三国志は、1800年に渡って語り尽くされてきた叙事詩。
しかし、とある映像作品のキャッチコピーみたく「死ぬまで飽きない」もの。
まだまだ枯れる気配すら見せない、三国志の魅力について語ります。
『晋書』列伝13より「王戎&王衍伝」を訳出(3)
衍字夷甫,神情明秀,風姿詳雅。總角嘗造山濤,濤嗟歎良久,既去,目而送之曰:「何物老嫗,生甯馨兒!然誤天下蒼生者,未必非此人也。」父乂,為平北將軍,常有公事,使行人列上,不時報。衍年十四,時在京師,造僕射羊祜,申陳事狀,辭甚清辯。祜名德貴重,而衍幼年無屈下之色,眾鹹異之。楊駿欲以女妻焉,衍恥之,遂陽狂自免。武帝聞其名,問戎曰:「夷甫當世誰比?」戎曰:「未見其比,當從古人中求之。」

王衍はあざなを夷甫という。神情は明秀で、風姿は詳雅だった。王衍は、總角(装飾となる紐の結び方)を山濤のために作った。山濤はその出来にとても感心した。山濤が帰ると、王衍は山濤を見送って言った。「なぜ年寄りが、児のようにイキイキしているのか。天下万民を誤らせるのは、きっと山濤のような人だ」と。
父の王乂は、平北將軍となり、いつも公務にあり、人を列上に行かせ、時報せず。王衍が14歳のとき、洛陽にいて、僕射である羊祜に宛てて書状を送ったが、文面はとても清弁だった。羊祜は王衍の名徳を貴重だといった。王衍は幼年より人に屈した態度を取ることがなく、異(他人と違って立派だ)とされた。楊駿が娘を王衍の妻にしたいと持ちかけたとき、王衍は恥じて、わざと狂ったふりをして辞退した。
司馬炎は王衍の名声を聞き、王戎に問うた。「王衍は当世の誰に比べられるか」と。王戎は答えた。「現代には比較できる人物はいません。古代の人の中になら、王衍なみの人物はおりますが」と。


泰始八年,詔舉奇才可以安邊者,衍初好論從橫之術,故尚書盧欽舉為遼東太守。不就,於是口不論世事,唯雅詠玄虛而已。嘗因宴集,為族人所怒,舉某累擲其面。衍初無言,引王導共載而去。然心不能平,在車中攬鏡自照,謂導曰:「爾看吾目光乃在牛背上矣。」父卒于北平,送故甚厚,為親識之所借貸,因以舍之。數年之間,家資罄盡,出就洛城西田園而居焉。後為太子舍人,還尚書郎。出補元城令,終日清談,而縣務亦理。入為中庶子、黃門侍郎。

泰始八年、「奇才があり、国政を安辺できる人を推挙せよ」と詔があった。はじめ王衍は、縦横ノ術(外交論)を操ることが得意だったので、尚書の盧欽を遼東太守に推薦した。盧欽が着任しなかったので、(提案を却下されたため)王衍は世事を口にしなくなった。ただ、雅詠玄虛だけを論じた。かつて宴に人が集ったとき、一族の者が王衍に怒り、王衍の顔を何回か叩いた。王衍ははじめは無言だったが、王導(続柄不詳)を連れて席を立った。王衍は心を落ち着けることが出来ず、牛車の中で鏡に自分の顔を映し、王導に言った。「お前は私の眼光を見て、牛の背の上にいる」と。※何の謎かけでしょうか。
父が北平で死ぬと、父の任地に手厚く贈り物をし、父が親しかった人たちのために金を貸したので、彼らは王衍に仕えた。数年の間に、王衍は家資を使い果たし、洛陽城の西にある田園に住んだ。のちに太子舍人となり、尚書郎に還り、元城県令に赴任した。終日清談をし、県務もまた理(筋が通っていた)。洛陽に戻って、中庶子・黄門侍郎となった。

魏正始中,何晏、王弼等祖述《老》《莊》,立論以為:「天地萬物皆以無為本。無也者,開物成務,無往不存者也。陰陽恃以化生,萬物恃以成形,賢者恃以成德,不肖恃以免身。故無之為用,無爵而貴矣。」衍甚重之。惟裴頠以為非,著論以譏之,而衍處之自若。衍既有盛才美貌,明悟若神,常自比子貢。兼聲名藉甚,傾動當世。妙善玄言,唯談《老》《莊》為事。

魏の正始年間、何晏や王弼らは『老』『荘』について著述し、新しい解釈を提供した。彼らが言うには、
「天地万物の全ては、無がモトとなる。無とは開物成務し、往きて存ぜざる無きなり(全ての源だ)。陰陽は交わって化生し、万物は交わって形を成し、賢者は成徳を交わらせ、不肖な人は免身(サボり?)を相互作用させる。ゆえに、無が用をなすことは、爵位がなくても高貴な人がいるのと同じだ」と。
王衍はこの議論に深く賛同した。ただ裴頠は(王衍の考え方に)非があると言い、論文で批判をした。だが王衍は、気にする様子もなかった。王衍は、盛才美貌があり、明悟(理解力)は神のようだったため、常に自分を(孔子の弟子)子貢と比べていた。さらに、声名は藉甚で、当世を傾動した。妙善玄言として、ただ老荘思想についてだけ論じた。


每捉玉柄麈尾,與手同色。義理有所不安,隨即改更,世號「口中雌黃。」朝野翕然,謂之「一世龍門」矣。累居顯職,後進之士,莫不景慕放效。選舉登朝,皆以為稱首。矜高浮誕,遂成風俗焉。
衍嘗喪幼子,山簡吊之。衍悲不自勝,簡曰:「孩抱中物,何至於此!」衍曰:「聖人忘情,最下不及於情。然則情之所鐘,正在我輩。」簡服其言,更為之慟。


玉柄や麈尾(うちわ)を持つと、(手が映り込んで)手と同じ色になる。(玉柄や麈尾のように)、王衍の言い分(理を義すこと)は安定せず、状況に応じてコロコロ変わった。そのため世間では「口中雌黃」と言った。※黄色い紙に書き損じると、黄色い絵の具で書き直した。ここから、発言に一貫性がない比喩になったようです。「あいつの唾液は修正液だ」と同じ感覚か。
朝野の人々は群れ集って、「王衍は、一世の龍門だ」と言った。
王衍は高官を重ねて経験した。後進の士で王衍を敬慕して模範としない人は居なかった。推挙されて登朝すると、みな王衍をリーダーだと仰いだ。(王衍の影響で)矜高浮誕であることが、廟堂の風俗となった。
王衍はかつて幼子を亡くしたことがあった。山簡がそのことを話題にすると、王衍は悲しみを抑え切れなかった。山簡が言った。「お子さんは中物を抱えて、なぜここに到ったのか」と。王衍は答えた。「聖人は情を忘れ、情に及ばない(制御できない)のを最も下(ダメなこと)とする。情に鐘を鳴らされる場所は、まさに私にある」山簡は王衍のコメントに納得し、さらに一緒に悲しんだ。※幼児の死を悼む節は、よく分かりません。


衍妻郭氏,賈後之親,藉中宮之勢,剛愎貪戾,聚斂無厭,好干預人事,衍患之而不能禁。時有鄉人幽州刺史李陽,京師大俠也,郭氏素憚也。衍謂郭曰:「非但我言卿不可,李陽亦謂不可。」郭氏為之小損。衍疾郭之貪鄙,故口未嘗言錢。郭欲試之,令婢以錢繞床,使不得行。衍晨起見錢,謂婢曰:「舉阿堵物卻!」其措意如此。

王衍の妻の郭氏は、賈皇后の親類だった。郭氏は、中宮の権勢を利用し、剛愎貪戾で、無反省に蓄財に励み、人事を左右することを好んだ。王衍はこれを患いたが、禁ずることはできなかった。
王衍と同郷で、幽州刺史を務める李陽は、洛陽の大侠(親分)だった。郭氏は、李陽をもとより憚った。王衍は妻の郭氏に言った。「ただ私があなたの行いをダメだと言うのではない。李陽もあなたの行いをダメだと言っている」と。郭氏は、少し悪行を慎んだ。王衍は、郭氏の貪鄙の性格を忌み、銭のことを口にしなかった。郭氏は(王衍が銭に関心がないのを)試したいと思い、婢に命じて王衍の床に銭をずらりと並べ、容子を観察させた。王衍が夜明けに起床して銭を見ると、留まっていた婢に言った。「この邪魔なものを片付けよ(堵=カキネ、卻=退ける)」と。王衍が、郭氏にうんざりしているのは、このようであった。


後曆北軍中候、中領軍、尚書令。女為湣懷太子妃,太子為賈後所誣,衍懼禍,自表離婚。賈後既廢,有司奏衍,曰:「衍與司徒梁王肜書,寫呈皇太子手與妃及衍書,陳見誣見狀。肜等伏讀,辭旨懇惻。衍備位大臣,應以議責也。太子被誣得罪,衍不能守死善道,即求離婚。得太子手書,隱蔽不出。志在苟免,無忠蹇之操。宜加顯責,以厲臣節。可禁錮終身。」從之。

のちに北軍中候、中領軍、尚書令を歴任した。娘が司馬遹の妃だったが、司馬遹は賈皇后に誣された。王衍は禍いが自分にも及ぶことを懼れて、娘を離婚させたいと上表した。賈皇后が失脚した後、有司は王衍に関して奏した。
「王衍は、與司徒梁王肜書,寫呈皇太子手與妃及衍書,陳見誣見狀。司馬肜らは恐縮して読み、懇ろに哀しみの言葉を述べました。対して王衍は、大臣の位にあり、司馬遹を責める議論に賛同しました。太子は誣せられ、罪を得ました。王衍は善道を死守せず、(反対に我が身の可愛さに)娘の離婚を求めました。司馬遹の直筆の書状を手に入れ、隠蔽しました。王衍の志は苟免(逃げ腰)で、忠蹇ノ操はありません。どうか王衍を責めを加え、臣としてのあり方を明らかにして下さい。王衍には、終身の禁固を命じて下さい」と。この奏上は、認められた。


衍素輕趙王倫之為人。及倫篡位,衍陽狂斫婢以自免。及倫誅,拜河南尹,轉尚書,又為中書令。時齊王乂有匡複之功,而專權自恣,公卿皆為之拜,衍獨長揖焉。以病去官。成都王穎以衍為中軍師,累遷尚書僕射,領吏部,後拜尚書令、司空、司徒。衍雖居宰輔之重,不以經國為念,而思自全之計。說東海王越曰:「中國已亂,當賴方伯,宜得文武兼資以任之。」乃以弟澄為荊州,族弟敦為青州。因謂澄、敦曰:「荊州有江、漢之固,青州有負海之險,卿二人在外,而吾留此,足以為三窟矣。」識者鄙之。

王衍はもとより趙王(司馬)倫の人となりを軽んじていた。司馬倫が簒位すると、王衍は狂った振りをして婢を斬り殺し、政権には参加しなかった。司馬倫が誅殺されると、河南尹を拝し、尚書に転じ、また中書令となった。斉王・司馬冏(原文の乂は誤りか)は匡複ノ功があったので、ほしいままに専権したため、公卿はみな司馬冏に拝礼した。しかし王衍は1人だけ長揖(略式の礼)で済ませた。病気で官を去った。成都王・司馬頴は、王衍を中軍師にし、尚書僕射、領吏部に累進し、のちに尚書令を拝し、司空、司徒となった。
王衍は宰輔ノ重にいたが、国を治めようという気持ちはなく、自全ノ計(プライベート)だけを思った。東海王・司馬越に、王衍は説いた。「中原はすでに乱れました。方伯(諸侯)に頼り、文武の資質を兼ね具えた人物を任用して下さい」と。
王衍の弟の王澄は荊州、族弟の王敦は青州に赴任した。王衍は、王澄と王敦に言った。「荊州には長江と漢水があり、堅固だ。青州は海の防衛線がある。お前たち2人は、洛陽から地方に出て、私は洛陽に留まる。三窟を為すに足る(一族を安全圏に分散できた)」と。これを聞いた人は、(王衍が自分中心なので)批判した。   
『晋書』列伝13より「王戎&王衍伝」を訳出(4)
及石勒、王彌寇京師,以衍都督征討諸軍事、持節、假黃鉞以距之。衍使前將軍曹武、左衛將軍王景等擊賊,退之,獲其輜重。遷太尉,尚書令如故。封武陵侯,辭封不受。時洛陽危逼,多欲遷都以避其難,而衍獨賣車牛以安眾心。

石勒と王弥が洛陽を寇すにおよび、王衍は都督征討諸軍事となり、持節、假黃鉞を預かり、石勒と王弥を防いだ。王衍は、前将軍の曹武と、左衛將軍の王景に賊を討たせ、退け、敵の輜重を手に入れた。大尉に遷り、尚書令は以前のままだった。武陵侯に封じられたが、遠慮した。洛陽が危逼すると、多くの人は遷都して避難しようと言ったが、王衍だけは牛車用の牛を売り払ったので(移動手段を手放したので)人々の心は安定した。


越之討苟晞也,衍以太尉為太傅軍司。及越薨,眾共推為元帥。衍以賊寇鋒起,懼不敢當。辭曰:「吾少無宦情,隨牒推移,遂至於此。今日之事,安可以非才處之。」俄而舉軍為石勒所破,勒呼王公,與之相見,問衍以晉故。衍為陳禍敗之由,雲計不在己。勒甚悅之,與語移日。衍自說少不豫事,欲求自免,因勸勒稱尊號。勒怒曰:「君名蓋四海,身居重任,少壯登朝,至於白首,何得言不豫世事邪!破壞天下,正是君罪。」使左右扶出。謂其党孔萇曰:「吾行天下多矣,未嘗見如此人,當可活不?」萇曰:「彼晉之三公,必不為我盡力,又何足貴乎!」勒曰:「要不可加以鋒刃也。」使人夜排牆填殺之。衍將死,顧而言曰:「嗚呼!吾曹雖不如古人,向若不祖尚浮虛,戮力以匡天下,猶可不至今日。」時年五十六。

司馬越が荀晞を討った。王衍は大尉のまま、太傅となり軍を司った。司馬越が死ぬと、人々は王衍を元帥に推薦した。王衍は賊が蜂起しても、懼れてあえて戦わなかった。王衍は辞退して曰く。「私は若いときから宦情がないのに、命令と成り行きに振り回され、元帥にされてしまった。今日の事態を、私のような非才が何とかできるわけがありません」と。にわかに軍を挙げて石勒に破られ、石勒は王公を呼びつけ、石勒と王衍は会見した。
石勒は王衍に、なぜ晋がこのように亡国となったか問うた。王衍は、晋が負けて禍いを受けた理由を陳べて、自分には(挽回する)計略がないことを白状した。石勒はとても喜んで、王衍に言葉を与えて、その日はそれで終わった。王衍は自分は昔から先見などないことを伝え、役目を免じてくれと求めた。王衍は、石勒に尊号を称することを進めた。石勒は怒って言った。
「キミは名が四海をおおい、身は重任にいる。子供の頃から登朝し、元帥に到った。それなのに、なぜ世事について考えがないとホザくのか。天下を破壊し、君の罪を正してやろう」と。側近は王衍を助けるべく、その場に出てきた。石勒の与党である孔萇に、王衍は言った「私には天下を主催する重責があるが、かつて(亡国を背負わされて)こんな立場になった人がいない。晋を活かすことなどできるのか」と。孔萇は答えた。「我が国=晋の三公で、実力を発揮できた人はいません。あなたさまにも無理でしょう」と。石勒は言った。「(この腐った奴らを殺すのに、わざわざ)鋒刃を加えるな」と。夜に塀を飛び越えさせ、王衍たちを殺した。王衍は死に臨み、顧みて言った。「ああ私の軍隊は、古人には及ばないけれども、向若不祖尚浮虛、力を尽して天下を匡していれば、今日のようにはならなかっただろうに」と。享年56歳。


衍俊秀有令望,希心玄遠,未嘗語利。王敦過江,常稱之曰:「夷甫處眾中,如珠玉在瓦石間。」顧愷之作畫贊,亦稱衍岩岩清峙,壁立千仞。其為人所尚如此。

王衍は俊秀で望まれ、希心は玄遠で、利を語ったことはなかった。王敦が長江を渡って(東晋に仕えて)常に王衍について言った。「王衍は大勢の中に混じっていることは、珠玉が瓦石の中にあるのと同じことだった」と。顧愷之は画贊を作り、王衍を「岩岩清峙、壁立千仞」と称した。王衍の人となりは、このように貴ばれたものだった。

子玄,字眉子,少慕簡曠,亦有俊才,與衛玠齊名。荀籓用為陳留太守,屯尉氏。玄素名家,有豪氣,荒弊之時,人情不附,將赴祖逖,為盜所害焉。
澄字平子。生而警悟,雖未能言,見人舉動,便識其意。衍妻郭性貪鄙,欲令婢路上擔糞。澄年十四,諫郭以為不可。郭大怒,謂澄曰:「昔夫人臨終,以小郎屬新婦,不以新婦屬小郎。」因捉其衣裾,將杖之。澄爭得脫,逾窗而走。


王衍の子は王玄で、あざなは眉子といった。若くして簡曠を慕い、俊才があった。衛玠と並び称された。荀籓は王玄を陳留太守に用いて、尉氏に屯させた。王玄はもとより名家出身で、豪気があり、荒弊のとき人情にこだわらなかった。祖逖を討ちに行って、盗賊に殺害された。
王澄はあざなを平子といった。生まつき警悟で、口は達者ではなかったが、人の挙動を見ると、その人の心が分かった。王衍の妻である郭氏の性質は貪鄙で、路上で婢に糞を担がせよと命じた。王澄は14歳だったが、郭氏を諌めて、そんなことをさせてはいけない、と諌めた。郭氏は大いに怒り、王澄に言った。「むかし夫人が死ねば、遺された子は新しい母に従った。新しい母が遺児に従ったのではない」と。郭氏は王澄の衣の裾をつかみ、杖で打とうとした。王澄は揉み合って振りほどき、窓を飛び越えて逃げた。


衍有重名于世,時人許以人倫之鑒。尤重澄及王敦、庾敳,嘗為天下人士目曰:「阿平第一,子嵩第二,處仲第三。」澄嘗謂衍曰:「兄形似道,而神鋒太俊。」衍曰:「誠不如卿落落穆穆然也。」澄由是顯名。有經澄所題目者,衍不復有言,輒雲「已經平子矣」。

王衍は世に重名があり、時の人は人倫の鑑であるとして、彼の言動を許した。王澄と王敦と、庾敳が注目された。天下の人士は「阿平(王澄)第一,子嵩(庾敳)第二,處仲(王敦)第三」と言った。王澄は王衍に言った。「兄形は道に似て、神鋒はとても俊です」と。王衍は答えた。「誠とは、きみが落落穆穆としているのに如かず」と。この会話で、王澄の名は売れた。王澄を経し題目する人がいても、王衍は取り立てて反応せず、「すでに王澄を経したね」とだけ言った。


※途中ですが、、王澄伝は後日訳しましょう。原文だけ転載。
少曆顯位,累遷成都王穎從事中郎。穎嬖豎孟玖譖殺陸機兄弟,天下切齒。澄發玖私奸,勸穎殺玖,穎乃誅之,士庶莫不稱善。及穎敗,東海王越請為司空長史。以迎大駕勳,封南鄉侯。遷建威將軍、雍州刺史,不之職。時王敦、謝鯤、庾敳、阮修皆為衍所親善,號為四友,而亦與澄狎,又有光逸、胡毋輔之等亦豫焉。酣宴縱誕,窮歡極娛。
惠帝末,衍白越以澄為荊州刺史、持節、都督,領南蠻校尉,敦為青州。衍因問以方略,敦曰:「當臨事制變,不可豫論。」澄辭義鋒出,算略無方,一坐嗟服。澄將之鎮,送者傾朝。澄見樹上鵲巢,便脫衣上樹,探而弄之,神氣蕭然,傍若無人。劉琨謂澄曰:「卿形雖散朗,而內實動俠,以此處世,難得其死。」澄默然不答。
澄既至鎮,日夜縱酒,不親庶事,雖寇戎急務,亦不以在懷。擢順陽人郭舒於寒悴之中,以為別駕,委以州府。時京師危逼,澄率眾軍,將赴國難,而飄風折其節柱。會王如寇襄陽,澄前鋒至宜城,遣使詣山簡,為如党嚴嶷所獲。嶷偽使人從襄陽來而問之曰:「襄陽拔未?」答雲:「昨旦破城,已獲山簡。」乃陰緩澄使,令得亡去。澄聞襄陽陷,以為信然,散眾而還。既而恥之,托糧運不贍,委罪長史蔣俊而斬之,竟不能進。巴蜀流人散在荊、湘者,與土人忿爭,遂殺縣令,屯聚樂鄉。澄使成都內史王機討之。賊請降,澄偽許之,既而襲之於寵洲,以其妻子為賞,沈八千余人于江中。於是益、梁流人四五萬家一時俱反,推杜弢為主,,南破零桂,東掠武昌,敗王機于巴陵。澄亦無憂懼之意,但與機日夜縱酒,投壺博戲,數十局俱起。殺富人李才,取其家資以賜郭舒。南平太守應詹驟諫,不納。於是上下離心,內外怨叛。澄望實雖損,猶傲然自得。後出軍擊杜弢,次於作塘。山簡參軍王沖叛於豫州,自稱荊州刺史。澄懼,使杜蕤守江陵。澄遷於孱陵,尋奔遝中。郭舒諫曰:「使君臨州,雖無異政,未失眾心。今西收華容向義之兵,足以擒此小丑,奈何自棄。」澄不能從。
初,澄命武陵諸郡同討杜弢,天門太守扈瑰次於益陽。武陵內史武察為其郡夷所害,瑰以孤軍引還。澄怒,以杜曾代瑰。夷袁遂,瑰故吏也,托為瑰報仇,遂舉兵逐曾,自稱平晉將軍。澄使司馬毌丘邈討之,為遂所敗。會元帝征澄為軍諮祭酒,於是赴召。

■訳後の感想
老荘思想を持ち出されると、白文が何を言っているのか分からん。もっと勉強しなくては。

2人とも、それなりに信念は持っているのだが、それが国の役に立つ種類のものではなくて。石勒にしてみれば、「現実逃避しやがって。ここまで漢民族は腐ったか」という、嘆かわしさに映ったのだろう。本人たちは、もっと違う価値観を貫いているんだけどね。
石勒から、洛陽を攻め落とす後ろ暗さを払拭してあげたのが、この2人の王氏かも知れない。五胡十六国時代には、胡漢の優劣の意識の葛藤があったようだ。漢を駆逐する急先鋒である石勒にも、その種類の迷いは強く出ていたはずで。しかし、あまりに「腐った」元帥と対話することで、吹っ切れた。
王氏が悪いんじゃなく、こういう種類の人間を上に置いてしまった王朝が悪い。八王ノ乱では、政治に少しでも関心がある人物が潰しあった。懐帝政権まで残った、目ぼしい血統の人は、老荘かぶれの王氏くらいだったか。八王ノ乱に懲りた中枢部が、安心して大任に付けられるのは、政治に関心がない「安全そう」な連中だったか。そういう事情なら、納得ができる。外圧さえなければ、よく治まったでしょうね笑

どこかのサイトで、「孔融や禰衡に政治を任せたら、どんな悲惨なことが起こるか、それを表しているのが王衍の例だ」と書かれていた。なるほど、そういう見方があるわけですね。平気で「国政についての考えはありません」と言い放ってしまう人が宰相なんだから、ミスマッチも極まっている。 そして、王戎と王衍の従兄弟は、『晋書』において、王敦を登場させるための伏線という役回りになっている気がする。ちょいちょい名前が出てくる王敦は、東晋で唯一無二の絶大な権力を振るうのです。
東晋に入らない範囲の「王敦伝」も、またそのうち。080801
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