新軍。晉文公所謂自踰短垣者。私家勢盛,卒至分晉。孔子謂均無貧,和無寡,安無傾,諒哉!
晉侯 三行を作りて以て狄を禦ぎ,隧を請ふを許さず。而して私に三行を作す。其の後に遂に之に沿ひて新軍を為る。晉の文公 所謂 自ら短垣を踰ゆる者なり。私家の勢 盛なりて,卒に晉を分くるに至る。孔子 謂均無貧,和無寡,安無傾,諒哉!

文公

文六年,宣子于是乎始為國政,至。使行諸晉國,以為常法。趙宣子之治晉,可謂能矣。然當襄公既殁,遂不免于舉棋不定之患,復結秦、晉數世搆兵之禍,趙氏亦幾滅其族。吾於是而歎田文之論相,雖聖人不能以易也。
文六年,宣子 是に于て國政を為すを始む,至。使行諸晉國,以て常法と為す。趙宣子の晉を治むるは,能と謂ふ可し。然れども襄公 既に殁するに當たり,遂に于舉棋不定之患を免れず,復た秦に結ぶ。晉の數世の搆兵の禍,趙氏も亦た幾ど其の族を滅す。吾 是に於て田文の論相を歎く。聖人と雖も不能以易也。

成り代わったものも成り代わられる。


十四年,有星孛入于北斗,周内史叔服曰:不出七年,宋、齊、晉之君皆將死亂。是時政在諸侯,三國適皆伯主之後,天變之大者,非三國當之,孰應其占哉?
是の時 政は諸侯に在り,三國 適だ皆 伯主の後たり,天變の大なるは,三國 之に當たるに非ず。孰れか其の占に應ぜんや。

十八年,公命與之邑,曰:今日必授!季文子使司寇出諸竟,曰:今日必達!借莒僕以脅宣公,文子之私也,辭則嚴矣。君方授之邑,臣乃出諸竟,于是始政在大夫。
莒僕を借りて以て宣公を脅すは,文子の私なり。辭則嚴矣。君方授之邑,臣乃出諸竟,是に于て始めて政 大夫に在り。

宣公

宣元年,公子遂如齊逆女。書公子遂者,惡其殺嫡立庶,以其國外市也。曰:先君之母弟也,而所為若是哉!
公子遂と書くは,其の嫡を殺し庶を立てて,其の國を以て外市するを惡めばなり。「先君の母弟なり」と曰ふは、而ち為す所 是の若くなればなるか。

夏,季文子如齊納賂以請會。納賂不使遂,而使行父。行父為政,遂與之共其功也。且姜氏歸我矣,其無變矣。
賂を納れ遂を使とせず?。而して行父を使とす。行父 為政し,遂 之と與に其の功を共にするなり。且つ姜氏 我に歸し矣,其れ變はる無し。

晉人討不用命者,放胥甲父于衛。放胥甲而不問趙穿,桃園之械兆矣。侵崇無功,宣子若為不聞也者,所以深結穿之心也。
胥甲を放ちて趙穿を問はざるは,桃園の械兆なり。侵崇して功無く,宣子 若し聞かざると為すは,結穿の心を深くする所以なり。

又會諸侯于扈,將為魯討齊,皆取賂而還。天方授楚,晉君又不君也,而林父惟賂之求,失伯宜矣。是故邲之敗,猶罪之小者也。取賂而崇二國弑君之賊,使三綱淪而九法斁,有王者作,林父其服上刑哉!
又 諸侯に扈に會し,將に魯の為に齊を討たんとするも,皆 賂を取りて還る。天 方に楚に授け,晉君 又 君たらざるなり。而れども林父 惟だ賂のみ之れ求むるは,伯を失ふは宜なるかな。是の故に邲の敗,猶ほ罪之小者也。賂を取りて二國の弑君の賊を崇ぶは,三綱をして淪めて九法をして斁めしめ,有王者作,林父 其れ上刑に服するか。

二年,亡不越竟,反不討賊。亡不越境,蓋有待也。不惟不討賊,而反俾賊逆新君,盾之與于弑也,其何所逃哉?
二年,亡げて竟を越えず,反りて賊を討たずと。亡げて境を越えざるは,蓋し待つこと有るなり。惟だ賊を討たざるのみならず,而も反りて賊をして新君に逆へしむは,盾(趙盾)の弑に與するなり、其れ何ぞ逃ぐる所あるか。

趙盾の罪。『春秋』の筆法の最重要テーマなのだが。


乃宦卿之適而為之田,以為公族。至。晉于是有公族、餘子、公行。無公族之實,而徒滋他族以逼君,六卿分晉始兆矣。抑趙盾之謀,多樹黨以自衛也。(此說、予癸亥所記,後見朱子語類已云然。正卿出走,側室在内,猶能為變,况公族成縣,餘子、公行皆強家乎?
公族の實無く,而れども徒らに他族を滋して以て君に逼る。六卿 晉を分くるの始兆なり。趙盾の謀を抑へ,多く黨を樹てて以て自衛するなり。(此の說 予 癸亥に記す所にして,後に朱子語類に見えて已に云ひて然り)。

趙盾請以括為公族,盾以中軍帥兼領公行,則左右之士皆歸掌握,伏甲嗾獒,無自發矣。人知其不敢以貴加宗子,而不知實據親近之地以逼君也。
趙盾 請ふ以て括して公族と為り,盾 中軍の帥を以て公行を兼領し,則ち左右の士 皆 掌握に歸し,甲を伏せ嗾獒し,自ら發する無し。人 知る其の不敢以貴加宗子,而れども實に親近の地に據りて以て君に逼るを知らず。

四年,襄公將去穆氏。欲去穆氏,懲子公也。
穆氏を去り,子公を懲さんと欲するなり。

八年,襄仲卒而繹。襄仲卒而猶繹,逐東門之漸也。
襄仲 卒して猶ほ繹す,東門の漸を逐ふなり。

盟吳・越而還。吳越盟,而莊王得以入陳鄭,圍宋敗晉;諸戎和,而悼公得以三駕爭鄭。未有邊鄙多故,可以圖伯者也。反而行之,則夫差方敗齊長晉,而勾踐已入吳矣。
吳・越に盟ひて還る。吳・越 盟はば,而ち莊王 以て陳・鄭に入り,圍宋敗晉を得たり。諸戎 和し,而ち悼公 以て三駕爭鄭を得たり。未だ邊鄙 多故有らざるも,以て伯を圖る可き者なり。反りて之を行はば,則ち夫差 方に齊を敗り晉を長ぜしめ,而して勾踐 已に吳に入るなり。

九年春,王使來徵聘。夏,孟獻子聘于周。王以為有禮,厚賄之。徵聘而厚賄其使。明年之秋,王人復報聘。蓋自。晉襄既亡,雖秉禮如魯,亦不復翌戴天子矣。此孔子所以進桓、文歟!
徵聘して厚く其の使を賄ふ。明年の秋に,王人 復た聘に報ゆ。蓋し晉襄より既に亡び,禮を秉り魯に如くと雖も,亦た不復た翌戴天子矣。此れ孔子の桓・文を進むる所以なるか。

十年,公如齊奔喪。德惠公之定其位,故奔喪。
惠公の其の位を定むるを德とし,故に奔喪す。

諸侯之師戍鄭。宋本無此六字。
宋本 此の六字無し。

十一年,晉卻成子求成于衆狄,至。遂服于晉。衆狄服晉,而潞與甲氏、留吁之勢孤矣。中行、范氏之武功,成子之餘澤也。
衆狄 晉に服し,而潞與甲氏、吁の勢 孤たるに留む。中行、范氏の武功,成子の餘澤なり。

故書曰:楚子入陳,納公孫寧、儀行父于陳。莊王入陳而縣之,固不可以令于諸侯,乃聞申叔時之言,遂并納孔、儀,則亦未盡乎討罪之道也。夫宣淫于朝,專戮直臣,使國亡主滅者,宜與徵舒比而誅之,而乃使得返其國以從政,何以懲惡而謝陳之宗社哉?
莊王 陳に入りて之に縣け,固に以て諸侯に令す可からず,乃ち叔時の言を聞申し,遂に孔・儀を并納せば,則ち亦た未だ討罪の道を盡くさざるか。夫れ宣 朝に淫し,專ら直臣を戮り,使國亡主滅者,宜 徵舒と與に比して之を誅し,而乃使得返其國以從政,何を以て惡を懲して陳の宗社に謝するや。

十二年,韓獻子謂桓子曰:彘子以偏師陷,至。師遂濟。厥為司馬,師律其所司也。先縠專命,厥不能請于林父以戮之,乃明知必敗,而唯欲分其罪于群帥,趣之使濟。其誤林父以敗國殄民者,豈不尤重于縠哉!後世當國之臣,由厥之邪謀,求其惡有所分,而禍獨被于宗社者多矣。嗚呼,悲夫!

十四年,楚子使申舟聘于齊,曰:無假道于宋。亦使公子馮聘于晉。不假道于鄭。求諸侯而待以無禮,其誰堪之?鄭之不殺馮,力不贍也。且邲之役,欺晉而失大援故也。孫叔其既亡乎,楚莊之志盈矣。
諸侯に求めて待するに無禮を以てするは,其れ誰か之に堪ふるか。鄭之不殺馮,力不贍也。且に邲の役に,晉を欺きて大援を失ふ故なり。孫叔 其れ既に亡きか,楚莊の志 盈てり。

十五年,使解揚如宋,使無降楚,曰:晉師悉起,將至矣。晉既畏楚而棄宋,又使解揚詐以誤之,無威而失信,諸侯其誰不解體?
晉 既に楚を畏れて宋を棄て,又 解揚をして詐りて以て之を誤らしめ,威を無みして信を失ふ,諸侯 其れ誰か體を解するや。

十七年,郤子至,請伐齊。楚莊未死而遽謀報齊,先睚眦之忿,後社稷之憂,卻氏之無後于晉也宜哉!
楚莊 未だ死せずして遽かに齊に報ゆるを謀る。睚眦の忿を先にし,社稷の憂を後にす。卻氏の後 晉に無きや宜なるかな。

十八年,公薨,季文子言于朝曰:使我殺適立庶以失大援者,仲也。夫!投鼠忌器,故宣公薨而季文子乃敢逐東門氏。義門讀書記卷九。
鼠を投げて器を忌み,故に宣公 薨じて季文子 乃ち敢て東門氏を逐ふ。義門讀書記卷九。250204

『義門読書記』巻十 左氏春秋下

成公

成元年,為齊難故,作邱甲。五伯衰而諸侯無所統壹,強凌弱,衆暴寡,患始及民矣。書作邱甲,傷天下之無伯也。
五伯 衰へて諸侯 統壹する所無く,強 弱を凌ぎ,衆 寡を暴し,患 始めて民に及ぶ。邱甲を作るを書くは,天下の伯無き(覇者がいない)を傷めばなり。

杜預注:前年魯乞師於楚欲以伐齊楚師不出故懼而作丘甲。前年に魯 師を楚に乞ひて、欲以伐齊。楚師 出でず、故に懼れて丘甲を作る。


銳司徒免乎。婦人内夫家,何以反不問?辟司徒。二年。 婦人 夫の家に内り,何を以て反りて司徒を辟するを問はざる。二年。

不可,則聽客之所為。曰聽客之所為。是役也,非惟國佐善辭,齊之廟謨亦素定矣。富弼以死爭獻納二字于遼宰相,反不難徇敵國之欲,則如之何哉?國佐本以賂求成,而晉人反為其正議所屈,侮人者還自侮也,
是の役あるや,惟だ國佐善辭なるのみに非ず,齊の廟謨も亦た素より定れり。富弼 死を以て爭ひ二字を遼に獻納す。宰相,反りて不難徇敵國之欲,則如之何哉?國佐 本より賂を以て成を求め,而れども晉人 反りて其の正議 屈する所と為る。人を侮る者は還りて自ら侮るなり。

其自為謀也則過矣,至。何勞錮焉?共王是時十二歲耳,而其語何明且盡也?使復有若子文、孫叔敖者輔之,豈其有鄢陵之失哉?共王之言如此,而子重、子反殺巫臣之族而分其室,致巫臣怨二子而謀害楚國,不能禁之,何哉?蓋明者必貴濟之以斷,使漢昭帝能辨上書者之詐,而不能去蓋主、上官桀,則亦無救于國家之禍也已。
共王 是の時 十二歲なるのみ。而れども其の語 何ぞ明にして且つ盡なるか。使復有若子文、孫叔敖なる者 之を輔け,豈に其れ鄢陵の失有るや。共王の言 此の如く,而れども子重・子反 巫臣の族を殺して其の室を分けけ,巫臣 二子を怨みて楚國を謀害するに致り,之を禁ずる能はざるは,何ぞや。蓋し明なる者は必ず貴濟之以斷,使し漢の昭帝 能く上書する者の詐を辨ずれば,而ち不能去蓋主・上官桀,則ち亦た國家の禍を救ふ無きのみ。

三年,以君之靈,至。所以報也。其為言也,文而有禮,忠而能力,一句一字,皆有義理次第,
其の言を為すや,文にして禮有り,忠而能力,一句一字,皆有義理次第,

次及于事。文公之伯也,先軫自下軍佐為中軍帥,惟尚德也。靈公以後,從政者不尚德,而以次及焉,宜乎其不競矣。
文公の伯なり,先軫 下軍の佐より中軍帥と為るは,惟れ德を尚ぶなり。靈公より以後,從政する者 德を尚ばず,而以次及焉,宜乎其不競矣。

此行也,君為婦人之笑辱也,寡君未之敢任。卻克,人臣也,猶必報其一笑之辱。今當兩君相見,而反其惡聲以辱與國之君,其能堪乎?且又蔑己之君也。至于錡而亡焉,幸矣。

六年,說欲襲衛。衛有一卿一大夫同在行間,而說乃欲襲之,不惟棄信,亦多見其不智矣。

晉人謀去故絳。晉因梁山崩而懼,故遷都以厭之。

七年,吳伐郯,郯成通。吳本欲以敝楚,而中國先被其害矣。伐郯者,黃池之漸也。

爾以讒慝貪惏事君。讒慝、貪惏,有一于此,皆足以亡人之國,况兼之乎?是故楚任子重、子反而失伯,任子常無極而亡郢。

十四年,宣伯如齊逆女。稱族,尊君命也。僑如以夫人婦姜氏至自齊。舍族,尊夫人也。凡大夫有事于境外,皆稱族,所以尊君命,固不在此。僑如以夫人婦姜氏至自齊,非舍族也,蒙上逆女之文也,所以尊夫人,亦不在此。十五年,會于戚,討曹成公也,執而歸諸京師。負芻殺太子而自立,弑君之賊也。晉侯率諸侯以討之,何患罪人之不得?乃同盟于戚,使得列于會而誘執之,晉侯于是乎失政刑矣。書晉侯,咎其昧討賊之義,而惟逞一己之威福也。 十四年,宣伯 齊に如き女を逆ふ。族を稱するは,君命を尊べばなり。僑如 夫人を以て姜氏を婦として至自齊。族を舍つるは,夫人を尊べばなり也。
凡そ大夫 事 境外に有れば,皆 族を稱するは,君命を尊ぶ所以にして,固より此れ在らず。僑如以夫人婦姜氏至自齊,族を舍つるに非ず。上を蒙して女を逆ふるの文なるは,夫人を尊ぶ所以にして,亦た此れ在らず。

『左伝』が述べている筆法を否定してる。
正義曰、宣元年、已發尊君命、尊夫人之例。今復發者、彼以喪娶嫌非正禮且公子非族故重明之。何休膏盲難左氏叔孫僑如舍族為尊夫人。案、襄二十七年豹及諸侯之大夫盟復何所尊而亦舍族春秋之例一事再見者亦以省文耳左氏為短鄭箴云左氏以豹違命故貶之而去族今僑如無罪而亦去族故以為尊夫人也春秋有事異文同則此類也。


十五年,會于戚,討曹成公也,執而歸諸京師。負芻殺太子而自立,弑君之賊也。晉侯率諸侯以討之,何患罪人之不得?乃同盟于戚,使得列于會而誘執之,晉侯于是乎失政刑矣。書晉侯,咎其昧討賊之義,而惟逞一己之威福也。
十五年,戚に會し,曹の成公を討つなり。執へて諸れを京師に歸す。負芻 太子を殺して自ら立ち,弑君の賊なり。晉侯 諸侯を率ゐて以て之を討つ,何ぞ罪人の得ざるを患ふや。乃ち戚に同盟し,使得列于會而誘執之,晉侯 是に于て政を刑に失ふ。「晉侯」と書くは,其の討賊の義を昧くするを咎めて,而れども惟だ一己の威福を逞くすればなり。

十六年,其行速,過險而不整。其行速,魏武帝之追漢昭烈也;過險而不整,夏王之救東都也。
其の行くこと速きは,魏武帝の漢昭烈を追ふなり。險を過りて整はざるは,夏王の東都を救ふなり。

六月,晉、楚遇于鄢陵,楚欲及東師之未至而戰,其行速,故晉師方臨鄭而相遇。

楚晨壓晉軍而陳,至。陳于軍中而疏行首。邲之役,楚乘晉之不備而晉潰,晨壓其軍而陳,亦掩其不備,使之欲進不可爭,退必亂也。邲之戰,中軍、下軍皆潰。欒書,下軍帥也,楚人狃而易之,其謀若曰如此。書又不知所為也,已成陳以當之,楚先為奪氣矣,
邲の役に,楚 晉の備へざるに乘じて晉 潰え,晨壓其軍而陳,亦た其の備へざるを掩ひて,使之欲進不可爭,退必亂也。邲の戰に,中軍・下軍 皆 潰ゆ。欒書,下軍帥也,楚人狃而易之,其謀若曰如此。書又不知所為也,已成陳以當之,楚先為奪氣矣,

文子執戈逐之。觀後欒書怨卻至,則文子之逐宣子,其識遠矣。不在其位,而露才揚己,無補于國,而咎怨及身,可矣乎?

楚子登巢車以望晉軍,壓壘故可望。且彼此聞囂聲,陳而不整,軍而不陳,皆在目也。

子以君免,我請止。乃死。楚師薄于險,鄭敗而其君先遁,楚人顧之,遂莫有鬥心而退,故薄于險,而反為晉所乘也。季梁有言:偏敗,衆乃攜矣。
鄭 敗れて其の君 先に遁げ,楚人 之を顧み,遂に鬥心有る莫くして退き,故に險を薄くす。而も反りて晉の乘ずる所と為るなり。季梁有言:偏敗,衆乃攜矣。

王曰:天敗楚也夫!余不可以待。乃宵遁。楚師猶未其敗,而王遽遁者,二卿相惡,子重因子反之醉,與王俱遁,以幸其敗也。王及令尹既遁,而師有不胥潰者乎?
楚師 猶ほ未だ其れ敗れず,而れども王 遽かに遁ぐるは,二卿 相 惡み,子重因子反之醉,與王俱遁,以幸其敗也。王及令尹既遁,而師有不胥潰者乎?

十八年,孤始願不及此,至。神之所福也。悼公初入,其氣象極似漢文帝。朱子謂數語便有操有縱。
悼公 初めて入り,其の氣象 極めて漢の文帝に似たり。朱子謂數語便有操有縱。

齊為慶氏之難,至。使嗣國氏,禮也。齊之有慶克,猶魯之有僑如也。僑如搆季、孟于晉,有卻犫為之主,而魯卒出而盟之。齊則國佐被殺,高無咎、鮑牽則且逐。慶克雖死,慶封反因以得政。其右淫人也若是,豈非魯猶重禮教,而齊風俗大壞,不之恥耶?
齊の慶克有るは,猶ほ魯の僑如有るがごときなり。僑如 季・孟に晉に搆へ,有卻犫為之主,而して魯卒 出でて之に盟ふ。齊則國佐被殺,高無咎、鮑牽則且逐。慶克雖死,慶封反因以得政。其右淫人也若是,豈非魯猶重禮教,而して齊の風俗 大いに壞る,之れ恥じざるや。

襄公

襄三年,孟獻子相。公稽首。仲孫不能守周公之典以尊其君,而稽首于大國;又不能以禮拒大國之求,而請屬鄫以供命,其不逮鄭子産遠矣。其平日之言行,時合于道,而謂之社稷臣,則未也。
仲孫 周公の典を守りて以て其の君を尊ぶ能はず,而して大國に稽首す。又不能以禮拒大國之求,而請屬鄫以供命,其不逮鄭子産遠矣。其平日之言行,時合于道,而して之を社稷の臣と謂ふは,則ち未しなり。

與之禮食。禮食,蓋儀禮所謂公食大夫禮也。

四年,魏絳曰:諸侯新服,至。無乃不可乎?晉方有事于中原,而無終遠在東北,若用師焉,楚爭陳、鄭,鞭長不及也,故姑事羈縻。蓋莊子一時之權計,而後王巽懦者,乃用為口實,何哉?况戎先納賂以請和,亦與屈中國以事外夷者異矣。
晉 方に事 中原に于て有らんとし,而れども無終遠在東北,若用師焉,楚爭陳、鄭,鞭長不及也,故に姑事羈縻。蓋し莊子の一時の權計なり,而後王巽懦者,乃用為口實,何哉?况んや戎 先に賂を納れて以て和を請ひ,亦た中國に屈して以て外夷に事ふる者と異なるをや。

五年,王使王叔陳生愬戎于晉。至。言王叔之貳于戎也。晉新和諸戎,將與楚爭陳鄭又無以謝王之愬,故以貳于戎誣使人,使王慚而自止,且堅諸戎之心也。
晉 新たに諸戎に和し,將に楚ちと陳鄭を爭ひて又 以て謝王の愬無く,故に以貳于戎誣使人,使王慚而自止,且に諸戎の心を堅くするなり。

六年,司武而梏於朝,難以勝矣,至。亦逐子蕩。勝字當讀平聲,以為不勝任而逐之也。亦逐子蕩。子罕之言,謂亦宜逐也。
勝の字 當に平聲に讀むべし,以為不勝任而逐之也。亦逐子蕩。子罕之言,謂亦宜逐也。

九年,吾聞之,宋災,於是乎知有天道。晉侯所聞,蓋相傳之恆言。
晉侯の聞く所,蓋し相 傳ふるの恆言なり。

姜曰:亡是,於周易。當以亡是絶句,言無是理也。
當に亡を以て是れ絶句し,言は是れ理無きなり。

我實不德,至。何恃于鄭?武子之言,宏遠不迫,猶有王臣氣象。

輸積聚以貸。晉饑,故各輸其積以貸。

十年,晉荀偃、士匄請伐偪陽,而封宋向戍焉。會吳者,欲分楚之力以爭鄭也。乃無故而興得已之役,以徇中行偃、范匄之請。晉君親在行間,曾不以勤,而無所為懼,何哉?蓋悼公之為君也,量有餘而略不足以濟之。乘厲公之後,于世臣大族,欲以德禮柔而服焉,而不知過于寬假,則上下之分不肅,久將專命而無所忌,威權日以下移矣。
吳に會するは,欲分楚之力以爭鄭也。乃無故而興得已之役,以徇中行偃、范匄之請。晉君親在行間,曾不以勤,而無所為懼,何哉?蓋し悼公の君為るや,量有餘而略不足以濟之。乘厲公之後,于世臣大族,欲以德禮柔而服焉,而不知過于寬假,則上下之分不肅,久將專命而無所忌,威權 日々以て下移す。

初,子駟為田洫。子産為政,田有封洫,亦因子駟之故而修之。

欒黶曰:逃楚,晉之恥也,至。我將獨進。欒黶違帥先進,而晉君不問。棫林之役,棄命先歸,以辱社稷,彼固以為恆矣。黶之汰,悼公成之也。

十一年,鄭人賂晉侯以師悝、至。女樂二八。晉、楚爭鄭,三駕乃定。諸侯道敝,悼公乃不深惟招攜懷遠之道,苟焉私享其重賂,是勤諸侯以黷貨也。至是而悼公之志荒矣。
晉・楚 鄭を爭ひ,三たび駕して乃ち定まる。諸侯の道 敝し,悼公 乃ち不深惟招攜懷遠之道,苟焉私享其重賂,是れ諸侯に勤むるに黷貨を以てするなり。是に至りて悼公の志 荒たり。

子教寡人和諸戎狄,以正諸華。惟欲正諸華,故和戎以壹其力,而豈竭諸華之有以媚戎、狄哉!

十二年,莒人伐我東鄙,圍台。季武子救台,遂入鄆。莒圍台,武子乘其虛以入鄆,即圍魏救趙之智也。
莒圍台,武子乘其虛以入鄆,即ち魏を圍みて趙を救ふの智なり。

十四年,晉侯舍新軍,禮也,至。故舍之。晉侯之舍新軍,以二子之弱也,非知其僣而革之也。蓋其入國之初,修舉廢墜,政令雖若可觀,而權之下移者,不能復收之以歸于上。故限于世及之例,寧廢新軍,而不敢選于大夫之中,舉其賢者以使為卿。至此,則六卿之勢一定而不可變矣。觀其嘉魏莊子之功,賞以金石之樂,而緜上之蒐,僅從新軍,以次佐下軍而已,亦不能如文公之用原軫也。夫撥亂反治,苟無非常之才,其力固難以及遠也。 晉侯の新軍を舍するは,二子の弱きを以てなり。其の僣を知りて之を革むるに非ざるなり。蓋し其の入國するの初め,修舉廢墜,政令雖若可觀,而權之下移者,不能復收之以歸于上。故限于世及之例,寧ろ新軍を廢して,而不敢選于大夫之中,舉其賢者以使為卿。至此,則六卿之勢一定而不可變矣。其の魏の莊子の功を嘉するを觀るに,賞以金石之樂,而緜上之蒐,僅從新軍,以次佐下軍而已,亦不能如文公之用原軫也。夫れ撥亂反治は,苟無非常之才,其力固難以及遠也。

晉侯問衛故於中行獻子,至。謀定衛也。孫林父甚善晉大夫,而荀偃親嘗弑君者也,其不欲伐衛固宜。吾異乎悼公欲繼文、襄之烈,身為盟主,同姓之國有出其君者,不以為已恥,乃偷一時之安,納邪臣之說,墮冠履之義,身殁而公室遂卑,有以開其漸矣。

范宣子假羽毛於齊而弗歸,齊人始貳。楚之不能與晉爭成於子卒之侵欲也,而士匄復蹈之。及為政,而又重諸侯之幣,晉雖欲不失伯,得乎?

十六年,以寡君之未禘祀。時晉亦僣用禘祀之禮。

十九年,范宣子言于晉侯,以其善於伐秦也。錄子蟜伐秦之善,所以彰欒黶先歸之惡也。于是士匄將逐盈矣,

士子孔亦相親也。士,石經、宋本皆作二。

二十三年,晉將嫁女于吳。晉侯内有四姬而己,亦嫁女于吳,其違禽獸不遠矣。

初,臧宣叔娶于鑄,至。乃立臧為、臧紇。以少凌長,為臧氏後。及欲成季孫之邪心,廢長立少,遂失守宗祧。豈非君以此始,亦必以終乎?

二十五年,趙文子為政,令薄諸侯之幣,而重其禮。范滅趙興,基于此矣。

自今以往,兵其少弭矣。弭兵則威削于外,晉所以有黃池之羞;民附于内,趙所以能興晉陽之甲。 晉人問陳之罪。鄭伯之請伐陳,在范宣子為政之日,今新易趙武,故復詰問陳以何罪見伐?

故不書其族,言違命也。不書其族,蒙上會諸大夫之文也。二十七年。
其の族を書かざるは,上を蒙し諸大夫に會するの文なり。二十七年。

伯有賦鶉之賁賁,至。非使人之所得聞也。伯有憤于晉執衛侯,鄭伯為請而不獲命,必待納衛姬而後釋之,故賦鶉賁以刺趙武,言誰執晉政而不辨姓也。趙武恥之,故若不知其刺晉,而謂伯有自誣其上,
崔之薄,慶之厚也。及期而厚者亦亡矣,殆天討弑君之賊,而使自相殘也。

遂滅崔氏。崔氏滅于九月,慶氏即滅于明年之十一月。

二十九年,公在楚,釋不朝正于廟也。書公在楚,傷天下之無伯也。
「公在楚」と書くは、天下の伯無きを傷るなり。

三十年,無欲實難,至。邑將焉往?趙子直不知此義,

子産是以惡其為人也。使次己位。使次己位,滿其欲也。

泰侈者因而斃之。法不嚴,則制度徒為文具而不得行也。

子産請其田里,三年而復之。三年而復之,但欲其勿撓己政,不為已甚,所以安巨室也。

三十一年,滕成公來會葬。魯既留楚會葬,復尤而效之。時無伯主,則小大轉相役而已。

繕完葺墻,繕完,李涪刊誤云當作繕宇。

不立,是二王之命也。至。雖有國不立。觀狐庸之言,則夷昧將背前約而以位私其子,如宋趙普,豈容再誤之情矣?僚之立,非衆所戴也,宜其啟光之爭,以揖讓始之,而以篡弑終之歟?
狐庸の言を觀れば、則ち夷昧 將に前約に背きて以て位私其子。宋の趙普の如く,豈に再誤の情を容れん。僚の立つは,衆の戴する所に非ず。宜しく其れ啟光之爭,揖讓を以て之を始め、而して篡弑を以て之を終ふるか。

昭公

昭四年,鄭子産作邱賦,並從晉、楚,國用不足。子産賢者,豈得已乎?

六年,士匄相士鞅,逆諸河。士匄,董遇、王肅本皆作王正。疏云:不當取士鞅之父同姓名而為之介。
士匄なり、董遇・王肅は本は皆 王正に作る。疏に云ふ、當に士鞅の父を取りて姓名を同じくして之の介と為すべからずと。

七年,夢周公祖而行。周公祖以道之,雖鬼神亦無如蠻夷之橫矣。然則有能攘之以安中國者,豈非文、武、周公所式憑乎?是故夫子未嘗不偉桓、文之績也。
周公祖以道之,鬼神と雖も亦た蠻夷の橫が如き無し。然らば則ち能く之を攘ひて以て中國を安んずる者有らば,豈に文・武・周公の式憑する所に非ずや。是の故に夫子 未だ嘗て桓・文の績を偉とせず。

十三年,乃並徵會,告于吳。楚圍既死,乃敢徵會于諸侯。蓋政在私門,志不在于修伯業也。告于吳,謀因楚國未定而弱之。
楚圍既死,乃ち敢て諸侯を徵會す。蓋し政 私門に在り,志 伯の業を修むるに在らず。吳に告ぐるは,楚國 未だ定まらざるに因りて之を弱めんと謀る。

子産爭承,貢之無藝,不得已而取諸。邱賦爭承,庶乎得以寬民力焉,而竟不及改也。故制國用者,必先正君而善俗。

魯事晉,何以不如夷之小國?至。吾豈無大國?自昭以前,其辭命猶皆有三代禮義之風,至此則惟以利害相哃喝,流而為戰國縱橫之術矣。
昭より以前は,其れ辭命して猶ほ皆 三代の禮義の風有るがごとし。此に至りて則ち惟だ利害を以て相 哃喝し,流して戰國の縱橫の術と為る。

十五年,忘經而多言舉典,將焉用之?多言舉典而樂憂,習儀已亟而不慼,末盛本撥,適長亂亡而已。

十六年昔我先君桓公至。敢私布之。昔我桓公一段,借商人之質誓,以諷晉卿不當匄奪于小國。

十七年,天子失官,學在四夷。石經作天子失官,官學在四夷。

十九年:若大城城父而寘太子焉,至。故太子建居于城父。二五之出三公子也,動以啟土;無極之出太子,動以得天下。小人之言如一轍。

二十一年而不能送亡君孫毓。以送亡絶句。

二十三年,胡、沈之君幼而狂,至。楚必大奔,即鄭子元所以敗王師。

吳太子諸樊入□。諸樊二字當誤。

二十五年吾聞文武之世。文武,宋大字本作文成。

二十六年,王子朝使告于諸侯曰:至。亦唯伯仲叔季圖之。周之典籍皆歸子朝,故其辭有承平之風,其爾雅勝于呂相之絶秦也。
周の典籍 皆 子朝に歸し,故に其の辭 承平の風有り。其爾雅勝于呂相之絶秦也。
周之典籍皆歸子朝,故其辭有承平之風,其爾雅勝于呂相之絶秦也。

攜王奸命,至。則是兄弟之能率先王之命也。歷舉攜王、頽帶以指斥敬王。

二十八年,吾懲舅氏矣。懲舅氏,言其種之不宜子也。古者妾媵皆其姪娣,注以為嫌母氏性不曠,蓋因不使叔虎之母之文。

定公

定元年春王。未踰年而改元,不正之大者,是以經文定無正月。
未だ年を踰えずして改元す,不正の大なる者なり。是を以て經文 定めて正月無し。

五年,子西問高厚焉。石經高厚下有大小二字。
石經に、「高厚」の下に「大小」の二字有り。

六年,君將以文之舒鼎、成之昭兆、定之鞶鑑。衛為狄滅,大路少帛,掃地無遺,故言宗器自文公始。

鄭于是乎伐馮、滑、胥靡、負黍、狐人、闕外。子太叔始卒,而鄭遽為不道至此。

九年,陽虎欲勤齊師也至。己,于是奮其詐謀,田常以此智代齊。

十年,公會齊侯于祝其,實夾谷。此篇敘事,于孔子皆稱名,君在會故也。
此の篇 事を敘するや,孔子に于て皆 名を稱す,君 會在るが故なり。

使公若為郈宰,至。齊人乃致郈。費屢叛,至是郈亦叛矣。墮費、墮郈,皆因勢利導之也,二子所謂遊其術中而不悟者。羅氏既盡殺其牙兵而悔,亦猶是也。朱子語類論此事亦爾,亦引羅紹威事為詞。
費 屢々叛し,是に至りて郈も亦た叛す。費・墮郈を墮すは,皆 勢利 之を導くに因るなり。二子 所謂 其の術中に遊びて悟らざる者なり。羅氏 既に盡く其の牙兵を殺して悔ゆるも,亦た猶ほ是れなり。朱子語類 此の事を論じて亦た爾り,亦た羅紹威の事を引きて詞を為る。

十三年,使師伐晉,將濟河,至。乃伐河内,孟達以此亡。蓋司馬懿之師在外,與此固懸殊也。
孟達 此を以て亡ぶ。蓋し司馬懿の師 外に在るは,此と固に懸殊なり。

哀公

哀七年,以吳為無能為也。以吳為無能為句,為伐邾起本。

十二年盟,所以周信也,至。亦可寒也。吳本蠻夷,太宰又小人也,不可喻以禮教,故子貢、景伯皆詭其辭以止之。若對季札、伍員,當改命矣。
吳は本は蠻夷なり,太宰 又 小人なり。禮教を以て喻す可からず。故に子貢・景伯 皆 其の辭を詭して以て之を止む。若對季札、伍員,當改命矣。

楚のつぎは呉を蛮夷として批判。


十五年,成叛于齊,至是而成亦叛,所謂五世希不失。
是に至りて成 亦た叛し,所謂 五世希不失なり。

於是乎有朝聘而終以尸將事之禮,至。無乃不可乎?吳人不欲以尸入,惡其凶也,故以不許奉尸將命,則是吳人先以凶禮自處折之。
吳人 尸を以て入るるを欲せざるは,其の凶を惡めばなり。故に以不許奉尸將命,則ち是れ吳人 先に凶禮を以て自ら處折之。

二十二年,越滅吳。闔廬之殪,力已竭于入楚也;夫差之亡,力已斃于勝齊也。越適乘之耳。天下未有能以獨力拔一國者也。義門讀書記卷十
闔廬の殪,力 已に楚に入るに竭くるなり。夫差の亡,力 已に齊に勝つに斃る。越 適だ之に乘ずるのみ。天下 未だ能く獨力を以て一國を拔く者有らざるなり。250204

『義門読書記』巻十一 穀梁春秋

隠公

隱元年春王正月,所紀者魯侯之年。春秋,魯史也,所奉者,周王之朔。子為正,春始於子月,皆從周制。春秋,天子之事也,
紀す所の者は魯侯の年なり。春秋は,魯の史なり。奉る所の者は、周王の朔なり。子(ね)をば正と為し,春は子の月に始まるは,皆 周制に從ふ。春秋は,天子の事なり。

緩追逸賊,親親之道也。建文帝不欲負殺叔父名,斯言為之。
建文帝 負きて叔父の名を殺すを欲せず,斯の言 之と為る。

母以子氏,至。賵人之妾,則不可。由此說乃與僖公、成風一例。啖氏亦云然。
此の說に由りて乃ち僖公・成風と與に一例なり。啖氏も亦た然云ふ。

祭伯來,善親親也。凡、蔣、邢、茅、胙、祭,周公之允也。
善く親親するなり。凡・蔣・邢・茅・胙・祭は,周公の允なり。

二年會戎,危公也。會戎於潛,傷天下之無王也。東方禮義之國,出與之會,非桓、文之作,周制日替矣。
戎に潛に會するは,天下の無王を傷むなり。東方の禮義の國,出與之會,桓・文の作すに非ざれば,周制 日ごとに替る。

秋八月庚辰,公及戎盟于唐。春會秋盟,何其親也?
春に會し秋に盟ふ,何ぞ其れ親しきか。

三年求之為言,得不得未可知之辭也,交譏之。曰交譏者,得經意。周則失矣,魯何以致此也?
「交々譏る」と曰ふは者,經の意を得たり。周 則ち失し,魯 何を以て此に致るや。

四年,大夫弑其君,以國氏者,嫌也。晉趙盾弑其君,可謂以國氏乎?曰祝吁者,未命之辭也。
四年,大夫 其の君を弑す。國を以て氏とする者は,嫌なり。晉の趙盾 其の君を弑すは,國を以て氏とすと謂ふべきか。曰祝吁者,未命之辭也。

于濮者,譏失賊也。于濮,紀實也。弑君之賊,當窮討焉耳。
于濮は,實を紀すなり。弑君の賊,當に窮めて焉を討つべきのみ。

立者,不宜立者也。晉未見其不宜立也。其曰立者,雖不命于先君,而國不可以無主,為衆之所予,則入而承其統焉可也。蓋異乎不待迎而入國者矣,予之也。 立は,宜しく立つべからざるものなり。晉 未だ其の宜しく立つるべからざるを見ざるなり。其れ立と曰ふ者は,先君より命ぜられずと雖も、而れども國 以て主無かる可からざれば,衆の予する所と為り,則ち入りて其の統を承ぐは可なり。蓋し迎を待たずして國に入る者と異ならんか。之を予するなり。

五年仲子者,惠公之母。此仲子自當為桓公之母。

伐不踰時。至。斬樹木壞宮室曰伐。唯其重,故不踰時。

七年,滕侯卒。滕侯卒,當與後宿男卒同,史闕文耳。左氏以為未同盟則宿男卒,又相違反矣。若曰宿男不赴以名,又理之難通者也。未同盟而猶赴以名者多矣。
七年,滕侯 卒す。滕侯 卒し,當に後の「宿男 卒す」と同じく,史 文を闕くのみ。左氏 以て未だ同盟せずして則ち「宿男 卒す」と為し,又 相 違反す。若し「宿男 赴くに名を以てせず」と曰はば,又 理の通じ難き者のみ。未だ同盟せずして猶ほ赴くに名を以てする者は多なり。

ネタ3になりそうな予感。


齊侯使其弟年來聘。國君無子,則當立母弟,故必殊之于庶孽也。
國君 子無ければ,則ち當に母弟を立つべし。故に必ず之れ庶孽に殊なれり。

諸侯之尊,弟兄不得以屬通,公弟叔肸又何以云哉?下不敢以屬通上,則未嘗不以是親親也。燕則與族齒。
公弟叔肸 又 何を以てしか云ふや。下は不敢以屬通上,則ち未だ嘗て是れ親親を以てせずんばあらず。燕は則ち與族齒。

九年聘諸侯,非正也。天王下聘,不發例于七年之凡伯來聘者,凡伯未及致命也。
天王 下聘,不發例于七年之凡伯來聘者,凡そ伯にして未だ致命に及ばざるなり。

十一年隱十年。無正。隱不自正也。隱既濡滯不決,有以啟羽父之邪謀,至于十年,亦已久也,故無正。
隱 既に濡滯にして決せず,有以啟羽父之邪謀,十年に至りて,亦た已に久し。故に正無し。

桓公

桓二年。何以知其先殺孔父也?至。字,諡也。然則字其臣子者,乃豫凶事也。

以成宋亂。書以成宋亂,見公生平之為亂人也。

六年。時曰同乎人也。同乎人也,謂他日忘乎不與共戴天之讎,遽接齊人也。

八年。祭公來,遂逆王后于紀。此注言天子亦親迎,據禮甚核。但以文王為天子之証,則謬也。
此の注 言ふ天子も亦た親迎すと。禮に據らば甚だ核なり。但だ文王を以て天子の証と為すは,則ち謬なり。

九年。為之中者,歸之也。為之中,謂魯。

十四年,無冰。無冰獨書于春,明其為周正也。
無冰は獨り春に書くは,其の周正為るを明らかにするなり。

夫嘗必有兼甸之事焉。釋文:兼甸,一本作旬。趙匡云:此旬事爾,言祭事當久辦,非一旬所了。傳寫者見前有甸字,遂改爾。

趙匡(唐代の経学者)の校勘意見を踏まえる。


十七年。葬蔡桓侯。諸侯本當稱侯,曰公者,不得已而從其臣子之辭也。是時,蔡人獨不違舊典,因而存其實。注非。
諸侯 本は當に侯を稱すべし。公と曰するは,已むを得ずして其の臣子の辭に從ふなり。是の時,蔡人 獨り舊典に違はず,因りて其の實を存す。注 非なり。

直接話法のときだけ、やむを得ず「公」と書いてよい。注を否定しているのはおもしろい。ネタ4?


荘公

莊元年。王使榮叔來錫桓公命。此注范駁何公羊注,甚失輕重,不知而作。
此の注 范(范寧)何(何休)の公羊注に駁し,甚だ輕重を失ひ,知らずして作る。

三年,不志崩,失天下也。經于桓十五年三月書天王崩,而傳云不志崩,所未喻。范注亦不加契勘。
三年,崩を志さざるは,天下を失へばなりと。經は桓十五年三月に于て「天王 崩」と書く,而れども傳 云はく崩を志さずと。未だ喻せざる所なり。范注も亦た契勘を加へず。

『穀梁伝』の説明があきらかに経文に反しているのに、范寧が指摘してないじゃないかと。


十三年:桓非受命之伯也,將以事授之者也。上左將軍為大司馬,惜未引此。
桓 受命の伯に非ず。將に事を以て之に授くる者なり。上左將軍為大司馬,未だ此を引かざるを惜む。

其不日,微國也。不日者,史失其文。
其れ日いはざるは,國を微すればなり。日いはざるは,史 其の文を失く。

十五年:婦人既嫁不踰竟。踰竟,非禮也。父母終,乃不得歸寧。此傳未詳。
父母 終せば,乃ち寧に歸るを得ず。此の傳 未だ詳らなからず。

二十七年:兵車之會四,未嘗有大戰也,愛民也。齊桓雖有侵蔡伐楚之事,然所以致此者,非兵車也。
齊桓 蔡を侵し楚を伐つの事有りと雖も,然れども此に致る所以の者は,兵車に非ざるなり。

『穀梁伝』の象徴的な読み解きを、平板な常識で砕いていく。


二十八年:其以衛及之,何也?以其微之,可以言及也。衛人不服罪,以自取敗。以衛及之,罪衛也。
其れ衛を以て之に及ぶは,何ぞや。其れ之を微するを以て,可以言及也。衛人 罪に服せず,以て自ら敗を取る。衛を以て之に及ぶは,衛を罪せばなり。

閔公

閔二年:不以討母葬子也。不必得經意,然思之精矣。閔二年:不以齊侯使高子也。不以齊侯者,嫌以齊臨魯,若縣鄙也。
必ず經の意を得ざるなり,然れども之を思ふこと精たり。閔二年、不以齊侯使高子也。齊侯を以てせざるは,齊 魯に臨むを以て嫌ひ,若縣鄙也。

僖公

僖元年:齊人以歸。先言薨于夷,而後言齊人以歸,為内諱而仍不沒其實。
先に「夷に于て薨ず」と言ひ,而れども後に「齊人以歸」と言ふ。内諱を為して仍ち其の實を沒せず。

其不言姜,以其殺二子,貶之也。我猶以夫人之禮迎其喪,齊人則不復以為女,故不言姜也。

二年,衛未遷也,故與城邢異辭。

五年,尊王世子于首戴,乃所以尊天王之命也。所以優于文者,此也。然必合左氏而後本事始見。
文に優るる所以の者は,此れなり。然れども必ず左氏に合して後に本事 始めて見ゆ。

九年,今背殯而出會,以宋子為無哀矣。襄公圖霸之不終,於是見之矣。葵邱之會,于五伯為盛,而列宋子,其無政教亦從可知。

其君之子云者,國人不子也。公羊得之。此亦備一說。
公羊 之を得たり。此れも亦た一說を備ふ。

十年,晉獻公伐虢,得麗姬。以為伐虢得之者,異聞。
以て虢を伐ちて之を得ると為す者は,異聞なり。

十二年,若伐而不能救,則無以宗諸侯矣。蕭望之不臣匈奴之議本此。
蕭望之 不臣匈奴の議 此を本とす。

十七年,其不正前見矣,至。故稱嫌焉耳,所謂惡惡疾其始。

十八年,宋公、曹伯、衛人、邾人伐齊。夏,師救齊。宋公書爵,善討亂也。師不稱率之者,諱助亂也。魯其為狄矣。
宋公 爵を書くは,亂を討つを善とせばなり。師 不稱率之者,亂を助くるを諱めばなり。魯 其れ狄為り。

二十二年,伐齊之喪,執滕子,圍曹。為雩之會,不當并伐齊喪數之。

二十六年,乞,重辭也。至。非所乞也。曰乞,示譏中國,而乞師于夷公之不忍小忿,失其所向背也。然天下之無伯,至于投命非所,其亦重可傷矣。
「乞」と曰ふは,中國を譏るを示し,而して乞師于夷公之不忍小忿,其の向背する所を失ふなり。然れども天下の伯無きは,命を非所に投ずるに至り,其れ亦た重く傷む可きなり。

不日,微國也。以歸,猶愈乎執也。不日,地遠而告者不詳也。既滅同姓,又擅以其君歸,楚之橫暴甚矣。
日いはざるは,微國なればなり。以歸,猶愈乎執也。日いはざるは,地 遠くして告ぐる者 詳らかならざればなり。既に同姓を滅し,又 擅に以其君歸,楚の橫暴 甚しきなり。

二十七年,公會諸侯,盟于宋。言諸侯者,諱即夷。
「諸侯」と言ふは,夷に即くを諱めばなり。

二十八年,諱會天王也。諱之者,正名謹微也。

天王守于河陽,先書會,然後言王守,謹微者至矣。主善以内,故獨曰公。
先に「會」と書し,然る後に「王守」と言ふ。謹微者至矣。主善以内,故獨曰公。

三十二年,鄭伯捷卒。鄭伯捷不書葬,畏晉也。鄭來赴而魯不會。
鄭伯捷「葬」と書かざるは,晉を畏るればなり。鄭 來赴して魯 會せず。

三十三年,癸巳,葬晉文公。殽之戰書日,葬文公即以是月。不日,則疑二事皆在辛巳,故重書日也。
殽の戰 日を書し,文公を葬るは即ち是の月を以てす。日いはざるは,則ち二事 皆 辛巳に在るを疑ひ,故に重ねて日を書くなり。

文公

文二年,内大夫可以會外諸侯。内小惡不諱,非謂其可會也。人不得無禮于我,我可無禮于人乎?著其實以示譏爾。

三年,叔服也。此不卒者也。此非叔服,傳誤也。
此れ叔服に非ず,傳 誤まりなり。

六年,猶之為言可以已也。閏月猶朝于廟,則凡月當告朔可見。書此者,以見後此不告朔之非。以為可以已者,殆失本意。
六年,猶之為言可以已也。閏月 猶ほ廟に朝するは,則ち凡そ月 當に朔を告べて見る可し。此れを書くは,以見後此不告朔之非。以為へらく可以已者,殆ど本意を失ふ。

ここも穀梁伝の批判ではある。


九年葬襄王。襄王獨書葬,蓋自是魯始會葬焉爾。踐土之盟,河陽之朝,惡可少之哉!
襄王 獨り葬を書く。蓋し是より魯 始めて會葬す。踐土之盟,河陽之朝,惡ぞ之を少とす可きか。

十四年同者,有同也,同外楚也。書同者,傷大夫會諸侯,抗然若等夷,無所忌也。自此政在大夫矣。政在大夫,此夷狄之所以得肆,而楚遂入主夏盟也。
「同」と書くは、傷大夫會諸侯,抗然若等夷,無所忌也。此より政 大夫に在り。政 大夫に在り、此れ夷狄の肆にするを得たる所以にして,而して楚 遂に入りて主夏盟也。

十五年諸侯盟于扈。諸侯既來徵會盟,又來告公,雖以有齊難不與,猶因其來告而書之。既不與盟,則不復悉知盟者之為某國,故略舉其槩也。

宣公

宣元年遂之挈,由上致之也。由上,謂緣上公子遂之文。

宋公、陳侯、衛侯、曹伯會晉師于棐林,伐鄭。本欲救陳,畏楚不敢往,伐鄭以牽制之。言晉師者,緣上之辭,亦諱政在大夫,不使諸侯與之齊也。

十一年楚子入陳。復書入者,幾不以義終,故著其伯討之不光也。

十二年葬陳靈公。楚子入陳,陳幾不祀。書葬靈公,嘉楚子之悔過,陳得以復延也。

晉人、宋人、衛人、曹人同盟于清邱。書同盟者,同懼楚也。

十五年,公孫歸父會楚子于宋。諱附夷狄以虐王者之後,故不言帥師會圍宋。

成公

成二年,季孫行父、臧孫許、叔孫僑如、公孫嬰齊帥師會晉郤克、衛孫良夫、曹公子手,及齊侯戰于鞌。書四卿者,著政逮大夫,不相稟承,
嬰齊亢也。嬰齊亢而書公,不與高傒、處父同辭者,恥在中國無伯,蠻夷之臣得亢列國之君,不在公也。唐趙氏則云:與他國卿盟則恥之,會則不恥,故澶淵亦書公會鄭良霄。
嬰齊亢而書公,不與高傒、處父同辭者,恥在中國無伯,蠻夷之臣得亢列國之君,不在公也。唐の趙氏 則ち云はく、他國の卿と盟ひて則ち之を恥とし,會して則ち恥ぢず,故に澶淵も亦た「公會鄭良霄」と書く。

十五年,此公孫也,其曰仲何也?子由父疏之也。於時更有公孫嬰齊,故稱仲以别之爾。疑非疏之。
十五年,此公孫也,其曰仲何也?子由父疏之也。於時更有公孫嬰齊,故稱仲以别之爾。疑ふらくは之を疏とするに非ず。

秋,八月,庚辰,葬宋共公。日葬,宋亂,故危之也。

十七年,同盟于柯陵。會有尹單,既不可以王人槩之,又緣上文,故不復出諸侯也。

襄公

襄三年,曰袁僑,異之也。言大夫當刺,而袁僑不當刺,故異之也。

十八年:晉人執衛行人石買。書執行人,譏其不能申伯討釋逐君之賊,而但執其使也,

非大而足同焉。此傳文義殊晦。後考石經,乃知焉字誤,本與字耳。宋本亦與。
此の傳文の義 殊に晦なり。後に石經を考ふるに,乃ち「焉」の字 誤なるを知り,本與字耳。宋本亦與。

二十七年:溴梁之會,至。晉趙武為之會也。中有甯喜事。又至者非一時,為重敘文繁,故經以諸侯之大夫該之,不如傳所云也。豹去氏,義同。左氏,亦鑿。
中有甯喜事。又至者非一時,為重敘文繁,故に經 諸侯の大夫 之を該するを以て,傳の云ふ所の如くならず。豹去氏,義 同じ。左氏も,亦た鑿す。

二十九年:其名,成尊於上也。賢者不名,然對吳子而言,則不得不名矣,故曰成尊於上也。

昭公

昭四年:慶封封乎吳鍾離。言封鍾離,異聞。

楚虔 躬ら弑君の賊と為り,而も又 詐を行ひ,故に其の討に與せず。此の注 傳と違反するも,其の論 亦た當なり。

十三年:弑君者日。不日,比不弑也。虔死于外,不得其日。不日者,從其實也。
君を弑するは日いふ。日いはざるは、不弑に比す。虔 外に死し,其の日を得ず。日いはざるは,其の實に從ふなり

十九年:日卒時葬,不使止為弑父也。止未踰年而死,則悼公之葬,或在止既死之後,與賊在而不能討者異,故書葬歟? 十九年:日卒時葬,止をして弑父と為らしめず。止 未だ年を踰えずして死せば,則ち悼公の葬,或いは止 既に死するの後に在り,賊 在りて而して不能く討つ者と異なり,故に「葬」を書くや。

ネタに使えそう。


定公

定十二年。何以致?危之也。何危爾?邊乎齊也。下年齊侯次于垂葭,蓋救成也。陪臣結外援以抗君命,故以圍言之,如二國也。義門讀書記卷十一。250205

『義門読書記』巻十二 公羊春秋

隠公

隱元年:王者孰謂?謂文王也。至。王正月也。榖梁不解王字為疏,此云文王者,本之文王既沒,文不在兹之云也。劉知幾云:年則魯君之年,月則周王之月。自謂攷竹書紀年始達此義,豈知已不外此傳之中乎? 王者 孰か謂ふ。文王を謂ふなり。王正月に至るまで。
榖梁 王字の疏為るを解せず。此こに文王と云ふは,本の文王 既に沒し,文 不在兹之云也。劉知幾 云ふ、年は則ち魯君の年、月は則ち周王の月なり。自ら謂へらく竹書紀年を攷ふるに始めて此の義に達す。豈に已に此の傳の中を外れざるを知るや。

大一統也。後世正統之說出于公羊。
大一統也。後世の正統の說 公羊より出づ。

母以子貴。以子貴,謂有子則以次升為貴妾也。
子を以て貴しは,謂ふらくは子有れば則ち次を以て升せて貴妾と為るなり。

曷為稱字?褒之也。字不若子未命,姑書字也。
曷ぞ為に字を稱するか。之を褒むればなり。字不若子未命,姑書字也。
克之者何?殺之也。勝之而未殺,故曰克,傳非也。
克之者何?殺之也。之に勝ちて未だ殺さず,故に克と曰ふ,(公羊)傳は非なり。

何以不稱弟?當國也。不弟者,鄭伯不以為弟也。
何を以て「弟」と稱せざる。當國ならばなり。「弟」といはざるは、鄭伯 以て弟と為さざればなり。

其言惠公仲子何?兼之。兼之非禮也。兼之,所謂於失禮之中又失禮焉。
其れ「惠公・仲子」と言ふは何ぞや。之を兼すればなり。之を兼するは、非禮なり。兼之,所謂 失禮の中に於て又 失禮するなり。

二年,宋公使公孫壽來納幣,則其稱主人何?辭窮也。辭窮者何?無母也。身為宗子,而又無母,故辭窮也。
二年,宋公 公孫壽をして來納幣せしめ,則ち其れ「主人」と稱するは何ぞや。辭 窮まればなり。辭 窮するは何ぞや。母無ければなり。
身ら宗子為りて,而も又 母無し。故に辭 窮するなり。

紀子伯者何?無聞焉爾。子者,衍文也。
「子」は、衍文なり。

夫人子氏者何?隱公之母也。何以不書葬?成公意也。夫人子氏者,桓公之母也。何以不書葬?桓未成乎君也。 夫人子氏者何?隱公の母なり。何を以て葬を書かざる。成公の意あればなり。
夫人子氏は、桓公の母なり。何を以て葬を書かざる。桓 未だ君に成らざればなり。

三年宋公和卒。惟宋公之卒書公,而他國則書侯伯子男者,自我正其名也。葬則他國皆書公,既從主人,而因以不沒其僣稱上公之實也。吳、楚之君不書葬,民無二王,不得復從彼國,蓋誅絶之義也。
惟だ宋公の卒のみ「公」と書きて,而れども他國は則ち「侯伯子男」と書くは,自我 其の名を正すなり。葬すれば則ち他國は皆ち「公」と書くは,既に主人に從ひ,而も因りて以て其の上公を僣稱するの實を沒せず。吳・楚の君は「葬」と書かず,民に二王無く,復た彼の國に從ふを得ざれば,蓋し誅絶の義なり。

ネタとして使えそう。「實」があるし。


吾立乎此,攝也。自宋、魯之禍相仍,而攝之道廢,攝主廢政,在大夫之由也。
宋・魯の禍 相 仍するより,而して攝の道 廢し,攝主廢政,大夫に在るの由なり。

四年翬者何?公子翬也,至。與弑公也。隱與桓,皆先君也,於桓不得不諱,則誅翬不得不嚴也。翬之罪既不可以質言,貶於桓之代,於義益無所附。今加貶于隱一代之中,使人因而推得其故,所謂微而顯也。
隱と桓は,皆 先君なり,桓に於て諱まざるを得ず,則ち翬を誅するは、嚴ならざるを得ざるなり。翬の罪 既に不可以質言,桓の代を貶め,義に於て益々附する所無し。今 貶を隱一代の中に於て加へ,人をして因りて推して其の故を得しむ。所謂 微にして顯なり。

うまい感じの「諱」です。


五年夏四月,葬衛桓公。書葬,善其能討賊,非譏過期。
「葬」と書くは,其の能く賊を討くを善とす。期を過ぐるを譏るに非ず。

公羊伝の説に反対している。おもしろ。


考仲子之宮,不袝于姑,故别立廟。
姑を袝せず,故に别に廟を立つ。

初獻六羽。因考宮而獻六羽,别而言之者,考宮宜也,六羽僣也。先著其善,後譏其惡,所謂婉而辨也。
先に其の善を著し,後に其の惡を譏る。所謂 婉にして辨なり。

ふかよみ。


天子之相,則何以三至。一相處乎内?此說獨見于此。
此の說 獨り此このみに見ゆ。

六年,狐壤之戰,至。諱獲也。事在隱即位前,非諱。
事 隱の即位の前に在り,諱むに非ず。

どのように公羊伝に逆らっていくか。


七年,何以不名?微國也。不名者,史失其名。
七年,何を以て名いはざる。微國なればなり。
名いはざるは,史 其の名を失へばなり。

名前を書かない理由を『公羊伝』とは別に設定する。


城中邱何以書?以重書也。書者,當以其不時,然傳意有可採。
城中邱 何を以て書くか。重んずるを以て書くなり。
書くは、當に其の不時を以てし,然れども傳の意 採る可き有り。

十年,隱之罪人也,故終引之篇貶也。桓三年,書公子翬故。
十年,隱之罪人也,故に終に引之篇貶也。
桓三年,公子翬を書くが故なり。

まだよく分からないが『公羊伝』の書く基準を説いてる。


桓公

桓二年,宋督弑其君與夷,及其大夫孔父。仇牧、荀息不書字。孔父書字,以祖考故也。
桓二年,宋督 其の君の與夷を弑し,其の大夫の孔父に及ぶ。
仇牧・荀息 字を書かず。孔父 字を書くは,祖考を以ての故なり。

ここはおもしろい。


何賢乎孔父?善其能與君共存亡,故略其卑而書及,以旌異之。
何ぞ孔父を賢とする。其の能く君と存亡を共にするを善とし、故に其の卑しきを略して及べるを書き,以て之を旌異す。

器之與人,非有即爾。器為無情之物,不能於人相就。
器は無情の物為り,人に於て相 就く能はず。

冷静なツッコミだ。


五年,譏父老,子代從政也。代從政,謂子攝其官。於世卿之中,又失禮焉。書仍叔之子,甚之也。
父老を譏り,子 代はりて從政するなり。代はりて從政するは,子 其の官を攝るを謂ふ。世卿の中に於てすら,又 禮を失せり。仍叔之子を書くは,之を甚しとすればなり。

八年春正月己卯,烝。書正月烝者,以其為周時也。此宜烝下則譏爾。常時不書,獨書之者,以正其失常者也。
正月の烝を書くは,其の周時為るを以てなり。此れ宜しく烝下則譏爾。常時に書かず,獨り之を書くは,其の常を失ふを正すを以てなり。

祭公來。或稱祭伯,或稱祭公,時王進退之也。
或いは祭伯と稱し,或いは祭公と稱す。時の王 之を進退するなり。

十一年,宋人執鄭祭仲。書祭仲,舍爵,明乎其貶也。
「祭仲」と書き、爵を舍つ。其れ貶すること明らけし。

十二年,嫌與鄭人戰也。下年二月,復會鄭伯,與四國之師戰,則二傳言與鄭人戰為無據也。當從左氏。
十二年,鄭人と戰ふことを嫌ふなり。下年二月,復た鄭伯に會し,四國の師と戰ふ。則ち二傳の鄭人と戰と言ふは據るもの無しと為す。當に左氏に從ふべし。

これはネタ確定。おめでとう!


十五年,許叔入于許。入者,難也。鄭人守之,外無援,内無應,而許叔能復其土地人民,可不謂難乎?故書字以嘉之。注非也。
十五年,許叔 許に入る。入といふは,難ずるなり。鄭人 之を守り,外に援無く,内に應無く,而れども許叔 能く其の土地人民を復す。難しと謂はざる可きか。故に字を書して以て之を嘉す。注は非なり。

皆何以稱人?夷狄之也。此蓋因其國而用其禮也。注云:不當朝桓,失之。 皆 何を以て人と稱す。之を夷狄とすればなり。
此れ蓋し其の國に因りて其の禮を用ふなり。注に云ふ「當に桓に朝すべからず」は、之を失せり。

夷狄がらみと書き換え問題。


十八年,君子辭也。言君子之恕辭也,其賊非吾所得討。
言ふこころは君子の恕辭なり,其の賊 吾の討つを得る所に非ず。

荘公

莊五年,曷為不言納衛侯朔?辟王也。此所謂内大惡諱。注指下文王人子突,謂避王者兵,非也。
曷ぞ為不言納衛侯朔?辟王也。
此れ所謂 内の大 惡諱するものなり。注は下文の王人子突を指して,避王者兵と謂ふも,非なり。

これはすごい。役に立つ。


六年,不得意致伐。上雖諱之,而仍致伐,以顯其實。
上は之を諱むと雖も,而ち仍致伐,以て其の實を顯とす。

齊人來歸衛寶。左氏曰:衛俘。深沒其文,諱取賂以犯王命,使若取所歸者,乃前伐衛所獲之俘焉爾。
左氏曰く、衛俘なりと。深く其の文を沒し,賂を取りて以て王命を犯すを諱む。使若し歸する所を者取らば,乃ち前に衛を伐ちて獲る所の俘なり。

則其稱齊人何?讓乎我也。書齊人者,見魯前非主兵,後分齊利,以殺内惡也。
則ち其れ齊人と稱するは何ぞや。我に讓せばなり。
齊人と書くは,魯 前に主兵するに非ず,後に齊の利を分くるを見はし,以て内惡を殺ぐなり。

八年,非師之罪也。傳意謂非師病,而所以出者則病也。
八年,非師之罪也。傳の意 非師病と謂ふも,而れども出づる所以は則ち病なり。

九年,何以不稱公子?君前臣名也。下言取子糾,則明是脫文。
九年,何を以て公子と稱せざる。君の前臣の名なればなり。
下に取子糾と言ふ,則ち明らかに是れ脫文なり。

其言入何?篡辭也。入者,難辭也, 糾與之爭也。
其れ入と言ふは何ぞや。の辭なり。入とは,難の辭なり。 糾 之と爭ふなり。

及齊師戰于乾時,我師敗績。經意惜伐齊之師不用于襄存之日,而反于襄之既亡,勞師欲定讎嗣,顛倒失正,故獨書敗。傳似失之。
齊師 乾の時に戰ふに及び,我が師 敗績す。
經の意 齊を伐つの師 襄存の日を用てせざるを惜む。而れども反りて襄の既に亡ぶに于て,師を勞して欲定讎嗣,顛倒して正を失ひ,故に獨り敗と書く。傳 之を失ふが似し。

十二年,其國亡矣,徒歸于叔爾也。酅不繫齊,所以成叔姬之志。叔姬一婦人,能植其節,隱然若紀未亡也。
十二年,其の國 亡ぶ,徒だ叔に歸す。
酅 齊に繫せざるは,叔姬の志を成す所以なり。叔姬は一婦人なるも,能く其の節を植し,隱然と未だ亡びずと紀すが若きなり。

十三年,曹子請盟,桓公下與之盟。以非兩君,故不盟于壇上也。
十三年,曹子 盟を請ふ。
桓公の下に、之と與に盟す。兩君非ざるを以て,故に壇上に盟はざるなり。

十九年,諸侯不再娶。不再娶者,恐後夫人危嫡子,為宗社之禍。
諸侯 再び娶らず。再び娶らざるは,後夫人 嫡子を危ふくし,宗社の禍と為るを恐るればなり。

二十年,齊人伐戎,魯不與師,而大書之,嘉其能憂中國也。
齊人 戎を伐つ。 魯 師に與せず,而れども之を大書す。嘉其能憂中國也。

魯史が書く理由がないのに。


二十二年,冬,公如齊納幣。不言月,譏公之忘其在二十五月之中也。
月を言はざるは,公の其の二十五月の中に在るを忘るるを譏ればなり。

何譏爾?親納幣,非禮也。本譏忘哀,而舉親納幣者,大惡諱,但因事以見意也。注謂不譏喪娶,舉淫為重,非也。
……非禮なればなり。本は哀を忘れ,而も舉親納幣者を譏る。大惡 諱み,但だ事に因りて以見意也。注 謂はく喪娶を譏らず,淫を舉げて重と為す,非なり。

注が問題視したところが本当の礼制上の問題ではないぞと。


二十三年,祭叔來聘。人方有喪,而行嘉好之事,故不稱使。
人 方に喪有るに,而れども嘉好之事を行ふ,故に使と稱さず。

荆何以稱人?始能聘也。知有禮義威儀,則人之也。
荆 何を以て人と稱する。始めて能く聘せばなり。
禮義・威儀有るを知りて,則ち之を人といふなり。

異民族の見下し。


公在外也。在外,故不書來朝。
公 外に在るなり。外に在らば,故に來朝と書かず。

二十九年,何譏爾?凶年不脩,築邑脩廏,皆荒政也。其譏者,與告糴同例。然則并此無之者,其得罪于百姓益甚矣。
築邑・脩廏は,皆 荒政なり。其れ譏るは,告糴と同例なり。然らば則ち并此れ無之者,其れ罪を百姓益甚に得るなり。

紀叔姬卒。申其志節也。
其の志節を申するなり。

だからわざわざ書いた。


三十年,鄣者何?紀之遺邑也,至。盡也。觀此,知樂生不取二城之意矣。 此を觀るに,樂生 二城を取らざるの意を知るなり。

めずらしく『公羊伝』の解釈に乗っかってる?


三十一年,其威我奈何?旗獲而過我也。傳未必合。
傳 未だ必ずしも合せず。

三十二年,無子不廟。不廟,則不書葬。不書葬者,賊不討也,與閔公例同。
葬と書かざるは,賊 討たざればなり。閔公の例と同じ。

閔公

閔元年,既而不可及,因獄有所歸,不探其情而誅焉,親親之道也。季子力不逮爾。此傳進退無據。
既にして及ぶ可からず,獄の歸する所有るに因り,其の情を探らずして誅す,親親の道なり。
季子の力 爾に逮ばず。此の傳の進退 據る無し。

冬,齊仲孫來。前書公子慶父如齊,後書公子慶父出奔莒,中間復入,不見于經。二傳以為慶父者,近之。繫之齊者,既外慶父,亦譏桓公為伯主,不能遏亂萌于早也。左氏以為齊仲孫湫,則從下書高子來盟之例,兩存其說可也。
前に公子慶父 齊に如くを書き,後に公子慶父 莒に出奔するを書き,中間に復た入り,經に見えず。二傳 以て慶父と為すは、近之。之を齊に繫ぐは,既に外慶父,亦た桓公 伯主と為るも,亂萌を早きに遏する能はざるを譏るなり。左氏 以為齊仲孫湫,則ち從下に書高子來盟之例,兩つながら其の說を存するは可なり。

以春秋為春秋。以春秋為春秋者,據經以解經也。注謂以史記氏族為春秋,言古謂史記為春秋,恐非。
春秋を以て春秋と為す。 春秋を以て春秋と為すは,經に據りて以て經を解するなり。注 謂へらく史記の氏族?を以てをして春秋と為し,言古は史記を謂て春秋と為すは,恐らく非なり。

点の切り方がよく分からず、この訓読は違う気がする。


冬,齊高子來盟。高子久留定魯,故不月。
高子 久しく魯に留定す,故に月いはず。

僖公

僖元年,上無天子,至。則救之可也。易曰:通其變,使民不倦。聖人之不得已也。
易に曰く、其に變に通ずと。民をして倦ましめず。聖人の已むを得ざることなり。

二年,曷為不言狄滅之?為桓公諱也。前已書狄入衛,則此非為桓公諱也。穀梁得之。 曷為れぞ「狄 之を滅す」と言はざる。桓公の為に諱むなり。
前に已に「狄 衛に入る」と書く,則ち此れ桓公の為に諱むに非ざるなり。穀梁 之を得たり。

曷為為桓公諱?至。則救之可也。義同而復舉之者,如詩人之有詠歎,所以見春秋之不得已而作。
義 同じくして復た之を舉ぐるは,詩人の詠歎有るが如し。所以に春秋の已むを得ざりて作るを見る。

無意味に見える反復についての弁明・解釈。


葬我小君哀姜。上不稱姜氏者,齊絶之也。此仍言哀姜者,從其實。
上に姜氏と稱せざるは、齊 之を絶てばなり。此れ仍りて哀姜と言ふは,其の實に從ふ。

四年,何以致伐楚叛盟也。致伐楚者,大其績也。楚於是始懼中國,故又見于詩之頌。月者,見其役之重。注謂危公之久,非也。
楚を伐つに致るは、其の績を大とす。楚 是に於て始めて中國を懼れ,故に又 詩の頌を見はす。月いふは,其の役の重きを見はす。注に謂ふ危公の久は,非なり。

十四年,曷為為桓公諱?至。則救之可也。
亡國に存し,君難に死す。特に皆 再三の發例を反覆す。

おもしろそうなのでよく読め。


外異不書,此何以書?為天下記異也,故不繫晉。 外異 書かず,此れ何を以て書くか。天下の為に異を記すなり。 故に晉に繫がず。

十五年,晦者何?冥也。春秋不書晦,故以晝冥釋。
春秋は晦を書かず,故に晝 冥なるを以て釋す。

ここは『公羊伝』を敷衍する。


十六年,是月,六鷁退飛。是,一作提。釋文徒兮反。若經本作是,則不必注,且明其為魯語矣。初學記晦日引之作提。
「是」は一(ある)いは「提」に作る。釋文徒兮反。若し經 本は「是」に作れば,則ち必ず注せず,且つ其の魯語為ること明けし。初學記晦日引之作提。

十八年,邢人、狄人伐衛。既書邢人,則不得不書狄人,相屬之辭也。邢棄親即狄,啓亡國之舋,使與狄等,乃所以譏邢也。邵公以為狄稱人者,善能救齊,恐迂鑿。
十八年,邢人、狄人伐衛。
既に「邢人」と書き,則ち「狄人」を書かざるを得ざるは,相屬の辭なればなり。邢 親を棄てて狄に即き,亡國の舋を啓き,狄らと與にせしむるは,乃ち邢を譏る所以なり。邵公 以為へらく稱を人と狄するは,能く齊を救ふを善とし,迂鑿を恐るればなり。

十九年,蓋叩其鼻以血社也。山海經傳引此,作叩其鼻以䎶社,音釣餌之餌。既不見于釋文,許氏說文亦無之。
ことばと漢字について。

二十年,西宮者何?至。記災也。終前用致夫人傳。

齊人、狄人盟于邢。亦相屬之辭。齊無能繼桓公之志者,譏自見也。注謂狄稱人者,能常與中國,恐非經意。
亦た相屬の辭なり。齊 能く桓公の志を繼ぐ無く,譏 自ら見はる。注 謂ふ狄もて人と稱するは、能く常に中國に與するなりとは,恐らく經の意に非ず。

二十一年,不與夷狄之執中國也。然則下釋宋公之經,亦諱中國,見釋于外裔也。
二十一年,夷狄の中國を執るを與せざるなり。
然らば則ち下に宋公の經を釋す?。亦た中國を諱む。外裔を釋するを見はすなり。

楚人使宜申來獻捷。上不書楚子執于獻捷,著其實。
上に楚子 獻捷を執ふるを書かず,其の實を著す。

曷為不言捷乎宋?為襄公諱也。此為中國諱,不為襄公也。
曷為れぞ宋に捷つを言はざる。襄公の為に諱むなり。
此れ中國の為に諱む,襄公の為ならざるなり。

公會諸侯,盟于薄。言會諸侯者,諱背中國會。
諸侯に會すと言ふは、中國に背きて會するを諱めばなり。

二十三年,何以不書葬?盈乎諱也。不書葬,魯即楚,背宋,不會其葬,傷中國之無人也。
何を以て「葬」と書かざる。盈乎諱也。 「葬」と書かざるは、魯 楚に即き,宋に背き,其の葬に會せざればなり。中國の人無きを傷(そし)るなり。

二十六年,曷為以外内同若辭?重師也。 外内同辭者,恥即夷。
師を重ぬればなり。(公羊伝に反論して)外内 辭を同じくするは,夷に即くを恥づればなり。

二十八年,曷為再言晉侯?非兩之也,大其能攘楚,討夏之即夷者也。

『公羊伝』のもとの文よりも攘夷がきつい。


冬,公會晉侯、齊侯、宋公、蔡侯、鄭伯、衛子、莒子、邾婁子、秦人于溫。天王狩于河陽。時溫地已入于晉,則是致天子于其國中,後世所謂挾天子以令天下者也。故以天王自狩為文,明非晉之所得私挾也。如陋儒,則先書王狩矣,此聖人之權也。
時に溫の地 已に晉に入り,則ち是れ天子を其の國の中に致す。後世 所謂 天子を挾みて以て天下に令する者なり。故に以天王自狩為文,明らかに晉の私挾しを得る所を非とするなり。陋儒の如く,則ち先に「王狩」と書くは,此れ聖人の權(一時的な処置)なり。

天子を呼びつけた問題。おもしろいけど、今は関心とちがう。


三十年,衛殺其大夫元咺及公子瑕。言及者,元咺首禍也。注謂是下大夫别尊卑,謬。
三十年,衛 其の大夫の元咺及び公子瑕を殺す。 「及」と言ふは,元咺 首禍なればなり。注に謂へらく是の下に大夫 尊卑を别くとは,謬りなり。

三十一年,猶三望。三望當定從鄭康成之說。魯既僣郊,何以獨祭三者也?
三望は當に定めて鄭康成の說に從ふべきなり。魯 既に僣郊し,何を以て獨り祭三する者なるか。

魯郊,非禮也。謂之郊者,地在郊也。注謂天人相與交接之意,非。
魯郊は,禮に非ざるなり。之を郊と謂ふは,地 郊に在ればなり。注に謂ふ天人相與交接の意は,非なり。

天子祭天,諸侯祭土。天子祭天,與天為體也;諸侯祭土,與國為體也。

然則曷祭?祭泰山、河、海三望。穀梁注:言泰山淮海者,得之;河非所祭也。

このあたりは礼制の説明(解釈)。いまは要らない。


秋,圍衛。十有二月,衛遷于帝邱。桓公城楚邱,文公則聽衛之遷帝邱。顧私怨而昧夷夏之辨,則城濮之戰,豈出于天下之公義哉?書此者,傷天下之無伯。注:言惡衛畏人,非也。
秋,衛を圍む。十有二月,衛 帝邱に遷る。 桓公 楚邱に城く,文公 則ち衛の帝邱に遷るを聽す。私怨を顧みて夷夏の辨を昧くせば,則ち城濮の戰,豈に天下の公義より出づるものなるか。此を書くは,天下の無伯を傷るなり。注に、惡衛畏人と言ふは,非なり。

文公

文元年,會葬,禮也。此注中論親親失賢甚備,但恐于經意非要。

二年,先禰而後祖也。此祖禰二字借說。僖元年傳:此非子也。臣子一例,則不為昭穆,但不得先之耳。詩云:莊公之子,孔子取之。

2つ続けて礼制の話。


五年,王使榮叔歸含且賵。注:去天者,含者,臣子職,以至尊行至卑事,失尊之義也。按:去天者,恐因成風為妾失禮。

六年,是月,非常月也。此傳與左氏歸餘于終之說不同。然書曰以閏月定四時成歲,明不專在冬時矣,則此說為長。 是の月は,常月に非ず。此の傳 左氏歸餘于終之說と同じからず。然書曰以閏月定四時成歲,明不專在冬時矣,則此說為長。

暦の話。


七年。以師外也。注:本所以懷持二心者,其咎亦由晉侯,要以無功當誅也。按:注甚謬,時晉未立君。
師 外なるを以てなり。注に本は二心を懷持する者なる所以なりと。其の咎も亦た晉侯に由り,無功を以て當に誅すべきを要す。按ずらく、注 甚だ謬れり,時に晉 未だ君を立てず。

八年:冬十月,壬午,公子遂會晉趙盾,盟于衡雍;乙酉,公子遂會伊雒戎,盟于暴。以其名遂,故不言遂,而再著其名。 其れ遂と名いふを以て,故に遂と言はず,而れども再び其の名を著はす。

九年。以諸侯之踰年即位,至。三年稱子也。禮文散軼,當以此法參互求之。

十年,臧孫辰卒。自莊二十八年書告糴于齊,至此凡五十年。

十二年,子叔姬卒。其稱子,先君之子也。
其れ子と稱すは,先君の子なればなり。

其貴奈何?母弟也。母弟,雖女弟亦貴之,
母弟は,女弟と雖も亦た之を貴しとす。

以為能變也,至。是難也。此與能悔過不相蒙。

河千里而一曲也。注:不别曲直,而地以河曲,明兩曲也。按:此兒戲之語。

十四年,邾婁人言曰:接菑,晉出至。貴。則皆貴矣,皆媵出也。注:以為邾婁再娶,二子母尊同體敵,恐非。

後継者問題の表記方法について。


此未踰年之君也,其言弑其君舍何?商人既公子,則書弑其君之子,文義複重相亂,故從成君之例。
此れ未だ年を踰えざるの君なり,其れ其の君を弑して舍と言ふは何ぞや。
商人 既に公子たり,則ち其の君の子を弑すと書かば,文義 複重たりて相 亂る。故に成君の例に從ふ。

十八年,秦伯罃卒。按:此是康公,注云穆公,未知何据。宣六年,趙盾弑君,此其復見何?
按ずらく、此れ是れ康公なり,注に穆公と云ふは,未だ何に据るかを知らず。

単純ミスなのか?なにか別の意味があるのか?


宣公

宣六年,趙盾弑君,此其復見何?注:据宋督、鄭歸生、齊崔杼弑其君,後不復見。按:宋督、鄭歸生、齊崔杼不復見于經者,無事可書爾。公子翬如齊逆女,非復見乎?此公羊家之曲說也。
宣六年,趙盾 君を弑し,此れ其れ復た見るは何ぞや。注に、据るらく宋督、鄭の歸生、齊の崔杼 其の君を弑し,後に復た見ず。按ずらく、宋督、鄭歸生、齊崔杼 復た經に見ざるは,事として書く可きこと無きなり。公子翬如齊逆女,復た見るに非ざるか。此れ公羊家の曲說なり。

靈公望見趙盾,愬而再拜。愬即自愬膳宰之事;再拜則知過之意,故下曰心怍。
靈公 趙盾を望見し,愬して再拜す。
愬は即ち自ら膳宰の事を愬ぐなり。再拜すれば則ち知過之意,故に下に「心怍」と曰ふ。

八年,頃熊者何?宣公之母也。注:熊氏,楚女。宣公即僖公妾子。以宣公為僖公子,異聞。
八年,頃熊なる者はぞや。宣公の母なり。注に、熊氏は,楚の女なり。宣公は即ち僖公の妾の子なり。宣公を以て僖公の子と為すは,異聞なり。

ただ不整合を指摘しているだけ。


九年,晉侯黑臀卒于扈。不書葬者,魯不會也。時楚方盛,魯事晉怠。
晉侯黑臀 扈に卒す。 「葬」を書かざるは、魯 會せざればなり。時に楚 方に盛ならんとす。魯事晉怠。

十年,齊已言取之矣,其實未之齊也,如宋之歲幣。
十年,齊 已に之を取ると言ふ。其の實 未だ之齊なり。 宋の歲幣の如し。

これだけだと読めないけど、内容が気になる。「之れ斉」か「斉に之く」なのか、別の読みなのか。


十一年,此楚子也,至。不與外討也。稱人者,討賊之辭也。雖外討,猶之乎稱國以殺爾。入陳不譏,而於殺徵舒焉譏乎?
人と稱するは,賊を討つの辭なり。外討と雖も,猶ほ之乎稱國以殺爾。陳に入るは譏らず,而れども於殺徵舒焉、譏乎?

『公羊伝』の文を見ないと読めないですね。


十二年,大夫不敵君,至。而與楚子為禮也。大夫不敵君,此則夷夏之辭也。
大夫は君に敵せず,此れ則ち夷夏の辭なり。

令之還師而逆晉寇。寇者,敵國之辭。注謂傳序經意,謂晉如寇虜,非也。
「寇」とは,敵國の辭なり。注に謂ふ傳 經の意を序して,晉を謂ひて寇虜の如くするは,非なり。

おもしろそうなのに、これは読めてない。


十五年,中國不救,狄人不有,是以亡也。此漢書所笑龜兹王也。
此れ漢書 笑ふ所の龜兹王なり。

成公

成元年,作邱甲。注解作甲,不合。

二年,季孫行父、臧孫許、叔孫僑如、公孫嬰齊帥師會晉卻克、衛孫良父、曹公子手,及齊侯戰于鞌,齊師敗績。大夫敵君不貶者,曲在齊也。
大夫 君に敵して貶めざるは,曲 齊に在ればなり。

齊侯使國佐如師。書齊侯者,對卻克言之。齊既悔過,臣不可以敵君也。
「齊侯」と書くは,卻克に對して之を言ふなり。齊 既に過を悔い,臣 以て君に敵する可からざるなり。

公會楚公子嬰齊于蜀。至。盟于蜀,方與晉伐齊,旋背晉而與楚,其失在内,故先書公會嬰齊,而獨于下盟,正其猾夏之罪。
方に晉と與に齊を伐たんとし,旋りて晉に背きて楚に與す,其れ在内を失ふ。故に先に「公會嬰齊,而獨于下盟」と書き,其の猾夏の罪を正す。

十年,齊人來媵。伯姬。獨三國來媵,意宋王者之後,其書則為錄伯姬也。
伯姬。獨り三國 來媵し,意は宋王者の後,其れ書くは則ち為錄伯姬也。

晉侯獳卒。不書葬者,楚人方盛,魯不會葬,傷中國之失霸也。
「葬」と書かざるは,楚人 方に盛なりて,魯 葬に會せず,中國の霸を失ふを傷るなり。

十五年,臧宣叔者,相也。宣叔為司寇,謂之為相,此孔子攝行相事之證。
宣叔は司寇為り,之を謂ひて相と為すは,此れ孔子 攝行相事の證なり。

於是使嬰齊後之也。注云:弟無後兄之義,為亂昭穆之序,失父子之親,故不言仲孫,明不與子為父孫。按:弟無後兄之義,自大夫言之也。大夫之生也,不臣其兄弟,則死亦不得以為子。
是に於て嬰をして齊後之ならしむ。注に云はく、弟 後兄の義無く,昭穆の序を亂し,父子の親を失ふと為す。故に「仲孫」と言はざるは,不與子為父孫たること明らけし。按ずらく、弟 後兄の義無きは,自ら大夫 之を言ふなり。大夫の生まるるや,其の兄弟に臣せず,則ち死しても亦た以て子と為すを得ず。

夏六月,宋公固卒。不日者,譏赴者之疏。
日いはざるは,赴く者の疏を譏るなり。

襄公

襄十四年,季孫宿、叔老會晉士匄至。會吳于向,獨士匄、公孫蠆書,未詳,豈其餘皆非卿耶?

二十九年,公在楚。前年十二月,書天王崩、楚子卒。天王崩而不反,楚子卒而公留,所以譏公,且傷中國也。 二十九年,公 楚に在り。前年十二月,「天王崩、楚子卒」を書く。天王 崩じて反らず,楚子 卒して公 留まる。所以に公を譏り,且つ中國を傷るなり。

爾殺吾兄,至。以其不殺為仁。季子能殺光,則討賊也。力不逮而去之,不懷其寵,抑亦庶乎能潔身違亂者歟!不殺為仁,則公羊子或未盡也。
季子 能く光を殺さば,則ち賊を討つなり。力 逮ばずして之を去るは,其の寵を懷せず,抑々亦た能く潔身違亂者を庶ふか。殺さざるは仁為り,則ち公羊子 或いは未だ盡さざるなり。

昭公

昭十年,晉欒施來奔。晉者,齊之訛,當從左氏。
「晉」は,「齊」の訛なり。當に左氏に從ふべし。

十二年,晉伐鮮虞。和戎三駕,所以復伯;楚虔橫而顧伐鮮虞,所以失伯也。
戎を和して三駕するは,伯に復する所以なり。楚虔橫而顧伐鮮虞,伯を失ふ所以なり。

定公

定六年,二名,非禮也。東漢禁二名,本此。

十二年秋,大雩。觀此,則聖人正有放過處,不事事爭也。
此を觀るに,則ち聖人 正に過處を放つ有り,事事に爭はざるなり。

哀公

哀元年,仲孫何忌帥師伐邾婁。邾婁子新來奔喪,而三家伐之無已,所以深著其無君,非譏哀公之替其恩也。
哀元年,仲孫何忌 師を帥ゐて邾婁を伐す。邾婁子 新たに來奔喪,而三家 之を伐ちて無已,深く其の無君を著にする所以にして,哀公の其の恩を替するを譏るに非ず。

三年冬十月癸卯,秦伯卒,至此小國皆卒日葬月。
此に至り小國 皆 卒は日いひ、葬は月いふ。

十年,楚公子結帥師伐陳,吳救陳。救中國不進者,吳、楚結憾,志不在救中國,故不進。

十三年,此晉魏曼多也。至。二名非禮也。不譏于七年春之侵衛,而譏于此,何哉?然則魏多者,闕文也。 七年春の侵衛を譏らず,而れども此を譏るは,何ぞや。然らば則ち魏 多きなり,文を闕くなり。

十有四年春,西狩獲麟。此孔子所親見,何為但書春而不月?蓋天心之仁愛,無往不復,麟之出也,固亂極反治之祥。孔子道雖不行於一時,猶以望之來者。春秋始終以春,亦猶易之雜卦始乎乾而終以夬,一陰決去即為乾之意云爾。愚聞之師說如此,蓋服膺而弗疑也。反袂拭面,涕沾袍,所謂滿腔子是惻隱之心歟!義門讀書記卷十二。
十有四年春,西狩獲麟。此れ孔子 親見する所なり,何為れぞ但だ春と書きて月いはざる。蓋し天心の仁愛,無往不復,麟の出づるや,固に亂極反治の祥なればなり。孔子の道 一時に行はれざると雖も,猶ほ以望之來者。春秋の始終するに春を以てするは,亦た猶ほ易の雜卦 乾に始まりて終はるに夬を以てするがごとし。一陰 決去すれば即ち乾の意と為るとしか云ふ。愚 之を聞くに師說 此の如しと。蓋し服膺して疑はざるなり。

反袂拭面,涕沾袍,所謂滿腔子是惻隱之心歟!義門讀書記卷十二。
所謂 滿腔子 是れ惻隱の心なるか。