三国志は、1800年に渡って語り尽くされてきた叙事詩。
しかし、とある映像作品のキャッチコピーみたく「死ぬまで飽きない」もの。
まだまだ枯れる気配すら見せない、三国志の魅力について語ります。
『晋書』列伝26より、「孫楚伝」を翻訳(1)
孫楚,字子荊,太原中都人也。祖資,魏驃騎將軍。父宏,南陽太守。楚才藻卓絕,爽邁不群,多所陵傲,缺鄉曲之譽。年四十餘,始參鎮東軍事。文帝遣符劭、孫郁使吳,將軍石苞令楚作書遺孫皓曰:

孫楚はあざなを子荊といい、太原郡中都県の人である。祖父の孫資は、魏の驃騎将軍だった。父の孫宏は、南陽太守だった。孫楚の才能は卓絶しており、爽邁であることは抜群だが、傲慢な性格だったので、郷曲(地元)での評判は良くなかった。40余歳で、はじめて鎮東軍事に参じた。司馬昭は、符劭と孫郁を呉に遣わした。将軍の石苞は、孫楚に、孫皓への書状を作成させた。書状に曰く。


蓋見機而作,《周易》所貴;小不事大,《春秋》所誅。此乃吉凶之萌兆,榮辱所由生也。是故許、鄭以銜璧全國,曹譚以無禮取滅。載藉既記其成敗,古今又著其愚智,不復廣引譬類,崇飾浮辭。苟以誇大為名,更喪忠告之實。今粗論事要,以相覺悟。

けだし機を見て行動することは、『周易』で貴いとされている。小国が大国に従わなければ、『春秋』では滅ぼされている。吉兆の兆しを見ることは、栄辱の分かれ道だ。これらを踏まえると、鄭氏は防衛に成功し、曹譚は礼がないため滅びた。
載藉をひもとけば、すでに成功と失敗の事例が書いてある。昔も今も、愚と智について書き残してきた。似たものを引用するばかりでなく、浮辭(言葉)を崇飾してきた。もし大であることを誇って名を為せば、忠告ノ実を喪うだろう。いま要点をざっと論じた。分かってもらえただろう。


昔炎精幽昧,歷數將終,恆、靈失德,災釁並興,豺狼抗爪牙之毒,生靈罹塗炭之難。由是九州絕貫,王綱解紐,四海蕭條,非複漢有。太祖承運,神武應期,征討暴亂,克甯區夏;協建靈符,天命既集,遂廓弘基,奄有魏域。土則神州中嶽,器則九鼎猶存,世載淑美,重光相襲,故知四隩之攸同,帝者之壯觀也。昔公孫氏承藉父兄,世居東裔,擁帶燕胡,憑陵險遠,講武遊盤,不供職貢,內傲帝命,外通南國,乘桴滄海,交酬貨賄,葛越布於朔土,貂馬延于吳會;自以控弦十萬,奔走之力,信能右折燕、齊,左震扶桑,輮轢沙漠,南面稱王。宣王薄伐,猛銳長驅,師次遼陽,而城池不守;枹鼓暫鳴,而元兇折首。於是遠近疆埸,列郡大荒,收離聚散,大安其居,眾庶悅服,殊俗款附。自茲以降,九野清泰,東夷獻其樂器,肅慎貢其楛矢,曠世不羈,應化而至,巍巍蕩蕩,想所具聞也。

かげろう(天下の覇権?)というのは捉えどころがない。王朝が終わろうとするとき、心はいつも徳を喪い、災禍と勃興を引き起こす。豺狼のような連中が爪牙の毒を競い、心は塗炭ノ難に苦しむ。だから、全国の統一が絶え、王綱が解け、四海が寂しくなった現在において、漢帝国が復活することはない。曹操は運を承け、魏を建国した(賛辞は省略)。むかし公孫淵は父兄を継いで、燕を北辺に建国して、魏に背いた。呉郡や会稽と勝手に通商した。だが司馬懿が燕を討ち、衆民は安定して悦んだ。これ以降、東夷から来貢があり、 よく治まっている。


吳之先祖,起自荊、楚,遭時擾攘,潛播江表。劉備震懼,亦逃巴、岷。遂因山陵積石之固,三江五湖浩汗無涯,假氣遊魂,迄茲四紀。兩邦合從,東西唱和,互相扇動,距捍中國。自謂三分鼎足之勢,可與泰山共相終始也。相國晉王輔相帝室,文武桓桓,志厲秋霜,廟勝之算,應變無窮,獨見之鑒,與眾絕慮。主上欽明,委以萬機,長轡遠禦,妙略潛授,偏師同心,上下用力,陵威奮伐,某入其阻,並敵一向,奪其膽氣。小戰江由,則成都自潰;曜兵劍閣,則薑維面縛。開地六千,領郡三十。兵不逾時,梁、益肅清,使竊號之雄,稽顙絳闕,球琳重錦,充於府庫。夫韓並魏徙,虢滅虞亡,此皆前鑒,後事之表。又南中呂興,深睹天命蟬蛻內附,願為臣妾。外失輔車脣齒之援,內有羽毛零落之漸,而徘徊危國,冀延日月,此由魏武侯卻指山河,自以為強,殊不知物有興亡,則所美非其地也。

呉の先祖は、荊楚の地から起ち、乱世に乗じて江表の地に割拠した。劉備は呉を懼れて、巴蜀に逃げた。三江・五湖の天然の要害に頼り、呉の皇帝は4代を数えた。荊州と揚州を連携させ、中原に逆らってきた。天下三分の情勢は、泰山のように安定した。晋王・司馬昭が魏を仕切るようになり、文武は充実し、成都を自壊させた。軍律は徹底され、梁州・益州で掠奪は行われなかった。南中(交州)の呂興は、晋に従いたいと願った。益州も交州も晋に帰属して、呉は、外に唇歯の助けは得られなくなった。呉の内政はガタガタ(羽毛零落ノ漸)で、国が滅びそうだ。呉の存続を願い、曹操を退けた山河に頼って強がるのは、物には興亡があるという原理を知らない浅慮である。呉の地の利を、賛美することには当たらない。


方今百僚濟濟,俊乂盈朝,武臣猛將,折沖萬里,國富兵強,六軍精練,思複翰飛,飲馬南海。自頃國家整修器械,興造舟楫,簡習水戰,樓船萬艘,千里相望,刳木已來,舟車之用未有如今之殷盛者也。驍勇百萬,畜力待時。役不再舉,今日之師也。然主相眷眷未便電發者,猶以為愛人治國,道家所尚,崇城遂卑,文王退舍,故先開大信,喻以存亡,殷勤之指,往使所究也。若能審勢安危,自求多福,蹶然改容,祗承往錫,追慕南越,嬰齊入侍,北面稱臣,伏聽告策,則世祚江表,永為魏籓,豐功顯報,隆於今日矣。若猶侮慢,未順王命,然後謀力雲合,指麾從風,雍、梁二州,順流而東,青、徐戰士,列江而西,荊、揚兗、豫,爭驅八沖,征東甲卒,武步秣陵,爾乃王輿整駕,六戎徐征,羽校燭日,旌旗星流,龍游曜路,歌吹盈耳,士卒奔邁,其會如林,煙塵俱起,震天駭地,渴賞之士,鋒鏑爭先,忽然一旦,身首橫分,宗祀淪覆,取戒萬世,引領南望,良助寒心!夫療膏肓之疾者,必進苦口之藥;決狐疑之慮者,亦告逆耳之言。如其猶豫,迷而不反,恐俞附見其已死,扁鵲知其無功矣。勉思良圖,惟所去就。

役人は正しく、俊才が晋朝に満ち、武臣は猛将ぞろいで、晋は精強だ。国攻に使う武具を生産し、舟を建造し、水戦に熟練した。最強の軍隊が、号令を待っている。だが司馬昭は出陣命令を出さないのは、人を愛し国を治めるためである。立場が分かったら、魏に降伏して、優遇された余生を送れ。もし王命に順わないなら、大軍を送り込み、首をぶった切り、先祖の墓を暴き、万世の見せしめとする。重い病人には、苦い薬を飲ませて治すものだ。痛い目を見たくなければ、降れ。


劭等至吳,不敢為通。

符劭らは呉に到ったが、あえて通を為さず(孫皓と面会せず)。
※せっかくの孫楚の作文がムダになったか?
『晋書』列伝26より、「孫楚伝」を翻訳(2)
楚後遷佐著作郎,複參石苞驃騎軍事。楚既負其材氣,頗侮易於苞,初至,長揖曰:「天子命我參卿軍事。」因此而嫌隙遂構。苞奏楚與吳人孫世山共訕毀時政,楚亦抗表自理,紛紜經年,事未判,又與鄉人郭奕忿爭。武帝雖不顯明其罪,然以少賤受責,遂湮廢積年。初,參軍不敬府主,楚既輕苞,遂制施敬,自楚始也。

孫楚はのちに佐著作郎に遷り、ふたたび石苞の驃騎軍事に参じた。
孫楚は、自分の才能にプライドを持ち、石苞を侮った。石苞に初めて会ったとき、孫楚は略式の敬礼をして言った。「天子は私に、あなたの軍事を補佐するように命じた」と。このことから石苞と孫楚の間にミゾができ、対立した。石苞は上奏して、孫楚は呉人の孫世山と共に、晋を批判していると告げ口した。孫楚は対抗して上表し、自分の理屈を説明した。数年に渡って足の引っ張り合いをやり、決着がつかなかった。また孫楚は、同郷の郭奕と紛争を起こした。司馬炎は、孫楚の罪は明らかではなかったが、孫楚が大人気ないため、責任を取らせた。孫楚と周囲の軋轢は続いた。
参軍が府主(役所の責任者)を敬わないのは、孫楚が石苞を軽んじたことから始まった。 ※この後も不敬がたびたび起こったのでしょう。


征西將軍,扶風王駿與楚舊好,起為參軍。轉梁令,遷衛將軍司馬,時龍見武庫井中,群臣將上賀,楚上言曰:「頃聞武庫井中有二龍,群臣或有謂之禎祥而稱賀者,或有謂之非祥無所賀者,可謂楚既失之,而齊亦未為得也。夫龍或俯鱗潛於重泉,或仰攀雲漢遊乎蒼昊,而今蟠于坎井,同於蛙蝦者,豈獨管庫之士或有隱伏,廝役之賢沒于行伍?故龍見光景,有所感悟。願陛下赦小過,舉賢才,垂夢于傅岩,望想於渭濱,修學官,起淹滯,申命公卿,舉獨行君子可惇風厲俗者,又舉亮拔秀異之才可以撥煩理難矯世抗言者,無系世族,必先逸賤。夫戰勝攻取之勢,並兼混一之威,五伯之事,韓、白之功耳;至於制禮作樂,闡揚道化,甫是士人出筋力之秋也。伏願陛下擇狂夫之言。」
惠帝初,為馮翊太守。元康三年卒。


孫楚は征西將軍になった。扶風王(司馬)駿と孫楚は、昔から仲が良かったので、孫楚は司馬駿の参軍となった。梁の令に転じ、衛将軍の司馬に遷った。武庫の井戸の中で龍が目撃されたとき、郡臣は祝いを陳べようとした。孫楚は上言した。
「武庫の井戸の中に、2匹の龍がいたと聞きました。郡臣は吉兆だと称して祝おうとしたり、不吉だから祝うなと言ったりしています。彼らは正解を忘れた、もしくはまだ彼らは正解を知らないと言わざるを得ません。そもそも龍は、重泉に潜み、雲を得て天に遊ぶものです。いま龍が井戸の中にいたということは、カエル同然です。どうして、武庫を管理する役人に逸材が眠っているという意味になるのでしょうか。龍を見たと聞き、私は悟ることがありました。
陛下は小さな過ちは赦し、賢才を挙げ、風俗を正し、善政を心がけて下さい。役人を登用するときは、血縁よりも本人の才能を重視して下さい。そうすれば、韓氏や白氏に匹敵する功を立てられるでしょう。馬鹿どもの狂った物言いに、お耳を傾けられないように
恵帝の初年、孫楚は馮翊太守になった。元康三(293)年、死んだ。

初,楚與同郡王濟友善,濟為本州大中正,訪問銓邑人品狀,至楚,濟曰:「此人非卿所能目,吾自為之。」乃狀楚曰:「天才英博,亮拔不群。」楚少時欲隱居,謂濟曰:「當欲枕石漱流。」誤雲「漱石枕流」。濟曰:「流非可枕,石非可漱。」楚曰:「所以枕流,欲洗其耳;所以漱石,欲厲其齒。」楚少所推服,惟雅敬濟。初,楚除婦服,作詩以示濟,濟曰:「未知文生於情,情生於文,覽之淒然,增伉儷之重。」

はじめ孫楚は、同郡の王済と友人で、王済が本州(并州)の大中正に、同郷人の情報を尋ねていた。孫楚が話題になったとき、王済は言った。「この人(孫楚)は、あなたが目利きできる人物じゃない。私が自ら評価しよう」と。王済は孫楚を「天才英博、亮拔不群」と表した。
孫楚は若いとき、世俗から離れて暮したいと考えており、王済に話した。だが「石に枕し流れに漱ぎたい」と言うべきところを、間違えて「石に漱ぎ、流れに枕したい」と言った。王済が「流れに枕にならないし、石で口はすすげないぞ」と言うと、孫楚は言った。「流れに枕するのは、耳を洗いたいからだ。石で口をすすぐのは、歯を磨きたいからだ」と。
孫楚は若いとき、王済から服に関心を持つことを勧められた。ただ孫楚は、王済を雅敬した。はじめ、孫楚が妻の服を王済からもらったとき、詩を作って王済に見せた。王済は「オレは文が情に生じたり、文に情が生じたりするのを知らなかった。詩を見せてもらったが、すごい。伉儷(夫婦)仲を深めるものだ」と褒めた。


三子:眾、洵、纂。眾及洵俱未仕而早終,惟纂子統、綽並知名。

孫楚には、衆・洵・纂という3人の子がいた。衆と洵は早世した。ただ、孫纂の子である孫統・孫綽は知名度が並んだ。
孫楚の孫である孫綽(あざなは興公)は活躍した人物のようですが、東晋の人なので、列伝を翻訳しません。この家は、隔世で有名人を輩出するらしい。ちなみに孫洵の子は孫盛で、『異同雑語』『魏氏春秋』『魏世譜』『蜀世譜』の著者。やはり隔世で開花するようです笑
■翻訳後の感想
夏目漱石のペンネームの由来になった逸話の張本人。
その割には、あんまり有名じゃないよね。「三顧の礼」よりも「漱石」の方が、現代日本では知られているだろう。非三国ファンに解説しようとして「なんと!『白眉』の語源である馬良が」とか言っても、「白眉」という言葉が知られていないので、ドン引きされる笑

并州の太原郡といえば、王氏の故郷。『孫資別伝』には、祖父の孫資が、司徒・王允に可愛がられたと書いてある。孫楚もこの例に漏れず、王済と交際してる。王済は司馬炎の娘婿で、ただの性悪だったことは、前回彼の列伝を訳して確認しました。下品に動物の鳴きマネをやって悦んでいる一味に、孫楚も混ざっていたんだろうね。
言い間違いをあげつらって、言葉遊びの応酬を楽しんでいた。名門の子弟が退屈すると、ろくなことを始めない。貴族制の確立を感じます。

石苞とは、こじれたようですが、どちらに非があったかは、石苞について洞察してみないと分かりません。でも、石苞は生まれの身分が低いとか、容貌の良さだけで可愛がられたとか、途中で仕事を投げ出すとか、いろいろ侮られる要素を持った人のようで。孫資の孫として生まれた孫楚は、とりあえず家柄を舐めたんだろう。
仕官する気がなく、40歳を過ぎてから「老けたルーキー」となった孫楚は、おそらくそれほど年齢が離れていない石苞の下に付けられることが、腹立たしかったんだろう。石苞は、長く役人をやって、コツコツ登ってきた人。価値観がまるで合わないよ!
石苞の命令でわざわざ書いた、孫皓を脅しつける文章。これが政治的機能を果たさなかったのは、もしかして石苞と孫楚の対立のせいか。がんばって訳したのに徒労感だけが残った、後世の無学な「東夷」のことを思いやってほしいものです笑

周囲との諍いが絶えなかったり、井戸の中の龍の一件で周囲の無知を笑い飛ばしたり。あんまり集団生活に精を出す気がなさそうですが、もともと「漱石」を志望していたんだから、この態度も仕方ない。一貫性はあるね。一緒に働きたいかどうかというと、別の話だが笑
なぜか列伝が江統と同じ巻だが、樹機能を破った司馬駿と仲良しだったからか。異民族対策つながりということで?080803
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