■三国志キャラ伝>司馬懿伝/中。諸葛亮が分からない(1)
司馬懿伝/中、では曹丕即位から孔明の死まで扱います。
  ■魏の荊州放棄? 曹丕が魏王に即位すると、司馬懿は河津亭侯となり、転じて丞相長吏。   孫権が荊州を攻めるらしいと聞くと、「樊城、襄陽には穀がないので、寇を禦げない。樊城の曹仁を、宛城に引き上げさせよう」と朝議が言い出した。曹仁は、樊城、襄陽を焼き捨てた。 孫権が荊州を全て手にするチャンス! 司馬懿は、あきらめない。「襄陽は水陸之衝、禦寇の要害だ。関羽を破って調子付いた孫権に、与えてはいけない」 孫権が攻めて来ないから無事だったものの、曹丕は司馬懿の発言を採用しなかったことを悔いたらしい。   っていうか、これ、本当なのか? 曹丕が魏王になったとき(かつ魏帝になる前、220年正月から10月の間)とは、関羽を討った直後です。 夷陵を控えた、孫権の降伏よりも前だ。 孫権の西征は、実現しなかったから、年表には書いていない。司馬懿の進言の正しさを称賛するために、でっち上げられたとも解釈もできるんだが。 それこそ、呂蒙の死にて辛うじて寸止めになったのかも。ということは、呂蒙の戦略には、関羽討ちの後に荊州全土を手に入れることが含まれていても、不自然はない。呂蒙、すごいよ! 関羽を挟み撃ちにするときから、司馬懿は曹操に積極的に逆らっていたから、荊州作戦について発言力はあったはずだし、荊州放棄の決定は、マジ話としたほうが面白いよ笑   ■才能がありません 禅譲があり、司馬懿は尚書。転じて督軍、御史中丞となり、安国郷侯。 222年、退職者が出たので、代わりに侍中、尚書右僕射。 224年、曹丕が孫権を討ちに行くが、徐盛のハリボテに騙されて、馬鹿みたいに撤退してきてしまった。   225年2月、撫軍、假節を得て兵5000を領し、給事中、録尚書事。 曹丕は死出の旅立ちではなくて、3回目の対呉作戦に出ようとしている。 固辞した司馬懿に、曹丕は言った。 「皇帝になってみたものの、ぶっちゃけ、すごい大変だ。少しも休まるヒマがない。仲達に代理を委ねるとオレが言い、お前は栄華を与えられることを、遠慮しているな。だが、勘違いしてはいけない。一緒に、憂いを分け合ってほしいだけなんだ。それだけ、皇帝の任は重く、つまらんのだ」 司馬懿は、受けた。 曹丕は、長江が凍結したせいで、けっきょく広陵から撤退。   226年(仲達48歳)、懲りずに曹丕は呉を攻めると言った。 再び仲達を許昌に留まらせ、国内では百姓を治め、外には軍資を提供するように命じた。 「背後をしっかり固めて、呉を討ちたいと思っている。曹参は前線で活躍したが、後方の蕭何はもっと重要だった。オレから西顧の憂(自国や兵站の心配)がなくなるように、司馬懿に期待している」 曹操は、自称「曹参の後裔」だから、曹丕は自分を例えた。蕭何は、連敗する劉邦を、関中から支え続けた人。司馬懿に期待する役割としては分かりやすいんだが、曹丕自身を曹参という一軍人に例えてしまったのは、不思議な感じ。計4回も呉を攻めて泣かず飛ばずだったくせに。   曹丕は、皇帝としてよりも、将軍として活躍したかったんだろうか。曹操は「漢××将軍曹操之墓」というのが欲しかったが、思ったよりも出世した。曹丕は「魏××帝之陵」というものが手に入ることは確定していたのに、将軍銘の墓が欲しかったんだろうか。   ■曹丕の若死に 曹丕のこのイビツな生き方を見て、仲達は滑稽に思っていたんだろう。 「皇帝になったんだから、皇帝然としていればいいのに。将軍を演じるのではなく、将軍を使うのがあんたの仕事だろう」というのが、初めに浮かぶ常識的な感想か。 下っ端から出発した曹操は、一代で魏王になったんだが、王や帝としての振る舞いは、すぐに身に付くもんじゃない。「禅譲を受けた」皇帝の行動モデルは、書物(フィクション)の中にしか残ってないしね。 誰から学んでいいのやら。   北方『三国志』みたいに、曹丕が仲達に「オレは戦さが下手か」と聞き、仲達が「下手でいらっしゃいます」なんて言っちゃうのは、この時期だ。 曹丕と仲達のカラミを創作して楽しむとしたら、曹丕が落胆して引き上げてきた、このタイミングだ。 「オレが東へ行ったら仲達は西を、オレが西へ行ったら仲達は東を治めよ」と曹丕が言った。このときの東西とは、呉蜀のこととも取れるけど、前の用法から勘繰ると、東が対呉戦線で、西が国内防衛だ。   226年5月、崇華殿の南堂で曹丕が死去。 「曹真、司馬懿、陳羣、後を頼んだぞ。叡よ、慎んで彼らの言いつけを守り、疑ってはならない」 8月、孫権が江夏を囲み、諸葛瑾と張霸が襄陽を攻めた。司馬懿は、諸葛瑾を破り、張霸を斬った。首級1000余をとり、驃騎将軍となった。 君主の死は絶好のチャンスだと思いきや、あんまり成功したという話を聞かないね。少なくとも、三国志においては。分かり易すぎるピンチだから、逆に臣下がまとまるんだろう。司馬懿が諸葛亮死後に追わなかったのは、このあたりに教訓を得ていたのかも知れない。
  ■諸葛亮の登場 曹丕が蜀にあんまり関心を示さなかった理由は、蜀が夷陵で大敗したし、劉備も死んだからだ。討つべき対象として認識されていなかった。このとき、諸葛亮は南征をやって、北伐を始める準備をしている。『演義』後半で活躍するためにね。   曹丕がヒステリックに征呉を繰り返している姿を見ても、ファンには意味不明なんだ。 「まだ諸葛亮の蜀が残っているし、曹丕はどうせ呉には負けるのに、なぜ慎まないんだろうか。対蜀のための国力温存とか、藩屏構築とか、内政整備とか、曹丕自身の健康管理とか、いろいろあるじゃん」と。 でも曹丕にすれば、もうゴール間近だった。蜀は立ち消えになるのを待つのみ、あとは呉さえ降せば、天下に敵はいない、という認識だ。もう王手がかかっているんだから、勝ち手まで指し終えておかない方法はない。 まして、代を隔てるごとに曹操の血は薄まるわけだし、東呉は殖産が盛んだ。太子の代まで、外患を遺してはいけない。   曹丕は、焦っていたわけでも、戦さ下手である自分を省みなかったのでもない。曹操へのコンプレックスが主動機で、強い将軍を目指していたのでも、ないだろう。 皇帝としての総仕上げをしていただけだ。   諸葛亮は悲壮に北伐を繰り返したことで、ファンに名前を売った。 だがそれよりも、曹丕のときは天下を争う力を失ってた蜀を「三国」の1つとして持ち上げたことに、もっと大きな役割があったんじゃないか。 自称皇帝でコケた賊なんて、陽明皇帝とか、袁術さんとか、いくらでもいるんだ。彼らは、正史で丁寧に扱われていたりしない。   北伐の理由は「漢朝復興」だとされていて、少しスケールを落とすと「長安奪取」をステップにした「魏朝討伐」「天下統一」となっている。 専守防衛では、弱小っぷりが改善しないから攻めた。むしろ、自分から攻めに行っていないと、いつ攻め滅ぼされもおかしくなかった、という「防衛のための攻撃」という話すら出ている。 ぼくは曹丕の考え方と行動を見ていて、北伐の動機は、もっと次元が低いと思った。「自己PRをしないと無視される」というのが、切実なモチベーションなんだ。   劉禅を残して天下統一が終わったとされる。正史のタイトルが、『三国志』ではなくて『魏書』になってしまうよ笑
  次回、そんな存続をかけた小国の丞相が、司馬懿に挑戦。 第一次北伐が最も「成功の可能性があった」とされるのは、予期せざる攻撃というよりは、予期せざる敵勢力の出現という意味が強いのかもね笑
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