三国志は、1800年に渡って語り尽くされてきた叙事詩。
しかし、とある映像作品のキャッチコピーみたく「死ぬまで飽きない」もの。
まだまだ枯れる気配すら見せない、三国志の魅力について語ります。
『晋書』武帝紀で作る、活躍した臣下一覧。(1)
三国志に興味を持ち、『晋書』まで興味を拡大した。だが、列伝の目次を見たところで、誰が何をやった人なのか、さっぱり分からない。どこを熟読したら面白そうなのか、ある程度は目星をつけて、重点主義で読みたいんだけど。
だって、一貫した和訳が出版されてないから。
というわけで、『晋書』の本紀を読みつつ、メインで活躍した臣下の一覧を作って生きたいと思います。「武帝紀」すなわち司馬炎の事績について、以下のサイトで翻訳を拝見しました。ありがとうございました。
http://kyoto.cool.ne.jp/rekiken/index.html
■即位の貢献者、何曾
最初に出てくるのが何曾です。
司馬師は、子を残さずに死んだ。司馬昭の子の司馬攸が、司馬師を継いでいた。司馬昭はかねがね「ぼくは弟、所詮は傍流さ。百年後には、司馬攸に天下を返すのさ」と言っていた。
これを聞いた何曾は、「炎くんは、髪が地に届き、手は膝を越える。常人じゃないから、この子を次の晋王にすべきだ」と主張した。司馬炎は、無事に継ぐことができた。

後継者争いに負けそうになったときの支持者として、何曾の名が出ました。というか、いちおう複数の支持者がいたらしいが、「武帝紀」が名を書き留めるのは何曾だけ。この貢献度は、かなり大です。
その見返りか、何曾は、司馬炎の最初の丞相になった。

司馬昭は、いかにも「兄のため」なんて言ってるが、目晦ましだ。炎が継ごうが、攸が継ごうが、自分の子が天下を取ることに違いはない。どっちでもいいなら、正統争いが少ないように、亡き兄の顔を立てておくのがベストな政治的判断だろう。昭自身の歴史的評価も上がりそうだし。「天下を実力があるのに、謙譲した」というのは、美徳だ笑
蜀を滅ぼした後、がっつこうとして、早死にしてしまうけどね。

「なぜ何曾は司馬炎を推したか」というのが、「何曾伝」を読むときの1つの切り口として見つかった。
なぜ可笑しな容姿を推薦の理由にしたのかも、気になるね。何曾のセリフは「人臣の相じゃない」と訳されてるが、「人間の相じゃない」が隠れた意味かも。こんな奇人を放置し、司馬攸の風下に置こうとしても、逆に不安定を招きますよ、と。

手長と言えば劉備で、あの異相は仏教の聖人の描写の影響だとどこかで読んだが、それが入り込んだか。もしくは、何曾は劉備のファンか。陳寿は同時代人だから、劉備は手長だった、という話を何曾が聞いていても不自然じゃない。
劉備はついに天下を取れずにコケたが、何曾というファンの媒介にして、天下を取ってしまったか笑
髪が1ヶ月に1センチ伸びるとする。身長を170センチとすれば、「地に届く」には、髪の長さは180センチは欲しいかな。180ヶ月は15年。太子になったとき、司馬炎は30歳。成人した直後(親の言いなりから解放されて)から、髪を切らずにいれば、不可能ではない、か。
髪の手入れは大変だ。こんな変わったコダワリを発揮するのは、司馬炎がナルシストだったからだろう。三國無双の張郃すら、目じゃない。そして、そんな息子は、あまり可愛くない。司馬昭が司馬攸の方を立てようとしたのも、分からなくない。

のちに即位した司馬炎は、司馬攸を虐め殺すんだが、よく曹丕と曹植に例えられる。しかし、同じ絵ではないはずだ。司馬炎にとって司馬攸は、「弟」ではなく、「父が推した」「伯父の継嗣」だ。炎VS昭の延長戦であり、内在化していた師VS昭の地雷暴発でもある。
八王ノ乱と同種の諍いは、すでに静かに起きていた。司馬氏とは、そういう連中のようです。
■易姓の作文家、鄭沖
司馬炎に命じられて、魏を潰す策文をやったのが、太保の鄭沖だ。
「尭・舜・禹は、天下を持ちまわったね。劉邦も曹操も持ちまわったね。そろそろ晋が、禅譲を受けてもいいんちゃいますか」と。司馬炎は辞退したんだが、何曾や王沈のお約束の念押しもあり、ついに受けた。

こういう、これ見よがしな演出に携わった人物というのは、どうも嫌われがち。文章を担当するんだから、評価されている学者先生なんだろうが、曲学阿世のイメージがどうしても付きまとってしまう。
彼がどれだけ節操ある人物なのか、「鄭沖伝」を読むときに気をつけましょう。

■風俗研究家?侯史光
266年、侍中の侯史光らに節を持たせ、四方を回らせた。祈祷や修祓の儀式のうち、必要がなさそうなものは、辞めさせた。
『晋書』の列伝15に名前が見えるので、そんなに優先順位は高くなさそうだけど、チェックしときます。
268年7月にも、天下を回ってる。国家公認の旅行マニアか笑

■いきなり死亡記事の王沈
266年5月、驃騎将軍で博陵公の王沈が逝去した。
列伝9のトップに名前があり、後ろに荀顗・荀勗が続くのに、本紀での扱いはあっさりでした。何をした人なんだろう笑
でも、一臣下の死をわざわざ載せてあるんだから、大事件だったのでしょう。位もめちゃめちゃ高いし。
『晋書』武帝紀で作る、活躍した臣下一覧。(2)
■畏れ多い提案者、傅玄
266年9月、散騎常侍の皇甫陶と傅玄が、司馬炎に文句をつけた。「太后がお亡くなりになって、哀しいのは分かります。しかし喪が長すぎて、周囲は付き合いきれませんよ」と。
もともと司馬炎は、漢や魏のときと同様に、簡略化した喪をやってた。だが調子づいたのか、漢以前のように、ねちっこく地味な服装を続けていた。儒教の恩沢がテーマの王朝だし、オレがルールを作るんだ的な慢心があったのでしょう。「武帝紀」には書いてないが、傅玄は「孫皓を舐めすぎと、違いますか。いま人々の心が離れたら、足元をすくわれますよ」というメッセージが隠されているのかも。

司馬炎は「昔から下から上に、モノを言うのは難しい。なかなか聞き入れてもらえない。声の大きい奴が得をする。いかんよなあ。諫言を受けたときの、あるべき皇帝の振る舞いを、ちょっと調査してくれないか」と言った。聞く耳を持った君主っぽく演じたとも言えるし、お茶を濁しただけとも言える。
後から「晋の正統性は、あくまで前代からの禅譲なんですから、これまでの慣例を踏襲しないとダメっすよ」という提言があり、司馬炎はしぶしぶ喪を簡素にした。かなり大意だけを引用してるから、辛辣かつKYになってるが、原文はもっと鄭重に故事を引いてあります笑

傅玄は、いつも「自分が一番」の司馬炎に掣肘を食らわせた、珍しい人物として興味深いですね。列伝17を単独で占めています。
諸葛亮や陸遜なみの扱い、と言えば、凄さが見えてくる。
■司馬衷の太傅、李憙
267年3月、司馬衷を皇太子とし、李憙を太子太傅とした。
李憙は、列伝11に名前がある。まだこの時点では、活躍は未知数ですが、バカ太子との付き合いに大いに期待は持てます。

■輝かしき荀氏
267年9月の人事で、太尉の何曾を太保とした。義陽王司馬望を太尉とした。司空の荀顗を司徒とした。
これまで「武帝紀」の人事発令は引用してこなかったんだけど、荀氏をスルーには出来ないので、書きとめておきます。

■ソフトキャンディー裴秀
268年正月、尚書令の裴秀を司空とした。
何をした人か「武帝紀」には書いてないが、列伝のお楽しみで。

■いきなり死亡記事の王祥
268年4月、太保の睢陵公王祥が死んだ。 王沈もいきなりオッ死んだが、王氏の扱いって、いつもこうなのか。
■羊祜と衛瓘の登場
269年2月、尚書左僕射の羊祜を都督荊州諸軍事とした。征東大将軍の衛瓘を都督青州諸軍事とした。東莞王司馬伷を鎮東大将軍とし、都督徐州諸軍事とした。

■呉の滅亡と秦涼の乱
270年、揚州刺史の牽弘が丁奉を破った。6月、秦州刺史の胡烈(列伝なし?)が戦死した。尚書の石鑑(列伝14)を後任に充てた。
271年、匈奴の劉猛が叛乱した。3月、裴秀が死んだ。中護軍の王業を尚書左僕射とした。涼州刺史の牽弘が敗死した。牽招の子だから、注目人物ですね。12月、光禄大夫の鄭袤を司空とした。子供の頃、司馬炎と並び称された人物です。
273年正月、鄭袤が死んだ。2月、石苞が死んだ。5月、何曾が司徒に。 274年9月、大将軍の陳騫を太尉とした。列伝5に載っている人物です。
275年8月、亡き太傅の鄭沖、太尉の荀顗、司徒の石苞、司空の裴秀、驃騎将軍の王沈、安平献王司馬孚ら、そして、太保の何曾、司空の賈充、太尉の陳騫、中書監の荀勖、平南将軍の羊祜、斉王司馬攸らをみな銘饗(祭祀の対象)に列した。メイン人物が一覧できますね。

276年12月、民間人の安定の皇甫謐を太子中庶子とした。列伝21のトップに載ってます。
278年9月、李胤を司徒にした。鄭袤と同じ列伝14の人物。11月、太医司馬の程據が雉頭裘を献上したが、武帝は捨てた。この程據が、後に司馬遹を殺すとはね。彼に列伝なんてない笑
この年、羊祜と何曾が死んだ。
279年正月、鮮卑の樹機能が攻めてきたので、武威太守の馬隆(列伝27)が迎撃した。
280年、呉を討ちました。王濬を輔国大将軍・襄陽侯とし、杜預を当陽侯とし、王戎を安豊侯とし、唐彬を上庸侯とし、賈充司馬伷を増封。
282年、賈充と李胤が死んだ。12月、山濤を司徒(翌年死去)、衛瓘を司空とした。
283年正月、魏舒(列伝11)を尚書左僕射に、司馬晃を尚書右僕射とした。3月、司馬攸が死んだ。5月、司馬伷が死んだ。11月、魏舒を司徒とした。284年閏12月、杜預が死んだ。285年9月、山陽公劉康が薨去した。12月、王濬が死んだ。
290年、司馬炎は死んだ。55歳だった。
後半は消化試合みたいになってますが、『武帝紀』がそうなんだから仕方がない。それを確認できただけでも充分でした。呉を討った後は、司馬氏を王に封じる話と、北方異民族が侵入してくる話しか載ってない。大物の登場もない。楊駿が台頭してきてるくらい?
抑えるべき臣の数が、途方もなく拡散するのでは?という不安感が払拭できてよかったです。080708
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