■生きざまを数値化>袁紹其二
袁紹は洛陽時代に頴川名士と親交を結び、韓馥から冀州を奪った。 今日においてM&Aは、人材採用の効率的な一手段。袁紹が勢力を拡大しながら手に入れた賢人や勇将を見てみます。
郭 図(公則) 「出ルト負ケ軍師」ハ、頴川一流ノ名士。
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政務●●●
弁舌●●●

将器●
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自尊●●●
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忠孝●●

耐性●●
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『後漢書』曰く、頴川太守陰脩は在地の賢い若者を部下に挙げた。功曹の鍾繇、主簿の荀彧、孝廉の荀攸、計吏の郭図。英俊のお土地柄に恥じぬメンバーだよね。このメンツで下っ端の事務仕事をしてたんだね。個人的に、すごく羨ましい。
郭図の有能は、袁紹下で発揮された。弱小勢力への就職に妥協した、かつての同僚とは違う。
人を誹謗する悪癖があったとされる。しかし郭嘉も荀彧も「曹操殿がクソ袁紹に勝る10の理由」とか挙げてるじゃん。批判攻撃は、軍師が頭脳の回転を高める体操みたいなものじゃないか。「袁紹殿がチビ曹操に勝る10の理由」を言わせてみたい。
郭図の所属した袁紹・袁譚が没落したから、郭図は人格障害者みたいに言われてる。でもそれは、的外れな批判で。袁譚と逃げ出して南皮で斬られた。

辛 評(仲治) 諸葛瑾ノ如クハ振舞エズ。譚ノ不明ヤ。
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頴川の人で、洛陽で袁紹が口説いたのか。
袁尚と袁譚の争いは、曹操の介入を招いた。袁譚に従った辛評は、弟の辛毗を曹操に遣った。曹操は「鄴よりも辛評・辛毗兄弟を得たいなあ」とでも嘯いたのかも。蒯越のパタンから推測してみた笑
曹操は協力的になったが、辛毗を囲い込んでしまった。仕方ないから辛評がミイラ取りに行ったが、曹操は辛毗を離さない。「むしろ辛評君も、オレの家に来ないか」と言われる始末。決裂して復命。
「兄弟で両陣営に遣え、内通してるだろ」と袁譚に疑われたので、情けなくなりストレス死。この例を見ると、諸葛瑾が優れてると知れるね。

辛 毗(佐治) 勅命ニ依リテ、司馬懿殿ノ出撃ヲ禁ズ。
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頴川の人、辛評の弟。袁紹を頼り、袁譚を支持。停戦交渉で曹操に引き抜かれ、曹丕のとき侍中、曹叡のとき頴郷侯。袁曹5代の臣!
鄴を守る、袁尚派の審配を殺すように進言した。
※審配は兄の家族の仇。辛毗の家族は、先に脱出に成功してるのが可笑しい。兄弟は他人の始まりとは、よく言ったものです笑
五丈原ノ戦で、女物の巾で諸葛亮が司馬懿を徴発し「出てきて欲しいなあ」と熱烈に訴えた。諸将は具足を震わせて、出陣の命を待つ。そのとき「勅命でござる」と遮った使者が辛毗だ。曹操の河北討伐戦から三十余年。憤慨して散った兄と対照的。

荀 諶(友若) 文若、曹ニ仕フルカ、家名ヲ保ツハ我。
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頴川の人、荀彧の兄(か弟)です。
190年、董卓ノ乱。「荀彧伝」曰く、荀彧が「頴川は四方から攻め込まれる地勢。逃げましょう。韓冀州殿が騎兵隊で迎えに来ています」と呼びかけたが、荀氏だけが韓馥に従うのみだった。
韓馥は袁紹に官位を剥ぎ取られたが、荀彧を上賓ノ礼で待遇した。袁紹は荀彧を、辛評・郭図と共に招いたが「袁紹は大業を成せぬ」と見抜いて、191年曹操に仕えた。我が張良!の場面はココ。
荀諶は袁紹の招きに応じた。荀氏の家名を保つには、彧のような冒険はむしろ愚挙でしょう。正しいのは諶だ。彧が宦官唐衡の娘を娶ってることからも、彧は亜流扱いだった気がする。 同郷の郭図・辛評と袁譚を支持し、悲惨な末路かも?詳細未詳。もしかしたら荀彧の権勢と仁徳を憚って、荀諶の死に様は握りつぶされたかも。って、穿ち過ぎか笑

淳于 瓊(仲簡) 操ハ紹ノ外デ強勢シ、瓊ハ内デ強勢ス。
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このサイト内の淳于瓊伝で書きましたが、黄巾デビュー、西園八校尉、董卓からの逃亡、袁紹勢力圏内での成長という意味で、曹操と同じ道を辿った将です。ただし、曹操は袁紹からの自立を志して官渡ノ戦を起こし、淳于瓊は袁紹の臣として頂点を狙って軍権の3分の1を任されました。
烏巣という要諦の地を任された。曹操の少数の奇襲部隊を、正攻法の野戦で迎撃しようとして、門外に布陣した。酒を飲んで油断してたわけじゃなく、純粋に将器のぶつかり合いを経験した。代償は鼻。
けっこうな英雄候補だと思うんだが、評価低いよね。

麹 義(??) 涼西ノ武ヲ以テ、幽州ヲ制シタ雄。
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宮城谷三国志で、ぼくは興味を持ちました。
涼州で武を磨いたと言われ、袁紹が洛陽で個人的にスカウトしたんかな。公孫瓉の討滅に功があり、厳綱を討った。瓉の助っ人・趙雲に斬り殺されるのは『演義』のご愛嬌です。
おそらく圧倒的な武力と統率力を誇り、顔良や文醜の面目が立たなくなったんだね。袁紹が使い切れなくなったから、身内の平和のために処罰したんじゃないか。出典は分かりませんが、Wikipediaに「官渡直前が没年と言われる」と書いてあるから、いくらでも妄想を膨らますことが出来そう。調練と称して、顔良と文醜が麹義を討ち取っちゃうとかね。
北方征圧のダメージが完全に癒えてないのに南下開始。官渡に臨む袁紹軍の強さと弱さを活写できたら素晴らしいと思います。いい素材です。

審 配(正南) 我ガ君ハ北ニアリ。字ハ南ナレド笑
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冀州牧の韓馥の下から、袁紹が吸収した。
逢紀と親交を結び、不遇の冀州組の中では厚遇された幸運者。袁尚を支持した。曹操の鄴攻略に対して、平原で袁譚と戦う主君に代わって、本拠守将の任務を全うした。甥の審栄が東門を開いてしまって滅びるが、吉川三国志で審配の忠烈ぶりを見たら涙を誘われました。
捕縛後、かねてより対立してた冀州の張子謙が「正南のバーカ」と言ったとき、「お前は降虜だが、私は忠臣だ」とやり返した。この一言が煌く男です。
辛評の一族を皆殺しにしたために曹操は已む無く首を刎ねたが、釈放されても自刃したんだろうなあ。日本人好みの忠臣。中国での評価はどうなんだろ。

沮 授(??) 黄河ヨ、我復タ還ルコト能ハザルヤ。
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韓馥の別駕。袁紹に吸収されて、監軍・奮威将軍。袁紹軍の軍権を、官渡直前まで1人で管理してたんだから、とても有能。
「青州黄巾を平らげ、張燕を討ち、公孫瓉と匈奴を破りましょう」「献帝を迎えるべし」「子に一州を与えて並列させるのは拙いですよ」「許侵攻は尚早で、内政振興が優先です」と。一気に並べると、無理言いの空論みたいだが、どれも適時に出てます笑 まるで曹操の成功戦略を先取りした献言です。
これらの献言の唯一の欠点は、ほぼ用いられなかったこと笑 だめじゃん!
官渡ノ戦に行く前に、財産を一族で全て分けてしまい、滅亡の覚悟で従軍した。敗れて曹操に捕えられたとき「一族が河北に残っています。速やかに私を死なせて呉れないか」と言った。

田 豊(元皓) 嬰児ノ病ニテ、天ノ時ハ去レリ。
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韓馥の部下。袁紹の別駕。献帝の奉戴を沮授と一緒に勧めたが、郭図らのブロックで実現せず。
劉備が徐州で曹操から独立した。曹操が許を留守にしたので「今です」と言ったけど、「末子が病気やけんのお」と退けられた。子供に活躍を見せたいのは、スポーツ選手がよく言うことだ笑
曹操が許に戻った頃に、袁紹の末子の病気が治った。田豊は沮授と「今ではありません」と言ったが、「わしは強いけんのお」と言って袁紹は黄河を渡った。田豊は、枷を嵌めて投獄された。
官渡で敗れた袁紹が「田豊に合わす顔がないのお」と落ち込んでたら、逢紀が「田豊の奴は、殿の敗北をザマア見ろと喜んでますぜ」と耳打ちした。田豊は虚しく殺された。陣内政治が不足?
沮授の斬新なアイディアに、客観性と深みを与える偏屈な顧問みたいなイメージ。旧韓馥の臣として、親交は深かったのでしょう。沮授と田豊が酒を飲みながら「我が身の不遇は嘆かわしいが、それ以上に袁紹軍の行く末が危ぶまれる」とか言ってそう。

以上、袁紹の陪臣・将軍たちでした。 冀州ともども韓馥から奪った名士が充分に生かされず、不遇なまま勢力の滅亡を座視させられてるね。袁紹の心としては、汝南や洛陽で自ら親交を結んだ連中の方が、占領地と共に一絡げに手に入れた臣等より可愛かったんだね。それは分からんでもない。だけどさあ。。
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