『晋書』載記より、「李流・李庠・李雄伝」を翻訳(3)
|
長生勸雄稱尊號,雄於是僭即帝位,赦其境內,改年曰太武。追尊父特曰景帝,廟號始祖,母羅氏為太后。加范長生為天地太師,封西山侯,複其部曲不豫軍征,租稅一入其家。雄時建國草創,素無法式,諸將恃恩,各爭班位。其尚書令閻式上疏曰:「夫為國制法,勳尚仍舊。漢、晉故事,惟太尉、大司馬執兵,太傅、太保父兄之官,論道之職,司徙、司空掌五教九土之差。秦置丞相,總領萬機。漢武之末,越以大將軍統政。今國業初建,凡百末備,諸公大將班位有差,降而兢請施置,不與典故相應,宜立制度以為楷式。」雄從之。
范長生は、李雄に皇帝を号するように勧めた。李雄はここにおいて、皇帝の位に即いた。支配圏に大赦して、年号を「太武」と改めた。追尊して、父の李特を景帝とし、廟号を「始祖」とした。母の羅氏は太后となった。范長生には官位を加えて、天地太師とし、西山侯に封じた。范長生の部曲には軍役を課さず、租税は1つの家以外は免除した。 李雄が建国した草創のとき、もとは法式は整備せず、諸将は恩を恃みとした。諸将は、李雄の臣下の席(の高位)に着くことを争った。
尚書令の閻式が、上疏した。 「そもそも国を作り、法を定めるというのは、旧例の長所を参考にしなければなりません。漢・晋の故事では、ただ大尉・大司馬が兵を執り、太傅・太保だけが父兄の官で、道を論じる役でした。司徒・司空は、五教九土を掌握しました。秦は丞相をおき、万機を総領させました。漢の武帝の末期、大将軍に大権を与えて政治を統べさせました。 いま国業を初めて建てたところです。百末にわたる全てを整備し、諸侯や大将の職位には階差を設けて下さい。競って官位の設置を求める意見を、却下して整理しましょう。典籍の故事をそのままパクってはいけません(反面教師にすると良いでしょう)。どうかこのように制度を立て、官位の階層を整備して下さい」と。
李雄はこれを認めた。
※晋が高位高官の乱発し、インフレを起こしてたのを教訓にしたのか。
遣李國、李雲等率眾二萬寇漢中,梁州刺史張殷奔于長安。國等陷南鄭,盡徙漢中人於蜀。
先是,南土頻歲饑疫,死者十萬計。南夷校尉李毅固守不降,雄誘建寧夷使討之。毅病卒,城陷,殺壯士三千余人,送婦女千口于成都。
李國・李雲らに2万を率いさせて、漢中を寇略した。梁州刺史の張殷は、長安に逃げ去った。李國らは南鄭を陥落させ、漢中の人をことごとく蜀に移住させた。
これより先、南部の地域は、毎年のように飢饉と疫病で、死者は10万人を数えた。南夷校尉の李毅は、固守して投降しなかった。李雄は、建寧夷使を誘い出してこれを討った。李毅が病で死ぬと、李雄は壯士3000余人を殺害し、婦女1000人を成都に送った。
時李離據梓潼,其部將羅羕、張金苟等殺離及閻式,以梓潼歸於羅尚。尚遣其將向奮屯安漢之宜福以逼雄,雄率眾攻奮,不克。時李國鎮巴西,其帳下文碩又殺國,以巴西降尚。雄乃引還,遣其將張寶襲梓潼,陷之。會羅尚卒,巴郡亂,李驤攻涪,又陷之,執梓潼太守譙登,遂乘勝進軍討文碩,害之。雄大悅,赦其境內,改元曰玉衡。
李離が梓潼郡を拠点にしたとき、李離の部将の羅羕・張金苟らは、李離と閻式を殺した。そのため、梓潼郡は羅尚に帰属した。羅尚は、将軍の向奮を遣わして、安漢郡の宜福(地名)に駐屯させ、理由を圧迫した。李雄は兵を率いて向奮を攻めたが、勝てなかった。李國が巴西郡を鎮守しているとき、李國の帳下の文碩がまた李國を殺した。そのため、巴西郡は羅尚に降った。 李雄は引き返して、将軍の張寶に梓潼郡を襲わせ、ここを陥落させた。羅尚が死ぬと、巴郡は乱れた。李驤は涪城を攻め、陥落させて、梓潼太守の譙登を捕えた。価値に乗じて進軍し、文碩を討ち、殺害した。李雄は大いに悦んで、大赦をし、「玉衡」と改元した。
雄母羅氏死,雄信巫覡者之言,多有忌諱,至欲不葬。其司空趙肅諫,雄乃從之。雄欲申三年之禮,群臣固諫,雄弗許。李驤謂司空上官惇曰:「今方難未弭,吾欲固諫,不聽主上終諒闇,君以為何如?」惇曰:「三年之喪,自天子達于庶人,故孔子曰:'何必高宗,古之人皆然。'但漢、魏以來,天下多難,宗廟至重,不可久曠,故釋衰絰,至哀而已。」驤曰:「任回方至,此人決於行事,且上常難達違言,待其至,當與俱請。」及回至,驤與回俱見雄。驤免冠流涕,固請公除。雄號泣不許。回跪而進曰:「今王業初建,凡百草創,一日無主,天下惶惶。昔武王素甲觀兵,晉襄墨絰從戎,豈所願哉?為天下屈己故也。願陛下割情從權,永隆天保。」遂強扶雄起,釋服親政。
李雄の母の羅氏が死んだ。李雄は巫覡の者の発言を信じて、大いに母の死を恐れはばかり、死体を葬ることを拒むほどだった。司空の趙肅は李雄を諌め、李雄はそれに従って葬ることに認めた。李雄は3年の喪に服したいと望んだが、群臣は固く諌めた。だが李雄は許さなかった。李驤は、司空の上官惇に言った。
「いま各地では兵難が収まらないので、私は固く諌めた。だが主上(李雄)は聞き入れず、ついに喪に籠もってしまった。君はどうしたらいいと思うか?」と。上官惇は言った。「3年も服喪していては、(李雄は)天子から庶人へと立場が落ちてしまう。ゆえに孔子は言った。皇帝は、必ずしも皆と同じようにしきたりを遵守しなくてよい、と。ただし漢魏以来、天下には難が多い。宗廟は最も重んずべきものだが、久しくその尊さが明らかになっていない。ゆえに礼制は衰微した。哀しむことしか出来ない」と。李驤は言った。「任回(人名)を遣わして、彼にこの件の決着をつけてもらおう。君主には、つねに批判が届きにくいものだ。だが君主たる人は、反対意見が達するのを待ち、我がこととして諫言を受け付けるべきだ」と。
任回と李驤は、ともに李雄にまみえた。李驤は冠を脱いで涙を流し、固く執政への復帰を請うた。李雄は号泣して、許さなかった。任回はひざまずいて進み出て言った。
「いま王業は初めて建てられたところで、100年の草創です。1日でも主君がいなければ、天下は惶惶としてしまいます。むかしの(周の)武王は当初から、甲冑を着て閲兵し、晋の襄公を討って従えることを願ったでしょうか?天下のために、己を抑制したから勝ったのです。陛下には、私情を押し殺して、権勢に従い、長く王朝を隆盛させてほしいと思います」と。
強く李雄を助け起こしたので、服を釈して、親政をした。
是時南得漢嘉、涪陵,遠人繼至,雄於是下寬大之令,降附者皆假複除。虛己愛人,授用皆得其才,益州遂定。偽立其妻任氏為皇后。氐王楊難敵兄弟為劉曜所破,奔葭萌,遣子入質。隴西賊帥陳安又附之。
南方の漢嘉郡・涪陵郡を得たとき、遠くから人が集ってきた。李雄は彼らに、寛大な布令を出した。降伏して付き従ってきたものは、みな一時的に徴税を免れた。李雄は、己を虚しくして人を愛し、みな才能をもって位を授けて用いたので、益州はついに定まった。妻の任氏を、皇后とした。氐王の楊難敵(人名)兄弟は、劉曜に破られて、葭萌関に奔ってきた。楊難敵は、李雄に子を人質として差し出した。隴西の賊の頭目である、陳安も李雄に附いた。
遣李驤征越巂,太守李釗降。驤進軍由小會攻甯州刺史王遜,遜使其將姚嶽悉眾距戰。驤軍不利,又遇霖雨,驤引軍還,爭濟瀘水,士眾多死。釗到成都,雄待遇甚厚,朝遷儀式,喪紀之禮,皆決於釗。
李驤を遣わして、越巂を征伐した。太守の李釗は、降伏した。李驤は軍を進めて、由小會、甯州刺史の王遜を攻めた。王遜は将軍の姚嶽に総力で防禦をさせた。李驤の軍は利がなく、また霖雨に遭ったので、軍を引き返した。瀘水を渡るところを攻められて、兵士が多く死んだ。
(越巂太守)李釗が成都に到ると、李雄はとても厚く待遇した。朝遷の儀式や喪紀ノ礼を、みな李釗に決めてもらった。
|
|
『晋書』載記より、「李流・李庠・李雄伝」を翻訳(4)
|
ここまで訳してきて、嬉しいのか嬉しくないのか、何ともコメントしづらいですが、ネットで「李雄伝」の翻訳を見つけました。
『詩解』http://www.geocities.jp/takemanma/です。他の本やサイトでは読めない『晋書』の翻訳をやろうという意図だったので、急速にモチベーションが低下。今回はもう続きの原文を載せて、おしまいにします笑 ざっと白文を追いかけて、大意だけはつかんでいたものの、訳出する気力がなくなってしまいましたとさ。
楊難敵之奔葭萌也,雄安北李稚厚撫之,縱其兄弟還武都,難敵遂恃險多為不法,稚請討之。雄遣中領軍琀及將軍樂次、費他、李乾等由白水橋攻下辯,征東李壽督琀弟玝攻陰平。難敵遣軍距之,壽不得進,而琀、稚長驅至武街。難敵遣兵斷其歸道,四面攻之,獲琀、稚,死者數千人。琀、稚,雄兄蕩之子也。雄深悼之,不食者數日,言則流涕,深自咎責焉。
其後將立蕩子班為太子。雄有子十餘人,群臣鹹欲立雄所生。雄曰:「起兵之初,舉手捍頭,本不希帝王之業也。值天下喪亂,晉氏播蕩,群情義舉,志濟塗炭,而諸君遂見推逼,處王公之上。本之基業,功由先帝。吾兄嫡統,丕祚所歸,恢懿明睿,殆天報命,大事垂克,薨于戎戰。班姿性仁孝,好學夙成,必為名器。」李驤與司徒王達諫曰:「先王樹塚嫡者,所以防篡奪之萌,不可不慎。吳子舍其子而立其弟,所以有專諸之禍;宋宣不立與夷而立穆公,卒有宋督之變。猶子之言,豈若子也?深願陛下思之。」雄不從,竟立班,驤退而流涕曰:「亂自此始矣!」
張駿遣使遺雄書,勸去尊號,稱籓于晉。雄複書曰:「吾過為士大夫所推,然本無心於帝王也,進思為晉室元功之臣,退思共為守籓之將,掃除氛埃,以康帝宇。而晉室陵遲,德聲不振,引領東望,有年月矣。會獲來貺,情在暗室,有何已已。知欲遠遵楚、漢,尊崇義帝,《春秋》之義,于斯莫大。」駿重其言,使聘相繼。巴郡嘗告急,雲有東軍。雄曰:「吾嘗慮石勒跋扈,侵逼琅邪,以為耿耿。不圖乃能舉兵,使人欣然。」雄之雅譚,多如此類。
雄以中原喪亂,乃頻遣使朝貢,與晉穆帝分天下。張駿領秦、梁,先是,遣傅穎假道於蜀,通表京師,雄弗許。駿又遣治中從事張淳稱籓於蜀,托以假道。雄大悅,謂淳曰:「貴主英名蓋世,土險兵強,何不自稱帝一方?」淳曰:「寡君以乃祖世濟忠良,未能雪天下之恥,解眾人之倒懸,日昃忘食,枕戈待旦。以琅邪中興江東,故萬里翼戴,將成桓文之事,何言自取邪!」雄有慚色,曰:「我乃祖乃父亦是晉臣,往與六郡避難此地,為同盟所推,遂有今日。琅邪若能中興大晉於中夏,亦當率眾輔之。」淳還,通表京師,天子嘉之。
時李驤死,以其子壽為大將軍、西夷校尉,督征南費黑、征東任巳攻陷巴東,太守楊謙退保建平。壽別遣費黑寇建平,晉巴東監軍毌丘奧退保宜都。雄遣李壽攻硃提,以費黑、仰攀為前鋒,又遣鎮南任回征木落,分寧州之援。甯州刺史尹奉降,遂有南中之地。雄於是赦其境內,使班討平寧州夷,以班為撫軍。
鹹和八年,雄生瘍於頭,六日死,時年六十一,在位三十年。偽諡武帝,廟曰太宗,墓號安都陵。
雄性寬厚,簡刑約法,甚有名稱。氐苻成、隗文既降複叛,手傷雄母,及其來也,鹹釋其罪,厚加待納。由是夷夏安之,威震四土。時海內大亂,而蜀獨無事,故歸之者相尋。雄乃興學校,置史官,聽覽之暇,手不釋卷。其賦男丁歲穀三斛,女丁半之,戶調絹不過數丈,綿數兩。事少役稀,百姓富貴,閭門不閉,無相侵盜。然雄意在招致遠方,國用不足,故諸將每進金銀珍寶,多有以得官者。丞相楊褒諫曰:「陛下為天下主,當網羅四海,何有以官買金邪!」雄遜辭謝之。後雄嘗酒醉而推中書令,杖太官令,褒進曰:「天子穆穆,諸侯皇皇,安有天子而為酗也!」雄即舍之。雄無事小出,褒於後持矛馳馬過雄。雄怪問之,對曰:「夫統天下之重,如臣乘惡馬而持矛也,急之則慮自傷,緩之則懼其失,是以馬馳而不制也。」雄寤,即還。雄為國無威儀,官無祿秩,班序不別,君子小人服章不殊;行軍無號令,用兵無部隊,戰勝不相讓,敗不相救,攻城破邑動以虜獲為先。此其所以失也。
■翻訳後の感想
李特・李雄の建国は、外来じゃない人が益州を治めたらどうなるんだろうか?という、ケーススタディに思えます。もともと中原とは地理的に切り離されていて、それゆえに文化も民族も違う。それなのに秦に併呑されてからは、中原の人の割拠ステーションとしてしか扱われない益州は、不幸な歴史だったと思います。
王莽の乱のあと、公孫述が入り込んだ。公孫述の討伐が遅れたので、益州人士の後漢政権への参加が遅れた。鄧騭のころまで、中央には進出できなかったのだから。時代は下り、劉焉が天子の気を認めて入り込み、居座った。劉璋が父から譲り受けた。彼らは「東州兵」という外来部隊の武力にものを言わせ、益州の上に乗っかった。
その次は、言うまでもなく劉備が蜀漢王朝を開き、諸葛亮が兵站基地として疲弊させた。劉禅が降伏して大人しくなるかと思いきや、鍾会と姜維が一旗あげようとして、ムチャな混乱を引き起こす。晋の王濬が刺史として入り、孫呉の上流から木材を垂れ流して、船を作った。やっと秩序に馴染んだかと思えば、趙廞や羅尚のやからが、漢人でありながら野心を抱いて、また切り取ろうとした。
いつも、独立の気概を抱いた漢人の踏み台とされるのが、益州という土地です。そこでついに、先住民とも言うべき巴氐が立ち上がったのだから、大注目ですよ。
漢中というのも因果な土地です。漢王朝の名前の由来だから、漢代にはわざと州が置かれなかった。でも古代から「梁州」と呼ばれていたようなので、漢の呪縛から自由になった晋になって、復活した。
ここに、氐を味方にした張魯が閉じこもったことは、三国ファンなら常識です。張魯が魏に降って繁栄の道を択ぶと、曹操は漢中の人を、関中に強制移住させた。「鶏肋だぜ」発言は、軍事拠点としての価値の側面から論じられるが、それは一面的な見方だ。漢中に住んでいた人を移してしまったから、それこそ充分にダシを取り付くしたゴミになった土地なんだ。諸葛亮が丞相府を置いてゼロから立て直しているが、曹操のせいでガランとしてしまったのだろうね。
しかし波は寄せては返すもので、斉万年の乱をきっかけに、巴氐たちはシオニズムを開始した。彼らがやったのは、無理やりに梁州や益州に入り込むこと。曹操の政策を無効化したわけです。そして漢中の人を、こんどは蜀に連れ去った。曹操の逆です。漢中とは、関中と巴蜀の間にあって、綱引きの題材に扱われるお土地柄のようです。
関羽や張飛がすでに「歴史上の人物」とされているのが、感慨深いです。勇猛な武将がいたら、まずは50年を遡って文鴦に例え、それじゃあスケールが収まらないということで、100年前の関羽と張飛を持ち出したのだね。
李氏を見ていて思うのは、一族がとても繁栄しているということ。夏侯氏を取り込んだ曹操とか、孫堅の兄弟の家系を取り込んだ孫権とか、彼らと同じものを感じる。創業するときは、近い世代の血縁に優れた人物が立て続けに出ないと、成功が難しいのかも。そのうち李氏の系図を作っておきたいです。
また、張魯に帰依していた巴氐から出た皇帝・李雄の宗教観が、ハイブリッドなのは興味深い。母が死んだときに、土葬したがらなかった。いざ土葬を認めてしまえば、3年の喪にこだわる。土葬拒否と服喪貫徹は、どちらも死生観にまつわる行動ではあるけれども、文化的なバックグラウンドがまるで違う。それだけのフロンティアだったのでしょう。
晋の地方官がたびたび攻撃対象になっているけど、決して腰砕けになることなく、頑強に抵抗し、勝っているのはすごいね
。李特を戦死させたのも、異彩を放ってる。秦漢帝国以来、ずっと大切に築いてきた「皇帝」という思想の最後のふんばりなのでしょう。漢人同士の戦いなら、利のありそうな方に帰順するだろうが、戦いの次元が違うんだ。寧州刺史なんて、それこそ毒沼やら象兵やらがエスニックに諸葛亮を迎え撃った土地を守っているのに、李氏を追い返した。彼らが作った「中国」という共同幻想を死守したかったのでしょう。080807
|
|