■三国志雑感>「三国時代÷9」で全体像をつかむ
■歴史を捉える知恵 三国志の歴史は複雑です。一気に捉えようとしても、よく分からない。年表と睨めっこをしても、どこを見て、自分が何を考えているのか見失ってしまいます笑 そこで便宜的に、三国志の時代を9に分けてみました。日本の歴史だって「平安時代の次は鎌倉時代で」と、政治体制が近いと思われる時期をまとめて覚えます。あんな感じを目指します。 カテゴライズすることは、意味を与えること。三国志の理解は「分ける」ことから始まるかも知れません。     ■時代の区切り方 「三国志」の物語のスタートは、『三国演義』で桃園結義が交わされた184年。ラストは呉が晋に滅ぼされる280年。よって、まずこの2箇所で線引きします。 そして、物語が盛り上がる(=時代の転換点となる)董卓暗殺の192年、官渡決戦の200年、赤壁大戦の208年と、諸葛亮が死んだ234年にも線を引きます。   画期を王朝の興亡ベースで考えます。献帝が曹丕に禅譲した後に国境が固まった222年、劉禅が降伏した263年で区切ります。 劉備の即位は曹丕即位に年代が近く、魏に呼応したものでエポックメイキングではないと判断、除外。孫権即位は、北伐という諸葛亮の国策をメインテーマに時代が動いていた下での出来事だと考えるので、採りません。 司馬炎即位は、それ以前から魏の実質的な権力者を司馬氏だったことから、特にアクセントを置きません。代わりに司馬懿のクーデター249年で切ります。 これを時系列に並べ、命名すると以下のようになります。     ■とりあえず作ってみた時代区分 【1】党人濁流(~189年)   幼帝・愚帝の相次ぐ即位、外戚・宦官・官僚の三つ巴の権力争い。   元清流派の張角を中心に、黄巾の乱が勃発。外戚何進が大将軍に。   何進が宦官に討たれ、何進配下の袁紹らが宦官に報復。洛陽空白。   【2】分函谷関(189年~192年)   皇帝を拾った董卓は恐怖政治を敷き、洛陽を焼いて長安遷都。   函谷関の東西に分かれて、諸侯の対立。官僚層をそれぞれに収集。   関東では袁紹を中心に董卓に任じられた諸侯が地盤を固める。   【3】袁氏相克(192年~199年)   董卓は王允・呂布に討たれ、并州政権成立。統一権力は事実上消滅。   四世三公の血筋、袁紹と袁術を盟主に仰ぐ二大勢力が中原で衝突。   袁紹庇護下の曹操は、青州黄巾党と献帝を入手して独立を狙う。   【4】覇王曹操(200年~208年)   曹操と袁紹の対立が表面化。   官渡で袁紹に大勝した曹操は、中原の覇者となる。   袁紹の息子・烏桓征伐、公孫康の帰順を経て、南征を開始。   【5】天下三分(208年~222年)   荊州と益州を巡った争いの時代。曹操は赤壁で撤退。   諸葛亮を得た劉備は、荊州南部に根拠地を獲得。荊州は三分割。   劉璋に招かれた劉備は益州制圧。魏王曹操に対抗し漢中王を名乗る。   関羽は樊城を包囲して洛陽を脅かすが、曹操と孫権の挟撃で敗北。   荊州奪還を目論む劉備は、夷陵で敗北を喫す。   【6】孔明北伐(222年~234年)   曹丕・劉備即位。劉備は荊州奪還を狙うが、夷陵で陸遜が防衛。   諸葛亮が南征の後、北伐開始。呉と両面作戦を展開するが、陣没。   孫権は公孫淵との外交を展開し、魏の挟撃を図るが失敗。   【7】辺境屈服(235年~248年)   司馬懿は公孫淵を討ち、邪馬台国より朝貢の使者到着。高句麗占領。   蜀は蒋琬・費禕が継ぎ、姜維が羌を取り込み北伐開始。呉で二宮の変。   交州、南方鎮圧成功。内乱・周辺地域を鎮圧し、三国とも国力強化へ。   【8】司馬台頭(249年~263年)   司馬懿が曹爽ら駆逐。夏侯覇亡命、淮南の三叛。魏から反司馬氏排除。   司馬昭が魏帝・曹髦を暗殺。晋公昇進を狙い、鍾会と鄧艾を蜀へ派兵。   漢中と姜維と成都の劉禅は分断状態。劉禅降伏。鼎立、終焉。   【9】西晋統一(264年~280年)   鍾会と姜維は成都で挙兵、敗北。長江上流が魏の版図となる。   二国時代。司馬炎は禅譲を受け、晋王朝成立。   諸葛恪後、権力闘争の絶えない呉は孫皓が即位。晋の攻撃に降伏。     以上、三国時代を約10年~15年ずつに割りました。 時代区分論というのは、歴史学でも結論が永遠に出ないテーマです。ここに挙げたのは、あくまで一つの案です。複雑な歴史の、全体像を捉える助けになればと思います。
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