■三国志キャラ伝>司馬懿伝/上。仲達が曹操より怖いもの(2)
■仕官 208年(仲達30歳)6月、曹操は丞相。 「文学掾にする。従わなかったら、司馬朗の弟は縛ろう」ということで、仲達は懼れて曹操に従った。 すでにこの年の正月から、玄武池での演習が始まっている。翌月から南征して、何もしてないのに荊州を手に入れるとき。さすがに曹操の強さ、勢いを仲達は感じ取っていたのでしょう。   余談ですが、ぼくが初めて司馬懿のことを知ったのは、今から思えば恥ずかしい履歴ですが『龍狼伝』でした。 荊州で劉備軍に対し、で司馬懿と思わしき人物が怪しいことをやります。読み返してみないと分からないが、あのマンガでは、『晋書』の記す司馬懿の仕官前に、「仲達」が曹操の幕僚に混ざってなかったか笑 もはら論ずるに値しませんけどね。。   ■曹操の脅し このとき兄は何をしてたのか? きっと丞相主簿でした。弟が引きずり出されてくるのを、事務方の責任者として、兄が管理していたことになる。 弟を吊り出すことと交換条件で、司馬朗は兗州牧に昇進させてもらったのかも知れない。あくまで「漢のため」「家のため」「民のため」に生きたい兄の価値観と、そういう大きな話がウザい仲達が、正面からぶつかりそう。 仲達としては、「兄上は、私を教科書的に仕官させて満足かも知れないが、とんだ迷惑だよ」という感じか。   実家で隠逸を気取っている父親も、兄とグルになったのかも知れない。 「代々、司馬の家は二千石だ。兄は県令として、治績をあげてる。だのに、なぜ太守になれないのか。それは、弟であるお前が、曹丞相に反抗的だからだ。家名を守るために、仲達は一肌脱ぐべきだ」という、脅迫めいた家庭方針が、仲達に悲劇をもたらしたんだ。 仲達はきっと、父も兄も嫌いだ。   兗州牧は、203年までは曹操が担当していた。次の牧は、分からない。 司馬朗は、めでたく209年(仲達が引きずり出された翌年)に兗州牧になった。※赤壁の翌年、合肥戦の年でもある。 兄は、196年?に復職してから、堂陽の長、元城の令、を歴任した。おそらく、丞相が設置された208年から丞相主簿にさせられ、地方政治からは切り離されてしまった。 曹操は、司馬氏を家単位で追い込んだのかなあ。人事の手順が、あまりに作為的じゃないか笑   ■子桓 引きずり出された仲達は、曹丕と仲良くなった。 黄門侍郎、議郎、丞相東曹属、主簿になった。このときの上司が分かれば面白いんだが、さすがに調べる根気がありません。   『晋書』は不親切なことに、張魯征伐まで飛んでしまう。張魯を討ちに兵を動かしたのは215年(仲達37歳)3月。7年も無音とはねえ。 この間に何をしていたんだろうか。地味に事務だけしてたのか?曹丕と曹植の後継者争いの後ろで、暗躍してたのかも知れないよね。   210年、銅雀台が完成し、曹植が賦を読む。 211年、曹丕が五官中郎将になる。潼関に曹植が従軍。 213年、曹操が魏公に。 214年、曹操の孫権征伐を、曹植がお留守番。伏皇后殺害。 215年、張魯討伐に、曹植が従軍。 217年、曹丕が太子に決まる。曹植は司馬門突破!   この後継者争いの様子は、陳寿の書いた「陳思王植伝」や、陳舜臣氏の『曹操』を参考にして、楊修・丁儀・丁廙との足の引っ張り合いを組み立ててみたいと思います。 司馬懿のことだから、がっつりやってるはずで。
  ■仲達の進言 215年、漢中にて司馬懿が曰く、 「劉備は、劉璋を騙して蜀を取りました。江陵で、孫権と争っていて、そっちも火種です。チャンスです。いま漢中で曜威をあらわせば、益州は震え動きます。兵を進めれば、蜀は自然と瓦解するでしょう」   曹操曰く、 「人は充足を知ることができず、苦しむものだ。すでに隴を得た。さらに蜀を欲しがろうか」と。故事返しは、破壊力があり過ぎるから、卑怯だ。しかも、目上の者が使うなんて、どうかと思うなあ笑   ■濡須のゴースト 217年(仲達39歳)のとき、曹操と孫権が激突。 孫権は降ると言って、天命について陳べた。「曹公が天子になるなら、オレは自分のことを臣と呼び、こうべを垂れる用意があるぞ」という奴ですね。そのときに曹操が「あのガキめ、爐炭の上に座らせるつもりか」と、のたうつんだ。 なぜ司馬懿の伝記にこの逸話が載っているんだろう。接点は、「司馬懿が従軍した」ということだけ。おそらく、孫権との書簡の遣り取りを、一緒になってやっていたんだろうね。ゴーストライターだったとか。じゃないと、わざわざ載せる意味が分からない。   もし『晋書』の編者の気持ちを勘繰るなら、曹操に簒奪について悩ませて、魏には天命が馴染まないことを証明したかったんだろうか。   もしくは、孫権との天命論争を、あえて代理の仲達にやらせることが、晋成立の伏線なんだね。 孫権は、曹操とタイマンを張ってるつもりなんだが、実は仲達と書簡を交換していて、それに気づかない。曹操は「やはりガキだな」と茶化して、チャットのログを盗み見ているんだ。 お互いの孫が三国志の決着を付ける(孫皓と司馬炎)から、おもろいと言えば、おもろい。 まあ、仲達自身が簒奪をするわけじゃないから、かなり巨視的な趣向だし、ニヤリとするには相応の知識が必要なんだが。   ■四友 濡須から引き上げてきた年内に、魏国が建った。 曹丕が太子となり、仲達は太子中庶子となり、四友に認定された。陳羣、呉質、朱鑠とセットだ。 「大謀をあずかり、奇策を練ったから、信重された」んだって。 漢中と濡須に従軍してるとき、そんなに小細工を発揮する機会はないはず。曹丕と曹植も、地理的に分断されてる。ゆえに、すでに書いたように、赤壁から漢中戦の間の後継者争いで、陰湿にいろいろやったんだろう笑
  次回、仲達がある理由で、覆面をかなぐり捨てます。
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