■三国志雑感>三国地図、自作エンパイアーズ(3)
 
  ■南郡 後漢時代の襄陽郡と、お騒がせ孟達がいた宜都郡です。 襄陽は、劉表が州都を置いたところ。劉表のときの襄陽郡は大きくて、劉表がいたのは、ほんの北端でした。でも、魏と呉が襄陽郡を分け合って、北端だけ魏が持っていってしまった。面積としては数%なんだが、いくら孫権でも、襄陽がない地域を「襄陽郡」というのは抵抗があったらしく、南郡になった笑 劉備が曹操から逃げたのはここで、江陵華容があり、赤壁も含む。戦後に劉備が根拠地にした公安(油江口)を含み、さらに夷陵も域内で、劉備が長陣を布いてしまったのもここ。   ■江夏 荊州江夏郡そのまま。 黄祖が孫呉と戦った夏口沙羨、劉琦の赴任先で、赤壁合戦で劉備一行が逃げ込んだ漢津以東の地域がココ。曹操が撤退した後は、呉が領しました。 孫権の都の柴桑も、ここにあります。いや、柴桑は豫章なのか?わからん…   ■長沙 荊州長沙郡そのまま。 黄忠の故郷ですね。魏延もここ。弱小4君主のうち、韓玄が治めていました。洞庭湖があり、益陽臨蒸があります。 湘水が縦断していて、東西で蜀呉の国境が引かれたこともありました。   ■桂陽 荊州の桂陽郡そのまま。 弱小4君主のうち、趙範が治めていました。やはり湘水で国境線が引かれました。長沙と境遇が似ているので、敢えて分ける必要はないかも。   ■武陵 蛮の住処です。弱小君4主の金旋が治めていました。劉備が奪い、孫権が関羽を討って回収しました。 蛮を、藩濬が3年9ヶ月かかって平らげたのもここ。   ■零陵 弱小4君主の劉度がいました。
  ■巴蜀 東の巴郡と、西の蜀郡を分けてもいいかも知れない。 巴郡には、巴郡、巴東郡、巴西郡を含みます。劉備が死んだ白帝城、張飛が赴任した閬中、厳顔が降伏した江州があります。蜀末には羅憲ががんばった場所ですね。 蜀郡は、広漢郡、漢嘉郡、汶山郡を含みます。漢中から成都にかけてのあらゆる都市を含みます。白水関、葭萌関、緜竹、雒城、涪県があります。   ■漢中 益州漢中郡。 張魯がいた。諸葛亮が丞相府を移し、蒋琬、費禕も倣った。 最近読んだ本で、鎌倉と京都と同じ関係が、漢中と成都であったと書かれていて、なるほど、と思った。近世でもいいんだが、公武の抗争が、蜀後半を語るときに参考になるとしたら、材料に困らないね。   ■南中 越スイ郡、朱提郡、ショウカ郡、建寧郡、興古郡。諸葛亮の南征の対象です。本当は地域の名前を「ライ降」にしたかったんだけど、漢字が出ないからちょっと保留。。   ■雲南 雲南郡と永昌郡。もう諸葛亮すら、こんなところに行ってない。
  ■隴西 諸葛亮が北伐で出て行くところ。 安定郡、天水郡、南安郡、隴西郡、広魏郡です。出てくる地名は、全て『演義』でおなじみのものばかり。 陳倉は扶風郡だから、この地図では「関中」に含まれます。侵入を許してしまった!という感覚ですね。けっきょく追い返せましたが。   ■武都 武都郡と陰平郡です。 諸葛亮が北伐すると、ほいほい寝返ってしまうような、魏にとって不安定な地域。基本的に山です。   ■西涼 涼州です。韓遂馬騰がいて、西方との交易の拠点ですね。実際はもっともっと広いけど、あんまり三国志で戦略的価値がないので、小さめ。 無双3エンパイアーズで、やたら砂漠風のステージが手抜きで、君主の馬騰が弱いので、史実と裏腹にすぐに征圧できました。 ずっと西に行くと、敦煌に辿りつきます。
  後半は駆け足でしたが、とりあえず地図完成! 次は地域区分は今の大きさのまま、ドットをこの4倍(今の1マスを2×2)に分けて、リアルを目指してみようかなあ。ディフォルメが目的なので、細かくし過ぎることに意味はないのだが。080206
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