■三国志雑感>袁術が事件解決!怪奇190年代の謎(5)
■曹操の権力系統
権力を考えるときに、その由来を考えてみることは無駄じゃない。
その人はどういう経緯で権力を握ったのか。誰の権力を継承したのか。
 
袁紹はもともと何進の家臣。いや、ゴロに引っ張られて正確でないことを書いた。家臣じゃないね、部下とか一派とか、それくらいのニュアンスだね。何進勢力の政策は「宦官を排除しようとした」「霊帝の死後に少帝を立てた」が2本の軸。何進は宦官に討たれたけど、その敵は袁紹が取った。皆殺しにした。袁紹は清流として、宦官に敵対する立場だ。
何進の次に権力を握った董卓は、何進を否定した。少帝を廃して献帝を立てた。袁紹はこれを認めず、劉虞を即位させようとした。劉虞には断られたものの、何進の継承者としては献帝を認めるわけには行かない。史書には出てこないけれど、他の劉氏に打診していたかも知れない。
董卓の宦官政策は確認できていない。袁紹が一掃してしまったのだから、表面化していないのか。
 
献帝の不遇は頷ける話だ。献帝は董卓が死んだ後、李カクや郭氾に弄ばれ、関中に放置されて群盗まがいの連中と付き合っていた。なぜ諸侯はこれを速攻で助けなかったか。仮にも400年も続いた漢王朝の天子である。手元に迎えるメリットはありそうなものなのに。
これは献帝が、董卓が立てた天子だったからだろう。親玉が呂布に討たれて、董卓勢力は衰退していた。190年代に中原で覇を競っていた袁紹たちは、みんな反董卓の連中だ。だから献帝を殺さないまでも、助ける理由はない。よほど特別な理由がない限り。
 
曹操は独自の兵力を持ったのがずっと遅く、年齢は袁紹より10くらい下だったのではないかと言われる(出典を忘れた。ごめんなさい)。『世説新語』にある有名な花嫁泥棒のエピソードは、後世の優れた創作だ。2人の性格をよく表している。だが洛陽での2人の力関係は表していない。実際は、袁紹が曹操の庇護者みたいな位置だったのだろう。
『蒼天航路』では、曹操が自ら望んで下級職に就いたという風に描かれている。袁紹のような華々しい地方官は、敢えて選ばないよ、と。自信と野望を持った曹操の心象風景としてなら、充分にあり得る話だ。だが第三者から見れば、曹操は相応な役職に就いていただけじゃんじゃないか。
 
曹操の権力・財力の由来は祖父だ。大宦官・曹騰。
何進・袁紹ラインが「宦官をぶっ殺せ」と言ったときに、曹操はそれに反対した。それなりに理屈めいたことを言っているが、要は「オレの権力の源泉を枯らさないでくれ。ただでさえ、まだ弱弱しいのに」だろう。
皇帝に対する態度を明確にするほど、曹操は大きくなかった。チーム袁紹の下で、無心に勢力拡大することが、彼に出来る精一杯だった。
袁紹が献帝に代わる皇帝を立てることを画策していたとは言え、曹操のような平メンバーには関わりのないことだ。関われないことだ。
 
 
■曹操の「謀反」
190年代前半は、曹操は袁紹の一部将のような立場だろう。
袁紹本隊は、北方の公孫瓉を討つのに手こずった。公孫瓉の評価は低い。辺境の堅城に閉じこもる態度は、華々しくない。部下のピンチに救援を出さないのは愚かだ。黒山との呼応の狼煙を見間違えて、討たれてしまうのもショボい。しかし、袁紹を10年近くも釘付けにしたのは、大健闘なのだ。
袁紹は、チームが南北から挟撃されるのを嫌い、公孫瓉討伐を重視した。手が空いてしまう南方、チーム袁術への対策は、曹操にちょっと任せておいた。曹操は強いから、有能な方面隊長だ。
 
この曹操がチーム脱退を狙う。チーム袁術に移りたいんじゃない。そもそも袁氏の対立という枠組みから抜けようとした。立場としては陶謙に近いだろう。曹操の方が格段に巧妙ではあるが。その方法は、献帝を手に入れること。これは「謀反」の表明に等しい決断だ。
チーム袁紹のルールでは、献帝は正統な皇帝ではない。勝手に自滅していくべき董卓勢力の残滓だ。そのルールを破ってしまった。
もともと袁紹と曹操では、宦官への態度に象徴されるように、権力の系統が違った。ただ曹操に力がないゆえに、有耶無耶になってた。だがここに来て、原点に回帰した。献帝なんかを補佐する「よほど特別な理由」は、チーム袁紹からの独立だ。
 
196年8月に献帝へ送迎バスを出す。兗州で呂布を退け、本拠地を固めた頃だ。
献帝の名前で、曹操は官職を発効できるようになった。
曹操自身は大将軍、袁紹を大尉に任じた。大将軍の方が、大尉より上だ。袁紹は、曹操の露骨な反抗に激怒した。いくら「ニセ皇帝」が作った序列であれ、メンバーに過ぎない曹操の下に位置づけられるのは許せなかった。あり得なかった。
曹操はさすがにリーダー袁紹と敵対するのは不利すぎるので、大将軍は袁紹に譲った。自身は司空・車騎将軍におさまった。
 
197年と198年に、曹操は張繍を攻める。張繍とは、董卓の部将・張済の甥だ。なぜ曹操が張繍を攻めたのか。正史を読んでも、因果関係を示すような記述がない。分からん。曹操の四方八方の討伐計画の一環として語られることはある。本稿では、袁紹からの独立という見地で考える。
曹操が張繍を攻めたのは、献帝を確実に自分のものにしようとしたためだ。張済は董卓の部将だから、張繍も董卓の流れを組む。李カクたちが潰しあってしまったから、董卓派の流れをこの時点で継いでるのは張繍だ。張済が献帝保護からは離脱しているもの、由来を辿れば、張繍が献帝を擁するのが一番自然だ。これは曹操には好ましくない。董卓が立てた皇帝という色から、曹操が保っている皇帝という色に塗り替えたい。対袁紹を考えたら、それはマスト。だから張繍を滅ぼそうとした。
 
張繍を攻めるとき、問題が生じる。張繍のは劉表と折り合っている。劉表は袁紹の同盟者である。すなわち、張繍征伐は袁紹に矛を向けるのに等しい。劉表と袁紹の同盟が、具体的な軍事力行使の面であまり機能していないとは言え、綱渡りを始めちゃった感じだ。袁紹が北方に掛かりきりとは言え、玉乗りを始めちゃった感じだ。
劉表は袁紹と組んでいる。曹操の監督責任は、袁紹にあると考えているだろう。曹操が攻めてきたら、それは「曹操が血迷った」ではなく「袁紹が同盟を蔑ろにした」と映るだろう。官渡の戦いで劉表は、曹操にも袁紹にも味方しない。劉表の考えについてはまた考えねばならんが、袁紹に好ましい感情を持っていなかったのは、曹操の張繍攻めがあったんじゃないか。曹操としては、棚ボタの戦果である。
 
曹操は張繍に敗れて、典韋と息子の曹昂を失った。これは賈詡との知恵比べに負けた結果であって、おかしな戦略を読み取るのは邪推だと思う。わざと負けたんじゃないか、というにしては犠牲が大きすぎる。わざと負けるつもりではいたが、被害が広がりすぎた、とか。ああ、よく分からんくなってきた。
198年4月、袁紹は曹操に「都をオレのところに移せ」と言ってきた。おそらく「オレが献帝を殺してあげる。そしたら曹操くんは、また優秀なチームメイトに戻れるでしょ」という意味。そんなん、曹操的にはIt's却下!
 
曹操の動きについては、またいくらでも考える機会が必要になると思います。この場では、曹操が自立を目指し始めたのが190年代後半です、ということが確認できればOKです。
  
 
■チーム袁術の断末魔
『英雄記』は言う。曹操は呂布を、チーム袁紹(というより新生チーム曹操)の味方に付けようとする。呂布は献帝によって、平東将軍・平陶侯に任じられた。さらに呂布のところに、曹操直筆の「おつかれさん」という書簡が届いた。
陳登には「呂布を殺そうぜ」と言っている曹操だから、虚実を織り交ぜた外交を呂布に対して行っていることになる。真意はどうあれ、呂布は曹操の恩を受けた。
 
これでピンチに陥るのは、チーム袁術。
袁術は、韓暹・楊奉らを味方につけた。
この2人は、献帝を守っていた人物だ。守っていたというか、利用していたというか。曹操が献帝を盗み出してしまったから、自立を保てなくなった。チーム袁紹の一味のせいで皇帝を奪われたのなら、頼るべきはチーム袁術である。小説を読んでいると、盗賊崩れが彷徨って、衰退勢力と群れながら傷口を舐めてた、という印象を受ける同盟ですが、ちゃんとした袁術先生の戦略に基づいている。
これを見た曹操は、呂布慰労の勅と同時に、賞金首リストを詔させた。「公孫瓉・袁術・韓暹・楊奉らの首を取ったら大金持ちですよ」と。顔ぶれを見ると、ことごとくチーム袁術のメンバーである。ここから、曹操が献帝を利用しながらも、チーム袁紹の任務をこなしていた事が伺える。
おかげさまで、袁術・袁紹という両雄が時代の主流だとも確認できる。
  
袁術は韓暹・楊奉と戦線を結んで、呂布を攻めた。呂布は袁術の息子との政略結婚を反故にした上に、曹操と癒着した不届き者なのだ。
呂布は陳珪を怒った。「お前の言うとおりに曹操と接近したら、案の定ピンチじゃないか。どう責任を取ってくれるんじゃ」と。しかし陳珪は「袁術と韓暹・楊奉はにわか仕立ての同盟っすわ。まだ接着剤も乾いていません。必ず分裂させることが出来ます」と言った。
呂布は陳珪の案を採用し、韓暹・楊奉を味方につけた。陳珪のアイデアで、韓暹・楊奉はチーム袁紹に鞍替えしたと読める。
『英雄記』では、呂布&韓暹・楊奉は袁術をボコボコに潰した。袁術は孤立して、大敗した。もう後がない袁術は、このチームの存在理由である最強ワザを発動した。
 
197年袁術が皇帝として即位'cause天啓があったから笑
  
2年前にも皇帝になろうとはしていた。献帝が曹操に拾われる直前、李カク・郭氾に命を弄ばれていた頃である。この時は閻象が諌言を食らわして実現しなかったんだけど。
※これより先、李カクの朝廷から袁術を味方にしようという動きがあった。献帝@李カクの名のもと、袁術を左将軍・陽翟侯にしようとした。袁術は拒否した。袁術は使者の馬日テイから節を奪い取り、拘留した。董卓一派の皇帝から任じられたら、チームの基本方針と反するのだ。自分が皇帝になれんから!馬日テイは閉じ込められたまま死んだ。とばっちりだ。
 
袁術の皇帝が世間に承認されて一番困るのは誰か。曹操だ。
曹操は、献帝という董卓勢力の遺産の「着せ替え遊び」をセッセとやっていた時期だ。もし世論が袁術陛下に傾いてしまえば、献帝がただのガキに戻ってしまう。袁紹への対抗手段がなくなる。
猿顔じゃないにしろ、袁術が支持を得られないの薄々は気づいていても、献帝の正当性を主張するためには、袁術討伐は最も好ましい行事だ。
袁術は曹操に破れ、淮水の南に逃げた。秘蔵の最強ワザが効かない。もうチーム壊滅の危機か。
そうじゃない。袁術が滅びてしまっては困る男が、助けてくれた。

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