■曹操の指導
劉備にとって、袁紹と睨みあっている曹操が、まさか徐州に現れるとは思っていない。すでに「後方から援護する」という建前は成り立っているはずだったが、甘かった。
曹操はもっと多くを、劉備に求めた。漁夫の利を劉備が貪るようなことは、許さなかった。
あまりに想定外のことに、劉備や張飛は、バラバラになって命からがら逃げた。関羽との連絡も絶たれた。
ここに、『秘本三国志』のような、八百長は成立しない。まさか、曹操を徐州に呼ぶような暴挙は、やるわけがない。本当に連携してるなら、曹操に危ない橋を渡らせるなよ笑
関羽が曹操に降る場面は、三国志の名場面の1つなんだし、どうしてスポイルすることが出来ようか。何十ページも使って、ねちねちと書いてこそ、意味がある笑
はじめ曹操は、劉岱と王忠に劉備を攻めさせた。これは、袁紹の情報網へのアピールと解釈できる。曹操が劉備の謀反を放置したら、共謀がバレバレだからね。
でも曹操は「宿題を間違えた」劉備を、本拠地を留守にするというリスクまで背負って、真剣に殺しにきた。
■劉備の次善策
劉備は「はじめての野望が砕かれた」という挫折感に苛まれながら、駆けた。真実は「曹操に弱みに付け込んで離反しようとしたが、平定された」だけなんだ。
だが、劉備はこれで終わらない。
幸いにも曹操との話し合いをしてあったから、「協力の方法を変更するぜ」という名目のもとに、曹操との裏同盟を守り続けるというポーズを選ぶことができた。袁紹の中で、撹乱するという任務に就くんだ。
おそらく劉備も、袁紹への偽りの投降というのは、想定に中に入っていた。それこそ、曹操とサシで飲んでいるときから。でも負担が大きいから、避けていた。それを曹操が「サボるな」と叱り付けた。
関羽が人質だから、劉備にはこの道しかないんだ。やっと天下を目指すと誓った劉備は、関羽を取り戻すために、曹操の走狗になるしかない。
なぜ袁紹が劉備を歓迎したかは、また考えます。袁紹の事情だ。
■白馬と延津
顔良が関羽に討たれたのは、『秘本三国志』が正しいだろう。まあ、「関羽が降ると聞いていたので、顔良は油断した」というのは、他のところでも言われていることだよね。あまりに討たれ方が不自然で。
関羽が曹操より脱出してからは、もう劉備も曹操との地下同盟は消滅していたんだと思う。
劉備はもともと「曹操を誑かして、自立する」が目的で、協力には真剣じゃなかった。曹操もそれを知っていた。だから、顔良を討っただけで、充分に回収したんじゃないか。だって、官渡の緒戦で出鼻を挫いたんだし、白馬で袁紹軍の数万が壊滅してるんだろうし。
延津で文醜が敗れたのは、劉備の八百長とは関係なく。袁紹軍の中で沮授・田豊が潰されてしまうのは、別に劉備の工作が効いたからとか、そんなセコいことじゃない。
袁紹が人材を活かせないというのも、三国志の名場面だから笑、劉備の横槍なんか抜きにして、真剣に足を引っ張り合ってもらいたい。
■その後の劉備
劉備が汝南に回り込んだのは、やはり曹操を討つためだろう。袁紹軍がまとまらないのを見て、見切りをつけたんだ。
幸い、劉備の臣下には、分裂するほどの数の論客はいなかった。将来の蜀漢だって、袁紹のところのように派手に議論しなかっただろうね笑
汝南はもともと、袁紹を出した袁氏の本拠地だ。ここで、何か工作まがいのことをしたと考えたほうが、天下を自覚した劉備らしい。
袁紹に勝たせても、劉備は大して出世しない。それより、勝ちそうな曹操の隙を付いたほうが、お零れも多そうだぞ、という計算もあっただろう。
倉亭ノ戦の後に曹操が直接討ちに来たのは、劉備を人傑として警戒し始めたからで。
さすがに、もう八百長は引っ張れないよ。
劉表のところに流れて行くのも、もう賭けだね。
「曹操と劉備で、劉表を壊そう」なんてことはないだろう。あの信用できない劉備が、こつこつ7年も、稀薄な同盟のため尽力するとは思えない。
だらだらと「髀肉の嘆」なんてやってるときに、夏侯惇を見事に焼き捨てるから、葉ノ戦は爽快なんだ。前途真っ暗なとき、天下三分ノ計が登場するから、諸葛亮がかっこいいんじゃないか。
■徐州という場所
サイト内「袁術が事件解決!怪奇190年代の謎」でちらっと触れた劉備が、どのように群雄に伸し上がって行くか、その心理的な過程を、自分なりに構成できたと思います。
曹操と劉備の対談という、歴史的な場面で、どんなお話があったか。それも、自分なりに組み立てることが出来てよかったと思います。
劉備の自立への一歩は、官渡直前のあえぐ曹操を出し抜いて、ちゃっかり分裂することだった。
徐州は、第三勢力を生み出すお土地柄らしい。袁紹と袁術が争っていたとき、陶謙はちゃっかり自立を狙ったし、呂布も陳珪と陳宮を駆使してバランスを取った。
皮肉なことに、両方とも曹操に片付けられているんだけど。
今回の劉備も、袁紹と曹操という新しい2大勢力の隙間に漬け込んで、やはり徐州で自立を図った。
劉備としては、傭兵時代に得た地縁と、「治めるための」土地勘があった。でも致命的に見落としていたのは、曹操が徐州を「攻めるための」土地勘を誰よりも持っていたこと。
そして先例に漏れず、またまた曹操に踏み潰されてしまった笑
■いろんな物語への反論
陶謙に国譲りをされたとき、すでに劉備が天下に覚醒していたと仮定すると、このタイミングでの劉備の徐州独立は違和感がある。「今さら?」という感じになってしまう。
劉備が自立を願ったのは、このときが初なんだ。
いくら徐州の民の支援があっても、劉備個人が「今こそ機だ」と意気込んでも、それだけで車冑を殺せるだろうか。きっと「曹操を出し抜いてやった」という劉備の(浅はかな)読みがあったはずなんだ。
北方『三国志』では、やたら精神論で徐州独立が語られているが、そんな馬鹿なことはないだろう笑
曹操は、死ぬまで劉備を駆逐できなかった。ただし、劉備に英雄を自覚させてしまったのも、また曹操。この宿命は、八百長よりもタチの悪い、騙しあいから始まったのです。
なんかいい感じでまとまりました。おしまい。080114