三国志は、1800年に渡って語り尽くされてきた叙事詩。
しかし、とある映像作品のキャッチコピーみたく「死ぬまで飽きない」もの。
まだまだ枯れる気配すら見せない、三国志の魅力について語ります。
『晋書』列伝29より、「司馬顒伝」を翻訳(1)
河間王顒,字文載,安平獻王孚孫,太原烈王瑰之子也。初襲父爵,咸寧二年就國。三年,改封河間。少有清名,輕財愛士。與諸王俱來朝,武帝歎顒可以為諸國儀錶。元康初,為北中郎將,監鄴城。九年,代梁王肜為平西將軍,鎮關中。石函之制,非親親不得都督關中,顒于諸王為疏,特以賢舉。

河間王・司馬顒は、あざなを文載という。安平獻王・司馬孚の孫で、太原烈王・司馬瑰の子である。はじめ父の爵位を襲い、咸寧二(276)年、(太原)国に就いた。咸寧三(277)年、河間国に改封された。若くして清名があり、財を軽んじて士を愛した。
諸王とともに来朝した。武帝は、司馬顒に感心して、諸国の模範になると嘆じた。
元康初(291)年、北中郎將となり、鄴城を監した。元康九(299)年、梁王・司馬肜の代わりに平西將軍となり、関中に出鎮した。石函之制によると、親親(皇帝に近い血縁者)が関中を都督することに問題はなかった。司馬顒は、諸王とともに上疏し、とりたてて賢人を推挙した。


及趙王倫篡位,齊王冏謀討之。前安西參軍夏侯奭自稱侍御史,在始平合眾,得數千人,以應冏,遣信要顒。顒遣主簿房陽、河間國人張方討擒奭,及其黨十數人,于長安市腰斬之。及冏檄至,顒執冏使,送之於倫。倫徵兵於顒,顒遣方率關右健將赴之。方至華陰,顒聞二王兵盛,乃加長史李含龍驤將軍,領督護席薳等追方軍回,以應二王。義兵至潼關,而倫、秀已誅,天子反正,含、方各率眾還。及冏論功,雖怒顒初不同,而終能濟義,進位侍中、太尉,加三賜之禮。

趙王・司馬倫が篡位すると、斉王・司馬冏が謀って司馬倫を討った。前安西參軍・夏侯奭は、侍御史を自称して、始平郡で兵を集め、数千人を得た。夏侯奭は、司馬冏に呼応し、手紙を司馬顒に送ってきた。司馬顒は、主簿の房陽を遣わして、河間國の人・張方に夏侯奭を捕えて討たせた。夏侯奭の与党は十数人に及び、長安の市で腰斬にされた。
司馬冏の檄が到着した。司馬顒は、司馬冏の使者を捕え、司馬倫に送った。司馬倫は司馬顒を徴兵したので、司馬顒は張方に関右の健將を率いさせて、遣わした。張方が華陰に着いたとき、司馬顒は2王(司馬冏・司馬頴)が強盛なのを聞いた。長史・李含に、龍驤將軍を加え、領督護・席薳らに張方の軍を追わせて呼び戻し、2王に応じた。義兵が潼関に到り、司馬倫と孫秀を誅すると、天子(恵帝)は復位した。李含・張方はそれぞれ兵を率いて還ってきた。
司馬冏は功を論じ、司馬顒が初めは同調しなかったことを怒ったが、最終的には味方したため、侍中・大尉に位を進め、三賜ノ礼を加えた。

後含為翊軍校尉,與冏參軍皇甫商、司馬趙驤等有憾,遂奔顒,詭稱受密詔伐冏,因說利害。顒納之,便發兵,遣使邀成都王穎。以含為都督,率諸軍屯陰盤,前鋒次於新安,去洛百二十裏。檄長沙王乂討冏。及冏敗,顒以含為河南尹,使與馮蓀、卞粹等潛圖害乂。商知含前矯妄及與顒陰謀,具以告乂。乂乃誅含等。顒聞含死,即起兵以討商為名,使張方為都督,領精卒七萬向洛。方攻商,商距戰而潰,方遂進攻西明門。乂率中軍左右衛擊之,方眾大敗,死者五千余人。方初于駃水橋西為營,於是築壘數重,外引廩穀,以足軍資。乂複從天子出攻方,戰輒不利。及乂死,方還長安。詔以顒為太宰、大都督、雍州牧。顒廢皇太子覃,立成都王穎為太弟,改年,大赦。

のちに李含は、翊軍校尉となった。司馬冏の参軍・皇甫商と、司馬・趙驤らは、(司馬冏の行いを)遺憾に思い、司馬顒のところに逃げてきた。皇甫商と趙驤は、司馬冏を討てという詔が出たと偽って、司馬冏を討つ利害を説明した。司馬顒はこれを認め、兵を発して、檄を成都王・司馬頴に遣った。李含を都督とし、諸軍を引きさせて陰盤に駐屯した。前鋒は新安で次ぎ、洛陽を120里去った。長沙王・司馬乂を檄し、司馬冏を討たせた。司馬冏が敗走すると、李含を河南尹にした。
馮蓀・卞粹らを使って、ひそかに司馬乂の殺害を図った。皇甫商は、李含が矯妄(暗殺)する前に、司馬顒と陰謀していることを知り、司馬乂につぶさに告げた。司馬乂は李含らを誅殺した。司馬顒は李含の死を聞くと、兵を起こして、皇甫商を討って名を為した。張方を都督として使い、精鋭70000を率いて洛陽に向けた。張方は、皇甫商を攻めた。皇甫商は戦って壊滅し、張方はついに西明門に進攻した。司馬乂は、中軍と左右の衛を率いてこれを打ち、張方軍は大敗して、死者5000余人を出した。
張方は、成都王・司馬頴を皇太弟に立てて、年号を改めて大赦した。


左衛將軍陳某奉天子伐穎,顒又遣方率兵二萬救鄴。天子已幸鄴。方屯兵洛陽。及王浚等伐穎,穎挾天子歸洛陽。方將兵入殿中,逼帝幸其壘,掠府庫,將焚宮廟以絕眾心。盧志諫,乃止。方又逼天子幸長安。顒及選置百官,改秦州為定州。及東海王越起兵徐州,西迎大駕,關中大懼,方謂顒曰:「方所領猶有十餘萬眾,奉送大駕還洛宮,使成都王反鄴,公自留鎮關中,方北討博陵。如此,天下可小安,無複舉手者。」顒慮事大難濟,不許。

左衛將軍・陳某は、天子を奉じて司馬頴・司馬顒を伐ち、張方に兵20000を率いて鄴を救わせた。天子はすでに鄴に行幸していた。張方は兵を洛陽に駐屯させた。王浚らが司馬頴を討つと、司馬頴は天子を挟んで洛陽に帰った。張方の兵は殿中に入ると、皇帝に張方軍の防塁に行くように迫り、府庫を掠奪し、宮廟を焚こうとしたので、大衆の支持が絶えた。盧志は諌めて、止めさせた。張方はまた天子に長安に行くように逼った。
司馬顒が百官を選んで配置すると、秦州を改めて定州とした。東海王・司馬越が兵を徐州で起こすと、西に天子を迎えた。関中は大いに懼れた。張方は司馬顒に言った。
「私が率いている兵は、10余万おります。天子を洛陽に送り奉り、成都王を鄴に戻らせ、あなた(司馬顒)は関中に留まり、私は北方で博陵を討ちます。こうすれば、天下は小康状態となり、(司馬越のように)挙兵する人は居なくなるでしょう」と。
司馬顒はことが重大で、うまくいかないと思い、許さなかった。
『晋書』列伝29より、「司馬顒伝」を翻訳(2)
乃假劉喬節,進位鎮東大將軍,遣成都王穎總統樓褒、王闡等諸軍,據河橋以距越。王浚遣督護劉根,將三百騎至河上。闡出戰,為根所殺。穎頓軍張方故壘,范陽王虓遣鮮卑騎與平昌、博陵眾襲河橋,樓褒西走,追騎至新安,道路死者不可勝數。

劉喬に假節を与え、位を鎮東大將軍に進めた。成都王・司馬頴を遣って、樓褒や王闡ら諸軍を総統させ、河橋に拠って司馬越を防がせた。
王浚は、督護の劉根を遣って、将300騎を河上に到らせた。王闡は戦を仕掛けたが、劉根に殺された。司馬頴の軍は、張方の故塁に逃げ込んだ。范陽王・司馬虓は 鮮卑の騎兵を遣って、平昌・博陵を与え、河橋を襲わせた。(司馬頴の将軍)樓褒は西に逃げたため、騎馬で追って新安に到った。道路の死者は、数え切れないほどだった。


初,越以張方劫遷車駕,天下怨憤,唱義與山東諸侯克期奉迎,先遣說顒,令送帝還都,與顒分陝而居。顒欲從之,而方不同。及東軍大捷,成都等敗,顒乃令方親信將郅輔夜斬方,送首以示東軍。尋變計,更遣刁默守潼關,乃咎輔殺方,又斬輔。顒先遣將呂朗等據滎陽,范陽王虓司馬劉琨以方首示朗,於是朗降。時東軍既盛,破刁默以入關,顒懼,又遣馬瞻、郭傳于霸水禦之,瞻等戰敗散走。

はじめ司馬越は、張方が天子を奪って洛陽から遷したことが、天下を怨憤させたとした。義を唱えて、山東の諸侯と天子を取り戻すことを誓った。まず人を遣って司馬顒を説得し、天子を洛陽に戻させようとした。司馬顒に、陝(山西地方)に割拠させてやろうと提案した。司馬顒は従いたいと考えたが、張方が反対した。山東軍が大勝し、成都王・司馬頴らが敗れると、司馬頴は張方が信頼している武将の郅輔に、夜に張方を斬らせ、首を山東軍に送った。変計を企て、さらに刁默を遣わして潼関を守らせた。郅輔が張方を殺したことを咎めて、処刑した。
司馬顒はまず、将の呂朗らを遣って滎陽に拠らせた。范陽王・司馬虓の司馬を務める劉琨は、張方の首を呂朗に示し、呂朗に降参した。山東軍は強盛で、刁默を破って函谷関を突破した。司馬顒は懼れ、馬瞻と郭傳を霸水に送って防禦させた。馬瞻らは敗戦し、散り散りに逃げた。


顒乘單馬,逃於太白山。東軍入長安,大駕旋,乙太弟太保梁柳為鎮西將軍,守關中。馬瞻等出詣柳,因共殺柳於城內。瞻等與始平太守梁邁合從,迎顒于南山。顒初不肯入府,長安令蘇眾、記室督硃永勸顒表稱柳病卒,輒知方事。弘農太守裴暠、秦國內史賈龕、安定太守賈疋等起義討顒,斬馬瞻、梁邁等。東海王越遣督護麋晃率國兵伐顒。至鄭,顒將牽秀距晃,晃斬秀,並其二子。義軍據有關中,顒保城而已。


司馬顒は単騎で、太白山に逃げた。山東軍が長安に入ると、恵帝を取り戻した。太弟太保・梁柳は、鎮西將軍となり、関中を守った。馬瞻らは梁柳の前に進み出て、梁柳を長安城内で殺した。司馬顒は初め、長安に入府することを肯んじなかったが、長安令・蘇眾や、記室督・硃永が司馬顒に勧めた。「梁柳は病没したことにすれば宜しい。そうすれば張方を始末した、こちらの誠意は司馬越に通じるはずです」と。
弘農太守・裴暠、秦國內史・賈龕、安定太守・賈疋は、司馬顒を討とうと起義し、馬瞻や梁邁らを斬った。司馬越は、督護・麋晃を遣わして、国軍の兵を率いて司馬顒を討伐した。討伐軍が鄭(地名)に到ると、司馬顒の将軍・牽秀は、麋晃を防いだ。
麋晃は、牽秀とその2子を斬った。義軍は、関中を拠点とし、司馬顒はわずかに長安城を保つだけであった。


永嘉祖,詔書以顒為司徒,乃就征。南陽王模遣將梁臣于新安雍谷車上扼殺之,並其三子。詔以彭城元王植子融為顒嗣,改封樂成縣王。薨,無子。建興中,元帝又以彭城康王釋子欽為融嗣。

永嘉祖(307年)、詔書で司馬顒は司徒とされ、征に就いた。南陽王・司馬模は、将軍の梁臣を新安に遣わした。雍谷の車上にて、司馬顒は3人の子とともに扼殺された。詔があり、彭城元王・司馬植の子、司馬融を司馬顒の後継として、樂成県王に改封した。司馬融が死ぬと、子がいなかった。建興年間(313-)司馬睿は、彭城康王・司馬釋の子、司馬欽を跡継ぎとした。
■訳後の感想
ちょい役の一見さん武将の名前を連発して、列伝を読みにくくするのは辞めてほしいものです。もし『三国志』に登場する人物ならば、『演義』でいかめしい名前の武器を持たされて、それなりの(斬られ役としての)見せ場を与えられるのでしょう。でも、『晋書』のキャラは、誰にも名前を知られることなく無視される。その時代の物語としての面白さなんて、本人たちの預かり知らぬことだろうが、逃れられぬ宿命ですね。

司馬顒は、日和見の人のようです。八王が競っているんだが、どちらかが強いと見ると、そっちに転んでしまう。
張方という強力なウェポンがあるから、諸王から一目置かれている。だが最後は、その張方を制御し切れなくて自滅したね。悲劇の人というよりは、よくぞそこまで渡りきったと感心します。最後の最後まで、未練たらしくウロウロして斬られてるし。

司馬倫に反発して、司馬頴には味方した。反転して、司馬倫に味方して、司馬頴に反発した。だが、司馬頴と司馬冏が強いのを聞いて、再び反転した。
司馬冏が増長したので、司馬冏に反発した。司馬乂に司馬冏を討たせた。だが、司馬乂を洛陽に攻めた。負けたけど。
司馬冏と司馬乂が滅ぶと、司馬頴を迎えた。
司馬頴とともに恵帝を洛陽に連れ去ると、司馬越が挙兵した。司馬越が強いので、司馬越の誘いに応じようと思った。だが、張方の反対で実現しなかった。
司馬越が勝つと、長安に入って司馬越に反発した。だが司馬越に、司徒にされた。ただ誘い出して殺すだけのために、司徒にされたとは思えない。司馬越に色気を見せたのだろう。だが逃げ延びて、死んだ。
態度を変えた回数は、実に7回です。あの孟達もびっくり!

文字だけ追いかけて翻訳するにはしたが、この人の列伝だけでは、断片的すぎて、歴史の流れはつかめません。亜流です、亜流。080811
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