■三国志雑感>石井仁『曹操/魏の武帝』を読む(4)
■曹嵩殺害 193年、陶謙が兗州泰山郡に侵入。任城郡を攻めた。 許劭は、陶謙の士大夫優遇を虚飾として、劉繇を頼った。大儒の鄭玄(127~200)も陶謙を去った。張昭も去った。張昭を救った趙昱も脅迫して出仕させられた。『呉書』の言い分をそのまま信用してもいけないが。   191年4月、朱儁が第二次董卓討伐同盟を呼びかけた。陶謙は3000を送り、朱儁を車騎将軍に推した。李傕が長安を占拠すると、陶謙は朱儁を太師にした。北海相の孔融、泰山太守の応邵、博士の鄭玄らが支持した。文人ばかりが賛同しているのだから、黒幕は陶謙だ。 朱儁が、李傕に太僕に任官されて応じたので、陶謙の計画は頓挫。公孫瓉の援軍に応じ、東郡の発干まで攻めているから、袁紹派の曹操を徴発するために父を殺したのかも知れない。権力の亡者だ。   ■大虐殺 諸葛瑾や厳畯は、このとき避難した。三国鼎立を招いた最大の原因は、このときの避難民たちの吹聴だろう。それが『呉書』に残っている。   曹操は権力の確立を焦り、兗州・豫州の士大夫と軋轢した。 沛国相の袁忠(正甫、汝南郡、~196)や処士の桓曄(文林、沛国、~196)は会稽に逃亡した。曹操は献帝を奉じると、士燮を交趾太守にして、彼らを殺させた。九江太守の辺譲(文礼、陳留郡、~196)は曹操批判を繰り返して、冤罪で殺された。 これが張邈挙兵が成功した背景にある。   曹操の欠点が見える。目先に囚われ、理性より感情を優先する。お調子者だ。しかし周囲の意見を聞くことで、兗州奪還を優先し、恨まれている徐州への侵攻を見送った。 甄城は、西晋の東海王司馬越が駐屯したとき、突然城壁が160メートルも崩落した。まもなく司馬越も西晋も滅びた。「幸運は曹操に使い果たされた」と。   ■献帝 賈詡は、閻忠に「張良、陳平だ」と言われた人。 王允の長安が陥落すると、太常の秧払(秧暠の子)は献帝を離れず、乱入してきた兵士に殺された。李傕は、董卓暗殺の首謀である黄琬と王允を殺した。李傕を郭氾と樊稠が補佐し、弘農郡に張済が駐屯した。これを「四頭政治」という。 諌義大夫の秧卲(秧払の子)が手引きして、馬騰と韓遂が来襲した。劉焉の子、劉範も結んだが、敗北。5月、馬騰を撃退したので、郭氾は後将軍、樊稠は右将軍として、府を開く。前代未聞の「六府」だ。 朱儁は憤死し、皇甫嵩もこの頃に死ぬ。漢王朝の権威にこだわり、柔軟な対応を欠いたせいであろう。   董承は董太后の甥で、献帝の外戚。延臣としての立場を強めた。楊奉は白波。楊定は、李傕らの元上役。司隷校尉の胡シン(文才)とともに「涼州の大人」と称された士大夫で、京兆藍田県に本拠を構える高級幹部だった。旧董卓の代表者として、鎮南将軍(192年)、安西将軍(194年)と優遇された。荊州に出奔し、李傕たちの結束が緩む。 楊定がいなくなった後、楊奉と董承が献帝を奪い、旧董卓は賊に成り下がる。   曹操は196年、袁術の陳相、袁嗣を降した。 「汝南・頴川黄巾」の、何儀・黄卲・劉辟が数万で袁術・孫堅連合を支援していた。196年2月これを下し、「資業」すなわち食料や農地や農耕具を得た。屯田の基礎。 縦横家タイプの董昭が、張楊に耳打ちした。「曹操と親密になれ」と。陶謙・劉表・袁術と同じように長安に使者を送った。長安の丁沖から密書が来て、「献帝を楚の義帝にせよ」とのアドバイスを荀彧がした。   権力基盤の弱い楊奉からアプローチがきて、曹操は献帝を抱え込んだ。直後に13名を列侯に。董承、伏完、丁沖、鍾繇、伏徳ら。 曹操は董昭と謀り、楊奉を欺いて洛陽を脱出した。このとき、徐晃を得た。 9月、大尉の楊彪と司空の張喜(汝南郡)を罷免し、10月に袁紹を大尉。11月に大将軍に変えてあげた。李傕以降、献帝を護衛するだけのために乱発された将軍職より、司空と車騎将軍の兼任の方が新鮮味がある。
  ■泰山の諸将 呂布を降した後の徐州は、曹操に反発する。 青・徐州の沿岸部の統治を、リーダーの臧覇をロウヤ相にし、呉敦、尹礼、孫観、その兄の孫康、昌キ(兵卒だった于禁の旧友で、のちに叛乱して于禁に殺さる)らを各郡太守にした。庶民の出で、黄巾の募兵以降も武装解除をしなかったのだろう。 のちに臧覇は、鎮東将軍・都督青州諸軍事・領徐州刺史になる。   ■揚州対策 孫策の快進撃に対して、豫章太守の華歆が、旧劉繇の盟主として対抗した。 「ダークホース」は陳氏。陳瑀は江東を狙ったが、袁術の下の孫策に討たれた。従子の陳登は、自分を馬援になぞらえ、袁術・呂布対策の切り札として振る舞った。劉備すら「陳登のような文武の才と豪胆さ、大望を持っているのは、いにしえの誰にも例えようがない」と言った。   劉勲が敗れて曹操を頼り、孫策は袁術の鼓吹を手に入れた。橋玄の子、二橋も手に入れた。最晩年の橋玄に10歳の息子がいたんだから、世代に無理はない。「公」は三公への敬称で、橋氏の三公は他にいないから、二橋は橋玄の子だろう。 孫策は、陸康・周昕・許貢らを殺し、名士の反感で横死。袁術の滅亡後は、曹操は、督郡御史中丞の厳象(文則、京兆の人、163~200)を楊州刺史としたが、孫策の廬江太守の李術に殺された。すかさず劉馥を送り込んで、江淮を一大軍事拠点にした。曹操の政治的勝利だ。
  ■官渡へ 198年11月、大司馬の張楊が殺された。袁紹派と曹操派の対立。眭固は曹操派を片付けたが、曹操が眭固を討った。張楊軍は、みな降伏した。   199年2月、曹操は司空を、太僕の趙岐に譲ろうとして慰留。李傕政権から、関東安撫のため派遣され、公孫瓉と袁紹を和解させ、荊州に寄留していた元老。3月、曹操の後任で董承が車騎将軍。この人事はおかしい。 曹操が9月に冀州牧になった。袁紹から取り上げるために、曹操は現職の後継を探していたのだ。官渡のときは、曹操は大将軍を称していた。任免権を使って、袁紹に揺さぶりをかけたのだろう。   劉表の荊州支配には、穴があった。 南の四郡は、長沙太守の張羨が隠然と勢力を持っており、官渡のときは、劉表を対立していた。劉表は1年がかりで張羨を滅ぼすが、中原には介入しそこねた。 ※曹操が弱小4太守を素早く送り込めたのも、劉備が独立して切り取ったのも、張羨が事実上は割拠していたという土壌があったから?
  ■以下、ダイジェスト 図書館の返却期限が来てしまったので、後半はじっくり読んだけど、まとめは最小限で流します。   董承は一筋縄ではない人物。董太后が一掃されたときに切り抜け、董卓に用いられ(董卓も用いたかった)、李傕郭氾につき、延臣として曹操の下でも残っていた。 曹操も、献帝の前では一人の臣下のみ。その対立が董承の反乱。この謀反は曹操が仕組んだ疑獄事件。 陰謀の発覚があと数ヶ月後なら、曹操政権は確実に崩壊していた。 延臣が、出征する三公の故事を探し、武装した虎賁(近衛兵)の間を曹操に歩かせた。曹操の背中は、汗でびっしょりだった。二度と参内しなかったという。   袁紹のところの対立は、河南と河北の対立。袁紹自身、韓馥から継いだ汝南・頴川の名士は河南。沮授と田豊は河北なので、南下には慎重。河北の民を温存したいと考える。河南派は河北を兵站基地としか思っていないので、矛盾が露呈。 張郃は、河北の名族で、文人の張超と同族。河南の郭図と対立して、寝返った。 袁譚と袁尚の対立も、この派閥争いのせい。 官渡戦中では、頴川(許昌)以外が曹操の敵に回ってしまったほど。黄巾が強い、汝南郡の争奪が戦局を分けた。数少ない曹操の汝南での味方は、陽安校尉の李通。李通へは、袁紹の取り込みがあった。満寵を派遣して、曹操は汝南を抑えた。 ただし、曹操の奇跡の逆転を演出したいがため、逆境ぶりを大袈裟に表現した可能性はある。 袁紹は、汝南に劉備ではなく、袁氏の子+汝南頴川の名士をつけて派遣していれば、曹操を「包囲して討ち取る」というお望みの正攻法も成功したんじゃないか。   若き袁紹は、具体的なビジョンを持っていた。光武帝の3段階のマネで、河北の征圧、河南への南下、天下統一というストーリ。曹操は、「賢者を用いて」とか言って、ビジョンに欠いた。曹操を賛美するはずのエピソードが、逆の事実を表している。 曹操は官渡で袁紹を破り、袁紹の3段階のプランを引き継いだ。 赤壁前夜、光武帝と曹操を比べたとき、曹操の方が遥かにラクラクだった。明確に敵対しているのは、劉表(と劉備)だけ。孫権には宗族切り崩しの工作と姻戚ができているし。   赤壁以降、曹操は方針転換をする。なりふり構わぬ「覇」として、中原を制した既成事実をアピールする必要があった。それが、昇進の真実。 この「覇」に転じたあたりから、荀彧との関係がギクシャクする。荀彧は、赤壁に旅立つ前に「荊州を威圧して、天下統一を終わらせましょう」と言っていた。 江南というフロンティアに目をつけ、そこに立脚して天下を分けれると考えた新世代に、曹操は追いつけなかった。もう前の世代の人になっていた。   曹操と曹丕は、のちの八王やそれ以降の全員に、禅譲のマニュアルを作った人として踏襲された。そういう意味で、後世に遺した影響は大きい。
  今回は本の内容を移しただけですが、これで終わりです。面白かったなあ。とても勉強になりました。
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