司馬懿には、『晋書』からご登場を願います。
偽黒武堂の三国志探訪
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こちらのサイト様のお世話になりました。
■祖父と父
司馬懿。今さらご紹介するまでもありませんが、字は仲達。河内郡温県孝敬里の人。
潁川太守の司馬儁(字は元異)の孫。祖父が頴川太守をしていたのは、いつだか分からん。補任表みたいのを探してますが、さすがに太守レベルというのは、なかなか。
ここからは推測だが、司馬儁が頴川太守だったのは、西暦165年くらいじゃないか。司馬儁の子が司馬防で、司馬懿の父。防が長男(朗)を作ったのが23歳で、次男(懿)を作ったのが、31歳。親孝行にうるさい防は、きっと父の人生プランを真似ただろうから、司馬防が生まれた西暦149年に、司馬儁が25歳だとする。
40歳で最終官位に就いたなら、165年くらいだ。党錮ノ禁の真っ最中。霊帝即位が167年だから、同時期だ。
京兆尹の司馬防(字は建公)は、陳寿の「司馬朗伝」に記述がある。厳しくて、付き合いづらい父親だったそうで。それが儒教的には○なのかも知れないが。司馬懿の上位者への、見せかけ上の「謙虚な」姿勢は、父に叩き込まれたんだと思います。
■若き司馬懿
司馬懿は、儒教をよく学んだ。
南陽太守で同郡の楊俊は、「まだ20歳前だが、非常之器だ」と評した。
清河出身の崔琰は、司馬朗に「弟くんは、聰亮にして明允、剛断にして英特だ。キミは弟くんには及ばんね」と言った。面と向って失礼なやつだ。晋王朝では、司馬朗の子孫で有力な王になった者がいないから、こういうムチャな記述が、罷り通ってしまったんだろうか。
201年、仲達は郡の上計掾に挙げられた。数えで23歳だ。ずっと出仕を渋っているイメージだが、現代人の大学卒業と同じだ。じっくり勉強する時間が与えられた、という程度か。
『晋書』は、崔琰に評されてからいきなり201年に飛ぶんだが、陳寿の書いた「司馬朗伝」で、その間を推測で埋めることが可能だ。
■兄の嗅覚
190年(仲達が10歳)のとき、董卓と関東諸侯が激突。父は董卓の治書御史で、洛陽から長安に移るしかなかった。兄は董卓と問答をして、洛陽を脱出。陳寿が載せた問答の内容を、裴松之は「司馬朗は、董卓の功業を讃えているだけで、批判になってないじゃん」と言ってる笑
すなわち、董卓への批判は心中にあったものの、面と向って退出を宣言するようなことは、しなかったんじゃないか。こっそり逃げたんじゃ、歴史書として体裁が悪いから、問答を後世人が作文した。しかし上手くいかず、裴松之のツッコミを招いたんだ。
もしくは、司馬朗自身が見栄を張って、勇気があることを示そうとして、ツジツマの合わないことを言った。幼い仲達は、それに厳しく突っ込んだ!とかね笑 イヤな子供だ。
司馬朗の呼びかけで、一族を挙げて河内郡から黎陽に逃げた。河内では、人民の半数近くが殺された。
192年、兄が曹操に仕えて、司空掾属となった。このときの曹操は、まだまだ弱小勢力だ。たまたま避難先を領有したのが曹操だったから、特に志とは関係なく仕えた。きっかけは、そんなもんだっただろう。
兄はすぐに「病気で」引っ込んでいるから、兄は仕官に乗り気ではなかったのでは?結果的に47歳で死ぬので「病弱」の信憑性が少し増したが、47歳まで生きれば充分に壮健の領域だろう。
『魏書』の「司馬朗伝」に、「曹操勢力はいまいちだったから、やめといた」なんて書けないからね、仮病だろうが、「そういうことにして」真実として書き残しておくのがベストなんだ。
193年、徐州の虐殺。司馬朗が曹操を見限ったのは、このときかも。
194年(仲達が16歳)、濮陽で曹操と呂布が対峙した。黎陽から河内に再び逃げ戻ってきた。曹操勢力の存続の危機のときに、巻き込まれるのはゴメンだったんだ。司馬朗は、一族の滅亡を避けることに関して、とても目ざとい。先見の明があると言える。
大飢饉が起きて(きっとイナゴのことだ)人々はお互いを食らい合った。曹操と呂布も戦闘継続不可能になり、撤退した。これは有名な話ですね。
■曹氏の皮肉
196年、曹操は献帝を迎えた。
兄が曹操に再び臣従したのは、このときじゃないか。詳細はどこにも書いてないから、証明しようもないのだが。
父に儒教を叩き込まれている兄は、天子をお守りするという名目の元に、「病気が治ったので」曹操に再出仕したかも。曹操にとってみたら、司馬氏を取り込むことも、献帝入手の効果の1つであったわけで。
ただし、漢魏禅譲のシナリオが回り始めたのと全く同じとき、魏晋禅譲のシナリオまでもが回り始めていたとはね。
司馬朗は、堂陽の長となる。
■曹操の勧誘
196年(仲達18歳)4月、
曹操は袁紹とトレードして、司空になった。
曹操は、仲達を「辟招」した。司馬朗を面接して、そのとき弟がいることを聞き、どうせなら「セットでお得に」と思ったんだろう。
だが、仲達は「風痺ですから、起居できません」と拒んだ。曹操は剣で仲達を刺しにいかせたが、身を堅くして動かず、仮病を守り通した。虫干ししてた書物が雨に濡れそうになり、慌てて飛び出したのを張春華に見られたのは、ご愛嬌だ。
風痺とは何かと言えば、漢方薬のサイトには「上半身の痛みやシビレ」と書いてあった。風は軽く舞い上がりやすい(陽邪という)ので、上半身に症状が出るそうで。「葛根湯」や「防己黄耆湯」が効くんだって。ふーん。
『晋書』には「宣帝は漢朝の衰微を知っており、曹氏に屈すのはイヤだったので」と、何とも漠然とした書き方がしてある。漢に反発したのか、曹氏(のちの魏)に反発したのか、分からない巧妙な仕掛けなんだ。
曹操にイヤイヤ仕官したんだから、司馬氏が曹氏から簒奪しても、悪くないもん!というパフォーマンスと言われる。曹洪の招きを拒んだ別の文官(名前を忘れた)の逸話から着想を得て、『晋書』がでっち上げたという話も読んだことがある。
それらはゴモットモだが、ぼくは父や兄への反発があったと思う。堅苦しい父とか、それを墨守する兄とかが支持するものを、自分も追いかけたくなかったんじゃないのか。
■荀彧への徴発
先述のとおり、201年(仲達23歳)で郡の計吏。
208年(仲達30歳)6月、曹操が丞相。
ここで再び、お誘いの声がかかった。『晋書』では、曹操と仲達の関係を描く記述が、12年も空いてしまう。その間に曹操は、官渡ノ役、袁譚・袁尚との駆引、北伐をやってる。
仲達は何をやっていたんだろうか。
曹操の急成長期を支えるために、寿命を削って働いている兄を、冷ややかに見ていたんじゃないか。もしくは、郡に過酷な締め付けばかり強いる曹操の政治を、数字を眺めながらウンザリしていたんじゃないか。
官渡のときに、荀彧が兵糧の補給を絶やさなかったことは、美談として有名だ。袁紹の子との合戦や、烏丸への北伐のときは、郡レベルには、きついきつい要求が届いていたはずで。
仲達は生意気にも、巧妙に数字の操作をして、郡の負担を減らしたんじゃないか。「気づけるものなら、気づいてみよ。漢だ曹だ袁だとうるさいが、滅びるなら、全て滅びてしまえ」という徴発もこめて。きっと、郡の上司にも内緒で。
ある日、荀彧が郡を訪ねてくる。荀彧は、仲達のトリックに気づいたんだね。しかし、郡太守は、荀彧の指摘が分からない。
荀彧が役所内を見渡すと、仲達がいて、片方の口角を上げてニヤついてるんだ。それを見つけた荀彧が、仲達を別室に呼んで、問い詰めるんだ。
このとき、荀彧は仲達と「王とは」「国とは」「王佐とは」「曹操とは」みたいな話をして。『蒼天航路』で周瑜が荀彧とやってた議論を、仲達とやってもらおう笑
仲達は、すごく冷めた受け答えをするんだろうね。
次回、ついに仲達が曹操に仕えます。