■三国志雑感>三国志を知るための後漢「宦官」講座(5)
■正義派の呂強伝 名前からして、ゴツいよね。呂布の呂に、強いだもんね笑 彼の活躍は『後漢書』呂強伝で見ることができます。 字は漢盛、河南郡成県の人。 人となりは清忠奉公で、霊帝のとき都郷侯。張譲や趙忠が桓帝のときに都郷侯になってるから、さらに1周遅れの人らしい。   仕えてさっそく霊帝に上申して曰く、 「曹節・王甫、張譲は害悪です。趙高みたいな奴です。小人を用いてはいけません」ええええ!言っちゃったよ。 「後宮数千人は贅沢です。民は苦しんでいるので、やめましょう」ええ! 「(霊帝が即位前に封ぜられてた)解瀆に館に建てるのも、やめましょう」 よくぞ霊帝を怖れずに、こんな正論を吐くよね。 1800年以上経った現代からでも恐れ入ってしまうわ! 「蔡邕殿の秘密の諫言を、曹節たちに見せてしまったのは最悪です。蔡邕殿を呼び戻しましょう。蔡邕殿を裁いた段熲殿をこそ、任を解くべきです」 「陛下が、諸国から徴発して私財を蓄えるのも、最悪です」 「ろくな人材採用ができてません。だからダメなんです。分かってますか」   ■黄巾賊、立つ。 霊帝は呂強に諮問した。※霊帝はこれまで、呂強を全部却下してきたのに、聞いてくれるのがすごいね。 「党人を赦しましょう。次に、陛下の左右の貪濁なる者を誅しましょう」 これを聞いた趙忠と夏惲が先手を打ち、呂強は自殺に追い込まれた。一族まで処罰が及び、財産没収された。がびん。   宦官だからって、全員が同質の連中で、同じような世への関わり方を志すわけじゃないんだね。呂強が持っていたのは、党人が抱いていそうな意見でした。若さに頼って突っ走って、お決まりの返り討ちのパタンに遭ってしまったけれど。 党人に比べると皇帝に近づくチャンスが多いわけだから、宦官なりの世直しを狙ったのかも知れない。でもそれには青すぎた。年齢が足りなかったし、根回しも足らなかった。直球すぎたね。
  ■皇帝を拉致って逃走した、段珪伝 桓帝のとき小黄門で、中常侍侯覧と済北国の近郊で農業(もしくは搾取)してたんだね。侯覧の項で見ました。 侯覧と同郷ということは、侯覧と繋がりが深かったんでしょう。きっと父子のような関係で。侯覧の30歳くらい下かな。10歳下が曹節たちで、20歳下が張譲たち。   光熹元年(189)8月、何進が何太后に宦官誅殺を持ちかけていることを知った張譲は、段珪・畢嵐らに数十人を率いさせて宮内で何進を暗殺した。張譲に使われていることから、張譲より下なんじゃないかと思うのです。 張譲・段珪らは何太后と弘農王及び陳留王を拉致して北宮徳陽殿に逃げようとした。しかし、回廊の窓の下で戈をとっていた尚書盧植が、段珪を睨んで一喝した。驚いた段珪は思わず何太后を放し、何太后は回廊から飛び降りて逃げた。 追い詰められた張譲・段珪らは再び弘農王らを拉致して数十人ほどで穀門から洛陽を出て小平津に逃げたが、逃げ場がないことを悟り黄河に身を投げて自殺した。   もし宦官が皆殺しにされなければ、張譲・趙忠の老いた後は、段珪の時代だったのでしょう。そのために、張譲の指揮下で宦官修行を積んでいたのでしょう。開花せず、残念。
  ■壮健な宦官、蹇碩伝 張譲・趙忠と同年代の、出世の経路を違えた宦官だったと思います。 『後漢書』何進伝曰く、 霊帝は、蹇碩が壮健で武略がある事から特に親任した。元帥として司隷校尉以下を監督させ、大将軍さえもがその統率下に置かれた。※西園八校尉の上軍校尉(筆頭)のことでしょう。 蹇碩は兵権を独占しても、なお何進を恐れ憚っていた。そこで蹇碩は、常侍たちとともに、帝に何進を遣わして西方の賊の辺章・韓遂を撃たせるように説いた。 ※でも行ってないよね。韓遂はね、討てない種類の賊なのです笑 ※大将軍(何進)も蹇碩の支配下に入っていたというのは初耳です。   189年、霊帝は病が篤くなると、劉協を蹇碩に託した。蹇碩は既に遺詔を受け、また普段から何進兄弟を嫌って軽んじていた。 霊帝が崩御した時、蹇碩は宮廷内におり、先手を打って何進を誅殺し、劉協を皇帝に立てようとした。何進が宮殿に入ろうとすると、何進の昔馴染みであった蹇碩の司馬の潘隠が何進を出迎えて目配せした。何進は驚いて近道を通って逃げ、陣営に帰ると兵を率いて百郡の屋敷に留まり、病と称して入朝しなかった。 蹇碩の陰謀は未遂に終わり、皇子劉弁が皇帝に即位した。   劉弁と劉協の後継者問題は複雑だから、またの機会に笑 洛陽北部尉の曹操が、蹇碩の叔父を叩き殺した話もあったんだね。
  宦官について見てきました。 霊帝即位から黄巾の乱まで、黄巾の乱から董卓乱入まで、の洛陽の様子が「空白」みたいな感じだったんだけど、かなり埋められそうで。『後漢書』の守備範囲は恐ろしい。 宦官に都合よい動きをしていた名将・段熲を調べてみたくなりました。段熲と段珪が紛らわしいね。ここまで書いてきて、混同してることに気づいた。おしまい。
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