■三国志雑感>魏呉蜀の国名を見て、思い悩む
三国志の国名にまつわるお話です。   ■呉と蜀のホントの意味 後漢の許慎が著した『説文解字』に、呉と蜀の本来の字義があるそうです。 「呉」は、口の字が中にあって大声で訳の分からぬことを話すという意味。「蜀」は、虫の字が中にあってぐにゃりとした虫けらを指す。 もともと中原から離れた辺境の地だから、こういうめでたくない字がつけられたのでしょう。 参考:金文京『三国志の世界』講談社2005年   感覚的には「倭」と同じですね。この字にも、あんまりいい意味がありません。今日ですら、悪意を持って使われるのも見ます笑 魏は「たかい」という意味があって、袁術が引用してその気になった「漢に代わるのは当塗高」に通じます。っていうか、通じることになりました笑     ■官渡の曹操軍は、魏じゃない! 魏呉蜀それぞれが国の名前は、もともと郡の地名です。 中国の王朝の名前は、本拠地周辺の地名が元になります。   漢王朝は、漢中平野に押しやられた劉邦がそこから巻き返したことから、その地名が国号になりました。「漢民族」「漢字」という言葉が現代に伝わっていて、いまだに影響力は絶大。   魏王朝の元になった魏郡は、もともと袁紹が根拠地にしてた鄴の辺り。 まだ袁紹勢力が健在な段階から、曹操勢力を「魏」と呼びたくなってしまいますが、間違いです。魏郡の支配者に手紙を書くと、袁紹に届く。これは危険な罠です。読まずに焼いてほしい笑 呉郡は孫堅の根拠地。ただし孫権が呉王になったのは、曹操の死後。だから赤壁の戦いで曹操に立ち向かったのは「呉」という国ではない。当時孫権が居座っていた建業は丹楊郡であって、呉郡じゃない。   蜀郡は、益州が「巴蜀の地」と呼ばれるように、益州を代表する郡です。 劉備が益州を支配するのは晩年。だから、中原や荊州をうろついている劉備たちを「蜀」の人たちだと言うのは、全くの暴論。 劉備本人ですら、「蜀」の人間になれるなんて分かっちゃいない。 でも、徐庶が決別したのは「蜀」という気がして仕方がない。劉璋の武将率いる「蜀軍」と劉備が戦っていると、一瞬パニクる。   元ネタの歴史が複雑なものだから、正確な記述をするのは存外難しい。     ■諸葛亮の「蜀」旗はおかしい?    諸葛亮たちの旗印に「蜀」と書いているイラストを見ることがあります。 推測の域を出ませんが、イラスト内で颯爽と進軍する彼らの本音は、ちょっと複雑かも知れません。   蜀はあくまで一つの地名であって、彼らの国号は「漢」です。彼らの国の存在意義が、曹丕に「殺害された」献帝から、漢の帝位を継ぐものだからです。どうせ末端の兵士は何も考えないだろうけど、諸葛亮は冥府で、描かれた「蜀」旗に憤っているはず。   歴史家が便宜的に「蜀漢」と呼ぶことがあります。それは、劉邦が起こした前漢、劉秀が復活させた後漢と区別するため。 しかしあくまで、漢は「漢」です。   中国では「前漢・後漢・蜀漢」を、順に「東漢・西漢・季漢」と呼びます。東西の形容詞は、都が置かれた位置関係より。長安が西で洛陽が東。「季」には末の意味がある。劉備が立てた王朝は、漢の末っ子。 人名でも「季」は末っ子に使われる。四男の馬良の字が季常であるように。 ※馬良には弟・馬謖が生まれたので、末っ子ではなくなってしまった。「季」より下ということで、馬謖の字は「幼」常になった。     魏呉蜀の漢字を睨めっこして、いろいろ思い悩んでみました。 漢字って奥深いですね。
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