孫呉におけるストレスを考えます。
■本稿のキッカケは2つ
若林利光『サバイバル「三国志」―乱世を生き抜いた英雄達たちの知恵―』インデックス・コミュニケーションズ2004年と、正史『三国志』「孫皓伝」を読んで、これを書こうと思いました。
前者は三国志の英雄たちの健康状態や死因を、現代医学で分析した本。歴史に医学を持ち出すというインスピレーションをくれました。
後者には、孫皓の異常な性癖が書いてある。孫皓は、人が自分の前で目を逸らしたり、平然と自分を見返すことを嫌って、そういうことをした人の目を抉り出した。顔の皮を剥いだ。これは、今日ネットで検索したらいくらでも出てくる「視線恐怖症」だ。
思い起こしてみれば、孫呉はよく人が死ぬ。有名な大都督のバトンリレーを手放しで賞賛している場合ではない。
もしかしたら、孫呉は過度のストレス社会だったのではないか。そんな着想が降ってきた笑。考えてみたい。
■大都督のバトンリレー
孫呉は、有能な臣下に恵まれた。孫堅と孫策が横死してしまったが国が持ちこたえたのは、彼らの功績による。魏や蜀と張り合っていた政策責任者は、大都督という位について頑張った。
すなわち周瑜死して魯粛、魯粛死して呂蒙、呂蒙死して陸遜。
彼らで「いい死に方」をした者はいない。
死を身体的な要因と心理的な要因に分ける。身体的な要因は、若林氏の考察に詳しい。まずは以下、引用する。
■孫呉政権の健康上の爆弾
長江流域は、日本住血吸虫症の多発地帯だった。急性期では食欲不振・倦怠感から始まる。感染後、50~60日で発熱や腹部不快感の症状が出て、粘液血便が見られ肝臓が肥大化する。これを過ぎると慢性期に入る。肝硬変が起こり、消化吸収障害、食道静脈瘤による吐血・腹水が見られるようになり、死ぬ。※なぜ中国の風土病に「日本」という名前が付いてるかは、ぼくは知りません。
孫権が「釣台」を築き、そこから落ちるまで大酒を飲んだ。若林氏は、周瑜たちの死因に肝硬変という仮説を立てている。肝硬変から食道静脈瘤破裂で大量吐血、もしくは急性肝不全らしい。引用ここまで。
孫呉は健康に爆弾を抱えている。赤壁で南下した曹操軍が体調を崩したけど、孫呉政権にも北方人は多い。筆頭は張昭だ。周瑜だって生粋の南方人じゃない。従祖父・周景とその息子・周忠は大尉だった。中原で活躍している。軍人も文官も、合戦以前に健康に不安あった。
そこに輪をかけるように、悪条件が重なる。家臣にしこたま酒を飲ませる主君、孫権の存在だ。孫呉政権は肝臓にとって、仕えるには過酷な環境だったようだ。労災おりるのか!
賢き虞翻は孫権の酒を拒んで殺されそうになった。さすがに張昭が「ええ加減にせえ」と切れた。現代人の「お酒の席の礼儀」とはレベルが違い、命をかけて飲んでたんだね。ひどい国だわ。
■精神ストレスの元凶
呉には大義がない。
大局的に三国を論ずるときに、正統論が起こる。どの国に大義があるか、というやつ。
魏の根拠は、漢から禅譲(という茶番儀式)を受けたことだ。入念に受禅台まで築いて、周到なことだ。そこまでして、心を補強してやる必要があった。蜀の根拠は、こっちが漢の由緒正しき継承者だという自負。皇帝が劉姓だから、問答無用に信じられる。じゃあ、呉は?
(回答なし)
孫権は呉王・呉帝を名乗るのが遅れたし、ワケの分からない瑞兆を起こしまくって正当化しようとしている。でも正体は、地方に割拠した一群雄に過ぎないんだよね。
赤壁前夜に曹操から「会猟状」を突きつけられたときも、降伏論が多数を占めた。便宜上・形だけのこととは言え、魏に何回も降伏を申し入れている。彼らには、戦いを支える確固としたイデオロギーがないのだ。
大義なし。これは、首脳部のストレスの種だ。
当の孫権は後方に居座って、合肥をぼちぼち攻めながら、形成を見守っていた。思うに、孫権は生き残ることに人一倍貪欲だったのだと思う。父も兄も若くして失っているから、その反動で生存への執着が強かった。
しんどそうな荊州方面の対応は、大都督に一任した。荊州については、ストレス・フリーだった。わざとその状況を作ったんじゃないかと勘繰りたくなる。孫権はそれくらいやりそうだ。
代わりに、大都督たちが劉備や曹操との際どい駆け引きを行った。
劉備も曹操も、一世代上の英雄だ。経験豊富で強い。それは精神的にも軍事的にも。さらに、確固たる正統性を頂いている。たびたび正統論を振りかざして、領土交渉をしてくる。怖い存在だ。
周瑜は劉備排除、魯粛は劉備融和、呂蒙は劉備排除、陸遜は融和から排除。戦術がコロコロ変わるのは、それだけ情勢が緊迫していたからだろう。今日では、事務職のバイトの引継ぎでも難航するというのに笑、この方面指揮官の継承劇は、激務だったに違いない。
周瑜=享年36、魯粛=享年46歳、呂蒙=42歳、陸遜=孫権の後継問題で憤死。
陸遜は長命だったけど、夷陵で孫策以来の宿将に突き上げられてストレスを溜め込んでいる。北方『三国志』では血尿を垂れ流しているが、当らずとも遠からずだろう。このとき39歳。これで死んでいたら、いかにも呉の大都督らしい死のタイミングだ。笑えんが。
■孫皓の精神病
時代が飛んでごめんなさい。また穴埋めは後日するけど、孫皓です。
孫皓とは、呉の四代皇帝。ラストエンペラー。
就任当時にはすでに蜀が滅びて、二国時代に入っていた。父親の孫和は、孫権晩年の耄碌で、殺されている。あまり好ましくない家庭環境で育った彼が、瀕死の王朝を継承した。
孫皓の治世は、乱心に満ちている。
家臣を恣意的に誅殺し、意味のない遷都で大土木工事を起こし、ほどなく復都し、魏や晋との屈辱的な外交に晒され、前皇帝勢力の息がかかった派閥の粛清に勤しみ、有能な臣下の死去を嘆き、芽の耐えない反乱分子を潰す。異民族だけでなく、孫一族も敵になり得る疑心暗鬼。
いつ晋に討伐されるか分からない。もう生殺し。全方面から攻め寄せてくる征呉軍に、恐々と立ち向かう心細さ。
「孫皓は死んだんじゃないか」とたびたび流れる噂。それくらい引きこもっていたという事実の反映でもあるし、孫皓の死を望んでいた世論の反映でもある。孫皓の死を勘違いして、勃発する反乱。要鎮圧。生き心地、最悪!
歴史書は孫皓に手厳しい評判を書き記した。敗北者の常だから、仕方ない。彼の暴走は、いくらかは割り引いて読む必要はあるだろう。
しかし孫皓の心境を(遠く現代日本からだが)斟酌すれば、そりゃ、精神崩壊しないほうがおかしい。歴史書の記述のママまではいかなくても、理性の暴走に任せて過ちを犯してしまった可能性は高い。
すでに書いたように、孫皓は視線を向ける人の目を抉った。
視線恐怖症の原因は、他人に悪く思われるのが怖いことだ。オレは誰かに非難されている。そういう思い込みに取り付かれる。
頭の悪くない孫皓は、自分がいわゆる「悪政」をしていると自認してただろう。しかし内から襲ってくる強迫観念に対抗する手段を持たなかった。傍若無人に皇帝権力を乱用して、心の平穏を取り戻そうと努めたのだろう。しかし国庫を空にしても、まるで心は空っぽのままだったに違いない。
せめてもの償いに、詫びるように改元と大赦を繰り返した。皮肉かつ当を得た一般論だが、改元と大赦の連発は、亡国の典型的な兆しだ。
鼎立という勢力バランスが崩れた中華大陸で、それでも毅然と天を頂く皇帝として君臨する恐怖は、想像を絶する。
陸凱なんてのが出てきて「陛下の顔を見れなかったら、緊急時にどうやってお助けするんですか」なんて正論を吐く。仕方ないから陸凱には正視を許すんだが、こういう自分を糾弾する人物の視線こそ、避けたいんじゃないか。誰も孫皓の苦しみを分かってあげてないじゃないか。
陸凱は陸遜と同じ一族で、呉の名族である。彼らの支持を得ることは、政権維持に最重要である。そうそう、頭では分かっているんだけど、そういうのが一番ストレスの原因になるんだって。心の深くて柔らかいところを、じわじわと侵食するんだ。自分を容赦なく、さいなむんだよ!
■非難する者への恐怖
孫皓は家臣に大酒を飲ませた。宦官を素面で立たせておいて、酔っ払った家臣の様子を観察させた。
少しでも反逆的な態度だったり、気に食わない顔をした連中を、孫皓は「処分」した。政治の場に酒の力を借りてくるのは、祖父の孫権ゆずり。自分への非難を、まだ非難の萌芽であろうとも、潔癖かつ徹底的に刈り取りたいのは、精神病の典型的な心理状態だ。※と個人的に思う。
すごくよく分かる気がするのです。やったことは「悪いこと」だろうけど、それで辛うじて孫呉の四代皇帝たることが出来たんじゃないか。ぎりぎりのバランスを保っていたんじゃないか。毎日自殺してしまいたいと考えていたんじゃないか。それでも孤独に耐えていたんじゃないか。
その証拠と言えるか評価は微妙だが、晋に降伏してからの孫皓は、実に痛快に司馬炎をやり込める。頭の切れを発揮する。
抑圧されて、抑圧されて、抑圧されて、そうやって皇帝として苦しんだ日々から解き放たれて、初めて孫皓は孫皓たり得たんじゃないか。人間らしい生活が送れたんじゃないか。血反吐を出せるだけ出し尽くして、やっと心だと自覚できるものが、辛うじて胸の内側に残っていたことに気づけたんじゃないか。おつかれさま、孫皓。
降伏してから4年後、43歳で孫皓は死んだ。この4年間に、逆説的であるが、孫皓は救われたんじゃないか。ほっと胸をなでおろして、この世に生を受けたことに感謝して死ねたんじゃないか。
誰の目にも気兼ねせず、自分の生をまっとうしたに違いない。涙涙
■孫呉を思う憂鬱
周瑜が曹操(漢王朝を頂く大義)に対抗すると言い出した日から、無数の人がストレスの餌食になった。死んでいった。大義なし。風土病あり。大酒を強要しないと、心理的な安定が得られない環境。
呉を支えた人物は、それぞれは英雄だと思う。だが、何とも不幸なことか。そこまでして、人間は運命に反抗しなければならないのか。
創業の君とも言える孫策は、複雑なことなど考えず、ひたすら空を追いかけて合戦に明け暮れたんだろうに。爽やかに初夏の風を感じて、原野で目の前の敵とだけ切り結んでいたに違いないんだ。なのに…
ちょっと感情的になり過ぎたかな。コラムとしてどうなんだろう笑