■三国志雑感>孟達は誠意に溢れた男だ(2)
■孟達の裏切ライフ 孟達には独立した伝がない。蜀書「劉封伝」と魏書「明帝紀」を主な史料にして、繋ぎ合わせるしかない。この扱いからして、所属勢力があやふやな匂いがする。   扶風郡の孟達は飢饉を避け、同郷の法正と劉璋に仕えた。彼は法正らと謀り、劉備を益州に迎え入れた。兵二千を率いて江陵に駐屯し、乗っ取りの推進派として動いた。《転職1:劉璋から劉備》 孟達は劉備に信頼されない。219年に上庸を攻撃しようとしたとき、劉備は養子・劉封を遣った。劉封に孟達の軍を統率させた。上庸太守の申耽と弟の申儀は降伏した。 窮地の関羽が孟達・劉封に救援依頼を出したが、断った。   関羽は死に、劉備は孟達を責めた。孟達は罪を受けることを恐れ、かねてから仲の悪い劉封を恨んで、魏に降伏した。《転職2:劉備から曹丕》 孟達は、劉備にこんな絶縁状を出した。 「私は山ほど過失を犯してしまった(関羽を見殺しにしたり、関羽を見殺しにしたり)。こんな私が、立派な臣下の皆さんの列に加わっていてはいけません。身の処し方を潔くしたいので、自らを追放することにしました。私のモットーは『交際を断った後に相手を非難する発言はせず、君のもとを去る臣下は恨みがましい言葉を吐かない』です。私は劉備殿のことをトヤカク言いません。劉備殿も私のことをトヤカク言わないで下さい。さようなら。探さないで下さい、達ちゃんより」。   孟達は、私兵四千家あまりを統率して帰伏した。曹丕は鑑定団をやった。「孟達亜は将軍の器です」「天子を補佐する大臣の器です」と報告を受けて、大喜び。孟達の容姿・才能を愛し、新城太守を任せた。 曹丕は孟達を褒めた。「興亡の兆しを見極め、成功失敗の必然的な勢いを察知できる人なんだね」と。 曹丕は孟達の手を引いて、自分の車に乗せた。孟達の背中を撫でてからかった。「キミはまさか劉備の刺客じゃないだろね(原文:卿得無為劉備刺客邪)」。孟達への寵愛が過度なので、周囲から不満が洩れた。曹丕はそれを聞くと「よもぎの茎で作った矢でよもぎの原を射るようなものだ」と答えた。毒を持って毒を制すの意だ。 曹丕は孟達の真摯な眼差しを評価しつつも、警戒は解かないといった感じ。   ■劉封へのお手紙 曹丕は孟達に、劉封を襲撃させた。夏侯尚・徐晃とセットで派遣した。孟達は自分で裏切っておいて、白々しくも劉封に手紙を送った。 孟達曰く、 「古人の言にあります。他人に親類の仲を裂くことはできず、新参者は古株を押さえつけないものだ(原文:疏不間親、新不加旧)と。人間が正しい行いをしていれば、本来の形が狂うことはないという意味です。しかしそれが通用しない場合もあります。恩愛の気持ちが他に移ったり、悪口を言って間を引き裂く者がいたりする場合です。権勢や利益が圧力として加われば、親さえも仇敵に代わってしまう」と。続けて言う。 「劉備の愛情は実子の劉禅に移ってます。あなたは劉備とは血の繋がりがない。早く事態を飲み込みなさい。家来たちだって、後継者問題に神経質になり、あなたを除こうと悪口を吹き込むでしょう。成都に帰るなんて、ヤバいって。魏に降伏するのが、生き残る道ですよ。すでに養子として実父を棄ててるんだから、今さら養父・劉備から去ったって問題ないんだ」 劉封は孟達の手紙を「アホか!」と突き返した。   申儀が反旗を翻し、劉封は敗走して成都に帰った。申耽は魏に降伏した。 諸葛亮は「劉封をほっといたらヤバいすよ」と進言した。劉備は劉封を自殺させた。劉封は嘆息して「孟達の言うことを聞いておけばよかった」と悔やんだ。※すなわち、魏に降伏しとけばよかった、という意味だよね。劉備の養子が曹丕に降伏するって、想像するだけでも一大事だよ! ※あ、でも袁譚も曹操に降伏してたよね。目くじら立てるほどじゃない?   ■孟達の最期 曹丕が死んだ。親しくしていた桓階・夏侯尚も死んだ。 孟達は不安になった。魏にはまるで人脈がないんだもん。孟達は申儀と不和だった。申儀の密告で諸葛亮と内通していることにされた孟達は、反乱を起こした。司馬懿の電光石火の進撃で始末された。以上!   孟達の人生を見ると、いつも自分から裏切りのキッカケを作っている。劉璋を見限った。劉備の糾弾を避けて、逃げた。さらに魏から離反して、諸葛亮と結ぼうとしているところを斬られた。 見っともない!こりゃ、蜀書にも魏書にも伝記が立たないわけですよ。と、これが一般的な解釈。裏切の常習者として、小物扱いされる孟達の人生だ。 前半で見た黄権と較べると、かなり見劣りがするかも。
  ■理想と現実のギャップ? 三国志とは少し脱線しますが。 「理想の反対語を答えてください」と言えば「現実でしょ?」となる。「じゃあ現実の反対語は?」「理想」「はい、正解です」となる。しかし、本当に理想と現実は対義語なんだろうか。 ぼくは、因果関係を表す言葉だと思う。現実が因で、理想が果だ。 理想というのは、空から降ってくるものじゃない。現実の生活を送る中から、ちょっとずつ見つかっていくものだ。抱く理想は、その人の現実の影響を色濃く受ける。理想を強く持てば、それに向けて現実がシフトしていく。理想と現実が完全に溶け合うことはないけど、対立関係として捉えるのは誤解が多いと思う。   ■黄権と孟達の正体 転職マニアと言われた黄権と孟達だが、二人とも「仕えた主には忠節を尽くす」という自分ルールを強く持っていた人だと思う。そこは同じだった。 黄権と孟達は、一緒に酒を飲むことはなかったかも知れない。新卒で入ったのは劉璋だが、郷里はまるで遠い。史書に親密さを表す話はないし、表面上は意見が対立しているんだ。でも似たもの同士として、お互いを遠目に意識していたはずだ。   黄権は、理想を現実に馴染ませていくのが上手な人だった。 劉璋が君主のときは、劉璋に忠義を貫くという理想を強く持った。容易には曲げなかった。でも現実が劉璋の敗北を告げると、劉備への忠義を自己の理想の核に据えることが出来た。適応力が強かった。曹丕の配下になった時も同じだ。彼自身の理想を、上手にシフトさせた。心機一転、曹丕の下でベストを尽くすんだ、と思えた。 現実の変化を全部受け容れているから、旧主を否定することはしない。旧主に仕えていた過去も現実だ。自分の一部だ。新しい理想をこしらえるための材料だ。曹叡に「劉禅万歳」と言うことも、彼は平気なんだ笑    孟達は現実を受け容れられず、幼い頃に一度作った理想を、あくまで固守してしまう不器用な男だ。 君臣や親子が信頼し合って、お互いの能力や人間性を認め、高め合うことを理想としていた。孟達の発言を読み返せば、そう思えてくる。曹丕の人物鑑定団が評価したのは、理想に燃える彼のそんな魂だと思う。 しかしその理想に現実が対応してくれないから、足掻いた。たびたび君主を変えざるを得なかった。理想を探し続けた。 ※以下の薄い文字の段落は斜め読みで結構です。 劉璋は曹操から益州を守るには弱すぎた。関羽を助けるには、劉封と守っていた上庸は治安が不安定だった。劉封と仲良くなれない。関羽を殺しておいて、劉備に食わし続けてもらうのは、自分で自分が許せない。曹丕は猜疑心が強くて、落ち着いて仕えられない。しかも死ぬのが早すぎる。劉備は後継者問題で人道を外した。申儀とは折り合わない。司馬懿も諸葛亮も、オレのよく分からん騙し合いをしやがって!あー!あるべき人間関係はどこにあるの!現実と理想の遠きことよ!とか、ウジウジ悩んだんだろう。   孟達は(逆説的と取られるかも知れないが)誠意に溢れた男だ。 孟達は策士ではない。裏切りを戦略として意図的に繰り返し、三国を翻弄する。そういう乱世の処世術もあろうが、孟達はそれをやっていない。やろうともしていない。 孟達が劉備や劉封に伝えているメッセージを読む限り、詐欺師の香りはしない。詐欺師は、相手を騙すために体裁のいいことを並べるのが得意だ。しかし詐欺師の修辞としては、不器用で素朴すぎると思う。   ■まとめ 黄権は義や忠に優れていたわけじゃない。人より少し、心の仕組みが器用だっただけだ。恩人を裏切っても、ケロッとしてるところがある。 孟達の不義不忠の中身は、ただの不器用だ。人より筋を通しすぎるんだ。「裏切り」ないしは「転職」に悪意を孕ませるほど、有能ではない。 孟達が弾劾されるとしたら、ただ適応力のなさを以ってのみだ。これが根深くて、なかなか治らないんだけどね。我が身を見ているようです笑   かくして「黄権=忠義」「孟達=裏切」というレッテルは、それぞれアベコベに貼り替えられた。と思うのは、筆者の自己満足だとしても笑、彼らの素顔には迫れたと思います。おしまい。
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