『晋書』列伝29より、「司馬冏伝」を抄訳(1)
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司馬冏伝を書いた人と波長が合わないのか、分からないところが多かったんです。他にも増して難しかった。なぜだろう。。
齊武閔王冏,字景治,獻王攸之子也。少稱仁惠,好振施,有父風。初,攸有疾,武帝不信,遣太醫診候,皆言無病。及攸薨,帝往臨喪,冏號踴訴父病為醫所誣,詔即誅醫。由是見稱,遂得為嗣。元康中,拜散騎常侍,領左軍將軍、翊軍校尉。趙王倫密與相結,廢賈後,以功轉遊擊將軍。冏以位不滿意,有恨色。孫秀微覺之,且憚其在內,出為平東將軍、假節,鎮許昌。倫篡,遷鎮東大將軍、開府儀同三司,欲以寵安之。
齊武閔王冏は、あざなを景治という。獻王攸の子である。若くして仁惠を称賛され、振施を好み、父に似ていた。はじめ司馬攸が病気になると、武帝は信じず、太医を遣わして診断させたが、みな病ではないと言った。司馬攸が死ぬと、武帝が訪れて喪に臨んだ。司馬冏は武帝の前に躍りこんで、「父の病は医師に偽られたものです、医師どもを詔で誅して下さい」と訴えた。
この訴えを称賛され、司馬攸を継いだ。元康年間(291-299)、散騎常侍を拝し、左軍將軍・翊軍校尉を兼ねた。趙王・司馬倫とひそかに結び、賈皇后を廃したので、功により遊擊將軍に転じた。司馬冏は、遊擊將軍の位に不満で、恨みのある様子だった。孫秀はかすかに感じ取り、司馬冏を洛陽内におくことを懼れたため、平東將軍として追い出し、仮節を与えて許昌を鎮させた。司馬倫が簒奪すると、司馬冏は鎮東大將軍となり、開府を許されて三公のように遇され、司馬倫に味方することを期待された。
冏因眾心怨望,潛與離狐王盛、潁川王處穆謀起兵誅倫。倫遣腹心張烏覘之,烏反,曰:「齊無異志。」冏既有成謀未發,恐或泄,乃與軍司管襲殺處穆,送首於倫,以安其意。謀定,乃收襲殺之。遂與豫州刺史何勖、龍驤將軍董艾等起軍,遣使告成都、河間、常山、新野四王,移檄天下征鎮、州郡縣國,咸使聞知。揚州刺史郗隆承檄,猶豫未決,參軍王邃斬之,送首於冏。冏屯軍陽翟,倫遣其將閭和、張泓、孫輔出堮阪,與冏交戰。冏軍失利,堅壘自守。會成都軍破倫眾于黃橋,冏乃出軍攻和等,大破之。及王輿廢倫,惠帝反正,冏誅討賊党既畢,率眾入洛,頓軍通章署,甲士數十萬,旌旗器械之盛,震於京都。天子就拜大司馬,加九錫之命,備物典策,如宣、景、文、武輔魏故事。
司馬冏は、世論の怨みと望みに後押しされ、ひそかに司馬倫の孤立化した政権と距離を置いた。司馬冏は、頴川の王處穆と謀って、兵を起こして司馬倫を誅そうとした。司馬倫は腹心の張烏をやって、司馬冏を探らせた。張烏は司馬倫を裏切って、「司馬冏に異志はありません」と偽りの報告をした。司馬冏は、司馬倫を殺すはかりごとが不発におわり、(自分の加担が)漏れることを恐れたため、軍司・管襲とともに王處穆を襲って殺し、首を司馬倫に届けて、司馬倫を安心させた。
司馬倫を殺すはかりごとが成ると、司馬倫を捕えて襲って殺すこととなる。豫州刺史・何勖、龍驤將軍・董艾らとともに軍を起こした。成都王(司馬頴)、河間王(司馬顒)、常山王(司馬乂)、新野王(司馬歆)の4王に使いを送って、天下の征鎮・州郡県国に檄を回覧させて、司馬倫を討つことを知らしめた。
揚州刺史の郗隆は、檄を承ったが、どちらに味方するか決まらなかった。參軍・王邃は、郗隆を斬って、首を司馬冏に送った。司馬冏は陽翟に駐屯した。司馬倫は、彼の将である閭和、張泓、孫輔を堮阪に進出させ、司馬冏と交戦した。司馬冏が不利だったので、塁を固くして守った。成都王(司馬頴)が司馬倫の軍を、黄橋で破ると、司馬冏は軍を出して閭和らを攻め、大いに破った。 王輿が司馬倫を廃して、恵帝を戻すと、司馬冏は賊党の誅討を終えて、兵を率いて洛陽に入った。軍は章署を通り、武装兵数10万と、旌旗や武器は強盛で、洛陽を震撼させた。天子に謁見し、大司馬を拝し、九錫之命を加えられた。備物典策は、宣、景、文、武(懿・師・昭・炎)が魏を輔政した故事に
ならった。
冏於是輔政,居攸故宮,置掾屬四十人。大築第館,北取五穀市,南開諸署,毀壞廬舍以百數,使大匠營制,與西宮等。鑿千秋門牆以通西閣,後房施鐘懸,前庭舞八佾,沈於酒色,不入朝見。坐拜百官,符敕三台,選舉不均,惟寵親昵。以車騎將軍何勖領中領軍。封葛<方與>為牟平公,路秀小黃公,衛毅陰平公,劉真安鄉公,韓泰封丘公,號曰「五公」,委以心膂。殿中禦史桓豹奏事,不先經冏府,即考竟之。於是朝廷側目,海內失望矣。南陽處士鄭方露版極諫,主簿王豹屢有箴規,冏並不能用,遂奏豹殺之。有白頭公入大司馬府大呼,言有兵起,不出甲子旬。即收殺之。
司馬冏が輔政するようになると、司馬攸がかつて住んでいた宮殿に住み、掾屬40人を置いた。大いに第館を建築し、北に五穀市を取り、南に諸署を開いた。廬舍を壊すことは100を数え、大匠に營制させ、西宮らに匹敵した。千秋門の壁を削って、西閣に通じ、後房には鐘を懸けて、前庭には八佾(音楽隊)を舞わせた。※細かいことは分かりませんが、分限を越えた贅沢をしたということでしょう。
司馬冏は、朝廷に出仕しなかった。座して百官に拝し、符は三台(尚書省・御史台・謁者台))に命じ、選挙は不公平で、ただ親昵の人だけを寵遇した。車騎將軍の何勖に、中領軍を兼ねさせた。葛<方與>を牟平公とし、路秀を小黃公とし、衛毅を陰平公とし、劉真を安鄉公とし、韓泰を封丘公とし、彼らは「五公」と呼ばれて、司馬冏の心膂を委ねられた。
殿中禦史の桓豹が奏したことは、司馬冏の府を経ることを先にせず(後回しにして)これを考え終わった。
この一件により、朝廷の側近の視線は、海内を失望させてしまった。南陽郡の處士である鄭方は、露版(封しない書状)にて極諫した。主簿の王豹がしばしば箴規(あるべき規則)を述べたが、司馬冏はどちらも用いることが出来ず、上奏して王豹を殺した。 白頭公(トリ)が、大司馬府に入って大声で鳴き、兵が起こり、(その時期は)甲子旬より前だと言った。司馬冏はトリを捕獲して殺した。
冏驕恣日甚,終無悛志。前賊曹屬孫惠複上諫曰:
惠聞天下五難,四不可,而明公皆以居之矣。捐宗廟之主,忽千乘之重,躬貫甲胄,犯冒鋒刃,此一難也。奮三百之卒,決全勝之策,集四方之眾,致英豪之士,此二難也。舍殿堂之尊,居單幕之陋,安囂塵之慘,同將士之勞,此三難也。驅烏合之眾,當凶強之敵,任神武之略,無疑阻之懼,此四難也。檄六合之內,著盟信之誓,升幽宮之帝,複皇祚之業,此五難也。大名不可久荷,大功不可久任,大權不可久執,大威不可久居。未有行其五難而不以為難,遺其不可而謂之為可。惠竊所不安也。
司馬冏の驕恣は、日に日にひどくなり、ついに悛(改める)志はなくなった。さきの賊曹屬の孫恵は、再び上奏して諌めた。
「わたくし孫恵は、天下には5つの難と4つの不可があると聞きますが、あなたさまは全てを実行しておられます。(5つの難の内容は省略)。4つの不可とは、大名は久しく荷うべからず、大功は久しく任じるべからず、大権は久しく執るべからず、大威には久しく居座るべからず。いまだその5つの難を行って、難局に陥っていないという例はないし、不可を可だと言う例もない。私がひそかに不安に思っていることです。
自永熙以來,十有一載,人不見德,惟戮是聞。公族構篡奪之禍,骨肉遭梟夷之刑,群王被囚檻之困,妃主有離絕之哀。曆觀前代,國家之禍,至親之亂,未有今日之甚者也。良史書過,後嗣何觀!天下所以不去于晉,符命長存於世者,主無嚴虐之暴,朝無酷烈之政,武帝餘恩,獻王遺愛,聖慈惠和,尚經人心。四海所系,實在於茲。
永熙(290年)以来11年間、人は徳を見ずに、殺戮ばかり聞かされています。皇族は簒奪の禍を構え(司馬倫)、骨肉は梟夷の刑に遭い、郡王は囚檻の困を被り、妃と主は離絕の哀を味わっています。前代を見渡しても、国家の禍いと皇族の争いは、今日ほどひどくありません。史官が書き残したら、後世の人はどのように現代を観るでしょうか。 天下が晋から去らずに、符命がキープできているのは、主(恵帝)に嚴虐の暴がなく、朝廷に酷烈の政がなく、武帝(司馬炎)の余恩と、獻王(諡号の該当者が多すぎて特定不可)の遺愛と、聖慈惠和が、人心を尚經しているからです。四海が統一されているのは、実はこのような要因によるのです。
今明公建不世之義,而未為不世之讓,天下惑之,思求所悟。長沙、成都,魯、衛之密,國之親親,與明公計功受賞,尚不自先。今公宜放桓、文之勳,邁臧、劄之風,芻狗萬物,不仁其化,崇親推近,功遂身退,委萬機于二王,命方岳於群後,燿義讓之旗,鳴思歸之鑾,宅大齊之墟,振泱泱之風,垂拱青、徐之域,高枕營丘之籓。金石不足以銘高,八音不足以讚美,姬文不得專聖於前,太伯不得獨賢於後。今明公忘亢極之悔,忽窮高之凶,棄五嶽之安,居累卵之危,外以權勢受疑,內以百揆損神。雖處高臺之上,逍遙重仞之墉,及其危亡之憂,過於潁、翟之慮。群下竦戰,莫之敢言。
惠以衰亡之余,遭陽九之運,甘矢石之禍,赴大王之義,脫褐冠胄,從戎于許。契闊戰陣,功無可記,當隨風塵,待罪初服。屈原放斥,心存南郢;樂毅適趙,志戀北燕。況惠受恩,偏蒙識養,雖複暫違,情隆二臣,是以披露血誠,冒昧幹迕。言入身戮,義讓功舉,退就鈇鑕,此惠之死賢於生也。
冏不納,亦不加罪。
いまあなたは不世(優れた)の義を建てず、まだ不世の讓を為しておらず、天下はこれに惑い、あなたが悟られるのを求め願っています。長沙(司馬乂)、成都(司馬頴)、魯王・衛王(該当者不明)の密計は、皇帝の血縁者が行ったもので、あなたとともに功を計り賞を受けたものですが、彼らは一歩引くことを尚びました。いまあなたは、2人の王(司馬乂と司馬頴)に万機を委ねて退き、(任国の)青州・徐州で藩屏として補佐すべきでしょう。臣下の発言に耳を傾けないと、道を誤りますよ。私は、死ぬ気でこのように申し上げているのです」と。
※大上段に構えた表現が続くので、大意だけ抜き出しています。
司馬冏は、孫恵の諫言を納れなかったが、罪を加えもしなかった。
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『晋書』列伝29より、「司馬冏伝」を抄訳(2)
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翊軍校尉李含奔于長安,詐雲受密詔,使河間王顒誅冏,因導以利謀。顒從之,上表曰:
王室多故,禍難罔已。大司馬冏雖唱義有興複皇位之功,而定都邑,克寧社稷,實成都王勳力也。而冏不能固守臣節,實協異望。在許昌營有東西掖門,官置治書侍御史,長史、司馬直立左右,如侍臣之儀。京城大清,篡逆誅夷,而率百萬之眾來繞洛城。阻兵經年,不一朝覲,百官拜伏,晏然南面。壞樂官市署,用自增廣。輒取武庫秘杖,嚴列不解。故東萊王蕤知其逆節,表陳事狀,而見誣陷,加罪黜徙。以樹私黨,僭立官屬。幸妻嬖妾,名號比之中宮。沈湎酒色,不恤群黎。董艾放縱,無所畏忌,中丞按奏,而取退免。張偉惚恫,擁停詔可,葛旟小豎,維持國命。操弄王爵,貨賂公行。群奸聚黨,擅斷殺生。密署腹心,實為貨謀。斥罪忠良,伺窺神器。
臣受重任,蕃衛方嶽,見冏所行,實懷激憤。即日翊軍校尉李含乘驛密至,宣騰詔旨。臣伏讀感切,五情若灼。《春秋》之義,君親無將。冏擁強兵,樹置私黨,權官要職,莫非腹心。雖複重責之誅,恐不義服。今輒勒兵,精卒十萬,與州征並協忠義,共會洛陽。驃騎將軍長沙王乂,同奮忠誠,廢冏還第。有不順命,軍法從事。成都王穎明德茂親,功高勳重,往歲去就,允合眾望,宜為宰輔,代冏阿衡之任。
翊軍校尉・李含は、長安に逃げた。李含は、密詔を受けたと偽って言い、司馬顒に司馬冏を誅させ、はかりごとを成功させようと導いた。司馬顒は李含に従って、上表した。
「王室は禍難が続いています。司馬冏は、恵帝復位に功績があったと言いますが、実は成都王の勲功です。司馬冏は、臣下の節度を守っておりません。亡き東萊王・司馬蕤(司馬冏の兄)は、彼の逆心を知っていたので陳情し、ハメられたのです。党派の囲い込み・妻妾の侍らせぶり・酒食の贅沢さは皇帝レベルです。忠良な人を罪に落としいれ、皇位を伺っています。
わたし(司馬顒)は、司馬冏の所行を見て、激憤を抱きました。翊軍校尉・李含は密かに駅を乗り継ぎ、私に詔を届けました。詔を伏して拝読すると、感情はねじ切れそうで、
五情は灼えるようです。『春秋』は「君親は將(ひき)いること無し」と説いています。しかし司馬冏は、強兵を擁し、私党を立てて、權官要職はみな彼の腹心です。いま精兵10万を率いて、洛陽を攻めます。驃騎將軍で長沙王の司馬乂は、私と同じく忠誠を奮い、司馬冏が宮殿に戻るのを廃すでしょう。成都王の司馬頴も協力し、司馬冏の代わりに陛下を助けるでしょう」
※かなり端折っています。派手な漢文は訳そうとしても書き下すだけになってしまいます。語彙の壁が高くて難しいです。
顒表既至,冏大懼,會百僚曰:「昔孫秀作逆,篡逼帝王,社稷傾覆,莫能禦難。孤糾合義眾,掃除元惡,臣子之節,信著神明。二王今日聽信讒言,造構大難,當賴忠謀以和不協耳。」司徒王戎、司空東海王越說冏委權崇讓。
冏從事中郎葛旟怒曰:「趙庶人聽任孫秀,移天易日,當時喋喋,莫敢先唱。公蒙犯矢石,躬貫甲胄,攻圍陷陣,得濟今日。計功行封,事殷未遍。三台納言,不恤王事,賞報稽緩,責不在府。讒言僭逆,當共誅討,虛承偽書,令公就第。漢、魏以來,王侯就第甯有得保妻子者乎!議者可斬。」於是百官震悚,無不失色。
司馬顒の上表が到ると、司馬冏は大いに懼れ、百僚を集めていった。
「むかし孫秀が作逆して帝王に簒奪を迫ったとき、社稷は傾覆し、困難を禦せる人はいなかった。わたしは義兵を糾合し、元悪を掃除し、臣下の節と信を、神明に明らかにした。二王(司馬乂と司馬頴)は、今日(司馬顒の)讒言を聞き、大難を造り構えた。私は、忠謀を頼り、不協を和すだけだ」と。 司徒の王戎と、司空の司馬越は、権力を他人に委ねて退くように司馬冏を説得した。司馬冏の従事中郎の葛旟は怒って言った。
「趙庶人(司馬倫)が孫秀の意見に耳を貸し、天を移し日を易えたときは、公(司馬冏)が危険を冒して恵帝を取り戻した。司馬顒は詔を偽作して、公に(権限を委譲して)私邸に帰れという。漢魏以来、王侯で私邸に帰った人のうち、妻子を守りきれた人がいるだろうか。そのような議論をする人は斬るべきだ」と。
百官は震悚し、色を失わない人はいなかった。
長沙王乂徑入宮,發兵攻冏府。冏遣董艾陳兵宮西。乂又遣宋洪等放火燒諸觀閣及千秋、神武門。冏令黃門令王湖悉盜騶虞幡,唱雲:「長沙王矯詔。」乂又稱:「大司馬謀反,助者誅五族。」是夕,城內大戰,飛矢雨集,火光屬天。帝幸上東門,矢集御前。群臣救火,死者相枕。明日,冏敗,乂擒冏至殿前,帝惻然,欲活之。乂叱左右促牽出,冏猶再顧,遂斬於閶闔門外,徇首六軍。諸黨屬皆夷三族。幽其子淮陵王超、樂安王冰、濟陽王英于金墉。暴冏屍於西明亭,三日而莫敢收斂。冏故掾屬荀闓等表乞殯葬,許之。
初,冏之盛也,有一婦人詣大司馬府求寄產。吏詰之,婦人曰:「我截齊便去耳。」識者聞而惡之。時又謠曰:「著布袙腹,為齊持服。」俄而冏誅。
司馬乂が宮殿に入ると、兵を発して司馬冏の府を攻めた。司馬冏は、董艾に兵を与えて宮西を守らせた。司馬乂は宋洪らを遣って、もろもろの観閣や千秋門・神武門を焼き討ちさせた。司馬冏は、黃門令・王湖に、すべての(戦闘を命じる)騶虞幡を盗ませて、「長沙王(司馬乂)が詔を矯めた」と唱えさせた。 司馬乂は、「大司馬(司馬頴)は謀反した。これを助ける者は、五族を殺す」と称した。
夕方、洛陽城内で対戦があり、矢が雨のように飛び交い、火光は天に届いた。恵帝は上東門に移ったが、御前に矢が集った。郡臣は消火に励んだが、死者は枕を並べた。翌日、司馬冏が負け、擒となった。司馬乂は恵帝の前に司馬冏を差し出した。恵帝はいたましく思い、司馬冏を活かしたいと思った。だが、司馬乂が左右を叱って引き出させた。司馬冏はなお(恵帝を)振り向いていたが、閶闔門の外にて斬られて、首は六軍に晒された。私党の三族まで殺された。司馬冏の死体は西明亭で暴され、三日たっても収容する人はいなかった。司馬冏の掾属だった荀闓らは、上表してかりもがりを乞い、許された。
はじめ司馬冏が盛んだったとき、1人の夫人が大司馬府を訪れて、寄産を求めた。官吏が詰問すると、婦人は言った。「私は斉王を切ったら、すぐに立ち去ります」と。識者はこれを聞いて不吉だと言った。当時に童謡で「布を明らかにし、腹に袙(あこめ=中着)、斉王のために服を持つ」というのがあった。直後に司馬冏は誅された。
※神がかった怪しい話は、よく分かりません。。
永興初,詔以冏輕陷重刑,前勳不宜堙沒,乃赦其三子超、冰、英還第,封超為縣王,以繼冏祀,曆員外散騎常侍。光熙初,追冊冏曰:「咨故大司馬、齊王冏:王昔以宗籓穆胤紹世,緒于東國,作翰許京,允鎮靜我王室。涎率義徒,同盟觸澤,克成元勳,大濟潁東。朕用應嘉茂績,謂篤爾勞,俾式先典,以疇茲顯懿。廓士殊分,跨兼吳楚,崇禮備物,寵侔蕭、霍,庶憑翼戴之重,永隆邦家之望。而恭德不建,取侮二方,有司過舉,致王於戮。古人有言曰:'用其法,猶思其人。'況王功濟朕身,勳存社稷,追惟既往,有悼於厥心哉!今複王本封,命嗣子還紹厥緒,禮秩典度,一如舊制。使使持節、大鴻臚即墓賜策,祠乙太牢。魂而有靈,祗服朕命,肆寧爾心,嘉茲寵榮。」子超嗣爵。
永興年間(304-306)、詔で司馬冏が王朝を陥れたことは軽いのに刑が重く、前の勲功を堙沒させてしまうのは宜しくないとして、3人の子、超、冰、英を許して宮殿に戻し、司馬超を県王に封じて、司馬冏の祭祀を継がせ、員外散騎常侍を歴任させた。光熙年間(306年)、追って司馬冏を冊して曰く「(要点は)司馬冏を許せ」と。子の司馬超が、爵を嗣いだ。
永嘉中,懷帝下詔,重述冏唱義元勳,還贈大司馬,加侍中、假節,追諡。及洛陽傾覆,超兄弟皆沒于劉聰,冏遂無後。太元中,詔以故南頓王宗子柔之襲封齊王,紹攸、冏之祀,曆散騎常待。元興初,會稽王道子將討桓玄,詔柔之兼侍中,以騶虞幡宣告江、荊二州,至姑孰,為玄前鋒所害。贈光祿勳。子建之立。宋受禪,國除。
永嘉年間、懐帝は詔を下し、重ねて司馬冏の唱義元勳を論述し、還して大司馬を追贈し、侍中・仮節を加え、おくりなした。 洛陽が傾覆すると、司馬超の兄弟はみな劉聡に殺され、司馬冏の後継者はいなくなった。 太元(376-396)年間、なき南頓王の宗子・司馬柔之に斉王を継がせ、司馬攸・司馬冏を祭らせ、散騎常待に任じた。元興のはじめ(402年)、会稽王・司馬道子が桓玄を討とうとしたとき、司馬柔之に侍中を兼ねさせ、騶虞幡をもって、江州・荊州の2州に戦役を呼びかけた。だが、姑孰(地名)に到ったところで、桓玄の先鋒に殺された。光祿勳を贈られた。子の司馬建之が斉王に建てられた。 宋が受禪すると、斉国は除かれた。
■翻訳後の感想
孫恵の諫言と、司馬顒の策略を秘めた上奏がやたら長くて、翻訳するのがしんどかった。五難と四不可という断言の仕方は、キレがあって恰好いいんだけど。ただし文飾が過ぎて、どこまで事実なのか分からない。司馬冏その人の性格を知るためのエピソードは、意外に欠けている。これだけ長いのに、不幸なことです。死んだときに、まだまだ若かったからだろうか。
私党を囲い込んだり、豪華な生活をしたり。小悪人がやりそうなことは、ステレオタイプにワンパタンなのです。古代以来、こういう連中がやりそうなことの記述方法は、かなりノウハウが蓄積されているのでしょう。だから、唐代の史官は腕を振るってしまった。 司馬冏その人を陥れる目的はなくても(時代を経すぎて、個別攻撃をする意味はない)、司馬冏を偶像化して扱き下ろすことになってしまったみたいで。ある意味で被害者。
司馬攸の激情で先走りキャラと合わせて、イメージを固定化していきましょうか。単体で人柄を伺うには、情報が不足してる。。
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