■三国志雑感>孫堅系の転覆を狙う、最強の傍流(4)
孫皎が死ぬと、四男の孫奐、字は季明が継いだ。このとき、おそらく25歳くらい。 まだ粘るか!というような、孫静の息子のバトンリレー。 世では、孫策と孫権が、「珍しく成功した、兄弟間の継承だ」なんて褒められているが、そんなの目じゃないよ。   ■石陽の戦い 孫奐は、兄が任用していた、劉靖・李允・呉碩・張梁を大切にした。新しく、江夏の閭挙も参謀に加わったみたいです。   226年、孫奐は鮮于丹に5000を与えて、淮水流域を攻めた。孫奐は、呉碩・張梁と5000を率いて自ら先鋒となり、魏の3人の将軍を高城で捕えた。 全体としては、江夏太守の文聘にあしらわれて、散々な戦いだった。でも孫奐だけは戦果を上げた。   孫権が戦後に閲兵をしたとき「孫奐くんはノロマで気が利かなかったが、もう心配しなくていいな」と言った。 孫権としては、孫静系を牽制するために、いつも必要以上に上から目線なんですが笑、さすがに年齢差が開いてくると、この態度を受け容れざるを得ないのかなあ。 孫皎を殺した甲斐があったというものだ笑   「当意即妙の受け答えは苦手だったが、職務はテキパキと処理した」と陳寿が書いているから、真面目で従順だったんだろう。 そんな孫奐が部曲のトップになってくれたおかげで、孫権としては「やっと使いやすくなったぜ」という感想だろうか。   ■孫権の勝利 呉碩と張梁は、この戦いで裨将軍になった。おめでとう!と言いたいところですが、せっかく孫静系が囲っていた名士が、孫権に吸収されつつあるような気がするのです。   孫奐も兄と同じように学者を貴び、子弟に講義を開いた。孫奐の学校から、後に朝廷に使えるものが数十人も出た。 陳寿はサラッと書いていますが、これは単なる学び舎の成果を記しているのではないと思います。孫静系の部曲が解体されて、孫権に人材が取り上げられたということでしょう。   呉書見聞 http://f27.aaa.livedoor.jp/~sonpoko/ 孫権は孫皎死後、孫奐がその後を引き継げるのか、心配だったのだ。孫皎が優秀であったが故に。だが、孫奐は期待を裏切る事はしなかった。 孫皎以上の無理でも、孫皎以下にはならないように現状維持はできる人物だったのである。   引用をさせて頂きました。 孫権への貢献という面から見れば、確かに孫皎と同じクオリティを、孫奐は保ったのかも知れない。 だって、孫皎は非協力的だったから笑 でも、孫堅系のライバルとして孫静系を経営するという、代々のミッションに照らせば、大きくトーンダウンしてしまったとうのが、ぼくの感想です。   孫奐が死ぬと、やっと兄弟相続の途絶え、子の孫承が継いだ。孫承が死ぬと、孫壱が継いだ。
  ■勝負あり 曹丕が即位すると、孫権は魏に臣従して呉王となる。 関羽の死と曹操の死が重なって分かりにくいのですが、孫皎の死と近いタイミングでもあった。 蜀と魏の間で遊泳しているように見える孫権ですが、国内問題(孫静系との主導権争い)に外交を利用していたのかも知れない。 食えない。。本当に食えない男ですよ。   229年に孫権が即位。 このとき正式に、孫静系が敗北をします。234年まで孫奐は生きていますが、一般的にイメージされる「血の繋がりのある、信頼できる部将」という位置づけでしかないと思う。 孫権の思う壺の結末としか、言いようがない。   ■エピローグ 252年。 孫権が今にも死にそうなとき、孫峻という若者が、武衛都尉から侍中となった。孫瑜・孫皎・孫奐の甥で、無念に散った孫暠の孫です。 息も絶え絶えに、孫権は孫峻に命じました。 「キミは、私の一族の人間だ。信頼している。もし私が死んだら、政務一般を助けるように」と。言葉は記録にないが、こんなところだろう。   孫奐は毒っ気を抜かれてしまった。 でも、孫暠の子の孫恭を経由して、「今年ですか」「いや、まだだ」の風習が、孫峻に継承されていたとしたら。孫権は、とんでもない判断ミスを、やらかしたことになりますよ。 さすが、老いては駄馬にも劣る。   ぼくは、身の危険を感じた孫皎あたりが、リスクヘッジのために、孫暠の息子たちに吹き込んでいたと思うんですよ。孫静の呪いが籠もった遺言を。孫堅系に屈するなという、一家の信念を。 奇しくも、孫皎の死年と孫峻の生年が同じだったりする。荊州への出陣を控えて、孫皎は、赤子の孫峻を抱き上げ「孫権の子孫を苦しめよ」とでも刷り込んだんじゃないのか笑 孫峻はこのときのことを覚えてないけど、周囲に、自分が叔父・孫皎に抱かれたことを聞かされ、それを誇りに思って、突っ走ったんじゃないかな。   その後の展開は、ご存知のとおりで。 孫堅系への、孫静系の逆襲が始まる、かも笑 080302
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